禁制魔法②
<another side>
「いけないことですか。死んだ人に生き返って欲しいと願うことは。魔法で死んだ人が生き返れるとして、それがやっちゃいけないことだからって、みんなが我慢できるものなんですか?」
夜間授業の最中、日秀から投げかけられた返答に、教室の中の空気は硬直した。皆の視線が日秀に向けられる。教壇に立つ女教師が質問に答えたところをさらにつっこんだのだから、「長引かせるな」といった具合だろうか。女教師の方はというと、答えようのない質問を突き出されて、少し困った顔つきになっている。それを見て、日秀は我に返ったように席に座り直した。
「すみません。少し取り乱しました」
軽く平謝りして、何事もなかったかのように授業で配られたレジメに目を落とす日秀。どこかイラついているようだった。勢い余って、口を滑らしてしまった自分に対して
調子のいい奴という面が強い日秀が、そんな表情を見せるのは、少し珍しかった。
ふと隣の席に座っている美月の方を見やる。
昨日は集中して、一点の曇りもない澄んだ瞳で黒板を見つめていた彼女が、机に突っ伏していた。眠っているのか、しかし、腕の隙間から見える顔は目をしっかりと開いていた。ただ、息は荒く、どうにも調子が悪いようにか見えない。
どこか具合でも悪いのか。
そう思った俺は、こっそりと耳打ちをした。「大したことないわ」と返す彼女の声は、相も変わらず無表情だが、少しか細くも聞こえる。
「唯はちゃんと授業を聞くのよ」
昨日はそういう本人が真面目にノートを取っていたのだから、説得力があった。が、今回は彼女の方が集中できていない。そして、彼女は昼休みの襲撃で変貌したときとはちがって、俺を「木枯くん」とは呼ばない。
どっちが本当の、美月さんなんだろう。
そんな疑問が浮かんで、授業内容が耳に入らなくなってしまった。
――授業が終わった後、俺は美月と教室を出た。授業中は意識が定まっていないような様子だった彼女だったが、何事もなかったかのようにしゃんとしている。呼吸が乱れているような様子もない。
こつん。こつん。廊下のリノリウムの床を打つ靴音も、旋律の整ったもので、いつもの美月だ。
「美月さん、さっきの授業中はどうしたの?」
「――聞きたくない話だったから」
「えっ……」
「苦手なの。心がまさぐられるようで、何でかは分らないけれど」
また彼女の凛とした顔が曇りを見せる。窓から刺すわずかな月明かり。美月の黒い髪を照らして、顔に影を作っていた。笑顔だとか、そういうプラスの表情は見せないくせに、マイナスの表情だけは豊かに見える。
「ごめん、嫌な思いさせちゃったかな」
「いいの、唯は何も知らなくて――」
彼女がぼそりと、引っかかるような内容を呟く。
何も知らなくていい。そんなことを言うなんて。
本当は、彼女は自分がなぜ禁制魔法の話が耳に痛いのか、どこかで知ってるんじゃないのか。
「美月さん、何か隠して――」
そこまで言いかけたとき、がらがらと音を立てて廊下の天井が崩れ落ちた。鉄骨の入ったコンクリートが崩落し、天井に開いた穴からは断熱材と上の階が覗いている。夜間授業も終わり、これから帰ろうかというときに、俺たちふたりは帰路を塞がれてしまった。
いや、巻き込まれたのは、俺たちだけではない。
「な、なんだよっ。これっ!」
崩れて瓦礫の山で塞がれてしまった廊下を前に、日秀が尻餅をついて怯えている。さっきまで荒唐無稽な内容の授業を聞かされていた日秀も、すぐさま魔法による危害が自分に及ぶとは考えつかなかったようだ。
「塞がれた……、私と唯の帰り道を邪魔されたっ! ――許さない」
この状況で気の抜けた怒りをぶちまける美月の視線は、上の階で仁王立ちしてこちらを見下ろす少女に注がれていた。
昨日、俺を襲撃した三人組の中にはいない。別の少女だ。
眼鏡をかけて、短い髪をしていて、目つきがやけに刺々しい。そして、最も特筆すべきは、少女の目じりから空に溶けるように不自然な方向へと流れている涙。それが注がれた先は、夏場の陽炎のごとく揺らめいていて、まるで彼女の涙が空間を歪めているように見えた。
「木枯唯、突然だけど……。ここで命を頂くわ」
