納豆問答
<another side>
時計は十二時を回ろうとしている。表向きはただの一軒家だが、中には今時には珍しく、しっかりと作られた書斎がある。座る者を囲う形に置かれた巨大な机と、その背後には壁一面を覆う本棚まである。びっしりと並べられた本の背には、何やら見慣れない文字が綴られている。
その持ち主は、机に囲まれた椅子に座る中年の男。――これまた今時にしては珍しい羊皮紙の上で万年筆を泳がせている。紙の上を泳ぐ文字たちは、どこの国の言語とも似つかない。魔方陣を思わせる幾何学的な模様もある。
とある一角には、日本語や中国語、ラテン語で書かれた本も存在するが、多くはその‘奇妙な言語’で内容が書かれている。そして、彼の仕事もとかく奇妙で、その詳細を知る者は彼の家族の中でさえ、誰もいない。
「そろそろ、昼飯だな……」
句点にあたるものを紙面に打ち、男は筆を止めた。あいにくその文面も、‘奇妙な言語’で書き記されており、内容はここでは説明できない。
男はすくっと立ち上がり、スリッパの上に裸足の汗のぬめりを感じながら、鼠色の絨毯を踏みしめて書斎を出る。
――書斎の扉のちょうど前に、男は奇妙なものが落ちているのを見つけた。
心臓にあたる箇所を五寸釘で貫かれた藁人形だ。
もちろん男にはそんな‘趣味の悪い趣味’はない。
落とし主に心当たりがあるのか、男はハッと息を飲んで周囲を二三度見回す。だが――自分以外の誰かがいる気配は感じられない。
代わりに、廊下の天井にぶら下がる小さなシャンデリアが、ひとりでに揺れた。それに続いて、自らの目線の先を行く主のない足音が。靴底の形に、絨毯の繊維を踏みしめて歩いていく。
そして数歩進んだところで、男の方へ。靴底の形をした、絨毯のへこみが向き直ったのだ。透明人間が男の方を向いて、手招きをしているかのようだ。
靴の形からするに、革靴を履いた男性だろうか。見えない男は、彼を案内するかの如く再び歩き始めた。
そして、仕事をひと段落させて、昼食を取ろうとした男の本来の目的と同じく、見えない男もダイニングルームへと歩みを進める。
見えない男は、ドアを開けて男を中に通した。自分の家の食卓に招き入れられるとは、何とも奇妙な体験だ。
「まあ、落ち着いて座るが良い。木枯荒よ」
招き主は、奇妙な格好をした女だった。荒という珍しい読みの下の名を持つ、招かれた男は上半身をYシャツに包み、下は肌触りの良さそうな綿のスラックスとごく普通の格好だ。
対して、女の肩には、藁を編んで作られた蓑が羽織られており、屋内だというのに魔女がかぶるような真っ黒なとんがり帽子を被っている。蓑の下の服も黒いローブであり、蓑を剥ぎ取れば西洋の魔女そのものだ。
そしてもう一つとりわけ奇妙なのは、彼女の顔面の左半分を覆った仮面だろう。老木でできており、墨を塗った目玉模様が、まるで意思を持つかのようにぎょろぎょろと動いている。隣の鮮やかな緑色の瞳。――つまりは彼女自身の瞳とは、まったく焦点が合っていない。
「……。簀巻藁葉、いったい何の用だ」
「そうかりかりするな。久方ぶりの再会じゃろう?」
簀巻という女性と荒は、古くからの馴染みらしい。――とは言っても、あからさまに警戒心を剥き出しにしている荒の態度から、因縁めいたものがあるのだろう。いや、男の表情には、何やら苛立ちのようなものさえ感じる。その視線は、ひたすらにぐるぐると何かをかき混ぜる彼女の箸に向けられていた。
「……、なんでさっきから納豆をネリネリしてるんだ」
「好きだから」
「いや、好きなのは知ってるが。それ、うちのだろうがっ!」
