失恋
「私、買い物あるから先帰るね」
耐えられなくなった私はそこにいる二人の顔を見ることも、返事を待つこともせず、向きを変えて走った。遠く後ろで洋介が何か叫んでいる声が聞こえたが、今更振り返ることはできない。
苦しい。目に涙が滲んでいる。
息が切れている。
体力は元々ない。
もうそろそろ止まってもいいだろうと、スピードを落とす。走ることに慣れていない足は、突然止まることにも慣れていない。自分が思う、止まる予定だった場所よりもずいぶん離れたところで、ようやく足は止まった。
完全に息が上がっていた。体育の授業でさえ、こんなに本気で走ったことがない。何か飲みたい気分でもあり、一方で何も喉を通る気がしない。
深く考えずに、すぐそばにあったコンビニに入った。明らかにやる気のない店員の「いらっしゃいませ」という小さな挨拶が、今の自分には調度良かった。
飲み物の置いてある一角に向かう途中、たまたま目に入ったバックヤードのマジックミラーに写った自分の顔を見てぎょっとする。
思わず「えっ」と声を出してしまった。
ひどい顔だ。目を含むあらゆる部分が真っ赤で、眉は情けなく下がり、今にも泣き出しそうに見える。むしろ泣いている途中の顔であるようにすら思える。
どうかこれは、さっき全力で走った事による副産物でありますように。洋介に彼女を紹介された時からこの顔だったなんてことは絶対にありませんように。
全然好きではないトマトジュースの会計を終えると、トボトボと店の入り口を後にする。2つしかない駐車場の1つに停められている車の中に、煙草を吸いながら雑誌を読んでいる男性が見える。自分も車が欲しいと思った。いますぐ一人になって思い切り泣き、この気持ちを全て体から出してしまいたい。
自分でも驚くほどの悲しみが溢れていた。
□
洋介はクラスメイトだった。この春入学した高校で、私の前の席に座っていた。事あるごとに後ろに振り返り、話しかけてくる。初めて話しかけられたときのことを今でもよく覚えている。入学早々にテストがあり、全ての教科を終えたあとすぐに彼は振り返ってこう言った。「テストできた?」その時の笑顔を今でも忘れることができない。
初対面だというのに、とてつもない親しみやすさを感じる笑顔は、一片の緊張感も迷いすらなく、少々人見知りをする自分にとってはとても眩しく見えた。彼にはあらゆる壁がなかった。
「……全然」
突然話しかけられた事への驚きと、目映い笑顔に圧倒された私は、それだけ返すのがやっとだった。しかし、すかさず返ってきた言葉と表情に安心を覚え、すぐに彼に好印象を抱いた。
「俺も!」
彼の満面の笑みにつられて笑ったのを思い出した。その洋介の笑顔を思い出すと自然と顔が綻んでいたものだが、どうだろう、今日は無理のようだ。
9月になるというのに、未だに席替えの気配はない。それは自分にとってはありがたく幸せなことだった。しかしそう思っていたのも今日まで。
毎日重ねる会話に、少しずつ二人の距離が縮んでいると感じていたのは、自分だけだったのだろうか。顔を合わせる度に、どんどん好きになっていったのも、きっと自分だけだ。
学校帰りに何気なく立ち寄った駅の雑貨店で、後ろから呼び止められたのだった。振り向くと洋介と見知らぬ女の子がいた。
「俺の彼女」
照れ臭そうに笑う洋介と、彼女と言われた人との間を視線が泳ぐ。え、待って。彼女って、なに。
その彼女が着ていたのは、自分達とは違う学校の制服だった。
柔らかそうな髪はふんわりとカールされて肩で揺れている。彼女はあまりに可愛らしく、私はその顔を直視することが出来ないほどだった。ザ・女の子、という感じの、まるでファッション雑誌から飛び出てきたような……私からすれば完璧に見えた。
「初めまして」
控えめな挨拶と恥ずかしそうな笑みに打ちのめされる。こんな女の子、好きにならない人いるの?
□
誰なの。どうやって洋介と出会ったの。いつ洋介はあの子のことを好きになったの。どっちから告白したの。
知りたい気持ちが尽きない。でも、一番知りたかったのは。
もし私が先に好きだって言ってたら、あんたの彼女になれてた?
