翌日のアオシくん
横浜駅〜みなとみらいデート編の次の日です。
新キャラが登場します。
「紫乃さん、起きて。朝だよ」
少し低めの甘い声が、私を優しく起こす。
今日は土曜日。昨晩は夜更かししていたので、まだ寝ていたい。目覚まし時計のアラームから逃れるように枕に顔を埋めた私に、声の主が拗ねたように囁く。
「僕、紫乃さんのかわいい顔が、見たいんだけどな」
「っ! もうっ、起きる、起きるから!」
毎日言われ続けているのに、いつまで経っても慣れない。ううっ、照れる。
頬に熱を持ったままガバリと起き上がった私は、アラームを止め、目の前の彼に笑いかける。
「おはよ、青司くん」
「おはよう、紫乃さん」
はにかんだ笑顔の青司くんが私の頬に手を伸ばし、顔を近づけ、互いの唇が触れそうな、瞬間。
リリリリリリ……。
「わああああ!!!! はあ、はあ、ゆ、夢……? 焦った……」
ガバリとベッドから飛び起きた私は、息を整えるのに必死だった。目覚まし時計が8時を差している。
なんて夢を見るのよ……しかも夢の中の夢から目覚めるって初めてなんだけど……。
あまり寝た気がしない。余程昨日のことが衝撃的だったんだろう。あの後の記憶がほぼないし。
──片山紫乃さん。僕と、結婚してください。僕の欲しいものは、紫乃さんの全てなんだ。
年の離れた弟のように思っていたマンションオーナーの孫である多田青司くん。4年ぶりに再会したらハマってるアプリのキャラそっくりの容姿で、しかも流れでデートして、観覧車でプロポーズされて。
一日でイベント詰め込みすぎじゃない? 体感的に2、3年経ってるんだけど。逆浦島太郎現象なんだけど。
リリリリリリ……。
未だ鳴り続けるアラームを力なく止め、私はよろよろと立ち上がる。朝から刺激が強すぎた。
「ちょっと落ち着こう……アオシくん、今日の天気……あ、そうか」
いつもの習慣でスマホに話しかけたが、昨日の今日でアプリのアオシくんの顔を見る気にはどうしてもなれなかくて、ビジネスモードに変更したんだった。彼がいない味気ない待受画面をしばらく見つめ、ため息をつく。
とにかく着替えよう。今日はみどりさんとお出掛けだ。10時に家へ伺うことになっているし。
軽く朝食を食べた後、白のブラウスにネイビーのフレアスカート、刺繍が付いた薄い黄色のカーデガン、母から誕生日にもらった本物の小さな淡水パール5粒を花に見立てたピアスと、昨日より少しフォーマルな装いを選びながら、私ははたと気付いた。
みどりさんの家、イコール、青司くんの家である事実に。
◇ ◆ ◇
ピンポーン。
「はい、多田でございます」
「し、紫乃です。お迎えに上がりました」
「あらあら、紫乃ちゃん。ちょっと待っていてね」
みどりさんのおっとりした声が聞こえたので、私はようやく肩の力を抜いた。このまますぐに出掛けてしまおう。
玄関前で私は緊張を解き、しげしげと2階建ての洋館を見上げた。相変わらずかわいらしい。赤茶のレンガの玄関ポーチや青緑の屋根が、白い外壁とマッチしている。英国留学経験のある黄治朗さんとみどりさんが結婚したときに建てたと聞いているので、かの国の様式の建物なのだろうか。定期的なメンテナンスのおかげで今も美しく保たれている。
ああ、それにしても良かった。いきなり青司くんが出たら、生きた心地しなか
「おはよう、紫乃さん」
「ひゃああ!!」
ったー!! いたー!! 後ろにいたー!!