「昼飯にしようと思うたんじゃが好物を切らしていてのお。にしてもお前さんは、相も変わらず娘にきつく当たられておるのお」
彼女が切り取った納豆パックの上蓋をぴらぴらと見せつける。
そこには、『パパのお昼』と汚い丸文字で書かれていた。――どうやら荒の昼飯として冷蔵庫に入っていた納豆に、彼女が手をつけてしまったということらしい――つまり、これで荒の昼飯はなしということになる。
「私の昼飯を返してくれないかっ」
荒が憤るのも頷けるが、納豆はとっくに彼女の手が付けられている。
「返そうにものう。食べてしもうたしのう。あむ……。あ、からしを入れるのを忘れておった」
パックの上蓋にくっついていたからしの袋の封を切り、山吹色の練りからしを粘りの帯びた褐色の納豆の上にひねり出す。箸を入れて、粘りによる抵抗を感じながら、ザッザッとかき混ぜると、出汁の香りが納豆の匂いに混ざり、そこにぴりりとしたアクセントが加わる。
納豆を現在進行形で食べている彼女には、さぞ甘美な嗅覚だろう。だが、それを第三者視点から眺めている荒にとっては悪臭だ。
荒は眉間に皺を寄せて、顔を歪める。
「まさか、本当に納豆のためなんかにうちに押し掛けたのか」
「あむ……。女房を亡くして、寂しがっとると思うてのう。ずぞぞ……」
納豆をすすりながら、のらりくらりと聞き流しては適当なことを言う彼女。なおも苛立ちはつのり、ついには机に乗り出すようにして彼女に詰め寄る。
「はぐらかさずに答えろっ」
「……。妾には逆らわぬほうが良いぞ。なにせ、妾は世界で最も強い魔女じゃからのう……。もとは三番目じゃったが」
彼女の声の調子が変わった。
低く、底から突き上げるようなどすの効いた声だ。指をぱちりと鳴らす。――すると、荒の手に握られていた、廊下に落ちていたあの藁人形が、ふわりと浮いて彼女の左手にひらりと舞い降りた。
魔法のような光景だが、彼女の格好が蓑を剥ぎ取れば魔女のそれなので、違和感はない。
にやりとほくそ笑み、藁人形の首にあたる部分をぐっと力を込めて握りしめる。
「……っ、はうっ……。く……、うぅっ……」
首元が締め付けられる。
もがき苦しみ、膝で食卓の天板を蹴り上げる。
だが、首を金属で締めあげられるようなその感覚からは逃れようもない。首元から引きはがそうにも、縄も轡もそこには存在しないのだから。
その‘術’を使った彼女は、喘ぐ荒をにんまりと嘲笑う。
「呪術と傀儡術は妾の十八番での。藁人形を使えば、簡単に人質を取れる」
今度は箸を納豆パックに渡し箸の格好にして置いた後、手を軽くたたき合わせた。――すると、今度はテーブルの下に敷いてあった絨毯の革靴の靴跡から、そこにいた見えない男が。足元から少しずつ色がついていくようにして、姿を現した。
日本人離れをした顔立ちをしており、日本式の礼儀を知らず、土足で屋内にいる。
「やれ、テオドール」
男は簀巻の命令を聞くや否や、着用しているモーニングの袂から、ナイフを取り出し、その鋭利な刃先を荒の左胸、心臓の位置に突き立てた。――男は簀巻の従順な下僕らしい。
(……、急所を二箇所押さえられている……。生きた心地がしねぇ)
「ちょうど、尋問しやすくなったわい。さあ、答えてもらおうかのう。
――‘毒姫’は、どこじゃ?」
毒姫。
簀巻のその言葉に、荒は目を見開いた。
「……、し、知らないっ。そんなもの、いるわけがないっ!」
「しらばっくれるのは、よした方がいいぞ。三つの禁制魔法は存じておるじゃろう……。それを犯せば、必ずこの世に‘毒’が生じる。魔導科の基礎教科で習ったはずじゃ」
