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episode2-5 ~対峙の時~ 

 端望会(たんもうえ)が一週間前に迫った。

 和禰(わね)国の首都・輝路(きじ)都は、既にその全域が夜店と人だかりで埋め尽くされていた。

 無数の紫煙と湯気が、星空に膜を貼る。

 提灯や天幕から漏れた柔らかい火影が夜闇を柔らかく散らしている。

 しかし、何よりも異邦者の興味を引くのは、街頭を所狭しと漂う、無数の託宣(たくせん)映像だ。

 ドラマ、ニュース、アニメーション漫画、野球中継、今回の祭りの中継……膨大な情報が、四方八方上下に浮遊している。

 大都市の代名詞たるクロネのメインストリートですら、この半分程度の託宣しか行き交っていない。

 直接記憶に刻まれる託宣は肉眼を遮る事はない。

 だが、かなり気が散る事は間違いない。

 (煙などで汚れるので)今日は簡素な私服で来たテレサとミネッテが、人だかりと託宣情報の濁流に揉まれていた。

 反射神経の鈍いミネッテは元より、テレサですらも目を回しかけている。

 テレサの押す車椅子には、黒花(くろか)が鎮座している。

 彼女の脳裏にも、この情報過多な空耳と幻像が入り乱れているはずなのだが。

「黒花ちゃん……は、平気そうだね」

 元より表情に乏しい黒花の顔だが、テレサは的確に彼女の凪いだ心を見て取っていた。

 黒花は和禰人だ。生まれてから十二年、この国で育った。

 故郷の茶代(さしろ)県は、ここ輝路都ほどでは無いにしても、託宣情報の乱れ咲く土地だった。

 テレサさんなら、すぐ慣れる。黒花は、そう囁いた。

 事実、テレサには露店に気を取られるだけの余裕ができていた。

「焼きそば、ぐるぐるソーセージ、たこ焼き、鈴カステラ……あれは、わたあめってお菓子だっけ。

 あれは、りんごアメだ! 実物みたの、はじめて!

 あっ、なんだろ、あれ? あんなの見たことない! その隣のも!

