シスターズ・アット・ザ・ポイント(2)
全長十三キロ、最少幅員三メートル、最大高低差八メートル。それこそがこれから優花の走るコースだった。
都心部とはいえ、いやだからこそ、大通りから少しでも離れれば、そこには入り組んだ迷路のような道が広がっている。
そんな道も多分に使って、怪物の巣となった十八のビルの、その全てを駆け抜けなければならなかった。
時刻は十一時三十分。
スタート地点となった広場前に、姉妹は揃って現れる。
激烈な闘争の現場となるべきその場所は、今はまだ静まり返っていて、小さな風のひとつすら吹いてはいない。あの燃えカスも、積み重なっていた怪物の残骸も、既にそこには見られなかった。
「処理が早い―。あいつら、かなり追いつめられてるのかな」
それまでにあった全てが、まるで無かったことにされてしまった光景を前に、美咲はそう呟いた。
この街に残存する動物は、美咲たち姉妹と怪物達との二種類だけ。二人が処理をしたのでなければ必然、残るもう片方がやったという事になる。
死骸の処理―。
それはもちろん、埋葬などという方法ではありえない。あの怪物にそんな行動が望めるのであれば、この街もきっと放棄されるような事態にはなっていない。
人が消え、生物が消え、最も多く残ったのは彼らであり、そしてその彼らにはある一つの衝動が見受けられた。
何かを襲い、食い荒らす、という衝動。
怪物の目的はそれ以外にはなく、ただ唯一のその衝動を持って、彼らは街を侵食していったのだった。
だが既に街は死にかけて、残っている多くは自分たちだけ。当然の帰結として、彼らの衝動は一切の躊躇なく、ただそこにあるものへと向かうことになる。
「死んだのを食い合ったってこと?うえー、信じらんない」
べっ、と舌を出して露骨に嫌悪の表情を浮かべる優花。
そんな優花に、美咲は真面目な顔で言う。
「でも都合はいいんだよ。山積みになった餌が二回も置かれていた場所だからこそ、あいつらも定期的な周回ルートにしてるんだから」
「次の死んだやつを探してるってこと?うわあ、ますますあいつらが嫌いになっちゃった」
「それでいいよ。あいつらだって、きっと死骸よりは私たちの方を食べたいんだよ」
そんなことをさらっと言ってしまう。
優花はもう一度べっ、と舌を出して嫌がって見せた。
電子音を発して、美咲の腕時計が鳴る。
十一時四十五分。
「うん、時間だね。それじゃ、最後の確認をしとこっか」
遠くの方へ向けていた視線を戻して、優花のいる背後へ振り向く。制服のポケットから一枚の紙片を取り出して、それを広げた。小さく細かい、けれどもなぜか読みやすい丁寧な字体で、びっしりと情報が書き込まれている。美咲は妹にも見やすいように、少し低い位置でそれを持った。
寄ってきた優花がその紙片を覗き込む。
それはホワイトボードに書いた地図を書き写して、その後に得た情報も加えた、より詳細な地図だった
自分の影になって読みにくいのか、優花は時々身をよじるようにして、色々と角度を変えながら、美咲の持つ地図を見つめている。
その中の一点を指さして、美咲が言った。
「私たちが今いるのはここ。毎日正午ごろ、つまりあと十五分後には、あいつらの集団がこの場所をこっちの高架の方へ通過していく。優花はこの場所でそれを待つ。私は前に優花もいた交番で隠れてるけど、ちゃんと見てるから大丈夫だよ。ある程度接近してきたら、きっとあいつらが優花に気が付いて駆け出してくるから、そのタイミングですぐに走り出して。ここまでが、『ハーメルン作戦』の第一段階」
ふんふん、と頷く優花。
それからふと思いついたように
「あれ?でも、最初のこいつらが来なかったらどうするの?」
そう美咲に訊いた。
「大丈夫。さっきから六十くらいの群れが、こっちに向かって進んでる。時間も規模もちょうどいいし、第一段階は作戦通りにいけると思うよ」
「ふうんそっか、じゃあ大丈夫だね」
優花にはその集団が見えないし、感じることもできないが、美咲が来ると言うなら絶対に来るのだろうと確信を持って頷いた。
「じゃあその次ね。走り出した優花はそのまま、追ってくるあいつらと一定の間隔を保ってマークしたビルを周りながら、反時計回りに一周するコースを進んでいく。ゴールはスタート地点と一緒のここの場所。これが一番危険だし、一番重要な第二段階だよ」
線で描かれたそのコースを指でなぞりながら、美咲はちらりと妹の表情を窺った。
食い入るように地図を見つめている優花は、やはり怯えも不安も無く、ただ集中しているようだった。
そこに不安の色が無いことを再確認して、美咲は地図に目を戻す。
「『べんつ』の平均速度、それからこれまでの練習で測ったタイムを考えれば、第二段階にかかる時間は大体三十分。まあ追いつかれなければ時間は気にしなくてもいいんだけど、コースの方は絶対に間違えないようにね。一か所でも曲がり角を間違えたりしたら、全部のビルを周りきれなくなる。目標のビルと曲がり角にはペンキで大きくバツ印が打ってあるから、それも気にしながら走るんだよ」
「うん」
「自分の巣の前に獲物と、それから一定数以上の同族が集まった時、あいつらは初めてビルから出てくるんだ。スタートでは小さな群れだけど、進んでいけば転がる雪だるまみたいにどんどん増えていく。優花がコースを一周してここに戻ってくる頃には、その総数は大体八千に膨れ上がってるはず」
「…」
