第三章 リオン 後編
荒れ放題のその廃屋を手入れして、どうにか人が住めるようになるまでに3日もかかった。そこへアメリアと、その妹も引き取って住まうことになった。
リオンはほとんど家へは帰らず、毎日のようにここに泊まっていたし、教会の宿直の日でさえ、結界を張っておけば大丈夫だと言ってここで夜を明かしていった。そこへあたしも毎日のようにリオンを訪ねていき、自然、ここがあたしたちの溜まり場のようになっていた。そのうちにあたしもここに住まうようになり、あたしたちの奇妙な共同生活が始まったのだ。
アメリアの妹はとても小柄で、まるで小さな子供のようだった。実際に5~6歳の頃から成長が止まってしまったように、体も知能も発達しないのだと言う。生まれつき眼球がなく、腕が歪に捻じ曲がって左腕はほとんど動かすことさえできない。
「こんな体でも、私にとってはたった一人の家族だから」
アメリアはそう言って、そんな妹を実に甲斐甲斐しく世話していた。他人のことなど気にかける余裕すらない雑種の暮らしの中で、家族でさえ動けないものは見捨てざるを得ない。それを彼女のように頑張って養ってきたのは珍しいことだ。
しかしその頑張りの理由も、妹、リディアを見ているとよくわかる。お世辞にも美しいとは言えない容貌はしているけれど、その素直で明朗な性格と屈託の無い笑顔には、どこか心癒されるものがあった。永遠に穢れを知らない子供のまま……そんなことを思わせる少女だった。
そんなリディアのおかげなのか、殺伐としたディープの一角にある小さな隠れ家には、まるで外の世界とは無縁であるかのような明るさがあった。
「アメリアはリディアのお姉さんと言うより、まるでお母さんのようですね」
いつだったかリオンがそんな風に言って笑ったけど、まさにそんな感じだった。リオンがお父さんでアメリアがお母さんで、リディアが子供で、あたしはオカマの居候。なんだかそんな家族のような雰囲気があった。
外の世界から隔絶されたようなこの家の中で、実に平和で実に温かい毎日が繰り返されていく。そうして夏が去り秋も終わり、小雪が舞い始めた頃の出来事だった。
「冷え込んできましたね。外は雪ですよ。今夜は積もるかもしれない」
そんなことを言いながら、寒そうに身を縮めてリオンが入ってきた。すると暖炉のそばの椅子で退屈そうに足をばたばたさせていたリディアが、待ちかねていたように扉の方へ駆け出す。
「リオン、お帰り~! ねぇね、また絵本を読んでよ。今日は誰も私の相手をしてくれないの。リオンは遊んでくれるでしょ?」
喜び勇んで飛びつくリディアを優しく抱き上げてリオンは微笑む。それから部屋の中を見回して訊ねた。
「アメリアは? お姉ちゃんは出かけているのですか?」
居間にしているこの部屋にアメリアの姿はなかった。相変わらずあまり愛想がいいとも言えないような彼女ではあったけれど、リオンが来ると、必ずすぐに出迎えるのだが。その言葉を聞いてリディアが顔を曇らせる。
「お姉ちゃん、病気なの。ずっと寝てばっかり……」
リオンがこのところ仕事が忙しいとかで3日ほど顔を出さなかった間、彼女は体調を崩して寝込んでいるのだ。そのおかげであたしがリディアの子守をする羽目になって、いい加減うんざりしてきたところでもあった。
「それはいけない。お姉ちゃんは寝室ですか?」
こくりと頷くリディアを下ろして、リオンは寝室の方へ向かう。
「入りますよ」
軽くノックをしてから声をかけて、リオンが扉を開けた。しかしアメリアはベッドに横たわり、リオンに背を向けたまま、くぐもった声でそれを制する。
「来ないで!」
リオンは一瞬、立ち止まったけれど、そのまま静かに彼女に歩み寄る。
「どうしたんですか? 具合が悪いとか……。どこが悪いんです? 何か薬は?」
そう言いながらリオンもベッドに腰を下ろし、そっとアメリアの額に手を触れた。
「うん? 少し熱っぽいようですね。医者を呼んだ方がいいでしょうか……」
しかしそんな彼の手を、アメリアは乱暴に跳ね除けると頭から毛布を被って、半ば怒鳴るように言う。
「やめて! 薬も医者も必要ないわ! 帰って! 今はあんたに会いたくない!」
リオンはいったいどうしていいものかわからないと言ったような顔をして振り返ると、あたしに助けを求めるような視線をよこした。しかしあたしだって何がなんだかわからない。
「困った……。どうやらご機嫌が悪いようですね」
項垂れてそうつぶやき、リオンは寝室から出てきた。そのまま食卓の椅子に座ると、深い溜息をつく。