 わぁ! あのへんの並びは、地方の郷土料理かなぁ。

 へー、親鳥の炭火焼き肉だってー。

 親鳥肉とか雄鶏って、煮込まないとすごく硬いはずなんだけど……ああ、なるほどー。それをハードな食感って銘うつのかー。発想の転換」

 ミネッテはオロオロするばかりで、テレサの言葉全てに応じる余裕が無い。

 ミネッテさんは、帰るまでには慣れるかもしれない。と、黒花が呟いた。

「あ、ありがとう。頑張ってみる」

 そこに至り、テレサはようやく卒倒しかけたミネッテの様子に気付いた。

「よ、よし。食べもの買って、人気の少なそうなところに避難しよう!」

 言いながら、テレサは、目ぼしい建物の隙間に見当をつける。

 辛うじて、屋台の無い路地裏はたくさんある。

 どこも、表の喧騒とは裏腹に静寂と闇に満たされている。

 和禰は治安の良い国だが、仮にあの暗がりで殺人が起きても誰も気付かないだろう。

 女だけで入り込むには、あまり似つかわしくないが……ミネッテの顔が、冗談抜きで青ざめてきている。

 背に腹は変えられない。

 また、テレサは道行く人々の笑顔全てを心に留めていた。

 現地人も、異邦者も、すべて。

 こんな笑顔の人々が、端望会と言うこの時期を、血で汚す人など居ない。そう信じていた。

 瞬間。

 空を炙る軽い爆音がした。

 夜空に、(ピンク)色・(むらさき)色・翡翠(みどり)色の花火が弾けた。

 その色が、地上のテレサ達を照らした。




 花火の桜色・藤色・翡翠色が、伽藍(がらん)のごとき路地裏を薄く照らした。

 大輪の花火が天地を明滅と照らすごとに、男の姿が一つ、浮き彫りになる。

 殺人者・吉井。

 儀式起点の()を握り締め、立ち尽くしている。

 その視線が落ちた先には、子供ほどのサイズに見える、黒い塊。

 いや、元は大人だったが、皮膚や肉が灼けたように爛れ、縮んだのだ。

 端望会の前夜祭は、始まっている。

 人口密度が倍化したような表通り。

 表の世界から隔絶された路地裏。

 そこで一人の人間によって、一人の人間が殺されたとして、すぐには気付かれない。

 吉井は、少しも動じた風なく、その場を立ち去る。

 闇から闇へ、

 路地裏を伝って、

 彼は行方を眩ませる、

 つもりだった。




 上空で花火が弾け、桜色・藤色・翡翠色をした光が、メインストリートを刹那に照らす。

 未来人(ルカ)は、ただ作業的に歩を進めていた。

 彼は、テレサが小野黒花をつれて夜店巡りに出たと言う情報を得ていた

 つまり、ヴィルヘルミネ・ヌルミもそこにいる。

 この、輝路都は城区(しろく)に。 

 恐らく、今頃は繰霧(くりむ)町辺りを歩いているはずだ。

 一度目と同じだ。今、未来人(ルカ)が歩いている八輪(はちわ)町の隣町だ。

 未来人(ルカ)は、ミネッテの殺害を諦めてはいない。

 接触するならば、今夜がチャンスだが。




 テレサとミネッテ、二人の腕の容積が限界に達して、ようやく、

「もう持てないねー」

 テレサは買い物の手を止めた。

 食べ物の袋で手が塞がり、もう代金と品物のやり取りが出来ないからだ。

 それに、黒花の車椅子を押せなくなるとまずい。

「あの、テレサ? 流石に買いすぎじゃない? これ」

 テレサが、(西洋人としては)小柄な体格の割りには食べる事を、ルームメイトのミネッテが一番良く知っている。

 良く知っている上で、訊かずにはおれなかった。

「んー。三人分って、これくらいじゃないかな?」

 意気揚々と、腰下ろす場所を探しながら、テレサは声を弾ませた。

 異国の美味珍味が詰まった袋を花束のごとく抱えて胸を踊らせており、何の心配もしていないようだ。

「腕の長さにも限度はあるのだけど、胃の容量にも個人差がある事は、考慮に入れてる……?」

 ミネッテの顔が、ますます青ざめたようになる。

 今度は、違う意味で。

「うん。ばっちり。

 わたしたち、三人とも十代から二十代の女の子だし、身長もあまり差がないし。

 単純計算でわたしを三倍すれば、みんなで食べる量ってこれくらいじゃないかなぁ」

「黒花ちゃんは、何も心配しなくて良いから。

 食べきれなかったら遠慮なくギブアップして、ね?」

 ミネッテの諦観めいた声に、黒花は首を縦に振った。

 テレサは、首を斜めに傾げた。

「よし、あそこの路地裏で、つつましくお食事しましょー!」

 自分のしでかした致命的な計算ミスに気付いた風もないテレサは、軽い足取りだ。




 路地裏から路地裏へと、人を殺したばかりの吉井が進む。

 誰一人として、闇を渡る彼の姿を見咎める者はいない。

 数分前に出来上がった死体が、発見されたという様子も無い。

 悠然と歩く吉井の視界が、徐々に明るく拓ける。

 路地の終わり。また、メインストリートを横断する事になる。

「よし、あそこの路地裏で、つつましくお食事しましょー!」

 女の間延びした声。

 吉井は、咄嗟に符を取り出して握り締めた。

 女との出会い頭。

 食べ物で膨張した、大量の袋が女の手から落ちた。

 にわかに、太鼓の巨音が全ての音をかき消した。




 今、未来人(ルカ)八輪(はちわ)町と繰霧(くりむ)町の境目を踏み越えた。

 太鼓を叩く、軽快ながらも重みもある低音が、首都の高層建築群を震わせる。

 この日は、繰霧市民会館の駐車場が特設ステージとなっており、無数の催し物があった。

 五車線の大通りが、隙間なく人で埋め尽くされているほどの人口密度だが……基本的に単一民族で占められるこの和禰で、

 (端望会目当ての外国人観光客が相当数居る事を差し引いても)若い西洋人の女は、嫌でも目立つ。

 ――恐らくは、路地裏に腰を落ち着ける筈だ。

 その上、未来人(ルカ)はテレサの行動を既に見透かしていた。 

 祭の運営組織が(あつら)えたテーブル席は、当然、足りる筈も無く、常に満席状態だ。

 元々あったベンチも、全て、余さず占拠されている。

 あのテレサが、座席の奪い合いに身を投じる事は絶対にありえない。

 まして手にしたご当地グルメを無様に冷まし、鮮度を落としてまで座席の確保に目を血走らせるなど、絶対にない。

 よって、食べ物を持ってすぐホテルに引き返すと言う可能性もゼロに等しい。

 この繰霧町で、購入した食糧を、今、確かに消耗している最中のはずだ。

 食べ物の熱を冷まさず、鮮度を落とさず、なおかつこの足の踏み場を奪い合うような人だかりでじっくり腰を据えて舌鼓を打つ場所と言えば……もはや路地裏しかない。

 また“一度目”のこの時――正確には翌日だが――ルカ・キリエによって桐江准将の家に呼ばれたテレサ達は、袋詰めになった膨大な食べ物を手にしていた。

 夜店で大量に買い込んだは良いが、食べ切れなかったのだろう。

 その一品一品にかかった、百姓と畜産業者と調理人の仕事を決して無碍(むげ)にすまいと、冷めきったグルメを口に運ぶテレサらの辛そうな顔。

 およそ三年後の“過去”の出来事が、未来人ルカの脳裏に思い起こされる。