□
毎日楽しみでしかたがなかった学校も、今日からは憂鬱に変わる。自分が何のために毎日登校していたのかを思い知り、急に恥ずかしく思えてきた。
ギリギリまで休もうかと姑息な考えを巡らせていたので遅刻寸前で席につく。瞬間に、大きな手が自分の机の上に現れ、聞き慣れた心地の良い声が降ってくる。
「どした? こんな時間なんて珍しいじゃん」
顔を上げるのがためらわれた。
昨日までなら休みの日でも見たくてたまらなかったこの顔を、今は見ることが辛い。むしろ見たら泣きだしてしまう可能性すらある。
「ちょっと寝坊して……」
声が震えてしまったかもしれない。普段通りにしなければならない。彼女を紹介した途端に態度が変わったなんて思われたくなかった。でも想像以上にそれが難しいことなのだと痛感した。漠然と無数にある将来の夢の中から、"女優"は外さなけばならない。
「もしかして体調悪い?」
洋介の声のトーンが変わり、私の顔を覗き込むように背中を曲げる。疲れきってヨレヨレになっているはずの心臓は、最後の力をふりしぼり、この時跳ね上がった。もう今日一日授業を聞く力は残されていないだろう。
これが昨日までの出来事なら、狂喜乱舞していたに違いない。洋介が自分のことを心配してくれた、って。
でも今はわかる。洋介はこういう奴なのだ。好きでもない女の子の体調を本気で心配するほど、彼は純粋で、心優しい。その優しさが今は少し憎かった。
「全然、元気だよ」
無理矢理な笑顔を作って顔を上げると嫌でも洋介の心配そうな顔が目に入ってくる。
その顔を見た途端、気付いた。彼の事が少し憎いなんて嘘だ。
憎いのは、それに気が付けなかった自分自身の愚鈍さに思い上がり。
「あんまり無理すんなよ? 昨日から様子がおかしい……」
そう彼が言いかけたところで教師が教室に入ってきたので、彼は前を向いた。私は頭にガツンと衝撃を受けたような思いをし、顔が瞬時に熱くなるのを自覚する。
昨日から様子がおかしいって……
気付かれてたの……
最、悪。
「井深さんどうしたの?」
力なく上げた右手に気付いてくれた先生に感謝する。
「保健室、行ってきます」
たかだか前の席の男に彼女が居たことが発覚しただけで体調を崩すなんて自分はなんて、か弱い生き物なんだろう。恋愛における体調の推移研究所なんてものがあったら、この体を提供してもかまわない。
「亮子」
洋介に呼び止められた気がしたけど、聞こえないふりをしてそのまま教室をあとにした。彼女がいるくせに、私の名前を呼び捨てにしないでよ。
□
保健室のベッドに横になるとすぐに薄っぺらい布団を頭から被った。
保健室の布団なんか使うの初めて。
薄っぺら。私みたい。
情けない。恥ずかしい。
自分が惨めだと思う気持ちが後から後から沸いて出て、もう何度目かもわからない涙を溢れさせた。昨日の夜も嫌というほど泣いたから。
夜あまり眠れなかったこともあり、だんだんと眠気が襲ってくる。
もう洋介には彼女がいるって言うのに、彼を好きだという気持ちがまだ私の中には残っている。
これがあるせいで辛い。こんな気持ち無くなっちゃえばいいのに。そうすれば、ただの友達でいられるのに。
このままじゃ今までみたいにいられなくなってしまう。
こんなに悲しい思いするくらいなら、好きにならなければ良かった。洋介の後ろの席にならなければよかったのに。
そんなことをぼんやり考えながら、私は眠りに落ちた。
□
どうしてこんなに辛いんだろう? 悲しいんだろう?
自分の感情が強く揺さぶられるとき、その原因を追求する癖がある。
そうすることで、自分を落ち着かせることができる、と信じている。
でも今回のことは、深く考えなくても答えはわかっている、私が好きだった人に彼女がいたから。答えは簡単だ。では、なぜ彼女がいたら悲しいのか? 好きな人が幸せなら、それは自分にとっても素敵に思えるはずだ。だけど実際にはそうはとても思えない。それはなぜ? 本当は彼のことを好きじゃなかったから? なら、どうして私はこんなに傷ついているんだろう?
