オペレーション・ハーメルン(4)
狭い通路であり、怪物は一本の列になって、壁に体をこすりつけながら優花へと追いすがる。削り取れた肉や皮膚の跡が、両脇の壁に赤黒い線を描いていた。
「…優花にだって、生き延びられる」
徐々に接近して切るその姿を見ながら、優花は『べんつ』のハンドルから時計を外し、二、三回のボタン操作でアラームを起動させた。
表示は「00:50:00」から減少を始める。
それが優花に課せられた試練の時間であり、既に始まってしまった、闘争の時間。
『べんつ』から降り、優花はリュックサックを降ろした。自分の身長よりもずっと大きなそれは、幅も通路の幅と同じほどにある。異様な存在感を放って、優花の前にどさり、と置かれた。
優花にとって、それは道具箱であり、今は頼りがいのある壁となる。
道に詰まったようなそのリュックに優花が手を入れたのと、列の先頭となった怪物が掴み掛ってきたのはほぼ同時だった。
触れられるか否かの、一瞬のタイミング。リュックが壁となって生まれた一瞬の間。
まさに間一髪、優花はリュックから取り出したそれで、思い切り怪物の頭を叩き割った。
振り下ろすまでの時間は無く、怪物の顎の先へアッパーのように繰り出されたそれ。
優花の手に握られていたのは、「二」のシールが巻かれた、あの錆びついたスコップだった。
それを引っ張り出して、今度は思い切り、怪物の頭を横から殴りつける。
初撃では倒れなかった怪物もそれには耐えられず、ぐらりと横に体を傾ける。
「甘くみんなっ!優花だって―」
言い終わる前に、倒した怪物の背後から、次々と別の怪物が押し寄せてくる。
物量で押しつぶそうとするかのように、叫び声をあげ、腕を振り回しながら怪物が迫ってくる。
先頭の一体が倒れたことで、まるで栓が抜けたかのように、怪物の列の勢いは一気に増していった。
リュックがその勢いに押し出され、少しずつ後退する。
優花と背後の壁との間には、もう僅かの隙間しか残っていない。
「ええいっ!」
手に持ったスコップを、リュックに覆いかぶさるようにしていた怪物の頭に振り下ろす。
気味の悪い感触と共にその頭がつぶれ、ばたりとリュックの上に倒れ伏した。
同時に飛び散った赤黒い何かが、優花の制服にも多量に跳ねた。
「うわっ!」
噴き出したそれに、思わず目を閉じてしまう。
初めて間近で、怪物の腐った体液を見た。その不快感は高ぶっていた優花の闘争心を上回り、視界を覆っている場合ではないと思いながらも、反射的に優花の瞼を閉じさせてしまった。
その一瞬を意識したのか、それともただの偶然か。
二体目の死骸をまるで階段でも上るように踏みつけて、怪物が次々とリュックの上から押し寄せてきていた。
次に優花が目を開けたとき、そこには怪物の腐った腕が、今までにないほどの近さで、自分の顔を掴もうと伸ばされているのがはっきり見えてしまった。
「きゃっ―!」
悲鳴を上げて飛び退る。
だがその隙間さえ、既にそこには存在していなかった。前方に意識を向けるあまり、自分がどれだけ後退していたのか、優花には認識できていなかった。
背後の壁に背中を強く打ち付けて、一瞬、息ができなくなる。それでも闇雲にスコップを振り回し、何かに当たる感触だけは感じ取っていた。
だがそのひ弱な攻撃では、怪物に致命傷を与えるまでには程遠い。優花に掴み掛かろうとする怪物の数は、ただ増える一方だった。
「あ…、ぁ…」
それまで感じたことのない、圧倒的に明確な死の恐怖。
今まで当然のようにそこにあったのに、優花は初めて、それが具体的な形を伴って自分へ迫ってくるのを見た。
それは脅威ではなく、恐怖としての存在。
掴み掛ってくる怪物の腕は腐臭を放ち、その腐りきった組織の一片までもがはっきりと見える。
ダメだ。
そう思った。
残り時間を確認することもできない。
いや、それすらも今思い出したほどだった。
慌てて、目を自分の左腕へと向ける。アラームをセットした腕時計。それを巻いていた、その方向へ。
その時点で一瞬、何かがおかしいと優花は感じた。
なぜ、自分は視線を動かして時計を見ようとしなかったのか。
なぜ、左腕を目の前に持ってこようとしていないのか。
それらはすぐに、別のはっきりとした疑問へと変換される。
―なんで。腕が、動かない。
目を向ける。
そこには自分の腕がある。
そして同時に、自分のものではない無数の腕を見た。
自分の腕を掴んでいる、無数の腐食した腕を見た。
「―っ!」
息をのむ。
それをきっかけに、左腕にあるのと同じ感触が、全身にくまなく広がっていたのが分かる。
右腕、右足、左足、頭、胸、腹、腰。
いつの間にか閉じていた、その目を開ける。
正面を見た。
視界いっぱいに。
あの、今まで遠くに見ていた、あの、腐った眼が。
見えた。
その一体の背後から、無数の腕が突きだしている。
それら全てが自分を拘束し、自分は一分の動きも取れなくなり、ただ食われるのを待っている。
もがくこともできなかった。
あがくこともできなかった。
視界は怪物の腐った顔で埋め尽くされ、スコップは既に取り落としている。
目の前の顔が、大きく口を開いた。
牙があった。
肉片のようなものがそこに引っかかっているのが見え、鈍く光っていた。腐臭で息がつまり。それが、自分の首に―。
「…」
首に、その牙が突き立てられる感触。
息苦しさと、死の感触。
それがいつになってもやってこない。
―死ぬって、こんなもの?
ばかばかしいと思いながら、そんな風に考えてしまう。
時が止まったような、静寂と静止。
―違う。
そう思った。
死が、怪物に食い殺される最悪の死が、こんなにも静かであるはずはないと思った。
―違う、違うよ、こんなの。だって、あの人達はもっと苦しそうに、もっと痛そうにしながら、そうしながら死んでいった―。
その記憶がよみがえる。
食いちぎられ、半分顔を失くした父親と、もう腕しか残っていない母親が、血みどろになって転がっている自分の家の光景が思い返される。
痛みに顔を歪める街の人々と、その顔のまま食われていく姿を思い返す。
今の自分はああじゃない。
確信する。
痛くも無い、つらくも無い。
死んでいる感覚がない。
―だったら、優花は、死んでない。
「…お、ねえ、ちゃん―」
苦しげに吐かれたその言葉は、けれど今までのように、ただ怪物の騒音に呑まれて消えていくだけではなかった。
「うん。ちゃんとここにいるよ、優花」
そこには言葉を受け取る人がいて、言葉を返してくれる人がいる。
可愛らしい電子音が響いた。
それが自分の腕時計から発される音だと気が付くまで、優花にはまだしばらくの時間が必要だった。