 とにかく、あの三人が腹に限界を覚える程度の時間は、この街のどこかの路地裏に滞在しているという事だ。

 ヴィルヘルミネ・ヌルミは、間違いなくこの街に居る。

 しかし、

 ――路地裏と言えば、この日、一件の殺人事件が起きた筈だ。

 未来人(ルカ)はふと、今まで気にも留めなかった事実に目を向けた。

 一人の女性が路地裏で変死体となって発見されたのは、翌日の事だ。

 遺体の状態は非常に悪かったが、死亡推定時刻から、ちょうど今頃の時刻に殺されているはずだ。

 先んじて殺人犯を始末し、被害者を救う事も考えたが……手遅れか。

 これもまた、天数なのかもしれぬ、と未来人(ルカ)は思考する。

 だが、それよりも気掛かりなのは。


 ――小野黒花が犯人では無い、と言う事か。


 未来人(ルカ)は、漠然と黒花の本性を知っている。

 少なくとも、ハビエル・バハモンデの一派である事は把握している。

 だから、この夜の殺人事件も、漠然と彼女の手によるものだろうと、今の今まで推測していたのだが……テレサが一緒に居た事がわかった今、事情は変わってくる。

 彼女の目を盗んで人を一人を殺す事などと言う芸当は、まず不可能だからだ。

 ならば、黒花やハビエルらには関係の無い、偶然の通り魔事件だったと言うのか。

 “一度目”の人類史では、この事件は未解決に終わっている。

 場当たり的な通り魔事件が迷宮入りするなど、確率的にはそう高くない事なのだが。

 いずれにせよ。

 ――“一度目”の翌日、テレサから、その事件に関する報告は受けなかった。

 建物が縦横無尽に立ち並ぶ首都圏。その路地裏や、殺人犯の通り道をピンポイントで引き当ててしまう確率の方が低い事だろう。

 行き違いになって当然だ。

 そうして未来人(ルカ)は、無駄な思考を省く事にした。

 唯一、未来を知る未来人(じぶん)が行動を起こさない限り、この日にテレサと殺人犯が遭遇する事は無いだろう。

 テレサが殺されるのは、二年強の後。

 裏を返せば、それまでテレサが死ぬ事は無いとも言える。

 彼は、そう信じて疑わない。




 シーザー・カレイは、フライ枢機卿(すうきけい)の執務室で、相も変わらずにこやかな休暇を堪能していた。




 出会い頭の一瞬。

 吉井が符を握りしめて構えたのと、

 テレサが黒花を背に庇って構えたのと、

 ほぼ同瞬だった。

 正確には、あらかじめテレサ達の接近を感知していた吉井の方が、構えを取るのが速かった。

 テレサは、吉井の殺気に満ちた動作を瞬時に見極めて、反射的に黒花を護る布陣を敷いたに過ぎない。

 その上で、ポケットに忍ばせた鎌(縮小状態)に手をかける事は見送った。

 接地の為に地面や壁に手をつく事もしない。

 緊張を解いて、ようやく気付いた。

「あっ、ごめんなさい!」

 秘術のかわりに出たのは、間の抜けた声だ。

「前、よく見てなくて。びっくりさせてしまいましたか?」

 まあ普通、こんな所で誰かとぶつかりそうになればびっくりする。

 テレサは、そう思った。

 どうも、彼は一般人では無い。

 日常的に命のやり取りを強いられる軍人であれば、今のが当然の反応だろう。

 むしろ、こちらの粗相を詫びるのが筋だろうと、テレサは判断した。

「……いえ。

 自分こそ、剣呑な挙動を取ってしまい、申し訳ありません。

 お怪我は?」

 男は、流暢な大陸語でテレサらを気遣った。

 低くも澄んだ、夜の深海を思わせる声音であった。

「大丈夫です。気になさらないでください。

 お祭りの日に、こんな路地裏に入ろうとした、わたしの落ち度ですから。

 あなたのほうこそ、おケガはありませんでしたか?」

 今のテレサの発言は、吉井にとっては失言が含まれていたのだが……何も知らない彼女が、それに気づくはずもない。

「……自分の方も、大事ありません。

 所で、素晴らしい身のこなしですね。かなりの使い手とお見受けしましたが」

 慇懃な態度ながらも、吉井は未だ符を手放していない。

 当然、テレサもそれには気付いている。

 ただ、何故未だに警戒を解かれていないのかが、わからない。

「……あっ、ええ、その、大鎌などを少々たしなんでいまして」

「てっ、テレサ!?」

 同じく、吉井の険しい気配に気づいていたミネッテが、かすれた小声でテレサを咎めた。

 未だ殺気立つ(恐らくプロの)男を相手に、正直に大鎌などと口にするのは、いかにもまずい。

 一方、吉井の表情に変化は無い。

「大鎌……? 軍用の対装甲戦斧や(げき)の類型でしょうか。

 そのような兵器を用いるとなれば、いずれかの軍関係者でありますか」

 確か、騎士団の規定に“(いたずら)に身分を明かしてはならない”という文言は無かったはずだ、とテレサは慎重に思い返してから、

「シャトラの、執聖騎士団の従士です。申しおくれましたが、テレサ・バーンズといいます」

 それだけを簡潔に述べて、従士証明証を提示した。

 身元がわかれば、害意が無いことも理解してもらえるだろう、との判断だ。

 事実、吉井はようやく肩の力を抜いた。

 未だ、儀式起点と思われる符を手放さないのは、用心深さからだろう。

「……女王陛下の護衛任務でいらっしゃった、と言う事ですか」

 テレサは、言葉に詰まった。

 騎士団には、任務の仔細について第三者に話す事を禁じる規定は存在する。

 本来なら、凡百の従士がいちいち騎士団の服務規程を気に掛ける事はほとんどない。

 筆頭騎士が従士の首根っこを掴んで、余計な事を喋らないよう釘を刺しておけば済むからだ。

 だがテレサは、騎士団にある一八三条の規定を全て自分で覚えてしまっていた。

 ルカも、あえて口封じはしなかった。

「うっ、えっと、あの」

 もっとも、このわかりやすい狼狽(ろうばい)ぶりで、白状してしまっているようなものだが。

 吉井は、軽く息をついた。

「失礼しました。執聖騎士団にも守秘義務があるのですね。今の質問はお忘れ下さい」

 テレサも、ほっと胸をなでおろした。

「テレサ、わかりやす過ぎ……」

 ミネッテが、小声で独りごちた。

 同時に、父であるトイミ・ヌルミの霊に、十秒後の未来を教示するよう心の中で頼んでいた。

 十秒後に吉井が何かをするのであれば、すぐにでも叫べるように下腹に力を込めて。

 ――今の所は……、

 十秒後、テレサと吉井が、お互いに身分証明をし合う光景が見えるだけだ。

 その様子から、吉井も公的機関の人間だという事が窺える。

 そうであれば、争う理由は無い。

 お互いの誤解が解けて丸く収まってくれる事を、ミネッテは密かに願った。

「……こちらこそ、申し遅れました」

 吉井が、改まって言った。

「自分の名は、吉井敬吾と申します。

 所属は女王護衛軍・第三近衛隊。

 階級は大尉であります」

 吉井もまた、手帳を示した。

 表紙にあしらわれた階級章は確かに、女王護衛軍大尉のものだ。

 この、五芒星(ごぼうせい)のような形を幾重にも重ねたような、真鍮(しんちゅう)細工の階級章は、宮廷不出の金属加工技術でしか造れない。