間近で響く甘い声から逃げるように、短い髪の上から耳を押さえる。おそるおそる振り返ると、チノパンと白いシャツに紺のカーデガンを合わせた至ってシンプルな装いながらも抜群のスタイルのよさで存在感が目立つイケメンが、笑顔で立っていた。まともに顔が見えない私は目線が泳ぐ。
「青司、くん……おはよ……」
「昨日は紫乃さんとデートできて、生きてきた中で一番楽しい誕生日だったよ! ……ねえ今度さ、僕がプレゼントしたピアスも、付けてほしいな」
「わ、わかったから、あの、もう少し、距離を、ね?」
昨日プロポーズ……のようなものの後に、「僕の20歳の記念に」と、彼から小さな紙袋を渡された。開けてみると、横浜ベイクォーターの雑貨屋で私が密かに気になっていたピアスが入っていた。それは金のチェーンにぶらさがる、紫の小花と青いガラス玉が集まって紫陽花をかたどったかわいらしいモチーフで。そういえば、桃歌ちゃんから電話があったときに青司くんが雑貨屋のレジに向かったことを思い出した。
どんどん近づく青司くんに焦った私は、彼を手で制す。すると、笑顔だった青司くんが急に眉を下げてすまなそうにうつ向いた。
「紫乃さん、観覧車でのプロポーズのことなんだけど……本当にごめんなさい」
……ごめんって、冗談だったってこと?
ほっとしたような、切ないような。いやいや、本気じゃないほうがいい。昨夜はなかなか寝付けないほど頭の中グルグルだったけど。正直好みの顔に求婚された事実はときめいたけど。
それでも、ドラマや小説じゃないんだから、あんな急展開何か裏があるに決まっている。しかし私には深く考える余裕がなかった。仕事ではしっかりしているだの責任感が強いだの、それなりに評価されている私だが、こと恋愛になると分が悪い。経験がなさすぎて、どう対処していいのかわからないのだ。
それに、青司くんと4年ぶりに再会したとはいえ、前に会ったときにはほとんど会話をしなかったから、未だに小学校卒業を控えた大人しい少年のイメージで止まっている。目の前で甘い笑顔を浮かべている背の高い男の人と結び付かない。
……ただ、今の青司くんがどんな人なのか知りたいと思うこの気持ちは、何と言えばいいのだろう。
わかっている。まさか昔からの知り合いに言い寄られると思わなかったから、突発的な状況故に意識しているだけだって。
しかも、結局冗談だったみたいだし。やっぱり私には恋愛は向かないんだわ。
言葉に窮する私に、青司くんが微笑む。
「ああ、何に謝っているか、主語が抜けてたね。唐突な告白だったから、驚かせてごめんってこと。僕が紫乃さんと結婚したいのは、本気だから」
「っ!」
「でも、紫乃さんにとって僕のイメージは12、3歳くらいの子供で止まってるだろうから、今の僕は初対面くらいに感じているでしょう? だから、ちゃんと段階を踏もうと思って」
「段階……?」
「まずは結婚前提のお付き合いに至るまでの、紫乃さんの彼氏候補としてアプローチしていくから。よろしくね!」
彼は私の考えていることが読めるのだろうか。そして本当に、本気で、8歳上の私のことを……。
「おはよう、紫乃ちゃん。青ちゃん、そろそろいいかしら?」
「み、みどりさん!」
青司くんの真っ直ぐな瞳に見つめられ、まるで金縛りにあったかのように体が固まっていた私だが、いつの間にか現れたみどりさんのおっとりした言葉に救われた。
青司くんと桃歌ちゃんの祖母である彼女の今日の装いは、上品な小花柄の黒いワンピースにダークグレーの上着を羽織り、胸元の猫のブローチがチャーミングだ。豊かな総白髪を御団子にまとめた、かわいらしいおばあちゃま。おだやかで優しく、ちょっとおちゃめで、私のことも実の孫のようにかわいがってくれる。
「紫乃ちゃん、今日は無理にお願いしてしまってごめんなさいね」
