episode2-1 ~次の手~
空の藍色が染みた岩の山肌。
砂糖菓子のようにこびりつく残雪。
くすんだ緑と紫、時々、黄色の混ざった高山植物群。
冬と夏の入り交じった情景は、山岳地帯ならではだ。
手を伸ばして跳ねれば、雲に手が届きそうだ。
ラヤン山脈マ・ヒ連峰。
高度三五〇〇メートルを越す、左峰と右峰から成る。
マ峰は、山岳観光の名所だ。
右峰よりは急勾配が少なく、道は綺麗に舗装されている。
ホテルが一定間隔で、相当数建っているのも特徴だ。
いずれも、刀剣鍛造業や武術コーチングを生業とする軍事企業の経営するものだ。
これらの宿泊施設は、競合種発生の際には討伐隊の拠点となる。
ヒビ一つ無い、ダークグレーのアスファルトが、大蛇のように延びている。
その上を、ノーブレーキで滑るスポーツカーが一台。
毒々しい黄色に塗装されたそれ――キリエ・アローワンⅥ・エボリューションモデル――には、三人の男が乗っている。
運転席。
邪笑に吊り上げた右頬を痙攣させた、イグナシオ・アルバ。
流れるようにハンドルを操り、アクセルを目一杯踏み抜いている。
助手席。
身じろぎ一つない、ハビエル・バハモンデ。
マネキン人形でも同伴しているようだ。
右腕は先の作戦で切断。医者に罹れば足跡を残してしまう為、復元は出来ないでいる。
後部座席。
白に近い金のくせ毛を短くまとめた、三十代半ばの男。
深い紫のロングコートに黒いロングマフラーという身なりの男は、ヴァンサン・カルタン。
満面の笑みを浮かべている。かえって、表情が突っ張るほどに。
「いよいよですねっ! 空気は美味しいし景色も綺麗だし! お仕事楽しみましょう!」
ハキハキとしすぎて、どこか力んだようにすら感じられる喋りだ。
イグナシオの頬が、ますます深くつり上がる。
「飛ばし、し、過ぎて、て、ソッコー逝っちまわなけりゃ、いいがな、な」
どこか理性で制御されたヴァンサンの笑いとは真逆。
イグナシオの邪な笑顔は、前回の任務以降、ますます無軌道に狂っている。
「ハビエルさんが計画立ててくれてるんですから、楽勝ですよ。
死ぬ要素ゼロでしょ? ねっ?」
ハビエルの座るシートに背後から掴まり、ヴァンサンがおもねるが、
「本日、作戦領域に存在する敵対人員の総数は三七七名。
うち、戦術評価Bの人員は二〇五名。
戦術評価A相当の人員は八四名。
本任務に於ける、第一目標の成功率は六二・七三パーセント。
但し、二名以上の作戦人員が生還せよと言う命令の成功率は〇・七パーセント。
ヴァンサンに対し、認識の再調整を要請します」
怪物に生まれ変わったハビエル達が破滅的な戦力を有するとは言え、これだけの物量差があっては生還が絶望的となる。
その上。
今回の敵は“ハビエル達を殺せば同じ症状に感染する”と言う事実も知らないはずだ。
敵は、三人を殺すためだけに全力を尽くしてくるだろう。
先の教皇私邸戦のようにはいかない。
ハビエルの持つ人外の演算能力は、ヴァンサンも骨身に染みて理解している。
今から自分達は、自殺行為にも等しい戦いを挑むのだ、と。
それでもヴァンサンは、力んだような笑みを絶やさない。
数名居る仲間の中で、
戦略的に最強なのが、海上教会を沈めたあの鳥女であるなら、
戦術的に最強なのはヴァンサン・カルタンその人だ。
組織の長であるシーザー・カレイが、そう太鼓判を押した。
実質無敵と言える機能を持ち、何よりも、ヴァンサンは怪物に転生した際、自我を少しも損なわない。
ハビエルのように完全に主観性を失う事も無ければ、イグナシオのように無軌道な暴走を引き起こす事も無い。
人間は、競合種の圧倒的な性能に圧殺される。
競合種は、人間の知恵と意思の前に駆逐される。
その両方を兼ね備えた存在が居たなら、最強の生き物と評して間違いは無いだろう。
ヴァンサンは、その評価に慢心する事も無ければ、必要以上に軽んじる事も無い。
「僕も頑張りますんで、ハビエルさんの采配も一つお願いしますよっ」
