ミサキ・ゴーズ・インサイド
美咲の初速は驚異的だった。
五十メートル以上は空いていた距離を一秒足らずで詰めてしまう。そこから速度を落として足に力を貯めこみ、最も近かった怪物との距離が詰まったところで一気に跳躍した。
ただ跳ねたのではない。鉄棒を地面に支えとし、その高さを借りて棒高跳びの要領で飛び上がっていった。
競技用のものと違って弾力性は無い。跳ねあがる高さもそう高くはならないはずだが、しかし美咲の助走の速さと脚力の強さ、そして鉄棒の長さが噛み合って、その跳躍はかなりの高度となっていた。
落下点は怪物の直上。
空中で鉄棒を構え直し、目標に対して垂直に立てる。
駆け出してから減速、跳躍、そして落下までは極めて迅速だった。怪物には美咲を視認する間もなかっただろう。
美咲の体重、加えて落下のエネルギーを全て乗せた鉄棒は、当然のように怪物の頭蓋を突き破り、垂直に、怪物の体に一本の支柱を打ち立てた。
声も上げず、怪物は立ち尽くしたままその動きを止める。
他の三体がまだ気が付いていないことを確認した美咲は、すぐさま鉄棒を引き抜き、右方向で固まっている二体に狙いを定めた。
二体とも美咲からは背を向けている。少し離れた別の一体も、美咲を視認できる位置にはいない。
唯一、美咲の姿を捉えられる位置にいた怪物は、今は立ったまま沈黙している。
好機として美咲は再び駆け出すが、跳躍に足りるだけの助走は付けられない。今度は距離が近かった。
速度を落とさずに接敵し、二体の内、右の怪物へ鉄棒を突き刺す。
勢いに乗った美咲は弾丸のようであり、鉄棒に容易く、怪物の体を貫通させた。
その時点でようやくその一体とすぐ脇のもう一体が、美咲の姿を捉えることになる。
濁りきっていた眼が不気味に光り、緩慢な動きを捨てた脇の一体が、獣の咆哮を上げながら飛びかかってくる。
だが、その動きはやはり直線的過ぎた。
美咲は怪物を突き刺したままの鉄棒の向きを変え、向かってくるそちらへと突き立てる。
強い衝撃と共に、突き刺された一体と向かってきた一体が衝突した。
襲い掛かってきた怪物の勢いからして相当な衝撃があったはずだが、美咲は後ずさりもせず、顔色一つ変えない。
そのまま鉄棒に力を加え、二体ごと串刺しにした。
それだけでは怪物にとって致命傷には及ばない。まだ激しく動き続け、美咲側の一体は何とか背後に掴み掛ろうと、必死に腕を伸ばしてくる。
それを避けながら鉄棒を横に振り、そのまま横倒しの格好にする。体の中心を貫かれた二体の怪物にバランスをとれるはずもなく、あっさりと美咲の足もとに転がる。
その頭を容赦なく踏みつけ、隣の一体も同じようにすると、怪物は何か赤黒いものをまき散らしながら、揃って沈黙した。
美咲の着る制服の上着にも多少のそれらが飛び散りはしたが、気にした様子はない。 視線も注意も既に足元の怪物ではなく、少し離れてこちらを伺う最後の一体に向けられている。
その一体は体を揺らしながら、威嚇するように足を踏み鳴らすものの、これまでとは違ってがむしゃらに美咲へ向かってくる様子ではなかった。
「―?」
一瞬の疑問をもった美咲だが、追撃を止めるほどの事情ではないと判断する。怪物の位置が優花がいるはずの交番に、ほんの少しだが寄っていることも、美咲にとっては問題だった。
鉄棒を力任せに引き抜く。再び駆け出そうと体を沈め、地面を蹴りだすその直前だった。
唐突に、怪物の大声が響きわたる。正面の怪物の声だった。
それはまさに爆音。
体のどこから発されているかも分からないその音は周囲の空気を強烈に震わせ、物体を振動させ、脆い物は総じて砕け散っていった。
周囲でガラスの割れる音が連続する。
美咲の持つ鉄棒までもが、緩く振動するのが感じられた。
思わず顔をしかめるが、耳をふさいだり視線を逸らせたりは決してしない。注意は依然、前方の怪物に向けられている。
優花の隠れる交番が気にかかったが、ガラスや瓶などの割れやすいものは無かったはずだと思い返して、そちらにも視線を向けることは無かった。
その爆音は、たっぷり一分ほど続いた。
美咲の速さなら接敵して排除することも可能だったが、音源に近くなればなるほど衝撃も増す。そこまでたどり着いて自分の耳が無事かどうかの確証が持てない以上、様子を見るしかなかった。
爆音は徐々にしぼみ、やがて止む。
吠え続けていた怪物はしばらく荒い呼吸のようなものを繰り返していたが、それが徐々に早くなり、気味の悪さを感じるようになったほどでそれも止まった。
静止した怪物はそれきり動かず、ついには力尽きたように倒れてしまった。
ぴくりとも動いていないのが、美咲の位置からでも確認できる。だが美咲は警戒を解けない。
初めに視認した四体が全て沈黙したのは確かだが、最後の一体の咆哮は明らかに異常な事態だった。
美咲は感覚を集中させ、網の目のように周囲へ警戒を広げていく。