たぶん、私は思い上がってたんだ。洋介も自分のことを好きでいてくれてると。いつか二人は彼氏彼女になれるって、当たり前のように思っていたし、自信があった。
それがどうよ、実は彼には可愛すぎる彼女がいましたってか? とんだピエロだな。
□
「……えっ どこ? ここ」
ぼやけた視界でもわかるほどの見慣れない天井と、触り慣れない軽い布団をはねのけて起き上がった。
「おはよー。体調はどう?」
クリーム色のカーテンから顔を覗かせたのは、保健室の先生だった。そこでやっとここが学校のベッドだったことを思い出す。時計を見ると17時をとうに回っている。熟睡しすぎた。
「昼休憩と、一時間くらい前にお友達が様子を見に来てくれたのよ。名前聞いてなかったわ、ロングヘアの子。でもあなたがあんまり気持ち良さそうに寝てるから、先に帰ってもらったのよ。ってか、起こしても起きなかったし」
鼻にしわを寄せておどけて笑う先生は、普段の澄ました顔よりずっと若く見えた。その視線がベッドの下の方に移動され、そこにあったものを持ち上げる。
「これ、あなたのカバン。お友達が持ってきてくれたよ。先生、あと一時間くらいしたら帰れるけど車で送ろっか? それともタクシーよんだげようか?」
「大丈夫です! たくさん寝たら元気になったし……。ありがとう先生! すみませんでした」
熟睡してしまったことが恥ずかしくて、慌ててカバンを受け取って保健室を出た。
ほぼ一日中寝てたんだ。登校した意味なかったな。
あとで、カバンを持ってきてくれた陽子にお礼の電話をしようと思いながら靴を履きかえ校庭に出る。グラウンドには運動部がせわしなく部活動を行っているのが見えた。帰宅部の私からすれば、尊敬に値する行為だ。まず一日の授業のあとに、こんなに体力が残っている事が不思議でならない。
陸上部の練習する横を通りながら、無意識に目が洋介を探していることに気がつく。
いやだ、癖になってる。もうやめなきゃ。
視線を落とした瞬間に、けたたましく響く足音が耳を引っ張った。思わず顔を上げる。
それはまさしく今放たれた弾丸のように、一直線に自分の横を駆け抜けていった。何度もこの姿を見ているのに、いつも速すぎて記憶に留めておくことが出来ない。
洋介の走っている姿だ。
教室では見ることのない真剣な表情、低い姿勢からだんだんと背中を伸ばしていく様、自分には到底真似できそうもない、仕組みすらわからない足の動き。いつもどれを見たらいいのか迷っている内に走り終えてしまう。
悔しいけどかっこいい。
私は、洋介の走っている姿が好きだった。いつもこの姿を寝る前に思い返そうとするのに、思い出せない。だから彼の走るところを見かけたら、見つめてしまうのだ。彼の早さに負けないように、自分の記憶にそれを刻み付けていたくて。
まっすぐに迷いなく駆け抜けていく姿は、彼の性格のようだった。洋介が一番魅力的に見えるのは、絶対にこの瞬間だと確信している。彼の彼女はこの姿を見たことがあるんだろうか? まったく意味のない優越感が少しだけ心臓を震わせた。
走り終えた洋介がこちらに気がつき、目を丸くした。次の瞬間には私から目を離さずに、そのまま走ってくる。
息を切らせた洋介が目の前に現れるのに、そう時間はかからなかった。
「大丈夫か?」
目の上まで来た汗の筋を右手で拭う洋介の瞳は、今は私だけを見ている。
「うん、さっき起きたとこ」
「駅まで送ってやるよ、着替えるから待ってて」
そう言い残してすぐに部室の方へ走っていってしまう。
ちょっと待って。送るって何?
これ以上近付いたらまた好きになってしまう。それが後々自分を苦しめることは簡単に予想できる。
そもそも、私を見つけて、心配してくれて、挙げ句のはてに「駅まで送る」って?
なにそれ? そんなことされたら、嬉しいに決まってるじゃん。
このまま黙って立ち去るのが一番いいと分かっているのにできなかったのは、私が重度の洋介依存症患者になってしまっていたからだ。
だめだとわかっているのにやめることができない。覚醒剤と同じくらい危険だ。
□
「乗れよ」
なんともない顔で自分の自転車の荷台を叩く洋介を二度見する。
いや、いやいやいや。待て待て待て。
「あ、あんたバカなの」
「は? お前体調悪いんだろ? 乗れよ、駅まで送ってやるから。大丈夫、俺足だけじゃなくて自転車も速いから」
「1、道路交通法違反 2、彼女いるやつの後ろなんか乗るわけないでしょ」
洋介は納得できないような顔で「そうか? まあそうだな」といった。
実際、洋介と二人で帰ると言うのだけでも少し罪悪感がある。
「初めてだな、一緒に帰るの」
「そりゃ、あんたは陸上部で私は帰宅部だからね」
「で、どうしたんだ? 風邪?」
まさかの恋患いなんです、だなんて口が裂けても言えない。
「まあ、ちょっとね。でももう大丈夫。なんともない。心配ありがとう」
「そっか! ならよかった。お前がいないから今日はつまんなかったよ」
耳が瞬時に熱を持った。
こんなことをわざと言ってるとしたら、本当に悪い男だ。こんなに悪いやつを今まで見たことがない。それでも、きっと本心で悪意なく放たれた言葉なのだと思い込めるのは、やっぱり私が重度の洋介依存症患者だからだ。
洋介の自転車を押す腕は、肘までシャツの袖をまくってある。適度に日に焼けた肌は引き締まって、見るだけで軽く目眩がした。