“生まれ変わった”ハビエルと自分が組めば、勝てない戦は無いという、確信があった。
そうして、目的地にたどり着いた。
このホテルの客層は、大層お上品であるらしい。
駐車場に停まった車は、どれも白線に沿ってまっすぐだ。
イグナシオは嬉しそうに笑みを深めると、先客らに倣って行儀良く駐車。
生存率一パーセント未満の戦場に向かうとは思えない、流れるような足取りで、三人はフロントに踏み入る。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
出迎えたのは、金髪を肩の高さで切り揃えた若い受付嬢と、波打つ黒髪をアップにまとめた受付嬢。
金髪の女は、ローラ・フロスト。
黒髪の方は、レイラ・バティン。
ローラが、ハビエル達の身のこなしを訝るが、もう遅い。
ハビエルは外套をはだけたかと思うと、左手で紙人形を取りだし、放る。
パンツの下に呑ませていた小剣を抜き放ち、横一閃。
両断されたのは、紙人形の首。そして、黒髪の束。
五人の首が、鎖骨上から断離。
行き場を無くした血の水球が、五ヶ所同時に弾けた。
「イヒヒヒヒ、流石ハビエル様、様式美をわかってらっしゃる」
五人が一律、首をはねられて死んだ様を目の当たりにし、イグナシオが歓喜に打ち震えた。
――イグナシオ・アルバの固有嗜好に抵触。当該人員のパフォーマンス、凡そ一七パーセント向上。
剣を振るっているこの瞬間にも、ハビエルの思考は休まず更新されてゆく。
――現段階での死亡者は以下の通り。
フロント受付のレイラ・バティン、
レストランの調理員ラウル・アバス、
ウエイトレスのエリカ・クレイ(金髪に染めてこそいたが、和系人の彼女は地毛が黒)、
総合案内役のフィリップ・ハートレイ。
そして、不幸にも六十八歳まで豊かな黒髪を保っていた宿泊客一名。これは偶発的ノイズとして処理。計算には入れない。
彼ら彼女らは、この世からもハビエルの記憶群からも永遠に抹消された。
長い金髪をたなびかせたベルガール――クレア・グリムが、頭部が斬れたラウル・アバスに駆け寄る。
ラウルは死なせてはならない人材だ。
首をすぐに付け直せば、助かる。
A級儀式医のクレアが焦燥と共に抱く思考。
ハビエルには、それが手に取るようにわかった。
ハビエルは、クレア・グリムの視界に滑り込み、返す刃で紙人形を縦一文字に斬った。
金色の髪束と共に。
クレア・グリム、ほか三名の身体が縦に両断。
薪割りのような二分割死体と化した。
表向きはベルガール。その正体は、このフロアの衛生兵隊長。
そのクレアを消した事で、その指揮下にあった他のホテル従業員――に扮した儀式医――達が恐慌に陥る。
「くそったれ」
受付嬢ローラが、カウンターの下からスレッジハンマーのような物を横薙ぎに振りかざす。
大型トラックが突っ込んだに等しい破壊がカウンターを席巻。何メートルも伸びたカウンターは、根こそぎ砕け飛んだ。
ローラは既に、紙人形のからくりを察していた。
次の手を打たせまいと、ハビエルの横腹目掛けてハンマーを振る。
だが、ローラのこの的確な判断をも読んでいたハビエルは、潔く跳び退いた。
だが遅い。
ドンナーMKT76理想合金ハンマーが、ハビエルの身体を数センチ掠めた。
ハビエルの全身に、余さず炸裂する力学的エネルギー。
今しがた入ってきたドアをぶち破り、ハビエルはホテルの外へと放り出された。
瓦礫で全身を引き裂かれて血に塗れ。仰向けのまま、無為に痙攣するのみ。
その場から動く気配は無い。
それでもなお、イグナシオはヒステリックな笑いをぶちまけた。
「こいつら……ただのイカれ野郎か?」
受付嬢の女性的な装いで、ローラは口汚く呟いた。
しかし、玉虫色のハンマーは、油断なく構え直している。
ハビエルの前調査でA級の戦士と表されただけはある。
だが。
「……?」
稀代の類間儀式・断頭ショーさえ冷静に受け止めた女傑をして、
「なっ!? なん――」
イグナシオとヴァンサンの身に起こった異常には、目をみはった。
人間が、波打っている!