「私……何か悪いことでもしました?」
あたしは夕食の支度の手を止めて、わざと大袈裟に首を傾げて見せる。
「さぁね。3日も顔を見せないから拗ねてるんじゃない?」
「そんなことならいいのですが……」
そう言って情けない顔でがっくりと肩を落とすリオン。あたしはそんな彼の額を、持っていたオタマでこつんと小突いて笑った。
「馬鹿ね。男が怒鳴られてすごすご引き返してくるから悪いんじゃない。そこは男らしくこう……がばっといかなきゃ! たいていはそれでご機嫌も直るわよ!」
リオンはそんなあたしを呆れ顔で眺めて、また深い溜息をついた。
「何を馬鹿なことを言ってるんですか……。本当にどこか具合が悪いようなのに、そんなことできるわけないでしょう? 何か重い病気ではないといいのですが……」
このクソ真面目さ加減に付き合うのも結構疲れる。まあでも、これが彼のよさでもあるんだけど……。
結局リオンは小一時間ほどリディアの子守をしただけで、また出て行かなければならないと言って重い腰を上げた。
「アメリア。私は創立祭の準備やなにかでまた何日か来られそうもありません。フムルによく頼んでおきましたから、何かあれば彼に言ってください。よく体を休めて……。早く元気になってください」
扉の外からそう声をかけて、リオンはもう一度大きな溜息をついた。それから何度も寝室の方を振り返りながら家を出て行く。
あと10日ほどで教皇庁の創立祭が始まるのだ。今年はちょうど創立2000年目の節目の年で、盛大な祭典が催されるのだと言う。下っ端の宣教師であるリオンもその準備に借り出され、遅くまで雑多な仕事をこなさなければならないらしい。
それに自ら志願して宣教師になったとはいえ、本来は良家のご令息だ。祭典が近づけば晩餐会や夜会も増え、それにも顔を出さなければ親が五月蝿いのだと愚痴をこぼしていた。
あたしもリオンに釣られて大きな溜息をついて、料理の手を止めた。そして、つかつかとアメリアの寝室へと向かい、黙ってドアを開ける。
「ねえ、あんた。いったいどうしたって言うの? あれじゃリオンが可哀相じゃない。忙しいってのに僅かの時間でもと思って来てくれたのよ。彼、なんだか疲れた顔してたわ」
そんなあたしの言葉も聞いているのかいないのか、背を向けたまま身じろぎひとつしない彼女に、あたしは少々腹が立ってきた。苛立ち紛れに彼女の被っている毛布を引き剥がす。
すると彼女は青ざめた顔で身を縮め、小さな声でとんでもないことを口にした。
「どうしよう……。私……リオンの子供ができた……」
「えっ!? ちょ……えぇっ!? それは確かなの?」
驚きのあまり頓狂な声を出すあたし。アメリアはただ黙って頷いた。しかしまあ冷静に考えれば、2人が男女の関係である以上あり得ないことではない。このあたりを縄張りにしているもぐりの医者に見せたところでは、もう4ヶ月になるらしい。
「もう! なんでそんなことあたしに話すのよ!? リオンに言わなくちゃダメじゃない!」
「言えるわけないじゃない! だって……産めない……。純血のお坊ちゃまが雑種の子供なんて欲しいわけないじゃない。女一人囲うのとはわけが違うのよ。許してくれるわけがない。でも……」
ああ、この娘は……。
「そうよねぇ。男って結局無責任なのよねぇ。やりたいことだけやって、いざとなったら女なんてポイして逃げる。それじゃ困るわよねぇ。今の暮らしを続けたいなら、リオンにばれないうちに堕ろすしかないわね。どんな紳士の仮面を被ったって、リオンだって同じ男だものねぇ。無責任で、卑怯で、思いやりがなくて……」
あたしはわざと意地悪にそう言って見せる。すると思った以上に過激な反応が返ってきた。あたしの顔面に鈍い痛みが走る。
「あんたね! 投げつけるならせめて枕か毛布にしてよ! オカマの大事な顔面に、花瓶を投げつけるとは何事よ! この乱暴女!」
「リオンはそんな男じゃない! それはあんただってよく知ってるじゃない!」
怒鳴るあたしに怒鳴り返すアメリア。そんな彼女にあたしは微笑を返した。
「あんたこそよく知ってるじゃない。今度来たら、ちゃんとリオンに話すのよ。あんたが産みたくないって言うなら話は別だけど、彼ならちゃんと考えてくれるわ。少なくとも捨てて逃げるような真似はしない。あたしはそう信じてる」
「うん……」
アメリアも微かに微笑んで頷いた。それを見届けてからあたしは彼女のおかげでびしょ濡れになった顔を服の袖で拭って、部屋を出た。出る前にひとつだけ言い残して。