 女王護衛軍――それも近衛隊――の人間であれば、過剰とも言える隙の無さも頷けた。

 近衛隊は女王の身辺を護る。

 女王を護送する時、その輿(こし)、もしくはリムジンの周囲には、警官隊と護衛軍が十重二十重(とえはたえ)に配備される。

 近衛隊は、その中でも最も女王に近い隊だ。

 万が一、和禰国女王が刺客に狙われた場合、SPの中では彼らが最後の砦になる。

 日常的に並み外れた危険察知能力を養わなければ、難攻不落の護衛を万に一つでも破られた瞬間に、とても女王を護りきれない。

 近衛隊に配属されたその瞬間から、四六時中、何千人とすれ違う市民の挙動一つすら見落とす事は許されなくなる。

「……んん? 女王護衛軍の近衛隊ってたしか」

 テレサが口許に指を添え、上目遣いで宙を見た。

「あっ、ルカさんの――」

「て、テレサッ!」

 ミネッテが、上擦った声で叫んだ。

 吉井の、符を握りしめる力が、ことさら強まった。




 テレサらが吉井と遭遇するよりも、少し前。

 未来人(ルカ)は、大きな川にかかった、弓なりの大橋を渡り始めていた。

 しかし、ふと、

 ――後方、五時の方向。人間の群れに、ノイズを確認。

 その“ノイズ”と思われるものから発せられる熱量、空気の流れ、僅かな音を感知。

 導き出された答えは、

「出て来い、シェイ・デューン。私は、お前の所在を捕捉した」

 その男は、皮肉に肩をすくめた。

「出て来いも何も、隠れてやしなかったぜ?」

 事実シェイは、ただ未来人(ルカ)の後ろからついて来ていただけだ。

 ただ、自分が発するあらゆる生体反応を周囲の喧騒に溶け込ませ、たとえ正面から見られたとしても“見過ごされる”ように振る舞っていただけだ。

 事実、周囲の和禰人は、今更ながらシェイの長身を知覚したようで、驚きを露わにしていた。

 これほど目立つ、大橋のど真ん中で、である。

 飄々と歩み寄ってきたシェイは未来人(ルカ)に、花束のような本数の串ソーセージと紙コップ入りのビールを押し付けた。

「リーダーのモノマネで食って行くには、アンタは多少痩せてる。これで精力をつけなよ」

 それは、匂いと熱を放つソーセージを手にしてなお、完全に気配を消していた事を誇示する事でもあった。

「お前の忍術のクオリティを、私は既に知って居る」

 ビールとソーセージを素直に受け取り、未来人(ルカ)は茶番の不要を説くが、

「そりゃまた、互いのベッドでのクセを知り尽くした恋人ですらなしえない評価だな。気持ちだけは、ありがたく受け取っておくよ。

 だが、ボクは生粋のノンケなんでね。親密すぎる付き合いは、ご遠慮願いたい」

 ――時間稼ぎ、か。ヴィルヘルミネ・ヌルミを守る為の。

 未来人(ルカ)は、シェイがこの場に現れた魂胆を即座に看破していた。

 名目上は謹慎中であるこの男が宙ぶらりんな身分のまま和禰に派遣されたのは、自分の監視役に選ばれた為だろう。と、元より察してはいた。

 “一度目”では、ヴィルヘルミネ・ヌルミは、常日頃から予知をアクティブにしていたわけではない。

 特に、今日のようなオフの日にまで、未来に神経を割く事は無いだろう。

 テレサ・バーンズを側に置いている以上、その護衛を過信している可能性の方が高い。

 実際、未来人(ルカ)のこの推測は的を外してはいたのだが……。

 ともあれ、ターゲットがテレサに守られている以上、その針の先よりも細い間隙を突いて即殺せねばならない。

 そこへ、シェイがべったりと貼り付いた状態では、暗殺の遂行はまず不可能に思われた。

 まず、シェイを引き離す必要があった。

「ああ、この酒とジャンクフードの不健康なエネルギーが全身に行き渡る感触! その背徳感がいいスパイスになって、ますます味わい深い」

 時間も無い。

 早急にシェイを無力化するか、もしくは撒かなければならない。

 無力化――つまり叩きのめして制圧するのは不可能だろう。

 当然だが、作戦行動外にある今、裏騎士団である未来人(ルカ)は剣を取り上げられている。

 空手や柔術も実戦レベルで修めてはいるが、今の場合は相手が悪すぎる。

 “一度目”で、不意打ちとは言えオズワルドを一撃で死に至らしめた騎士殺しの拳は、未来人(ルカ)の記憶に新しい。

 徒手空拳での格闘術は、競合種に対しては全くの無力とされる。

 武器の重さや鋭利さが加味されない為、皮膚や筋肉を貫通出来ない為だ。

 だが、相手が人間であれば、最低限度の急所を破壊すれば死ぬ。

 手数と身の軽さで勝る拳士は、インファイトに持ち込めば同レベルの剣士を完封すらできる。

 となれば、選択肢は一つ。

 正面対決を避けて、撒くしかない。

 だがその前に、未来人(ルカ)はシェイに対しても用があった。

「単刀直入に訊こう。お前と小野黒花とは、如何(どう)言う関係だ」

 ご機嫌な様子で太鼓のリズムに乗っていたシェイが、態度を一転、まじまじと未来人(ルカ)の顔を見た。

「黒花嬢? 恋愛対象外だ」

「有益な情報は皆無、()しくは、返答の意思が無いと判断する。

 話は終わりだ」

 未来人(ルカ)は足早に橋を抜けようとする。

「待て待て待て、ここはもう少し食い下がるシーンだろう」

 当然、監視対象から目を離す筈もない。シェイは、油断無く未来人(ルカ)の腕を取って引き留めた。

 致命的な間合いだ。

 その気になれば、シェイは未来人(ルカ)の頭をいつでも破砕出来る。

 殺さないまでも、周囲に気付かれず当て身や殴打で意識を刈る事が出来る。

 ――此処(ここ)でやられる訳には行かない。

 未来人(ルカ)の目に宿った殺気を感知したシェイが、気圧されたように半歩だけ離れた。

「これは多分、アンタにとっちゃ、非常に重要な事だ。

 オレが今から告げる事実は、アンタの人生を大きく左右する」

「前置きは不要だ。率直に話せ」

「あと三年我慢しろ。未成年との淫行は犯罪だ」

「有益な情報は皆無――」

「まあ、待ちなって。オレが悪かった。誤解してたって」

「ならば、話せ」

「つまりアンタはこう言いたいわけだ。

 自分は肉体関係を視野に入れない、純粋で合法的なロリコンだと。

 手出しをしない小児性愛者は、善い小児性愛者。

 だから、犯罪にはならな――」

「次のお前の言葉が無益だと判断した場合、話し合いの決裂が確定する」

 本物のリーダーなら、あと一回は聞く耳持っただろうな。

 と、口には出さず、シェイは肩をすくめて見せた。

「……たまたま、あの小娘が捨てられた所に居合わせて、そのクソッタレな親に道理を説いてやった仲だよ。

 ある意味、両親公認。

 オレのありがたい説教に、奴ら、顔をくしゃくしゃにして泣いて喜んでそこら辺の備品をぶちまけてポリスに引っ張られて行ったぜ。

 ま、もう二度と戻って来ない両親なんだろうがな」

 お祭り騒ぎの喧騒の中、河の流れる音が、いやに耳に届いた。

 シェイの言葉を要約すると、ルカ・キリエと出会うより前、何らかの任務で無垢なる家に立ち寄った際、小野夫妻が娘・黒花の親権譲渡と引き取り手続きを行った、と言う事だろう。

