産声①
<another side>
駅から私立柊木高校までの道のりに、通りに面した一軒の交番がある。数名の巡査が付近の事故や犯罪を取り締まったり、集計するためのものでごく一般的な小さいものだ。
この付近の事故や犯罪は少なく、平和な町として知られていた。通りの向かいには、未だに盛況を見せる商店街もあるが、そこでの窃盗や万引きもとんと聞かない。――そして、そんな平和ボケに漬け込んだ暴漢すらいない。
従って、その平和ボケが抜けきるはずもなく続いてしまっているわけで。昼時にパイプ椅子に腰かけて、机の上に敷いたビニルシートについた黒い汚れを爪で剥がしながら大あくび。日なたで眠る猫じゃあるまいし。あまりにもの警戒心のなさにあくびの主の上司にあたる者は、苦言を述べる。
「んなに眠いならこいつでも飲めっ、白木」
パイプ椅子に座っている警官は白木という名。彼の前にむせ返るほど香のきつい珈琲が出される。余程濃い目に入れたのだろう。
「またまた巡査のお灸ですか。これは……」
「ああ。近頃また、たるんでるぞ」
「そうは言ってもですよ。羽曳野巡査、ここ数ヶ月、私たちの仕事って道案内か落し物以外何かありました? それに、この交番は交差点を前にしてるというのに……全くもって違反のひとつすら起きていない」
「……、警官の仕事は刺激を欲すものではない。平和を乱す刺激が起きないよう、見守るんだよ。ほら、今日も早速お客さんだよ」
白木という警官は、この羽曳野という巡査の下に就いているのだが、どうも最近の若者らしく、生意気な言動が目立つ。高速警備隊として仕事をしていた時期もあり、その頃はまだ真面目だったらしいが、退屈すぎるこの場所に嫌気が刺して来ているのだろうか。
そんな刺激を欲しがる白木の淡い希望も叶わず、今回のお客さんというのも、歳の頃合い八歳かそこらの幼女だ。
(はぁーあ、また迷子か)
聞こえないように心の中でひっそりとため息をつき、開けっ放しにしたドアの敷居を見つめてたたずむ無口な少女の前に、白木はしゃがみ込んで目線を合わせる。
綺麗な蒼い瞳だ。俯いた顔に、金色の髪がくしゅくしゅと纏わりついている。一目で日本人ではないと分かる。白木は、すっと頭の中で考え込んでから、唇の先で慣れない異国の言葉をつぶやいた。
“What's your name?”
何故か少女は意味を取りかねているような顔つきをする。――英語が分からないとなると、ロシア語か? それともフランス語か。そんなもの習ったことないのだから、どう手を打っていいか分らない。
大学時代の第二言語は中国語だが、今の状況で役に立つはずもない。日本というお国事情から、中国語と韓国語はまあまあ役に立つこともある。――しかし、ここに来て英語以外の西洋圏の言葉を要する場面に巡り合うとは。
額に手を当てて、考え込んでいると、羽曳野巡査が無鉄砲にも日本語を少女に向かって投げかけた。
「嬢ちゃん、どっから来たんだ?」
「……あたし、分からない……」
会話が成立したことに驚いた。
蒼い瞳に、明らかに染めていない、もともとの色だと分かる艶やかな金髪。おまけにフランス人形の着るメイド服のようなフリルがあしらわれた黒のワンピースという服装。――どこからどう見ても、日本語が通じるとは思えないし、通じてしまった今も、視覚と聴覚が不協和音を奏でている。
「分からないのか……。そうか。君、名前は?」
「多分、ないと思う……」
「……、親は? お父さんやお母さんは、何処にいるのかな」
「どこにもいないよ。きっと、そう。どうせ、そう」
歌うかのような口ぶりだが、表情は曇っている。
蒼い瞳もどこか淀んでいるようにさえ見える。声はどこまでも透き通っているかのように美しいのに、その表情には、生きる意志、精気というものがまるで感じられない。
