予感
見てはいけないものを見た気持ちになって、すぐに定期を挟んで生徒手帳を閉じた。落ちる前に入っていたであろう上着のポケットにそれを戻すと、自分の席に急いで座り直す。
ルミってば、彼氏の誕生日を差し置いて私の誕生日をわざわざ祝ったの? ……まずいよ。
あのとき洋介は私に自分の誕生日を隠した。
一体どんな気持ちで?
いつかの、元気がなさそうだった洋介の背中を思い出す。それでも自分がどうこうできることではないということを悔しく思った。目頭が熱をもって水気を増してきたとき、ドアを開く音に固まった。
「見つけた見つけた!ねえ」
洋介だとばかり思っていたドアを開けた人物は、まったく知らない男子生徒だった。馴染んだ制服と、少しばかり大人びている顔立ちで、どうやら自分達より上の学年であるということがなんとなくわかる。
「あれ? 泣いてんの?」
すぐに目をぬぐった。どうにも馴れ馴れしいこの人物はきっと、容姿がいいことで今までにそうやってその失礼な態度を何度も許されてきたのだろう。
「何か用ですか?」
「Twitterで見たんだけど日曜日にあんたと一緒に歩いてた子、藻狩女子の川中ルミちゃんでしょ? 紹介してくんない?」
いきなり、なれなれしい、偉そう。なんなのこの人。
出た出たTwitterで見たって。ルミ芸能人かよ。
ルミの人間離れした可愛さと人知を越えた引力を、改めて思い知った。普通にしていればいわゆる"イケメン"なこの人を、こんなに狂わせてしまうのだ。末恐ろしい。
「いきなり何ですか? ルミは彼氏います。 それによく知らない人に紹介とかできませんから」
「ごめん、俺、可愛い子しか興味ないから。俺の友達でよければ君に紹介するし」
話が噛み合わない。なんなんこの男。さっきから少しずつたまっていたイライラが、急激に沸点めがけて上昇している。
――そうだ 職員室、行こう。
男の事を無視して席を立った。開いた問題集もそのままに、そいつの顔に背を向けてなるべく早足で職員室に向かおうとした、その時だった。
ぐい、と手首を掴まれてバランスを崩し、こけまいと咄嗟に頼った自分の机もなぜか倒れ、派手な音が静かな教室に響く。完璧に尻餅をついた。
「いったぁ……」
慌てる様子もないその男は、薄ら笑いを浮かべて「大丈夫?」と言う。全然思ってないくせに。
「とりあえずルミちゃんの携帯番号教えてくれる?」
だめだ、話を聞いていない。
立ち上がろうとしたとき、今朝も洋介にもらったミカンが倒れた机から、転がり出る。
「なんだこれ」
男がそのミカンをあろうことか足で蹴ったとき、とうとう私の堪忍袋の緒が切れた。
「何すんの」
洋介がくれたミカン。
「あんたなんて、そのミカンが腐ったとしてそこに群がるハエほどの価値もない男よっ! さっさと帰って」
我ながら、よくそんなひどい言葉が出てきたなと頭の反対側で思った。でも、本当のことだしな。とも思った。
「……俺を誰だと思ってるんだよ」
いや誰だよ。と言い返そうとしたら、男は拾ったミカンを私に向かって思い切り投げつける。つぶれるミカン。飛び散る果汁。さらに男はそこらの机や椅子を蹴り散らかす。なんなのこの男は。あかんこれやばい奴や。
すると、中途半端に開いていた教室の入り口が大きく開き、勢い余ってドアが一回跳ねた。
「亮子何やってんだ? 今すげー音がしたけど……」
洋介が帰ってきたのだった。
「……え? 先輩、何してんすか?」
教室にはいると、洋介の顔色が変わる。先輩と呼ばれた男と、私と、教室の乱れた様子とを、洋介の視線が移動していく。
「あー浅井。ここお前のクラス? お前からも言ってやってよこの女に」
洋介は、「先輩」の顔を見ると、信じられないというような表情で、明らかに動揺している。
「え……、ちょっとまさか」
今度は私の方を見た。私が握りしめているつぶれたミカンと私の顔を見ると、洋介はまたがらりと表情を変える。
「……あの、亮子に何したんすか? 泣いてますけど」
「別に何も。ちょっと頼みごとしたらキレられちゃって。ってか浅井、ルミちゃんのこと紹介するように言ってよ。こいつブスの癖にルミちゃんと友達だからって調子のってて笑えるんだけど」
洋介の瞳が揺れた。それは一瞬の出来事だった。鈍い音が響くと先輩の顔が勢いよく左側を向き、その体は大きく体勢を崩しこけそうに思われた。しかし、踏みとどまった先輩はすぐに指で唇の端を拭う。
「浅井……お前」