肌の下を、無数の軟体や昆虫が這いずり回っているようだ。
ヴァンサンが、後ろ手に倒れた……かに見えたが、手を床について、上体を浮かしている。
いわゆる、ブリッジの体勢だ。
一秒ごとに、皮下の蠕動が激しくなる。
特に、腹だ。
無数の虫が蠢いていたような隆起はみるみる密集し、一つの瘤になる。
何か別の生き物が潜り込んでいるかのように、屹立し、
そして宿主であるヴァンサンの腹を、勢い良く突き破ってしまった。
自分の臓物を鬱陶しそうに払いながら現れたのは、人間の上半身。
一切の体毛が無いが、それはもう一人のヴァンサンだ。
ブリッジ体勢となったヴァンサンの腹から、体毛の無いもう一人のヴァンサンが生えてきた!
どうやら、そこで全体のフォルムは完成したらしい。
後は(どういう原理かはわからないが)質量がみるみる増えていくのみ。
腹から生えた方のヴァンサンが見上げる高さに育つまで、ローラは棒立ちだったわけでは無い。
ハンマーを振りかぶり、ヴァンサンの懐へ踏み込む。
脚部と化したブリッジ姿勢のヴァンサンは、表情筋が張りつめる程の笑みを浮かべている。
それが、
ふっ、と、
消えた。
ローラは、ハンマーを振り抜こうとした腕を強引に止めた。
移動した痕跡も、跳んだ気配も無い。
あの見上げる大きさの異肉塊は、丸ごと、忽然と存在を消した
ローラは判断。
このハンマー程度の重量物なら〇・一五秒で振り抜く自信がある。
隙が生じるとすれば、腕が伸びきる〇・二秒程度。
だが、敵の力量次第では、そんな針の先程も無い間隙を突いてくる可能性は充分にある。
そして、それほどの力量で打たれるカウンターは、例外無く致命的な一撃である事も彼女は知っている。
――消えたブリッジ野郎への対応は放棄。仲間のフォローに委ねる。
――それより今は。
――背後から影を伸ばしてきた、デカブツの事だ。
ローラは、ヴァンサンの懐に踏み込んだ勢いのまま、ハンマーごと旋回。
真後ろに迫っていた“何ものか”に、ハンマーを打ち込んだ。
手応えあり。
若干、人間のそれとは違うが、頸骨が砕けて神経の断裂する感触がグリップから伝わって来た。
ホワイトタイガーのような体毛に覆われた、二足歩行の獣人。
そのおぞましい姿に理解こそ及ばないが、ローラは、白虎人の頭部を的確に打ちのめしていた。
首がほとんど抵抗無く捻れ、顔が一八〇度転回していた。
――オツムが破裂しなかっただけ、大したものだ。
内心舌を巻きつつ、ローラは残心の息を吐いた。
ハビエルが最大級の危険要素と認めただけあって、ローラ・フロストは、理想的な戦士だった。
白虎人らの異常性におののきながらも、その感情とロジックを完全に切り離し、正確に急所を打ちのめした。
だが。
ローラの両頬を、何か大きなものが挟み込んだ。
それが、白虎人の巨大な掌だと理解した時には、ローラの視界が一八〇度転回した。
骨も神経も捻切れた。
ローラ・フロストと言う名の意識はそこで終わった。
「げひゃひゃひゃひゃ、(うごめっ)同じ、同じ、首の向き、オレとこいつ、同じぎィ!」
ローラと自分の頭部が同じ角度になった事が、嬉しくて仕方がないらしい。
少し前まで、自分とまるで形状の違う“女”というものは、触るのも厭わしい程だった。
だが、先の教皇邸でのキリエとの戦いで、その狭い了見を少しは恥じた。
似ていない――イグナシオからすれば――醜悪極まりないものが、相似美へと向かうコントラスト。
青虫がサナギとなり、蝶へと脱皮するような、動的な美。
これにも、探求の余地はある。
だがやはり、
キモいものはキモい。
満足して、むしろ興が覚めた白虎人は、ローラの身体を汚物を扱うような神経質な手付きで投げ捨てた。
四方のあらゆる部屋から、
上のフロアから、
駆け付けた従業員が、白虎人とヴァンサンを全方位から囲んだ。
その数、およそ一五〇超。
いずれも、玉虫色に輝く理想合金の得物を携えている。
「(げっざ、ら)いいねぇ……み、皆、ドンナーブランドの、お、お揃いで固めてんのはポイントたけえ」
「正規軍気取りかァァァ!? あァ? クソどもォおぉオ!」
腹から生えたヴァンサンが吠える。