眼鏡の少女は、俺を昨日襲った赤毛の女と同じような台詞を吐く。ということは、こいつも、ナイトウォーカーの種族なのだろうか。
太陽の光を浴びれない身体。その呪縛を解くために、何の因果か分らないが、俺を狙ってくる。
氷のように冷たい視線を、目下の俺たちに投げかける少女。
その出で立ちは、美月と同じく校則で定められたチェック柄のスカートと、白いブラウスだ。
日秀が、少女を見上げて言った。
「あの……、パンツ見え――」
少女が無言で、上の階から飛び降りると同時に踵を日秀の頭に振り下ろした。
「ぶぐわぁっ!」
少女は少し顔を赤らめながら、わざとらしく咳払いをしてその場を取り繕う。
「仕切り直しよ。木枯唯、あなたの命を頂くわ」
「――縞パンだったわね」
「もういいつってんのよっ! ばっちり見てんじゃないわよっ!」
美月はきっと敵を挑発する才能でもあるんじゃないかと、俺は思う。
取り乱したところをもう一度咳払いでごまかし、少女は右腕を天に向けて掲げる。少女の腕の周りに陽炎のようなものが立ち込め、そこだけ空間が歪んだようにゆらゆらと揺らめく。
「唯、気を付けて。あの陽炎に触れられたらお終いよ」
凛とした声が響く。俺の前に立ちふさがり、美月は何もない空間から光を放つ剣を出現させた。青白く光る、細い刀身の美しい三日月刀。彼女の壮麗とした立ち姿に似合っている。
昨日と同じ、俺を守ろうとする強い美月。
今日の昼に見せた、怯えるばかりの弱い美月。そしてもうひとり、俺に向かって初めて笑顔を見せた銀髪の美月。
本当の君は、どれなんだ?
「涙を媒体とした強力な空間操作魔法。実体だけでなく、魔力によって創られた結界も侵すことができる。あれに触れたら――」
眼鏡の少女は飛び上がり、美月に向かって、陽炎をまとった右腕を振り下ろす。手刀で斬りかかるような格好だ。だが、彼女の華奢な右腕は、かろうじて斬撃をかわした美月の長い黒髪を捕らえた。
美月のたおやかな髪の毛の束が、さらさらと床に落ちる。
「切り刻まれるわよ」
「……、どいてよ。邪魔よ」
「どかないわ」
美月の返答に、少女はぎりりと奥歯を噛みしめる。逆上し、掴みかかる。彼女の右手はあろうことか、美月の三日月刀の刀身を鷲掴みにする。
ところが、彼女の手から血は滴り落ちはしない。
動揺の色を見せる美月の下腹部を蹴り上げる。
「み、美月さんっ」
どうやら彼女の脚は、空間を歪ませる魔力のオーラを纏っていなかったようで。美月は蹴りを喰らっただけで済んだ。
だが手放してしまった三日月刀が、床に転げたまんまだ。
美月は、歯をくいしばるようにして力を込め、もう一度自身の魔力を三日月刀の形に具現化しようと試みる。しかし、光の粒が美月の手元に集まって、ようやく形を成そうかというところで砕け散る。
助けなければ――
そう思った俺は、床に転げた三日月刀に手を伸ばそうとした。
たとえ、魔法が思いのままに使えなくても、美月に武器を手渡すことはできるはずだ。
「唯っ! そいつは罠よっ!」
衝動的に動いた俺に、美月が声を上げた。
だが、それが耳に入ったころには遅い。三日月刀は意志を持ったかのように、俺に刃先を向け、矢のように俺の心臓をぶち抜いた。斬撃に身体がのけ反り、浮き上がり、俺の視界は闇に閉じられた。
<another side>
青白く燃える松明に照らされた、薄暗い回廊。石造りの壁に挟まれた真っ直ぐなだけの狭い一本道だが、そこに入ったものは、永劫の時を彷徨うことになる。
そんな謂れがあるのが、図書館の魔導書庫の隠し通路。通称、無限回廊だ。
あたりに魔導書庫にいたような、魔導帽を被った人影は見当たらない。というか、そもそも道幅がやけに狭く、回廊というよりは路地裏の裏導線を伝っている感覚に近い。そこはかとなく不気味な回廊を、臆することなく突き進む少女がひとり。
木枯風香。木枯唯の妹だ。
道は本当に一本道で、自分が歩いてきた方向と、これから歩いていく方向しかない。つまり、目の先にいた人物でなければ、背後に回ることなどできない。
だが、それはいとも簡単に覆される。
男の声は、風香の背後から響いた。