「いい加減にしたらどうなんです。いつも亮子に心配かけて」
「何のことだ!」
先輩のくたびれた上履きが、洋介の腹部を思い切り蹴りつける。声にならない悲鳴が自分の口から漏れた。洋介は床にうずくまっている。
あまりのことに手が震えた。情けなくも声がでない。
「立てよ! お前、先輩に向かってどういうつもり……」
先輩は洋介の胸ぐらを掴んで顔を見た途端、その端正な顔を一瞬で歪ませた。
「……何笑ってんだよ」
「先輩っ……て。そんな偉いんすか? 俺の方が足早いけど」
その言葉を聞き激情した先輩の右拳が、洋介の左頬をイヤというほど殴りつけた。その衝撃で近くの机や椅子に倒れ込んだ洋介の立てた音が響き、今まで感じたことのない恐怖が私の足をも震わせ、いよいよ立ち上がれなくなる。
倒れ込んだ洋介にさらに攻撃を加えようとする先輩の顔は恐ろしく、さっきまでの余裕のある顔と同一人物とは思えない。このときやっと、こいつは陸上部の洋介の先輩であるということを理解した。
「お前たち何してる!?」
突如声のする方を見ると、課題をくれた先生がすぐに二人を取り押さえに走って向かうところだった。先生の持っていたファイルが床に落ち、プリント用紙が床を滑っていくのがまるでスローモーションのように見えた。
□
洋介と先輩は職員室につれていかれた。痛々しい程顔に傷を付けられた洋介とは対照的に、先輩の方は不機嫌な顔をしていても、唇の端が少し腫れていても、どこか涼しげに見える。先生に、先に帰れと言われた私は一人で教室を片付け、下駄箱で洋介を待った。
一時間くらい待ったと思う。だけどそれを全然長く感じなかったのは、さっきの出来事を思い返していると泣きそうになるほどに胸が苦しかったからだ。それに輪をかけて、最悪な予感も胸を締め付ける。
洋介は下駄箱の私に気がつくと、靴を履き替えながら「一週間の停学になった」と言った。
崖の上から落とされた気分になった。彼が大会に向けて人一倍努力していたのを知っている。新しい記録を出せたと喜んでいたのを知っている。誰よりもその大会に懸けていたのを、私は知っている。崖から落とされたのは洋介の方だ。
「……ごめんなさい」
「なんでお前が謝る……っておい!」
靴をはきかえて顔をあげた洋介が私の顔を見てしどろもどろになる。止めようと思っても、この涙は自分でどうにかできるほどのものではなかった。
「マジでお前のせいじゃないから、大会なら来年もあるしさ。まーぁ俺もすっきりできたことだし終わったことはしゃあねえじゃん?
……って言うかさ。あんなこと言われて黙ってられるほど大人じゃねえって」
洋介から、二つ目の大切なものを奪ってしまった。こうなるともう疫病神でしかない。それなのに洋介は少しも怒ることなく笑っている。
「なんで、そんなに……」
"優しいの?"
私が洋介だったら絶対にこんな風にできない。
涙を飲み込んだら、言葉が続かなくなった。
はっきりと考えてはいないのに、とても小さな希望の光がチラチラとまぶたを掠める。"希望"なんて綺麗な言葉で表すことがおこがましい、それもこんな時に。
とぼとぼと歩き始めた私に歩幅を合わせてくれているのか、足の早いはずの洋介が私の前を歩くことはない。
「ってかさ、それを言うならこっちこそごめんだわ。俺がルミをお前に紹介しなかったらこんなことにはならなかったわけじゃん? 」
ルミ。その名前がまた私の胸をしめつけた。
彼はまだ件の事実を知らない。
ルミは。自分の気持ちを私に伝え、もう会わないと言って自分から潔くさようならを言った。
洋介は。自分が辛い気持ちの中、私なんかのことをかばったあげく、頑張ってきた大会にも出られなくなった。それなのに何も責めずに私に気を遣っている。
私は。
洋介に彼女ができたと知りながら、それでも諦めきれずにグズグズしている。さっきルミに言われたことさえもう忘れようとしている。人が伝えてくれた決死の覚悟を。自分のことばかり考えて、洋介の優しさに甘えて、自分が気持ちよくなることばかり探してる。それなのに勝手に苦しんでいる。
洋介に彼女ができたことがイヤ。
洋介が私以外の女の子を好きになったのがイヤ。
でも、洋介が大好きな彼女にフラレるのも嫌。
洋介が頑張ったのに大会に出られないのが嫌。
洋介が悲しむのが嫌。
その原因を作ったのが自分なのが一番、嫌。
「ちょっと座って話さねえ?」
立ち止まった洋介が親指で指差した先は、河川敷の質素な公園だった。