 三年前であれば、十四歳。

 本来、合法的孤児として認められる年齢上限は五歳。

 ただし、重度の虐待などの緊急性が確認された場合、無垢なる家の裁量で保護権が認められる、ともされる。

 この例外措置が取られる親は、まさに“救いようがない”と判断された親でしかありえない。

 歴戦の育児カウンセラーすら太刀打ち出来ない、畜生の類。

 そこにシェイ・デューンが通りかかれば、何が起きるかも、自明だった。

「こんな所で満足か?

 今夜一晩、アンタを独占させてもらえるんなら、他にもっと際どい話題を提供出来るがね。

 野郎なんぞと嫌々デートさせられる時間外労働……なんていう逆境さえも、極力楽しむってのがオレの流儀だ。

 アンタもこの国の人間だったってんなら、まず手始めにショッキングピンクを基調としていそうな外装の店を教えろ」

「引き続き、小野黒花について問おう」

「……」

「彼女は、先の教皇私邸襲撃に参加したハビエル・バハモンデらの仲間だ。

 既に、殺人の経験も有る」

「……」

「心当たりが、有るのではないか。お前には」

「そんなクソぶっ飛んだシナリオを考え付くのはアンタくらいだよ。

 あの、しゃぶられた鶏ガラみたいに貧相な小娘が悪の手先とは……また、どんな薬をキメて見た幻覚だい?」

「脚は確認したのか。

 確認すれば、先天性の障害が虚偽であると直ぐに解る筈だ」

「どうやら、オレを痴漢にする気だ」

「無垢なる家の説明を、信じた訳ではあるまい」

「奴の下着の色を知りたきゃ、自分で覗いて知るべきだよ。

 そして願わくば、刑務所か出所後の公園で平和な一生を送ってくれ」

 未来人(ルカ)はゆっくりと一歩下がった。

 シェイの手で確殺される間合いを、堂々と外したのだ。

「そうか」

 シェイのポーカーフェイスから、これ以上の情報を引き出せそうにはない。

「小野黒花の罪を告発し、直ちに拘束しろ。

 さも無くば、大勢の死傷者が出る」

「オレは見た目に反して、芸能人じゃあないんだ。そんな強引にわいせつ罪をかぶせた所で、干されるような業界じゃあないぜ」

 シェイは冗談めかし、まるで相手にしないが、

「小野黒花を野放しにするのであれば、私は彼女を抹殺するだろう。

 この端望会の期間に」




 ミネッテがあげたのは、怯えたような、切迫した叫びだった。

 何か、良くない未来を視た事は明らかだ。

 テレサの顔に、緊張が走る。

「ミネッテ?」

 違う、テレサに誤解させてはいけない。ミネッテは咄嗟に機転を利かせてその方向に指をさした。

 吉井敬吾、

 では無く、

 大通りの方角を。

 テレサもまた、ミネッテの真意を瞬時に察した。

 吉井が何かをするわけでは無い。

 ミネッテが怯えている相手は、

 大通りの方からやってくる。




 小野黒花を抹殺する。

 その宣言を聞いた瞬間、シェイの弛緩した笑みが消えた。

 彫り物のように、無機質な面差しとなる。

「なるほどな。それは、殺すって意味かい。黒花嬢を」

「小野黒花の肉体に致死の損傷を与え、生命活動を恒久的に停止させる」

 シェイが、ゆるりと構えを取った。

 それに気付く観光客は一人としていない。

「それがジョークだろうが、妄言だろうが方便だろうが“殺す”って言葉をひとたび発したなら、それは剣を突き付けるのと同じものだぜ」

 シェイの変貌に、未来人(ルカ)は少しも臆した風は無い。

「オレは、黒花嬢に剣を突き付けた奴を、見逃すつもりは無い」

「拳術の構えを取ったと言う事は、私に対する殺意が有ると認識するが」

「まかり間違えば、アンタの頭は、この場で吹っ飛ぶかもな。

 オレはアンタほど迂闊に、殺すなどとは口にしないがね」

「私が得た情報を統合するに、お前が私を殺傷して(まで)、小野黒花を庇護する理由は無い」

「あるさ」

「私を制圧し、拘束すると言うのであれば、まだリスクとリターンの均衡が取れて居る。

 だが今のお前は、私が小野黒花に処置する事を確実に阻止しようとして居る様だ。

 私を抹殺する事によって」

 シェイは、静かに頭を振る。

「アンタのようなタイプには、永久に理解できまいよ。

 黒花嬢は友達なんざいない。

 誰もあの小娘を守る奴はいない。

 一方。

 信じていた両親に真っ向から生ゴミ扱いされて捨てられた、かわいそーな少女は、施設では花よ蝶よと可愛がられている。

 だから、がさつに扱ってくるような奴もいない。

 女の子扱いせず、無遠慮に頭をくしゃくしゃに撫でまわす、下品な年長者って奴がな」

「彼女に()って、人が死んで居る。

 今迄(いままで)も、これからも」

「仮にそうだとするなら――やはり、奴を守るような阿呆はいないだろうよ」

「だとすれば、お前は何だ」

「だからこそだよ。

 誰もあの小娘を守る者がいないんで、オレみたいな正義の味方が、その穴埋めをしなきゃならんわけ。

 別に、あの小娘が悪い男に引っ掛かって食い物にされても、オレは一顧だにするつもりは無いんだが……ガチで殺しにかかっている奴に対しては、この限りに無い」

 橋の欄干の下。夜闇に染まった、墨のような川面。

 シェイの眼差しは、それよりもなお深い闇をはらんだようだった。

「世の中には、そう言う奴もいるって事だ。

 これでオレがふざけてるわけじゃあ無いとわかったろう。