フードを被り、そのフードの中も薄暗い回廊では、闇に溶けてしまっている。いや、何もない闇がフードを纏って浮いているのか。
「お嬢ちゃん、どこに行くんだい?」
しわがれた声がフードの中から発せられる。だが、フードの男には手も足も見当たらない。つまり、フードの中が見えないのは、それが闇に紛れているのではなく、もとよりそこに何もないからだということが分かる。そのくせ、フードの男は青白い炎を灯すカンテラを携えており、腕のない袖の先で、ふわふわとそれが浮いている。
その姿はさながら、ファンタジー作品に出てくる死神か、亡霊のようだ。
「このしがない用務員に用があるとは、珍しい」
「……、あなたはどんな魔法でも知っていると聞いたことがある」
「――畏れ多い。私はただの‘出来損ない’だよ」
フードの男は、謙遜するような態度を見せる。
どうやら、風香にとっては彼こそが尋ね人のようだ。少女は歩み寄る。男の近くまでくると、小柄な彼女とフードの男の身長差が浮き彫りになる。三十センチか、四十センチはありそうだ。ただ、フードの男の‘中身’がないということになると、それを身長差と記述するべきかどうかは定かではない。
「教えて欲しい。あの忌まわしい事実を消す魔法を」
「――あの事実がつきまとう限り、あたしも、お父さんも、お兄ちゃんも家族になんてなれないのっ!」
風香が消し去りたいという事実は、父が実の息子であり、風香から見れば兄である唯の命をあろうことか、手にかけようとしたというものだ。父親である荒には、そのときの記憶を忘れさせる魔法をかけて、なんとか家族の形を取り繕っていたが、それも破られてしまった。
もう一度忘れさせるのか。その記憶を封印するのか。いや、もういっそのこと、その事実ごと消してしまえば――
彼女は、思い悩んで、あらゆる魔法を修めた万能の魔法使いと噂される彼を訪ねたのだった。
「……、木枯風香……。あの大魔導士、木枯荒の娘か」
「は、はい……」
風香は名乗ってもいないのに、自分の名を言い当てられて当惑する。それどころか、父親の名前も知っていた。
「お父さんのことを知っているんですか?」
「古い友人でね……。まあ、そんなことはいい。事実を消す魔法は、時の理を乱す禁制魔法だよ。それに、並の魔法使いができるようなものでもない」
「……、分かっています。でも……、実のお父さんが、お兄ちゃんを殺そうとしただなんてっ! どんな理由があったにしろ、こんな悪い冗談、受け止められっこないわっ!」
取り乱し、肩で息をする風香。
過去にもう起こってしまったことを消してしまう。そんなことがまかり通ってしまえば、歴史や世界の存在骨格が危うくなる。故に禁制魔法とされた。
「あんなことがあって、あたしはお父さんのことを家族と思えなくなった。どれだけ言い聞かせても、お父さんは、お兄ちゃんの敵に見えてっ! だから、洗濯物も一緒に洗わないでほしいし、お風呂も一番最後に入って欲しいし!」
「……、いや、そこは関係ないだろ」
「とにかく消せるものなら消してしまいたい。それに……、あたしたち家族の問題よ。こんな事実どうこうしたって、歴史もなにも変わらないじゃないっ」
フードの男はしばらく考え込むように、頭を俯けてから、首を縦に振った。
指をぱちりと鳴らす。すると、一本道だった回廊の壁の一角が、存在というインクが水に溶けるようにして、透明化して消えた。その場所に、上方から昇降機が降りて来たのだ。
昇降機は、鉄製のガーデンゲートのような格好をした扉がついており、少しレトロな雰囲気を醸し出している。ぎぃいと古い金属のきしむ音が鳴ってひとりでに開き、ふたりを中に招き入れる。
先に、フードの男が中に入り、回廊に突っ立つ風香をカンテラで手招きする。
風香が乗り込むと、昇降機の扉はひとりでに閉まり、ふたりを乗せて地下深くに向けて動き始める。
ごうんごうんだとか、機械が動くような音は聞こえない。ただ、一定間隔で青白く萌える松明が上方に流れていくため、下降しているのだと分かる。まさに深淵に堕ちていくような感覚を、風香は覚える。
「……、何処に向かっているんですか?」