毒。毒姫。禁制魔法。どれもこれも、魔導科の基礎授業とやらでは必ず習うらしい。
「そんなもの犯していないっ! だいたい、妻は……、鏡花は、交通事故で他界したんだ。‘毒姫’も‘毒’とやらも、ここにはいないっ」
荒が反論すると、彼女は顔を歪めた。仮面から少し眉間の皺がはみ出て覗いている。懐疑心に満ち溢れた顔つきだ。
「……、確かにそう思うのもあり得ない話ではないな。‘毒’なんぞのもの、持っていては隠そうとするのが常。何かしらの修正が入っていても、おかしくない。じゃが……」
その疑いの目は、荒の右手薬指に光る指輪に差し向けられた。鏡花という女性と生涯伴侶の誓いを立てた証だ。
それが目に入るや否や、何か感じるところがあったのか。再び邪な笑みを、顔の右半分に浮かべる。
「――そこにいたか、旧き友。ミラージュ・ホーエンハイム」
荒の心臓に刃があてがわれ、身動きが取れなくなっているのをいいことに、彼女は男に荒の指輪を外すように命令した。右の手のひらを握りしめ、抵抗しようとすると、男の持つナイフが荒の肩口の肉を抉った。
「はうぁっ……」
「余計なことを考えるのはよすのじゃ!」
血がだらだらと滴り落ちる。白いYシャツが真っ赤な血に染まりゆく。失血で朦朧とする意識の中で、崩れゆく自分を指さして、彼女はけたけたと笑っていた。
奪い取った指輪をシャンデリアの灯に透かしながら。
「確かに受け取ったぞ。‘毒’の件は、‘毒姫’に聞くのが速かろうて」
<another side>
「次は、合馬。合馬でございます」
車内アナウンスがそう告げたところで、学生服姿の少女がホームへと降り立った。すぐさまスカートのポケットから、スマートフォンを取り出し電話をかける。心なしか苛立っているかのような表情をしている。
呼び出し音が数度、彼女の耳の中で鳴り響く。いら立ちを間際すためかホームに立つ柱の周りをぐるぐると回ったり、もたれかかってみたり落ち着きのない様子。
そして一向につながらず、『電波の届かないところにいる可能性がございます』と冷たい返事が返って来る。
「もー……、お兄ちゃん。あたしの電話に出ないなんて」
(なにかあったのかな……?)
ふと少女の脳裏にそんな疑問が浮かぶ。
風がそよいで、彼女の短めのボブヘアーが少し揺れた。ため息をひとつついて、少し崩れた髪の毛を整えてカチューシャを付け直す。少し俯きながら、お尻からどんっと突き出すようにしてホームのベンチに腰掛ける。
(お父さんに聞いてみようかな)
時刻は午後六時半を過ぎたころ。まだ少し汗ばむ夏の残り香を感じながら、彼女は親に連絡を取る。いつもならば、何もなければ兄は、家に帰っているはず。
(あんまり、お父さんの声を聞くのは気乗りがしないんだけど)
年ごろからか。父親とはそりが合わないようだ。スマートフォンの画面の上で、親指が二の足を踏むかのようにぎこちなく動く。
呼び出し音が数度。駅を通過する電車の騒音にまみれて耳の中に響く。だが繋がらない。家の固定電話にかけた。父か兄のどちらかがいれば通じるはずなのに。
(とりあえず、まっすぐ帰ってみよう)
本当は、兄に今日の夕飯が何がいいか尋ねてから帰るつもりだった。帰り道のスーパーに寄るから。
少女は母親が亡くなってからというもの、通学しながらも家事の一切を請け負っている。スーパーで材料を買い、数十分で出来上がるような簡単な料理を仕込む。それが日課だった。
しかし、その献立を決めようにも家族と連絡が取れないとなると、なぜだか胸騒ぎがして少女は足早に改札を通り抜け、早歩き。――いや、軽く走る。息が上がるほどに走っていく。