「気にしないといけないのはコースだけじゃなくて、その追いかけてくる奴らから離れすぎちゃいけないってこと。優花の仕事は逃げる事じゃなくって、そいつらを引き寄せてくることだからね。難しいけど、それは忘れないで」
「うん、大丈夫」
「優花が離れない限りあいつらはどこまででも追いかけてくるし、零れたり、脱落したりってことはないはずなんだ。このコースを正確に、練習通りの速さで走り抜けられれば、第二段階は絶対に成功するからね。一周してゴールにたどり着いたら、ひとまず優花のお仕事はそこでお休み。後は」
美咲はそこで言葉を切った。
優花も地図から目を上げる。それまで真剣な顔だった姉が、自分に微笑みかけているのに気が付いた。
優花も、それに笑って応える。
「後は私が、全部終わらせる」
その言葉に、優花は大きくうなずいた。
考え出された作戦はそこまで。後は美咲の暴れるのに任せられる。
美咲は手元の地図を畳んで、再びポケットにしまった。
「もう時間なの?」
「うん。私はそろそろ行こうかな」
言って、優花の頭に手を置いた。くすぐったそうに笑う優花の頭を、ゆっくり撫でる。撫で繰り回しながら、最後の言葉を優花にかける。
「これから三十分間は一人にしちゃうけど、私は傍にはいられないけど、でもずっと優花を感じてるから。絶対に全部を成功させて、ここに戻ってくることを信じてるから。だから安心して、いつも通りに走ってくればいいからね。そしたらいつも通りに私がいて、いつも通りに全部倒して、それでいつも通りに家に帰ろう。他には何にも考えなくていいから、それだけを思っていて、優花―」
頭に手のひらの暖かさを感じながら、優花は頷く。
「あははっ、心配しすぎだよ。おねえちゃんの方がもっと大変なことするのに、変なのっ」
はにかみながら優花は笑う。
美咲はそれを聞くと目を細めて、少し乱れてしまった優花の髪を整えてから、手を離した。
「はい、作戦前のお約束」
手のひらを向けて優花に促す。
すこし思い返すような間があってから、優花は元気に言う。
「絶対にけがしない、絶対に追いつかれない、絶対にゴールするっ!」
えい、えい、おーっ、とふたりで腕を空へ突き上げて、気合を入れた。
作戦開始前の、それが準備の全て。
『べんつ』は調整が済み、スタート位置にもつき、作戦を確認して気合も入れた。予定時刻も、もう近い。やるべき準備は、全て整った。
「よし、じゃあ私は行くよ」
美咲は優花に背を向けて、交番へと歩き出す。
「頑張ってね。ここからは、優花の時間だよ」
その一言を残して、美咲は去っていく。
後に残るのは、大きなリュックを背負い、キックボードに乗り、そして大胆不敵に笑っている、小さな少女がただ一人だけになった。
「おねえちゃんの方がもっと―、か」
後に残してきた優花の方は振り返らず、美咲はまっすぐに歩いていく。
呟いたのは妹の言葉。その時の優花のはにかんだ笑みを思い返して、美咲は自分の心が和むのを感じた。
「でも―」
それから、ふと思う。
「なんで優花はそんな風に思ったんだろう…」
―おねえちゃんの方がもっと大変なことするのに、変なのっ。
そう言ったが、美咲にはそれが不思議に思えた。
優花が街中からかき集め、ハーメルンの笛吹きさながらに引き連れてきた怪物群を、待っていた美咲が殲滅する。
それが作戦の最終段階。
おびき寄せた八千の怪物と、待ち受ける美咲ただ一人が衝突する、ハーメルン作戦第三段階。
だが美咲は言った。一番危険なのは第二段階である、と。
怪物の軍団が押し寄せ、それをただ一人きりで掃討しなければならないとしても、美咲はそのことを危険だと思ってはいない。
そこに立ち、ただ戦う。負けるとは思っていないし、死ぬとは考えてもいない。
八千体。その数は、美咲にとって驚くに値しない。
この街にうごめいていた四万を超える怪物、その全てを退けてきたのは、他の誰でもなく、美咲自身だった。
妹を慈しむ姉と、怪物を薙ぎ払う凶器、そのどちらもが美咲の姿である。それは断絶することなく互いに連関し合って、美咲という一個を作り出している。
そしてその個は、街の崩壊が始まった当初の地獄の最中にあっても全く揺らぐことなく、現在まで生き延び続けてきた。
それはただ優花を守り、悲しませないために。
その個にとっては、四万の怪物も八千の残党も、ただ煩わしいだけの羽虫にすぎない。
美咲にとっては何も大変なことなど、ありはしないのだった。
だから優花の言葉が不思議に思えた。
だが、それはもういい。美咲はそれを気にしないことにする。
気にしないことにして、交番の中に入っていった。しばらくはここで待機をしなければならない。
「ちょっと狭いかなあ」
椅子も机も全て外に出された室内だったが、代わりに運び込まれた物で溢れかえっている。
「こんなに持っていけるわけじゃないんだけど…」
そのうちの一つ、大ぶりのハンマーを持ち上げて、困ったように呟いた。
美咲を取り囲むのは膨大な数の、さまざまな道具。
優花のリュックサックからありったけ引き出されてきた、怪物を掃討するための凶器類だった。
「優花が自信たっぷりに『足りなくなることはないよ』って言ってた理由が分かったかも。うん。これだけあったら十分かな」
背後に積まれたそれらを眺めながら、言う。
言って、美咲は小さく、薄く、笑う。
優花に向けるものとは違う、それは凶器としての笑みだった。
腕に巻かれた時計を確認する。時刻は十二時六分前。
第三次大規模化け物広域掃討作戦「ハーメルン作戦」。
その発動は、もう間近に迫っていた。