「どんな些細なものでも、起きてしまったことというのは、簡単に消せやしないんだ。膨大な魔力を要するよ。だから、それをちょいと借りに行くのさ」
昇降機が止まる。深淵の最終地点に辿りついた。ぎぃいと音が鳴って、扉がひとりでに開く。しかし、開け放たれた扉の先には、真黒な闇が広がるのみだ。天井らしきものも見当たらず、替わりに無数の星が瞬く夜空が広がっている。
まるで宇宙に放り出されたかのような感覚だ。
当然、風香は二の足を踏む。
「地面がないんですけど……」
「臆することはないさ。ただ進めばいい」
フードの男はカンテラを闇に向かって掲げる。すると途方もない宇宙を思わせる暗黒の中にきらきらと瞬く星屑が集まり始め、一本の川をつくる。闇夜に浮かぶ天の川。星屑でできた道の上を、フードの男は進んでいく。
「どうした、怖いのか?」
「い、いや……」
フードの男は何食わぬ顔で歩いているが、この星屑が寄り集まってできた心もとない足場を信用していいのか、風香は戸惑う。
だが、意を決して、歩みを進める。
(これも、お兄ちゃんのためだもの)
風香の足を星屑の道は受け止めてくれた。意外にもしっかりとした地面で、風香が歩くたびに、こつこつと靴音が鳴った。
自分の靴音と、カンテラが揺れる音。静寂の世界を支配する音は、たったそれくらい。視界も、ずっと星々の瞬く宇宙に伸びる星屑の道が続いているだけで、さっきまでの無限回廊とさして変わらない。はじめこそ、その神秘的な光景に魅了されもしたが、今となっては殺風景に感じてきた。
(この先には、いったい何が……)
いったいどこまで、続くのか。無限回廊に続く、この星屑の道も際限なく続いていくのか。いい加減、途方もない道のりに脚が疲れを訴え始めたそのとき、何の前触れもなく突然に、そいつは現れた。
幾重にも別れた幹が、螺旋や網目を描いて絡み合うガジュマルのような植物が、橙色に燃え盛る太陽のような巨大な球を絡めて捕らえている。太陽はうっすらと透けて、中身が見えている。中には、まるで洋人形のごとく整った顔立ちの幼い少女が眠っていた。金色のたおやかな髪が炎の中で揺らめいて、惚れ惚れしてしまうほど神々しい。
「毒と禁制魔法は、魔導学に広く伝わる伝承だ。おそらく魔導を志すものならば、誰もが知っているだろう。でも誰も、毒をその目にしたことはない」
炎からはとてつもない膨大な魔力を感じる。それを手に入れてしまえば、不可能という言葉は消え失せる。そう思ってしまうぐらいの途方もない力だ。
「この世に生まれた歪みを憎む者。禁制魔法を犯した、愚かな魔法使いに降りかかる天罰。いや、人類が犯し続けた愚行を、人類ごと抹消する災厄。謂れはいろいろあるが、これを見たとき、私は思った」
「毒は、途方もない魔力を押し固めて創られた、神の模造品なのさ」
フードの男は、陶酔しているかのような、薄ら笑いに塗れたか細い声を出す。そして、風香も煌々と燃え盛る業火に包まれながらも、静かに眠る金髪の少女に見惚れてしまうのだった。
<おまけSSその47>
今回のNGテイク! まずはOKバージョン。
氷のように冷たい視線を、目下の俺たちに投げかける少女。
その出で立ちは、美月と同じく校則で定められたチェック柄のスカートと、白いブラウスだ。
日秀が、少女を見上げて言った。
「あの……、パンツ見え――」
少女が無言で、上の階から飛び降りると同時に踵を日秀の頭に振り下ろした。
「ぶぐわぁっ!」
少女は少し顔を赤らめながら、わざとらしく咳払いをしてその場を取り繕う。
「仕切り直しよ。木枯唯、あなたの命を頂くわ」
「――縞パンだったわね」
「もういいつってんのよっ! ばっちり見てんじゃないわよっ!」
続いて、NGバージョン。
氷のように冷たい視線を、目下の俺たちに投げかける少女。
その出で立ちは、美月と同じく校則で定められたチェック柄のスカートと、白いブラウスだ。
日秀が、少女を見上げて言った。
「あの……、パンツ見え――」
少女が無言で、上の階から飛び降りると同時に踵を日秀の頭に振り下ろした。
「ぶぐわぁっ!」
少女は顔を真っ赤にしながら、わざとらしく咳払いをしてその場を取り繕う。
「し、ししし仕切り直しよっ。木枯唯、あなたの命をいだだくわっ」