 撤回するなら、今のうちだ」

 元より、未来人(ルカ)にはわかりきっていた事た。

 他の誰でも無い、小野黒花を害すると言えばどのような反応をあらわすかは。

「ンバイ・デューンの代償行動か」

「……!」

「忠告する。その執着は非常に危険だ」

 シェイの口が、重しをしたように動かなくなった。

「時間を巻き戻せない以上、死んだ人間は戻らない。

 其処(そこ)に例外は無い。

 小野黒花を庇護する事は、お前の弟(ンバイ)を救う事とイコールにはならない。

 お前なら、理解して居る筈だ」

「オレは」

「私は未来を変える。

 千単位、万単位の人間の死を避けるには、彼女達“転生体”の処理は不可避の事だ」

 シェイが、手にしたビールと、大量のソーセージを落とした。

 未来人(ルカ)が、横に上体を逸らした。

 風圧の球が、頬を強かに打つ。

 シェイの正拳が未来人(ルカ)を真っ直ぐに襲った所だった。

 続けざま、あらゆる角度からの拳と蹴りが絶えず襲い来る。

 まともに当たれば、その部位から千切れるか破裂する威力だ。

 しかし、これでも加減はしているのだろう。

 シェイの肩の微妙な動きと体幹の移ろいを見ながら、未来人(ルカ)は的確に打撃をかわし、あるいは腕で逸らしてゆく。

 容赦の無いコンビネーションブローがことごとくかわされる様は、演舞のようですらある。

 ルカの方はシェイから受け取ったソーセージとビールを手にしたままの為、なおのこと、実戦には見えない。

 しかも何を思ったか、ビールが一滴も溢れないように立ち回っている。

 次第に、周囲の市民がそれに気付き始める。

「良いぞ、海外のおにーさんがた!」

「やばーい! どっちもイケメンすぎぃー!」

 路上パフォーマンスだと思っているらしく、無数の歓声が上がる。

 未来人(ルカ)が、不意に、両手の飲食物を放した。

 宙にあったそれを、シェイの拳が木っ端微塵に四散させた。

 ミンチになったソーセージとビールの雨は、若い男の一団に降りかかった。

 矢のように殺到したソーセージ串の破片が、そのうちの一人の頬に突き刺さった。

 おが屑に等しいそれでも、相当の速さを与えられれば凶器となる。

 たちまち野次馬が騒然となり、パニックが放射する。

「おいコラ、何してくれてんだ!」

 串に顔を裂かれた男が、一歩地団駄を踏みしめて凄んできた。

 その一団は、いかにも強面を下げた男ばかりだった。

 出入りの経験が数回ある、と言った所か。

「こりゃ、失敬。デートのお相手が粗相をしたようで」

 シェイは、精一杯の愛想笑いを浮かべて、後ずさる。

「血ぃ出てんぞ。どう落とし前つけてくれんだ?」

「ひっでぇビシャビシャだ。

 このスーツ、いくらするか知ってんのか? あぁ?」

 未来人(ルカ)とシェイは、たちまち取り囲まれた。

 外周の野次馬が、お祭りの喧嘩騒ぎに沸き立ち、煽り出した。

 それによって男達の一団は、ますます退けなくなる。

「まあ、落ち着きなよ。プロにだってミスはあるさ」

「何? 言い訳? そこは頭下げるのが筋じゃねえの」

「上等だ、俺たちがパフォーマンスに乱入してやろう」

 半端に肉の味を覚えた野犬は、ある意味最も厄介だ。 

 人数は八人。大所帯と言える。

 しかも、橋の上は既に満員と言って良い。

 この人混みを掻き分けながら、撒ける数では無い。

 片っ端から昏倒させる方が手っ取り早いが、拳法で一般人を怪我をさせれば今度こそ懲戒ものだろう。

 何より、石頭の相棒騎士に何を言われるかわかったものではない。

 今ならまだ、路上パフォーマンスの失敗と言う事で済ませられる。

「高級なガラスアンティークが襲ってくるようなモンか。競合種よりタチが悪いぜ」

「ナメた事ぬかしてんじゃねぇ!」

 リーダー格らしい小柄な男が、先陣を切る。続けて、他の七人が包囲を狭める。

 未来人(ルカ)もシェイも、全方位からの殴打を最小限の動作でかわし、間隙を潜り抜ける。

 さながら、風に舞う一枚の葉のように、剛力が当たらない。

 だが、ガラの悪い八人もさるもの。

 リーダーの小男が合図をすると、二人を逃すまいと陣形を正す。

 草食動物の群れなりに、心得はあるらしい。

 ますます手に負えない。

 歓声と悲鳴がいやました。

「もう、なんなのよぅ! おかしいよ、この人たち!?」

「ほらほら、一発も当たってねーぞ和禰チーム!」

「おい、やりすぎじゃないか!?」

「そんなへっぴり腰じゃダメだっての! 俺なら、三回はクリーンヒット当ててるぜ!」

 ――さて、自称・未来人(リーダー)さんは、と。

 シェイが、背後からの蹴りを見もせずに受け流しながら、未来人(ルカ)を見た。

 やはり、同じように取り囲まれている。

 あのタイミングでビールと食べ物を、シェイの拳の軌道上に放ったのは計算ずくの事だろう。

 それくらいはわかった。

 だが現状、身動きが取れないのは未来人(ルカ)も同じ。

 それに、

「そこで何をしている!」

「警察だ! 全員暴力行為をやめて、地面に伏せろ!」

 騒ぎを聞き付け、歩行者天国を警備していた警察が殺到してきた。

 なおのこと、未来人(ルカ)の退路は狭まったわけだ。

 それは、シェイも同じだが。

