ユカ・ゴーズ・インサイド(2)
「―っ」
一瞬めまいを感じてふらついたが、それを気にする余裕は無かった。
まずは一階に下り、『べんつ』を回収しなければならない。
リュックをそこに放り投げ、優花は矢のように駆け出して、階段を駆け下りていった。
ほとんど段差に足を掛けず、飛び降りるようにして一階に辿りつく。
怪物の進入も無く、『べんつ』もきちんとそこにあった。それを抱え、今度はまた五階へと戻らなければならない。
『べんつ』の重量は約十二キロ。優花の体で支えるには重すぎたし、それを抱えて階段を上がらなければならないとなれば、その負担は絶大なものだった。
階段前までそれを運び、そのまま転がせるかどうか試してみる。
傷がつくのを承知でハンドルを持って引き上げると、モーターとギアを組み込んだ底面が階段にぶつかって抵抗を生んだが、何とかそのまま進めそうだった。
「ん~~~っ!」
だが引き上げるにも、力が必要だった。
二階、三階、と順々に上がっていく内に、優花の息も荒くなっていく。休みたかったが、その時間だけ美咲の危険が増すことを考えると、足を止めるわけにはいかなかった。
腕が震え、力が入らなくなる。汗が何滴も頬を伝っていったのが分かった。それでも優花は一呼吸も置くことなく、四階の踊り場から五階へと『べんつ』を引き上げ、ふらつきながらそれを窓際まで運んでいく。
眼下では、一向に数の減らない怪物の群れがひしめいている。
あの中に美咲がいる。そのことを、優花は初めて怖いと感じた。
だがそれも一瞬、すぐに優花は身を翻し、今度はフロアの隅、作戦の要となる大型機械の元に向かった。
そのスノーモービルはどれだけ長くそこに置かれていたのか、シートにはほこりが厚く積もっている。後部には荷台が追加され、近づいてみるまで優花には分からなかったが、どうやらキャタピラで駆動する仕組みのようだった。
黒い車体は色あせて見え、その大きさの割にどこか頼りなかったが、優花は構わずそれを押し出そうとする。
「ふっ、ん~~~~!」
だがその車体はびくともしない。キャタピラが動かない以上、この床の上で独力で動かそうとするのは無理があった。
「むぅ、しょうがないなあ。じゃあここからでもいいや」
あっさり言って、優花はそこから離れてしまう。だがすぐに、『べんつ』を転がして戻ってきた。背中にはリュックサックも背負っている。
「よ、いしょっと」
スノーモービルの下に転がしてきた『べんつ』を差し込む。スノーモービルは車体の半分ほどを、『べんつ』のボードの上に乗せた格好となった。
次に優花はリュックを降ろし、中から大きな巻かれた鎖を取り出した。「十二」のシールが貼られているところを見るとそれは武器だったのだろうが、優花はそれを使ってスノーモービルと『べんつ』を完全に固定してしまう。最後につなぎ目に南京錠を掛け、二者の結合をより強固にする。
「よおし、これで―」
リュックサックを座席に乗せ、ベルトと鎖でぐるぐる巻きに固定する。中から飛び出していたコードを、『べんつ』の底面に接続した。
「大丈夫、だよね?」
完成したそれはあまりに不格好で、優花は急に不安になってくる。
それでも迷っている時間は無かった。『べんつ』のアクセルペダルを重しで固定し、ギアを『3』に入れる。電源が供給されているそれは、あとは起動させれば一直線に走り出すはずだった。
「…」
少しの間、優花は黙ってその姿を見てしまう。
不慣れな運転で散々傷つけ、怪物の群れから逃走するのに酷使し、そして今、そのモーターが焼き切れるまで走らせようとしている。
短い時間で作り上げたとはいえ、名前も与えたその機体に、優花は愛着が湧いていた。扱い方は過酷だったかもしれないが、それは結果そうなってしまっただけで、優花自身は大切に使っているつもりだった。
それも今回で終わるだろう、と優花は思っている。
五階の高さからスノーモービルと共に落下すれば、当然ただでは済まないだろう。良くて大破、九分九厘、原型を留めぬ姿になるだろうことは予想が付いた。
優花はそのハンドルを、少し名残惜しそうに一度だけ撫でた。
撫でながら、小さく何かを呟いた。
それは誰にも聞こえない、口の動きすらかすかな、本当に小さな呟きだった。
謝罪か、感謝か、言葉ですらなかったかもしれないその声を最後に、優花はもう何も言わず、黙ってその先を見つめた。
割れたガラス窓、その先に地面は無い。
だが落下していくに任せるその先には、何としても届けたい物と、人があった。
万全は尽くした。後は、優花には見送ることしかできない。
祈るように目を閉じた後、優花は勢いよく、『べんつ』起動のスイッチを入れた。