合馬駅から、街路樹のイチョウが歩道沿いに並ぶ道を真っ直ぐに進んで、三つ目ほどの角が並ぶ。二階建てもしくは三階建ての家が立ち並ぶ中、一際敷地が広い家の前で立ち止まり、少女は膝を抑えて荒い息を数度。――どうやら、周りの家と比べて、ちょうど二倍くらいの敷地面積を持つ、この家が彼女の住まいらしい。
(何もなければいいけど……)
木枯と表札のかかった門の、白いガーデンゲートを開けて、芝の上にタイルを敷き詰めた玄関までの道を、何故か重たい足取りで歩く。気配がする。知らない気配だ。玄関扉の鍵穴に鍵を差し込む。
いつもやっていることなのに、少し躊躇してしまう。
がちゃり。
鍵はいつもと変わらず、すんなりと開いた。扉も問題なく開く。
玄関は薄暗く、いつもなら自分が入った瞬間に誰かが迎えに来てくれるはずだ。兄か父か。しかし、今回は誰も来てくれない。目の前のダイニングへと続く扉から、中の灯が漏れているというのに。
(玄関の扉が開いた音は聞こえているはずなのに)
少女は首を傾げ、顔を歪めながら、ダイニングへと続く扉のノブに手をかける。
「お父さん、ただい……ま……」
一応そう言った。だが、視界に父の姿は目に入らない。
代わりにテーブルの下に屍があった。いや、屍ではない。まだかすかに胸が上下に動いている。父親と思わしき男は肩口に刺し傷があり、血をだらりと垂れ流しながら。ぐったりと椅子から滑り落ちた様な格好で横たわっていた。
「お、お父さんっ!」
「風香か……」
父は少女を下の名前で呼んだ。風香が父の肩を揺らすが息も絶え絶えだ。
「だから言ったのにっ! お父さんは料理したらダメだって!」
「いや、料理でこんなことになってねえよ!」
がばりと傷が嘘のように、起き上がる父。だがここで、自分の傷がなくなっており、Yシャツについた血の染みも消えていることに気づく。今頃気付いたのか。そういいたげな視線が、風香から父親へ差し向けられる。
「――幻術の類ね。お父さんがこれしきのものに嵌められるなんて。術者は相当強力な人だったんでしょ?」
「……、ああ。でも知らない方がいい」
幻術が解けたあとは、絶え絶えだった息もすっかり元に戻った。
この通り元気だし。もう襲われるようなことはない。娘に心配をかけさせまいと父はそう取り繕う。とそのとき、風香は父に起きていたある変化に気づいた。
(指輪がない……。まさか……!)
「愛人囲ってたのねっ! それで、既婚の子持ちってことがバレて、ぶっ飛ばされたのっ?」
「違うわっ! だいたいどこからそういう発想に?」
「だって、結婚指輪取られてんじゃないのよっ!」
<おまけSSその5>
木枯風香
「これ……、あたしの初登場って気付いてもらえたかなあ」
木枯荒
「まあ、名乗るタイミングが描写の関係でなかったから」
木枯風香
「お父さんに至っては名前すら出ていなかったしね……。まあ、当然よね。愛人に結婚指輪がバレて取り上げられて……」
木枯荒
「いや、勘違いっていうか、どう誤解したらその結論になるんだよ!」
<おまけSSその6>
木枯風香
「それにしてもお腹すいたわねえ。ピザでも頼もうかしら」
木枯荒
「おお、いいなあ。お金なら出すぞ」
木枯風香
「お父さんはこ~れっ!」
木枯荒
「いや、確かに‘めし’とはついているけどさ……」
木枯風香
「あたし、マルゲリータにしようかなあ。お兄ちゃんもトマト好きだし」
木枯荒
「いや、おかしいだろっ! なんで‘忍者めし’なんだよ! 人の話きけぇええっ!」