「オレは好きだね(ぼごっ)この無個性ぶり、エロ過ぎるぜ(ぎゅげ)!」
「ぶっ殺してやらァあァああア!」
唐突に敵陣の只中に現れ、腹から生えたもう一人のヴァンサンが、ホテルスタッフ二人(クレア・シェーンとリチャード・プリチャード)の襟首を掴み上げ、
頭と頭をぶつけて粉砕した。
それを合図に、二体の怪物は散開した。
白虎人の耳に、
「あ、ああ……ローラ……?」
呆然とした男の声が落ちた。
一階レストランの方角。
一年目の新入調理員――という名目で働いていた、後方援護部隊長のデイビット・ガーランド。
理想合金製の多目的錫杖を手にしたデイビットは、廊下の隅に投棄されたローラの亡骸に釘付けとなっている。
いつもの事だが、ハビエルの読みが当たった。
――ローラ・フロスト、及び、デイビット・ガーランドは、個人単位に於いて中度の相互依存関係に在る。(これを俗に恋愛、恋人関係と言う)
――これは交戦時、それぞれの行動指針に最低八〇パーセントの影響をもたらす。
――ローラがデイビットの視認範囲外で永続的ロスト(死亡)し、且つ、三分以内にデイビットが遺体を知覚した場合、
――デイビットは戦術的な基準値を超えて、判断力を喪失し、
「殺したのか!? お前がローラを!」
――周囲への被害を度外視した降臨規模の儀式戦術を展開する。
デイビットは、大理石の床を穿つ勢いで錫杖を突き立てた。
「い、いかん、あの儀式起点は!」
副官の料理長ハンス・フォレストが制止に入るが、手遅れだ。
「総員、デイビットの儀式戦術に備えろ!」
このままでは、一フロア全体が吹き飛ぶ。
デイビットなら、ローラが死ねばそれくらいはやる。
ハンスは瞬時に判断。
ホテルを破壊されるのはまずい。非常にだ。
部隊総出で、デイビットの儀式戦術を押し返さなければならない。
私情で突出したデイビットを切り捨て、即時、部隊長権限を奪取したハンス。
そして、そのハンスの機転に遅滞無く従った隊員達の統制力は、芸術的ですらあった。
白虎人の黄色く濁った目に、多幸感の涙が浮かんだ。
デイビットの儀式思考、完成。
降臨。
世界が真っ白に染まった。
「ああ、ローラ、ずっと一緒に」
ローラの遺体もデイビット自身も、光熱に巻かれて消し飛んだ。
何が起きたのか、白虎人にはそれほど興味がなかった。
無数の刃物と化した衝撃波が全身の皮膚と肉を引き裂き、
果てしない熱波が、全身の体液を高熱の蒸気に昇華、内側から肉と皮膚を削ぐ。
全身が半ば液状化し、光の中へ溶け込みそうになるこの状態は、そこそこ心地よかった。
だが、浸っていられる時間は、そんなに無い。
光が減衰し、気温が戻って行く。
折れた首も沸騰して熔けかけた全身も、粘土のように捏ね直し、瞬時に復元。
ホテルの西側が、骸骨じみた廃墟と化した中。
火だるまの白虎人が、平然と歩を進める。
炎が白虎人の肉を喰らって際限無く燃焼し、肉は際限無く自己再生する。
「あ、あ……しまっ――」
燃え盛る白虎人を呆然と見つめていたハンスと、その部下らが失態を悟った。
ホテルを半壊させかねなかったデイビットの奇跡を相殺する為に、本来、後衛にあるべき彼らは前に出すぎていた。
白虎人が、走る。
手近なジャクリーン・エイトケンとジョン・ブラッドバーンを引き掴み、両脇に抱き寄せる。
イグナシオの全身を棚引いていた業火が二人をも包む。
競合種めいた腕力に身じろぎも出来ず、ジャクリーンとジョンは、生きたまま焼かれてゆく。
全身が真っ黒に変色し、循環の場を失った体液が垂れる悲惨な状態になっても、なまじ強い生命力を持つ為に、すぐには死ねない。
それを懐に見ながら、白虎人は機嫌を損ねたらしい。
のっぽ女と、薄毛の中年オヤジ。この二人が同時に発した断末魔の絶叫は、まるで音程が違う。
それを左右の耳から聴く羽目になったイグナシオは、嘔吐感を堪えねばならかった。
皮も肉も焦げ縮んで行くジャクリーンとジョン。
喉が焼けただれたのか、苦鳴の声が汚泥を煮込むように濁ってきた。
声に男女の性差が無くなったので、悪くは無い。
そして、ジャクリーンとジョンは、ほとんど同時に、物言わぬ炭の棒と成り果てた。