些細な動きも、微妙な異常も逃さないよう、特に優花のいる駅舎方面への警戒を重点的に。
だが、何も感じられることは無い。
しばらくそうして立ち尽くしていたが、動きも異常も検知できなかった。
「何か、絶対に何かはあるはず…」
言い聞かせるように呟く。
警戒網を全体に広げることを止め、前後左右に、順番に展開していく。面ではなく線で。その分だけ感覚は鋭くなる。
前方。電車の高架と車の残骸。咆哮した怪物の死骸。
後方。長く伸びる通りと汚れたビル。交差点、信号機。
左方。広場とその中央に植えられた大木。昨晩焼いた怪物の死骸と枯れ木。優花のいる交番跡。ちゃんとまだそこにいるのが分かる。
右方。ガードレールと歩道。街路樹とビル群。巨大モニターと―。
「…」
巨大モニターを備え付けたビルに全感覚を集中させたとき、そこにかすかな動きを感知した。
それは普通の人間ではありえない、異常に鋭敏な感応。
美咲の特異な点の一つだったが、この街で生き残るには何より大切な力の一つだった。
美咲には、障害物が無ければどれだけ遠くの小さな動きでも感知できる。例え障害があったとしても、今のように集中に集中を重ねれば、なお感じることは不可能ではなかった。
なにかが蠢いているのが分かる、不愉快な感覚。
肌がざらつき、微小な振動が伝わってくる。
見えはしないが、感じられる。
そのビル内には確かに、怪物の気配があった。
「そこね」
薄く呟き、それから少し考える。
なぜ、あそこで固まったまま降りてこないのか。
なぜ、あの咆哮に反応がないのか。
そしてなぜ、あのビル内に百単位の怪物がひしめき合っているのか。
音も立てず襲い掛かりもせず、ただじっと何かを待っているかのような、微細な動き方。いや、最早ほとんど動いていないと言ってもいい。それゆえに気が付かなかった。
集中して初めて感じられた、無数の怪物の気配。
あのビルは異常だ―。
美咲はしばらく、言葉を失くした。
間違いなく、昨夜の戦闘の時にもあのビル内には同数の怪物がいたはずだが、その時も、彼らは何も仕掛けてはこなかった。
そして今も、あれだけの暴力的な個体数を誇りながら、美咲に襲い掛かってこようとは、それどころかビル内から出ようともしていない。
優花の見た一群など氷山の一角、森の中の一本の木にすぎなかった。その彼らに一切の動きがないという事が、輪をかけて不気味に思われた。
―さあ、どうしよう。
自分を試すように、心の中で問いかける。
あの怪物群が美咲に気が付いていることは間違いない。あれだけの咆哮と、昨夜の戦闘。気が付かれていないというのは現実味を持たない想定だった。
だがそれでも動きがない。
一体それはなぜか、という事を美咲は考えない。
彼らの習性を考えることは美咲のやることではなかった。そしてまた同じように、どうやってこの場から離脱しようか、という事も美咲は考えていない。できる時に排除しなければ、いずれは自分にとって、妹の優花にとっての危険分子となり得る。それも、あんなに大量の。放っておく道理は無かった。
この場において、美咲の考えていることは一つ。
「うーん。どうやって攻めるのがいいんだろう」
呟きが漏れる。頬に手を当てて考え込む。だがその間にも警戒は緩めない。そのビルを中心に、警戒の網は依然張られたままだった。
敵の数に顔色一つ変えることも無い。
感知した時、そのあまりの多さに「気持ち悪い」と思うくらいがせいぜいだった。
腕時計を見る。
午後二時十五分。暗くなる前には帰りたかった。
「いっそあっちから来てくれたらいいのだけど」
少し唇を尖らせ、不満そうな顔をする。
屋内での戦闘は避けたかった。優花を連れまわさなければならなくなるし、隠れる場所が必ずあるとも限らない。死角も多い。
「うん。やっぱり来てもらわないとだめだよね」
再確認した美咲は、行動あるのみ、と、おもむろに鉄棒を振り上げて槍投げの姿勢を取る。二、三度素振りのように腕を前後させ、それが終わると、すっと静かに腕を引く。次に風を切るような勢いで腕が振られたとき、鉄棒は弾丸の勢いでビルに向かって飛翔していった。
一瞬のうちに目標へ到達し、その全質量をもって三階部分のガラスを打ち砕き、内部へ飛んでいって見えなくなった。
ガラスの割れる派手な音がする。かすかに、何か柔らかいものが刺し貫かれる音も、併せて美咲は感知した。
「うん、当たった。でもやっぱり出てはこない…」
予想通りの期待外れ。ビルの外から攻撃を受けても、内部の怪物に特別な動きは感じられない。
「一本ずつ投げ込んでいく?時間がかかりすぎるし当たる保証もない…。ビルごと倒壊させるような道具を?そんなものがあったら見てみたい…。私だけで突っ込んでみる?優花に何かあった時に対処できない…」
案を生み出しては消し、消しては生み出していく。
有効と思える案は出てこず、時間は進み続けていった。