「――イチゴ柄て」
「……。すみません、帰っていいですか」
「なんで?」
「ごめん恥ずかしすぎて、もう戦えない」
<おまけSSその48>
今回のNGテイク。まずはOKバージョンから。
「……、分かっています。でも……、実のお父さんが、お兄ちゃんを殺そうとしただなんてっ! どんな理由があったにしろ、こんな悪い冗談、受け止められっこないわっ!」
取り乱し、肩で息をする風香。
過去にもう起こってしまったことを消してしまう。そんなことがまかり通ってしまえば、歴史や世界の存在骨格が危うくなる。故に禁制魔法とされた。それでも風香は、その事実をなくしてしまいたかった。
「あんなことがあって、あたしはお父さんのことを家族と思えなくなった。どれだけ言い聞かせても、お父さんは、お兄ちゃんの敵に見えてっ! だから、洗濯物も一緒に洗わないでほしいし、お風呂も一番最後に入って欲しいし!」
「……、いや、そこは関係ないだろ」
続いて、NGバージョン。
「……、分かっています。でも……、実のお父さんが、お兄ちゃんを殺そうとしただなんてっ! どんな理由があったにしろ、こんな悪い冗談、受け止められっこないわっ!」
取り乱し、肩で息をする風香。
過去にもう起こってしまったことを消してしまう。そんなことがまかり通ってしまえば、歴史や世界の存在骨格が危うくなる。故に禁制魔法とされた。それでも風香は、その事実をなくしてしまいたかった。
「あんなことがあって、あたしはお父さんのことを家族と思えなくなった。どれだけ言い聞かせても、お父さんは、お兄ちゃんの敵に見えてっ! だから、洗濯物も一緒に洗わないでほしいし、お風呂も一番最後に入って欲しいし! あと、昨日はお兄ちゃんと一緒にピザを食べたんだけど、そのときはお父さんは摂食グミだけにしてやったわ! いっつもお兄ちゃんの食事は腕によりをかけて作ってあげるんだけど、お父さんの分は納豆パックにしているわ! それから、お兄ちゃんには毎朝、栄養バランスをしっかり考えて、たっぷりのお弁当を作ってあげるの! でもお父さんの分は、炊飯器のご飯の残ったやつを詰めてるわ! それも保温のせいで黄色くなった奴をね! あとお兄ちゃんの部屋は定期的にあたしが掃除しているの! お兄ちゃんったらすぐに汚くするんだから! 反対にお父さんの書斎は、きっちり片付いていて、なんだかムカつくから、時折本の場所を入れ替えてやるの! あとお兄ちゃんにはいっつも、あたしがお掃除した後のピッカピカの湯船につかってもらうの! 泡風呂のオプションサービス付きでね! たまにはあたしが一緒に入って背中を流してあげるわ! もちろん水着は着ているわよ。でもそのときにいっつも、水着の感想を聞くのがあたしのルールよ! そして、もちろんお父さんには最後に入ってもらうわっ。この前は間違えて、あたしがお風呂の栓を抜いちゃって、お父さんはシャワーだけになっちゃったわ。それから、お兄ちゃんの誕生日には、いっつも花屋さんに行って、特大ブーケを買うの。これがお小遣い三週間分もするのよ! でも受け取ってくれた時のお兄ちゃんの笑顔を見ると、そんな金額の問題なんてどこかへ吹き飛ぶわ。お父さんの誕生日にはポケットティッシュをあげたわ。ちゃんとトイレに流せる奴よ。感謝しなさいっ。あとクリスマスは、お兄ちゃんのために特別にケーキを作るの! あたしの一番の得意ケーキはガトーショコラよ。お兄ちゃんはそんなに甘いものが得意じゃないから、カカオパウダーをたっぷり使ってほろ苦く、かつ香り高く仕上げるわ。あたしは苦くてちょっぴり苦手なんだけど、お兄ちゃんはこれくらいがちょうどいいのよね。お父さんには毎年、ケンタッキーでついてくるビスケットを食べてもらってるわ。あれ、喉が渇いちゃうのよねっ。バレンタインデーにはさらにこだわって、お兄ちゃんにザッハトルテをつくってあげるの! ブランデーを入れて、芳醇な味わいにして大人の味に仕上げたら、すっごく美味しいって喜んでくれたわ! え? お父さんの分? バレンタインデーは好きな人にあげる日でしょ? 関係ないわっ! それから――」
「長いわぁあああああああっ!」