「割れた花瓶はあんたが片付けなさいよ! そんなでっかい花瓶を投げつける元気があるなら、いつまでも毛布被って寝てるんじゃないわよ! もう! あたし、急いでお化粧直さなくっちゃ!」
リオンが再びここを訪れたのは5日ほど経った夜遅い時間だった。リディアが眠った後、妙に改まった雰囲気で3人がテーブルに着く。
「どうしたんですか? こんなに改まって話しとは?」
なんとなく気まずい沈黙を破って口を開いたのはリオンだった。ついに時が来たかと、身を強張らせて俯くアメリアの肩を、あたしはそっと叩いた。するとやっと意を決したように彼女が口を開く。
「リオン……落ち着いて聞いて。私……妊娠したの。あなたの子供ができたの」
出し抜けにそんなことを言われて、声もなく目を丸くするリオン。何か言おうと口を開いては閉じ、まるで金魚のように口をぱくぱくさせている。
「ど……どうしよう? どうしたらいいんです? え……あの……その……」
やっと声が出たと思ったらそんなことを言い出す始末。リオンのことだから手放しで喜んだりするんじゃないか、なんて甘いことを考えていたあたしが馬鹿だった。さすがにそこまでリオンも甘くはなかったようだ。
さっと顔色を曇らせてアメリアが俯く。
「どうしようじゃないわよ! あんた何無責任なこと言ってるわけ!? あんたの子なのよ!」
思わずヒステリックな声で怒鳴るあたし。
「いいの! やっぱり……産まない方がいい。産んだって、雑種の子に明るい未来なんて……」
そこにアメリアの涙声が重なる。
「ちょ……ちょっと待ってください。2人とも」
ひとつ大きく深呼吸をしてからリオンが言う。
「誰が堕ろせなんて言いました? どうしよう……なんて言い方が誤解を招いたようですね。つい慌ててしまってすみません。嬉しくって……。愛する人の胎内に自分の命の一部が宿るんです。こんなに素晴らしいことはない」
それから向かい合って座っていたアメリアのところまで来て、その両手をしっかり握って続けた。
「お願いだから、堕ろすなんて言わないでください。もう一度きちんと言い直しますね。あなたとお腹の子のために、私は何をしたらいいのですか? 必要なものとか、準備しなくてはいけないものとか……。私にできることなら、なんでも言ってください」
アメリアの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。そしてそのままリオンの胸に華奢な体を預け、こう言った。
「いつかきっと約束を果たしてね。純血も雑種もない……この子が幸せに暮らせる世界を作って」
リオンはアメリアをきつく抱きしめ、ゆっくりと彼女に、そして自分自身にも言い聞かせるように強い声で言った。
「はい。必ず」
午後から降り出した雪が激しさを増し、外はすっかり吹雪いている。それでもこの家の中だけは優しく温かい空気が満ちていた。時折強風が窓を叩き、ガタガタと木戸を揺らす音も、今の2人には聞こえないようだった。
窓から温かな陽光が差し込む、よく晴れた日の昼下がり。あたしはキッチンの隅にできた陽だまりに椅子を運び、のんびりと午睡を楽しんでいた。その足元でビー玉を転がして遊んでいたリディアも、いつのまにかあたしの脚にもたれて眠っている。アメリアは暖炉の傍に置かれたソファで、リディアがお気に入りにしている、白い猫の縫いぐるみの解れを繕ってやっていた。一緒に暮らし始めた日、リオンがリディアへの贈り物として持ってきたものだ。
そこへ、この頃では珍しく、こんな早い時間にリオンが帰ってきた。何かいいことでもあったのか、にこにこと笑みを浮かべながら、アメリアの隣に腰を下ろす。
そしてさも嬉しそうにこう言った。
「多忙な日が続きましたが、明日はようやく創立祭です。今夜は前夜祭に出なければなりませんが、夜会だけなので途中で抜けてきますよ。酒が入れば私ひとり抜け出したところで誰も気づかないだろうと思いますから。明日の式典は午後からですから、朝は遅くてもいいんです。久しぶりにゆっくりできますよ」
しかしアメリアは、針を運ぶ手元から目を上げもせず、「ふぅん」とそっけない返事を返す。
もっと喜んでくれるとでも思っていたのだろう。リオンは寂しいような、困ったような顔をして、あたしに視線をよこす。でも、あたしはわざと目を逸らして、少し意地悪く笑って見せることにした。