最期の締めくくりこそは、そこそこの芸術点をやれたが、
「手間ヒマ、かかりすぎ(ぎっ)」
イグナシオは、つまらなさそうに二つの焼死体を投げ捨てると、半ば恐慌を引き起こした儀式戦術隊の只中へ燃え盛りながら突っ込んだ。
「斬れ、斬れェ!」
二日酔いのパート清掃員――の皮をかぶっていた突撃部隊長――サミュエル・アクスが号令を叫んだ。
モップを放り、船刀型小剣・シャオアー75Wを手に持つ。
そして、清流のごとき足運びでヴァンサンに斬りかかった。
対するヴァンサンは、素手で迎え撃つ。
クレアとリチャードを容易く潰した超音速の腕が、左右からサミュエルを襲う。
拳が接する瞬間。
サミュエルの姿が、曖昧にブレた。
何リットルものおびただしい血液が宙に花咲いた後、重力に従い豪雨となって注いだ。
サミュエルが四散した為ではない。
腹から生えた無毛ヴァンサンの両手から両肘にかけてが縦割りに斬れていた為だ。
少し揺らいだようにしか見えなかったサミュエルだが、その実、自分に襲いかかるヴァンサンの腕を二度の太刀のもとに斬り捨てていた。
誰にも、サミュエル本人にすら目視出来ない剣速だった。
脚部――本来のヴァンサン・カルタンだったブリッジ姿勢の部分――の顔面が、縦に大きく裂けた。
槍のような、硬質で鋭利な器官が伸びた。
サミュエルはこれを剣で受け流し、退避し――と言うよりは、凄まじい反動で後ろに飛ばされ――た。
サミュエルの後に続いたベルボーイ(軽戦斧使い)ツェーザル・ブーニンが、かわしきれずに肩口を破砕された。
ツェーザルもまた、サミュエル旗下の戦士。良い所は無かったが、激痛にのた打ち回る愚は冒さない。サミュエルの合図を冷静に受けて、退避した。
続いて、サミュエルは手早く隊列変更を指示。
負傷者を下がらせると、第二陣の近接格闘部隊が突撃する。
ヴァンサンは、身構える様子もない。
サミュエルの脳内では、凄まじい勢いで演算が行われていた。
彼我の打撃力、先の一合から察せられるブリッジ野郎の耐久性・生命力。
これまで目視出来た血の流れと、剣伝いに感知した脈動から予測される、急所。
――ミスが無い限り、殺れる。
そして、サミュエルの育てた前衛隊に、ミスと言う言葉は無い。
半ば投げやりに振るわれたヴァンサンの豪腕。
これを流れるように掻い潜り、ヴァンサンの懐に踏み込む。
がら空きとなった、ヴァンサン(脚部)の頭部。
まずはこいつを破壊し、それでも仕留められないなら、奴の身体を駆け上がりもう一つの頭部を破壊するまで。
サミュエルが、ヴァンサン・カルタンの張りつめた笑顔に唐竹割りを落とした。
抵抗は無い。
にも関わらず、剣はヴァンサンを通過せず、そこに停止していた。
サミュエルの双眼が、零れんばかりに見開かれた。
当たってはいる。
それは間違いない。
そして、一撃目では刃が通っていたはずだ。
威力は足りている。
なのに、何故。
サミュエルが最期に見たのは、張り詰めたような脚部ヴァンサンの笑顔と、心底楽しそうな無毛ヴァンサンの笑顔。
唖然とした顔面を正拳でぶち抜かれたサミュエル・アクスの人格は、何も知らないままこの世から消えた。
そうだ。
何も知らないままだ。
ヴァンサンと、その腹から生えた分身はどちらも歓喜と充足感にうち震えた。
今のサミュエルのように、阿呆面をさらした瞬間にぶち殺す事こそ、ヴァンサン・カルタンにとって至福だった。
こいつらは本来、どこでどういう最期を迎える運命だったのか。
家族に看取られ、静かに息を引き取るか。
はたまた、どこかの紛争地帯で無念の戦死を遂げるか。
競合種災害に巻き込まれて死ぬか。
交通事故や食中毒と言う線もあるか。
だが、それらの大半は、自分の運命を直視する形でやってくる。
納得のいくものであろうが、そうで無かろうが。
己の死を直視すると言うのは、全ての人間に等しく与えられるべき権利だ。
だからヴァンサンは、人を殺すときはそれをも摘み取る。
自分の最期を知る権利をも奪ってやる。
姿を消し、突如理不尽な装甲性能を発揮して。
他人の命はもとより、死に様さえもこのヴァンサンのものだ。
――こいつらを好き勝手に出来る俺の方が、断然上だ!