――証拠はゼロとなった。名前も両親も、自分がどこからやって来たのかも、少女はすべて覚えていないという。――はてさて、どうしたものか。再び頭を抱えて悩むこととなった白木に、羽曳野巡査の鬼気迫るような声が響いた。
「おいっ! さっきの娘を知らないかっ!」
目を離していたのは、ふたりともほんの零コンマ数秒だろう。
その間に少女は忽然と姿を消していたのだ。
*****
すっかり暗くなり、街灯に照らされた帰り道。顔にあざを作ってしまった杏奈は、雷雷と三井名とともに、美月に負けたことを、ぶつぶつとぼやきながらの帰りだ。いや、帰りとは語弊がある。むしろ夜逃げと言ったところか。
もとより住む場所のない彼女らは学校に隠れて住んでいたのだ。本来はそれは校則でご法度となっているが、遮光カーテンという彼女らにとっては、快適なことこの上ない環境を整えていた理科室を、宿木に提供され、匿われていたのだ。それの交換条件が、木枯唯を手に入れること。
しかし、それが叶わなかった。三人は今や宿無しの状態。ひとまず仮住まいを訪ねてふらついているのだ。
「くそっ、あの女……、あの女さえいなければ唯を手に入れられるのにっ!」
「ねぇ、杏奈ー。もう今日はカラオケにでも入ろ」
「やだ、あたし漫画喫茶がいい。コアなBL作品までしっかり取り揃えてあるところがいい!」
「あんたの推薦図書に付き合わされる羽目になるなら、野宿でいいわっ!」
「不行。野宿なんてしたら、死んでしまうわ」
雷雷の一言で、理科室に匿われるまでの宿無しの生活を思い出す。自分たちは日光を浴びると死んでしまう。それは夜に生きる者。不完全なホムンクルスの成り損ね。ナイトウォーカーとしての宿命だ。
タイムリミットが決まってしまった。今からはまだ、八時間以上はあるが、命がかかっているだけ焦ってしまう。やや早歩きになりながら、街路樹の立ち並ぶ通りを歩いていると、曲がり角でふと幼い少女に出くわした。
「おわっ!」
齢は自分たちより八歳か九歳か下。向こうからすれば、ちょうどこちらは、二倍ほどの年齢だ。杏奈はしゃがみ込んで目線を合わせる。
「どうしたんだー、迷子かー」
艶やかな金髪と蒼い瞳。一目で日本人ではないと分かってしまう。
「アイヤー、綺麗な髪ねー。あたしのは染めててギシギシだから羨ましいわー」
「そんなことより、日本語が通じていないのではないか」
三井名の言葉で口をつぐんでしまう三人。
――すると、この少女。見かけとは不釣り合いにも日本語で話をし始めた。
「……迷子というのかは……分からない」
「もともと、あたしのお家なんてないのに。ずっと探してる……ずっと……」
<おまけSSその9>
ある日の風香
今日はお兄ちゃんの部屋を掃除。お兄ちゃんったら本当に散らかしてダメダメね! あたしが片づけてないとすぐに散らかすんだから! ベッドの下もホコリだらけ! こんなんじゃお兄ちゃん、喘息になってしまうわっ! まったくもう!
ガタッ……。
あり?なんか当たったぞ。なにこの本……? なんで表紙のこの女異様に乳でかいのっ! 特典DVD付きって何よ! ハレンチ! お兄ちゃん最低っ!
それから風香は、バストアップ方法に興味を持ち始めた。
<おまけSSその10>
ある日の風香
今日はお兄ちゃんの部屋の本棚を掃除するのよ。お兄ちゃんったら小説も漫画もいしょくたに並べるし、巻数の番号もそろえてないし、たまに教科書だって混ざってるんだから!これじゃあ無くしたしたって気が付かないじゃない!
あり? なんか奥に変な本が隠してある……。
何よこれっ! この表紙の女の下着、ほとんど紐じゃない! 皮膚とか透けてるし! もうっ! こんなハレンチなもの読むなんて! お兄ちゃん最低っ! ドエロっ!
それから風香は、女友達とよく下着売り場に行くようになった。
「風香ちゃん、そういう下着はまだ早いんじゃ……」
「うっさいわね!勝負はいつ来るか分んないのよっ!」
「は、はあ……」