「いいえ、私も楽しみにしていましたから。 では、そろそろ駅まで向かいましょう……」
蛇に睨まれたカエルが決死の覚悟で逃げ出すように、私は早口にみどりさんを促してこの場から自然に立ち去ろうとした。
のだが。
「そうだね、じゃあ車出してくるよ」
青司くんが満面の笑顔で、右手に持った鍵を揺らした。私はギギギッとぎこちなく首をみどりさんに向ける。
「み、みどりさん、元町まで電車で行くんですよね……?」
「青ちゃんがね、車の練習も兼ねて、運転手として元町まで送ってくれるって言うのよ。車で行くことを鞠子さんと早苗さんに伝えたら、二人とも久しぶりに青ちゃんに会いたいから連れてきてって乗り気でね」
今日はみどりさんの学生時代のご友人、荒池鞠子さんと三田早苗さんに会いに、東急みなとみらい線の元町駅からほど近いマンションへ行くことになっていた。
何故私が同行するかと言うと、以前みどりさんに趣味のネイルをしてあげたのだが、それをご友人たちにとても羨ましがれ、その彼女たちからの要望でレクチャーしたことがあった。素人のネイルなのでと最初は遠慮したのだが、ぜひにと頼まれてみどりさんのお宅で即席ネイリストとなった。お二人はとても喜んでくれ、今回彼女たちの住まいに招待されたというわけで。
みどりさんが少し心配そうに青司くんの様子を伺う。
「前日デートするからそのときに伝えるなんて言ってたけど、紫乃ちゃんのその様子じゃ言い忘れたのでしょう。でも青ちゃん、昨日帰ってきて鼻血出して寝込んでいたんだから、無理しないでいいのよ?」
「あら、大丈夫?」
「……おばあちゃん、紫乃さん、ほら僕もう元気だから。車のほうが、二人とも楽でしょう。ね? ほらさあ行こうよ」
みどりさんの言葉に、青司くんの笑顔がピシリと固まったように見えた。鼻の粘膜でも弱いのかしら。もしかしたら、あまり人に知られたくないのかもしれないわね。デリケートなことだし。
青司くんに急かされて車庫へ向かい、彼の愛車ミニクーパーに乗り込もうとすると、みどりさんが車道に向かって手を振った。お知り合いかしら。つられて顔を向けると、反対車線を歩いていた男性が手を振り返す。
「こんにちは、みどりさん。お孫さんの青司くんも一緒に、お出かけですか?」
何なの、この色気ムンムン年上ミステリアスイケメンは。しかも声は渋くて甘いんだけど。じゃあ色気ムンムン年上ミステリアス極上ボイスイケメン? 長いわ。
俳優と遜色ない容姿の推定30代後半の男性が、人好きのする笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。圧倒されている私をよそに、みどりさんがニコニコと話し出す。
「元町に住むお友達のお宅へ行くのよ。ああ、こちらは香積透さん。来週紫乃ちゃんと同じマンションに引っ越してくるのよ。この前管理会社と契約して、その足で大家である私の元に挨拶に来てくれたの」
「そうなんですか。401号室の片山紫乃です。何かわからないことがあれば、いつでも聞いてくださいね」
「402号室の香積です。ありがとう、よろしく。それにしてもこんな美人と同じマンションの隣部屋なんて、ラッキーだなぁ。俺たち縁があると思いません?」
「うふふ、どうですかねー」
社会人の基本、はきはきした挨拶と明るい笑顔をフル活用した私に対し、香積さんはゆったりと微笑み、まるで本心かのようなお世辞を並べた。大人の余裕に満ちた、男振りのよい伊達男、これはモテないはずがない。
しかし、棒読みで相づちを打ちながらも、私は別のことに気を取られていた。
隣に立つ青司くんが、ひっそりと、まるで親の仇を見るような視線で、香積さんを凝視している。
そんな顔もできるのね……それは知りたくなかったな……!