ヴァンサンがまた、姿を消した。
体温・臭い・大気の流れ・音……全てが消える。
勘の良い剣士が三人、ヴァンサンの今居る位置を予測し、不可視の怪物に斬りかかる。
必殺の太刀は、見事に命中した。
だが、手応えが無――そして、何をされたかもわからないまま、手練れの剣士三人は全身を四散されて死んだ。
「剣も槍も、なんでか効かん! サミュエル隊、一時退避!」
「逃げんじゃねえ、ボゲがァアァア!」
隊列など、ヴァンサンの前には用を為さない。
不可視になったまま高らかに跳躍したヴァンサンは、「最後尾だから当分大丈夫だろう」と思っていそうな甘ったれどもの背後に降りる。
音も風も無い。
気付く間も与えず、手近な従業員どもを手当たり次第に打ち殺した。
あらゆる環境に、都合よく適応する。
それが、ヴァンサン・カルタンが人の姿を捨てて得た力だ。
殺し合いの最中は、自分の姿が見えない方が都合が良い。
だから、無音無臭不可視の特性を得る。
身体が斬られたなら、次からは斬られない方が良い。
だから、切断や断裂と言う現象自体が我が身に起こらないようにする。
ハビエルも、先のフライ枢機卿戦で電流を流された際、身体を絶縁抵抗の高い組成に造り変える事で対処した。
だがそれは、あくまでも物理的に肉質を変えたに過ぎない。
電流以外の他の手を打たれれば、対処できない。
また、電気の例で言えば、絶縁抵抗を上回る降臨規模の電気を浴びせられれば、防ぎきれない。
だが、ヴァンサンの場合、耐性の会得は奇跡的なものであり、彼の肉質そのものは何ら変化しない。
概念そのものとの縁を、完全に断絶してしまうのだ。
よって、今のヴァンサンには文字通り、同じ手が二度通じない。
仮に炎に巻かれれば、あらゆる熱損に対して無敵となる。
火炎は無論の事、摩擦熱も電流のジュール熱も、である。
ヴァンサンを刃物で即死させられなかった以上、もう“切断”“刺突”という手法では一切損害を与えられない。
被害を受ければ受けるほど、ヴァンサンの無効化能力はレパートリーを蓄積してゆく。
際限は無い。
これは、ヴァンサンが再び人間に転生しなおすまで持続する。
誰一人、何故攻撃が通じないのかを知る事は出来ない。
自分が何故殺されたのか、どこに落ち度があったのか知らないまま、無様にくたばる。
自分の死に様がわからない人生というのは、クライマックスを放棄した尻切れのドラマや、クソなコミックのようなものだろう。
あるいは、不完全燃焼なオチのコントか。
これこそが、形而下の物理的しがらみに囚われない、真の蹂躙。
他人の人生最期に、最大級のケチをつけてやる。
イグナシオの野郎がぶち上げた、調和の美などと言う妄言など、比にならない。
奴のやり方では、犠牲者に恐怖を味わう権利をみすみす与えてしまう。
所詮、育ちの悪いチンピラの美的感覚など貧しいものだ。
ヴァンサン・カルタンは、以上のように信じて疑わない。
ハビエルの全身が岩肌めいた硬質によろわれ、皮膜の翼が背中を突き破った。
羽ばたきによって生じた気流が一階フロア全体を殴り付け、窓は例外無く弾け飛んだ。
ハビエルだった悪魔が天井すれすれの高度から俯瞰した。
この時点で、戦局は事前にシミュレートしたものと寸分違わないものになっていた。
ホテル従業員を装った武装集団は、今やパニックの渦中にあった。
姿を消したヴァンサンはもとより、目に視えるイグナシオの姿すら満足に見てはいない。
ハビエル・バハモンデにとって、人間のあらゆる感情や思考は、記号の集合体でしか無い。
ローラの動揺も、それに揺るがぬ経験則も、
ローラを失ったデイビットの悲嘆と復讐心も、
サミュエルの卓越した実務能力と指導力も、
それに率いられた三六名の隊も、
