オペレーション・ハーメルン(4)
―おねえちゃん…。
声にならないほどの声で、呟く。
その時。姉の姿が、優花の視界にふいに立ち現れた。
幻視、とも言えるかもしれない。滲む視界の端に、美咲の姿が見えた気がした。
だが、それをそうと意識した途端、美咲の姿は迫る怪物の群れに溶け込んで、あっさりと消えてしまった。
その後には、美咲の幻が残滓のように残していった、糸のような、細い光の線がうっすらとみえるだけだった。線の先には怪物の群れがある。優花を導くかのように、おぼろげで今にも消えてしまいそうな光の線が、その先に続いている。
どこからか美咲が現れて、目の前の敵を蹴散らしてくれる。そんな幻を示唆しているように思えた。
優花は、それを追い払うように頭を振った。
幻を見ている場合ではなかった。ここにいない姉を頼っても仕方ないと、その考えを頭から振り落とそうとする。
目の前の状況と、この最悪の状態を頭の中で何度も思い返す。
だが再び目を開いても、光の線は消えていなかった。
「だからっ―!」
思わず叫ぶ。
自分から言い出して、状況が少し変わると姉を頼りにしている、その自分が苛立たしかった。
「自分でなんとかするんだって、そう決めたんでしょ、優花っ!」
ハンドルを叩いて、きっ、と正面を見据える。
光の線はまだ消えない。
その先は、群れの中に消えていると思っていた。
だが、何かが違う。優花は無意識に、その線を目で辿ってしまう。
「あっ―。」
その瞬間、目の前の群れは全て消え去り、ただ光の線のみが優花の視界に入るようになった。
線を線と意識した途端、今までのようなおぼろげな光ではなく、またあやふやな糸のようでもなく、はっきりと直線を描いて、それは優花の思考の中に飛び込んでくる。同時に周囲の情景から余計な情報が取り除かれ、優花は瞬時に、その光の意味を理解した。
線だと思っていたそれは、矢印だった。
自分の頭の中に、必要な情報が展開されていくのが分かる。優花の視野は両目で捉えられる範囲から大きく逸脱し、自分の姿を含めた周囲の物全てを、頭上の上空から認識できるようになる。同時に周囲の光景が、地図でも描くかのように頭の中で次々と図解化されていった。
建物の高さが分かる。道路の状態、幅、長さが図形として理解できる。迫っているはずの群れはひと塊の記号と化し、予想される進路が点線で表示されている。そして矢印となった光の線は強調されたように点滅しながら、優花の進むべき進路を、取るべき作戦を、明確に示していた。
―なに、これ?
ぼんやりとした思いで、頭の中で勝手に展開されたその地図を見ている。
姉の幻を振り払って、それをただの線だと認識した途端、いきなり目の前に広げられた、その地形図。
それが何かを考えるよりも早く、優花は点滅する矢印を目で追って、それが単に直線を描いていただけでは無いことに気が付いた。
前方の群れの、現在位置より少し手前で矢印は折れ曲がり、それはそのまま右方向へと向かっていた。
そこには、それまで優花には見えなかった道がある。俯瞰する地図によって初めて確認できた、極めて細い、ビルとビルの合間の隙間。優花一人が通るのが限界だと思えるその隙間に、点滅する矢印は入り込んでいる。地図に寄よれば、その先は行き止まりになっているはずだった。
矢印もその壁に突き当たって止まっていた。だがその横から、一本の線が伸びている。他の物とは違う、ペンで書き加えられたようなその線の先には、丸で大きく囲まれた文字が躍っていた。
「ここで合流!」
そう書かれている。
優花はその文字を見る。
その文字に続く矢印を見る。
文字の下で減り続ける、カウントの表示を見る。
「95:45782326….」
カウントの末尾は、その速さ故に目ではとらえられない。
それらが何であるか、そして自分がどうするべきか、何度も何度も見返して、優花は再確認を重ねていく。
そしてカウントが「90:00000000」を切った時、決心してそこから意識を外した。途端、電源が切れたかのように地図も矢印も文字も、今まで意識の中にあったそれら全てが優花の思考の中からきれいに消え去り、両目は再び、目の前の現実のみを映すようになる。
ひび割れた地面の感触が戻ってくる。焼けたコンクリートと、放置された車両の残骸が目に映る。
そして目の前には、もうすぐ近くに群れが迫っていた。
自分を捉える腕と、食い殺す牙が迫っていた。
「…うん。よし」
だが優花の表情に、もう迷いの色は無かった。
呟いて、抑えていた速力を一気に開放する。
最高速度に達した『べんつ』が、怪物に向かって突撃していく。迷いも恐れも戸惑いも無く、優花はそれを信じて疾走した。
「ここで合流!」そう書かれたあの文字は、まぎれも無く姉である、美咲のもの。
優花には自分の頭の中で起きた出来事の、その原因も理由も分からなかった。いきなり自分の思考に入り込んできたそれら一切は、ぼんやりとした図面のような何か、としてしか認識できなかった。
しかしそれでも、優花はあの文字を読んだ。そしてその内容を理解した。
美咲がそこで、自分に会いたいと言っている。
この最悪の、絶望的な状況の中にあって、優花にできることは、ならば一つだった。
「もうっ、優花はけっきょくおねえちゃんに頼ってる!かっこわるいなあ!」
『べんつ』はひたすらに加速する。
怪物に向かって、一直線に。
ペダルの踏込みを弱めるつもりは、一切なかった。
「見ててよね。おねえちゃんの到着まであと八十秒、優花が脇道に入って行き止まるまであと三十秒―、その間の五十秒、優花は絶対に死んでなんてやらないんだからっ!」
群れに突っ込むかどうかの瀬戸際、優花は前輪を思い切り持ち上げて、無理やりに車体を横向きにさせる。
九十度のターンを車体を削りながらもなんとか成功させ、アスファルトの車道から煉瓦敷きの歩道へと乗り上げた。
「こっち!」
地図で見た通りの細い道が、優花の前に口を開けて待っている。
その先は行き止まり。
背後の怪物は、当然のようにその狭い通路へと殺到してくる。
退路は断たれ、進路も塞がれていた。
だが優花には一切の不安がなく、その速度も弱まることがない。
「おねえちゃんが一番長く戦った時間は十五時間。優花があいつらに追いつかれてから、合流時間まではたった五十秒!」
前方に行き止まりが見えてくる。
それは塀ではなく、新たにそびえ建つビルの壁だった。
見上げるほどに高いそれは、当然越えられそうもない。
優花はそこを自らのゴールと定めたかのように、欠片の躊躇もなく疾走していった。
「たった五十秒だよ、五十秒っ。それくらい、優花にだって!」
そして、たどり着いた。
たどり着いて、しまった。
走り出してから初めて、優花は『べんつ』のアクセルペダルから足を離す。減速した車体は壁に激突する直前で停止し、優花は視線を背後へと向ける。
ゴミを蹴散らし死骸を投げ飛ばし、自分に向かって突撃してくる怪物の姿が、そこにはあった。