 どうやって警察に見つからず、せめて身元を知られずに切り抜けるか。

 もはや、それだけを悩めば良いように思えた。

 そこで、事態が急変した。

 未来人(ルカ)が男の一人に当て身を突き込んだ挙げ句、側頭部を打って失神させた。

 シェイと違って、今さら一般人に手を上げた所で、それほど失うものは無い。

 そうして生じた包囲の穴を強引に駆け抜ける。

 流石に痛い目は見たくないと、野次馬は未来人(ルカ)に道を空けた。

 だが、警官相手にはこうもいくまい。

 そして。

 ルカが向かったその先は、橋の欄干だ。

 眼下には、どれだけ夜目を利かせても底の見えない、深川が流れている。

「あっ! アンタ、自分だけ――」

「間違っても捕まるな。シェイ」

 未来人(ルカ)は、そのまま後ろ手に倒れ込むように橋から飛び降りた。

 宙で一回転し、

 水面に着地した。

 そのまま、大地を走るかのように去ってゆく。

 それを最初に目撃した何人かは唖然とするが、そのショックが橋全体に伝わる頃には、未来人(ルカ)は逃げおおせているだろう。

「人が、川を歩いているぞ! 何だ、あれは!? お、お、お、おい、写真だ、写真を撮れ!」

 乱闘を取り上げに来た新聞記者が、撮影係に命じる。

 撮影係は頭上に紙をかざすと、未来人(ルカ)のおぼろげな後ろ姿を見て、儀式。

 奇跡降臨の白い副次的な光(フラッシュ)が、現場を乱れ狂う。

 紙には、撮影係の視認した光景がすっかり焼き付いている。

 それが闇に溶けて見失われるや、撮影係は渦中の黒人男性にも目を向けた。

 また、光が乱降臨する。

 紙に転写されたシェイの面差しは、苦々しくしかめられていた。

 未来人(ルカ)を取り逃した。

 だが。

「クソッタレめ。戦術に関しては、こちらに一日の長があるっての。

 今に見てろ」

 誰も聞いていない独白を吐いてから、シェイは素早く走り出した。




 果たしてシェイを撒く事に成功した未来人(ルカ)は、繰霧(くりむ)の路地を縫って駆ける。

 橋での騒ぎは、ここの表通りをも巻き込んでいた。

 あちこちで、似たようなパフォーマンスや乱闘が連鎖し始めている。

 未来人(ルカ)は跳躍し、ベランダや窓を跳び移りながら、路地裏を俯瞰(ふかん)する。

 そして、見知った人影を発見。

 躊躇いもなく飛び降りた。

「……!」

 突然空から降ってきた未来人(ルカ)と、向かい合う形になった人物は、

 一人だった。

「吉井、啓吾……大尉」

未来人(ルカ)は、つい失言を口走った。

 今の段階で知るはずの無い名を、本人に言ってしまったからだ。

 だがこの場合、結果的には利をもたらした事になる。

 理性的にそう呼ばれなければ、吉井は、未来人(ルカ)との出会い頭に儀式を執行していた。

 符を、手にした瞬間だったのだ。

「何故、自分の名をご存じで」

 未来人(ルカ)は視線だけで路地裏を走査する。

 ミネッテらの姿は無い。

 ――よもや。

 嗅覚に全霊を集中。

 自分の嗅上皮を降臨点に、密かに祈る。

 目の前の吉井に、副次光が目立たない程度の降臨規模に抑えて。

 極々微量の、シトラス系の芳香を感知した。

 元より、さり気ない香りを纏う為の、弱いオーデコロンだ。

 その残り香となれば、常人が嗅ぎ分けられるものでは無い。

 だが、間違いない。

 ――少なくとも、テレサは此処に居た。(およ)そ三分以内だ。

「もし?」

 吉井が、明らかな猜疑(さいぎ)を浮かべ始めた。

 こちらへの対処をせねばなるまい、と未来人(ルカ)は思考をスイッチした。

 彼は、吉井が殺人犯である事を知らない。

「……失礼。申し遅れました。

 私はシャトラ教国執聖騎士団・第六位執聖騎士ルカ・キリエと申します」

 そして、息を吐くように、過去の自分に成りすました。

桐江(キリエ)……」

 その名を聞いて、吉井に去来したのは一瞬の安堵と、

 そして――。

「……女王護衛軍の桐江聖次郎准将は、私の叔父に当たります。

 吉井大尉殿のお噂も、かねがね伺って居ります」

 未来人(ルカ)は、遠回しに名前を知っていた事に対するフォローを入れる。

 もっとも、吉井大尉について知ったのは、未来人(ルカ)にとっては過去にあたるだけ。

「自分こそ、申し遅れました。

 和禰国女王護衛軍近衛隊所属・吉井敬吾であります。

 桐江准将には、公私共にお世話になっております。

 一度、御家族の集合写真を見せて頂いた事がありますが……なるほど、貴方が准将の隣に写っていた、あの時の」

 未来人(ルカ)の思考。

 ――吉井大尉……叔父とは少なくとも二ヶ月会って居ないか、叔父が敢えて私の事を話す必要を覚えなかったか……。

 ――さもなくば、知らない演技をして居るか。

 吉井の思考。

 ――執聖騎士となれば危険だ。

 ――だが、桐江准将の甥であれば……。

 ――写真で見た時より遥かに成長しているが、この男が准将の甥であるルカには間違いない。

 ――しかし、准将の甥であれば安全なのか? 本当に?

 ――准将の意思と、甥の意思が必ずしも同じとは限らない。

 ――ルカの武装は、大刀身の両刃剣のはずだ……見える範囲で帯剣はしていないな。

 ――この吉井の事を知った上で追って来たのであれば、そんな無謀な装備で現れるだろうか?