イグナシオが持つ異形の享楽も、
ヴァンサンが持つコンプレックスと、そこから来る嗜虐心も。
全て等しく、貴賤無く、デジタルな変数でしかない。
一人一人を構成する記号を解析し、演算すれば、目的の解――イグナシオもヴァンサンもロストせずに敵対人員を殲滅する為のプロセス――は問題なく得られる。
死亡感染さえ考慮に入れなければ、従業員達は数分で三体の怪物を始末できた。
ただ、ハビエルの組んだルーチンに沿って、みすみす墓穴を掘っただけの事だ。
ハビエルは、ともすれば、誰よりも他人の心を理解する事が出来るのかもしれなかった。
殺してしまえば永久にその存在を忘れ去るのだが。
もはや、ハビエルの記憶にはローラもサミュエルもデイビットも居ない。
吹き抜けとなった二階、三階の廊下に、弓射隊が駆け付けた。
すぐさま、悪魔めがけて対装甲弓矢の横雨が襲い来る。
接触した所で、リスクは無い。
背後のシャンデリアが原型を留めず粉微塵となる中、ハビエルは、軽く押された程度の微動しかしない。
それがますます、ホテル従業員の兵士達を狂乱に誘う。
B型種の競合種や滅病とて、これほど出鱈目な装甲性を持たない。
――平均、二分七秒。
ハビエルの記憶から参照された、その数値。
このホテルの支配人、カール・アシャツが、今の条件で前線に出てくるまでの、推定タイムだ。
カール・アシャツ。
戦術評価はA+である。
武装は、西洋剣ドンナー・レーゲングスmini60と和禰刀・タソガレ弐式の二刀流。
ローレンス流と樋口流の二流派を軸とした、独自の剣術メソッドを持つ。
飲酒による酩酊により大脳の活動を変化させる事で、前衛剣士としての性能を切り替える。
元々、天才的な学習センスと恵まれた祝福により、こと近接戦では打てる手を無数に有している。
飲酒量、および、アルコールの代謝された度合いによって、身に染みた癖さえも――それも秒刻みのリアルタイムで――変化するので、ハビエルの演算力をもってしても、全てに対応しきるのは至難。
戦術的には、フライ枢機卿以上の天敵とさえ言える。
人員が三名しか居ないハビエルらにとっては、カール一人の存在が致命的ですらある。
悪魔的に強化された耳に、カールの足音が届いた。
悪魔ハビエルが滞空している位置の、直下。
観音開きの無垢材パイン扉の向こう。
悪魔が、高度を下げた。
扉が、半ば粉砕するように蹴破られた。
「貴様ら、たかだか三人相手に何をしとるん――」
ほぼジャストのタイミングで降下した悪魔が、手刀でカール・アシャツの頭頂から股間を紙のように両断した。
彼の手にしていたウイスキースキットルが、音を立てて転がった。
カールには、敵兵を視認するや、まず酒をあおる癖があった。
とは言え、人間(だと思っていた)者が、自分の頭上に滞空しているなどと普通は考えない。
この不手際で亡きカールを責めるのは、適当では無い。
もっとも、託宣で現場を視ていた部下はカールを止めようとしただろう。
副官のアデール・アミが、カール・アシャツの出撃を制止する確率は、一〇〇パーセント保障されていた。
その他、託宣総司令ロブ・ライアンも七割、専属儀式医のハインリヒ・ヨラも五割超の確率で、カールを止めたはずなのだ。
だが、一度思考を臨戦態勢にし、かつ、部下を一四名以上殺されている状態のカールが、他人の意見を聞き入れる事はまず無い。
いずれにせよ、カール・アシャツは即死した。
いかに世界クラスの超剣士でも、大破すれば、たんぱく質と水の集合体にすぎない。
肥えた身体を超高番手ウールのスーツに包み込んだ、双剣の黒人男性。
今は縦割りに斬れたその亡骸の名を、ハビエルが思い出す事はもう無い。
次のプロセスを遂行しなければならないからだ。