 お互い、それ以上言葉を継ぐことなく見つめ合う。

 とにかく、今は。

 ――とにかく、今は、この場さえ切り抜けられれば良い。

 未来人(ルカ)は、そして吉井大尉は奇しくも同じことを考えていた。

「甥として、叔父が日頃お世話になって居ります事を御礼申し上げます」

「こちらこそ。

 それで、何故、このような場所に? 何やら、尋常では無いご様子ですが」

 吉井の視線は、今しがたルカが飛び降りてきた高所に向けられた。

 未来人(ルカ)は、次の言葉を決定した。

「従士とその友人が(はぐ)れてしまい、探して居た所なのです。

 今夜の私達は、プライベートで街を散策して居たのですが」

「従士、ですか」

「はい。三人組の女性です。

 一人は……恐らくブリテア人。もう一人は、フォールドランド人。

 そして、車椅子に乗った和禰人です。

 外見上は目立つ筈なので、もう少し捜索すれば見付かるとは思いますが」

「ああ、執聖騎士団の方であれば、自然、海外の方となりますね。全て、とは言えませんが」

「迂闊な所も有る従士でして、難儀して居ります。

 失礼ですが、大尉殿にお心当たりは有りませんか?」

 吉井大尉は、今一度、未来人(ルカ)の碧眼を見据えた。

 人殺しと言えども、女王護衛軍は近衛隊の人間でもある。低級な嘘であれば、目を見るだけで看破には事足りる。

 だが、その青い瞳は何処までも澄んでいて、まるで悪意など無いようだ。

 むしろ、執聖騎士の肩書に疑いすら持ってしまいそうだが。

「……その方がたのお名前は」

 迷いながらも、吉井は水を向けた。

「テレサ、ヴィルヘルミネ、黒花。

 プライバシーと職務上のモラルの為、姓の開示はご容赦下さい」

 未来人(ルカ)は、スラスラと述べた。

 ――筋は、通っている。

「先ほど、この場所で会いました。

 貴方がここに来る、二、三分前でしたか。

 ミス・テレサが急に用事を思い出したっとおっしゃり、慌てて行ってしまいました。

 今なら、そう遠くには行ってないと思います」

 吉井の言葉で、はっきりした。

 ヴィルヘルミネ・ヌルミの暗殺は、失敗だ。

 未来人(ルカ)の接近に気付いた以上、テレサは寝ていても襲撃を感知するだろう。

 そして、この状況で彼女らが父霊トイミ・ヌルミの予知を絶やす事は、まず無い。

 奇襲のチャンスは、これで完膚なきまでに潰えた。


 敗因を分析する。

 ――矢張(やは)り、シェイに謀られたか。

 薄々、勘付いてはいた。

 街で、あれだけの規模の乱闘が起きれば、テレサが不穏に感じるのも無理は無い。

 (実際は、ミネッテがたまたま吉井への警戒から予知をした事で副産物的にキャッチした情報なのだが、未来人(ルカ)は知る由も無い)

 オフの間、未来人(ルカ)が野放しになる事は明らかである。

 あらかじめシェイが、テレサと(未来人(ルカ)が近づいた事を知らせるサインを)示し合わせた可能性も高い。

 その上でミネッテの予知を活用すれば、確かに奇襲はほぼ完全に阻止できる事だろう。

 未来人(ルカ)がシェイにとっての禁忌に触れたとは言え、実戦格闘術を人間に向けるのは暴挙に過ぎた。

 プロの格闘家や武道の段位を持つ者が他人を殴りつければ、剣で斬ったのと同じ罪を問われる。

 黒花を護る為にしても、あの場ですぐに未来人(ルカ)と事を構える必要は無かった。

 あの時のシェイは、至って冷静だったのだから。

 こと、荒事においては慎重派のシェイ・デューンが、リスクとリターンの不釣り合いな行動を取るはずが無かった。

 ともすれば――シェイにとっては、黒花殺害予告や(ンバイ)の事に触れられたのは予定外だったにしても――、

 ビールと、串ソーセージの束を渡された時点で、シェイはあの事態を見越していたのかもしれない。

 血の気の多そうな男が集まっていたあの橋の上で、あからさまに気配を現したのも、あるいは。

 ――盲点だった。

 未来人(ルカ)は、淡々と解析を続ける。

 シェイは、十中八九、ミネッテ暗殺を防ぐために付きまとってきていた。

 だが、最終的には、

 ミネッテさえ守り切れれば良い。

 監視役は、対象を常に監視するもの。

 その思い込みに囚われた未来人(ルカ)は、シェイを自分から引き離す事に意識を向けすぎてしまった。

 だが、それにした所で、ミネッテの予知が間に合ったと言う事も判断の埒外(らちがい)にあった。

 “一度目”の同じ時刻よりも、ヴィルヘルミネ・ヌルミの後方支援要員としての判断力と行動力が向上している。

 以前の今頃(・・・・・)であれば、テレサに指示されてようやく予知を使おうと思い立つ程度だったはずだ。

 予知の範囲も、自分(ルカ)が襲って来る時間を適切に選べたとは思えない。

 むしろ乱闘を予知してしまった時点で呆然自失となり、儀式思考を満足に編めなくなる。そんな女だったはずだ。

 その程度のタイムラグがあれば、――結果的にテレサと吉井大尉を同時に相手取って戦う羽目になるだろうが――奇襲自体は成功していただろう。

 歴史が正しく修正される為の作用なのだろうか。

 それとも、やはりそんな修正など存在せず、微妙な状況の違いが歴史を狂わせたのだろうか。

 今回もまた、未来人(ルカ)には判別が付けられなかった。

 ――未来が変えられないのなら、テレサが此処で死ぬ事は絶対に無い。

 ――しかし“その時”を生き延びる事も、絶対に無い。

 そのジレンマが、理路整然と彼を捕え続けている。

 そして彼は、二つの事を見落としている。

 一つ。シーザーの生死が前回と今回で変わっている事。

 一つ。ミネッテが短期間に強くなったのは、自分に殺されかけたせいであると言う事。


「騎士キリエ?」

 この場では、数秒の黙考すら長く感じられたのだろう。

 吉井大尉が、声をかけてきた。

「失礼。申し訳有りませんが、私は従士を探す事にします」

 テレサと吉井大尉がこの時点で会っていた事も、どこか引っ掛かるものだが。

 潮時だ、と判断した。

「分かりました。また、会う機会があれば宜しくお願いします」

 渡りに船だ、と吉井も思った。

 久しく感じなかった他人への疑念に、そろそろ疲れはじめていた頃だった。

 そうして二人の男は互いに背を向け合い、

 しかし全神経を背筋に集中させて、

 夜の街で別れた。

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