だって、あたしは気づいたのだから。もう縫いぐるみの解れはすっかり閉じているのに、アメリアはまだ針を動かしては、必要のないところを縫っている。そして冷淡に結んだままの口元が、一瞬緩んで、確かに笑みを零したのを、あたしは見逃さなかった。
この2人はいつもこんな調子だった。素直にストレートに愛情を表すリオンと、照れ隠しなのか、わざとそれを煩わしげにあしらうアメリア。それをわかっていながら、やっぱり困った顔であたしに助けを求めるリオン。2人っきりのときには、いったいアメリアがリオンにどんな顔を見せているのか、一度見てみたいものだと、あたしは常日頃思う。
リオンはそれを言いに戻っただけのようで、少しするとすぐにまた出て行った。すると、アメリアは縫いぐるみを置いて、急に忙しげに掃除をしたり、普段はやりたがらない料理を始めたりする。
こんな2人の様子を見ていると、なんだか微笑ましくて、あたしはひとり、「くすっ」と笑った。
「あたし、これからちょっと出かけてくるわ。今夜は帰らないから、ごゆっくり」
久しぶりにリオンが泊まっていくというのなら、あたしは気を利かせて外へ出ていることにしよう。あたしはそう思って、夕暮れの街に出かけていった。どこへ行くという宛てもないけれど、あたしも久しぶりにのんびりお酒でも飲むことにしよう。
また雪でも降り出すのか、遠くの空に暗雲が立ち込め、遠雷の音が響いていた。
いつの間にか、もう日付が変わっている。華やかなワルツと、人々の笑いさざめく声が流れる中、私は一人、小さく舌打ちをした。
「少し酒を過ごしたようです。酔い覚ましに、少し外へ出てきます」
「あら。それでしたら、わたくしもご一緒しますわ。外は雪ですもの。酔っていらっしゃるのに、お一人では危のうございますわ」
さっきから、もう何度もこんなやり取りを繰り返している。今夜は早く帰ると、アメリアに約束したのに、こんな調子では、なかなか帰れそうもない。これだから夜会は嫌いだ。
確か、彼女は夜会が始まったばかりの頃から、ずっと私に纏わりついてきている。名前を聞いたような気もするが、どうにも思い出せない。人眼を引く派手な赤いドレスを着た、なかなかの美人なのだが、それだけだ。女性といえば、誰も彼も華美なドレスを身に纏い、同じような化粧をして、誰も同じに見えるのだ。
仕方なく彼女とバルコニーへ出て、しばらく過ごし、また熱気のこもるホールに戻る。そしてついに私は諦めて、手近にあったソファに腰を下ろした。さすがに疲れているのだろう。途端に睡魔が襲ってきた。
「あら、仕方のないリオン様。お疲れなのね。少しお眠りなさいませ。わたくしが介抱してさしあげますわ」
彼女は艶やかに笑って、私に寄り添うようにして座った。甘い香水の香りが、更に眠気を誘う。
アメリアはまだ起きているだろうか。大事な体なのだから、待たずに寝ていてくれるといいのだが。きっと怒っているだろうな。明日の朝、なんと言って謝ろうか。何か贈り物でもしようか。花か、それともアクセサリーか、好物のパイにしようか。いや、それよりも、生まれてくる子供のために産着を買おう。白なら男でも女でも大丈夫だろう。それならきっとアメリアも喜んでくれる。それから、リディアには甘いお菓子でも買って……。名前すら覚えていない女に身を任せて、そんなことばかりを考えていた。
ふと気がつくと、バルコニーの窓の外に、色とりどりの火花が散るのが目に入った。花火だ。どうやら、いつの間にか眠っていたらしく、その音で目が覚めた。
「花火? いったい……なんの騒ぎです?」
「あら、良い時にお目覚めですわね。ちょうど今始まったところですの。生贄の儀式の開始を告げる花火だそうですわ」
赤いドレスの女は、赤い唇を不自然に釣り上げて笑った。気味の悪い作り笑顔を眺めながら、私は、呆然として、その言葉の意味を噛みしめた。
「生贄の儀式……」
呟いて、吐き気が込み上げてきた。全身に冷たいものが走る。私は思わず立ち上がっていた。
「どうされたのですか? リオン様も、あんな野蛮なものをご覧になりたいのですか? ずいぶんたくさんの方が見物に行かれましたけど、わたくしは嫌ですわ。そんなものより、ここでわたくしと花火でも眺めていましょうよ」
彼女の手が、やんわりと私の腕を掴む。しかし、私はその手を乱暴に振り払うと、駈け出していた。
後方で何か叫ぶような声がしたが、そんなことにも構わず、ホールを飛び出した。花火を見上げ、笑いさざめく人混みの中を、私はただ走った。
昔、創立祭では教皇庁の威光を讃え、平和な治世が続くようにとの願いを込めて、神に生贄を捧げていた。神に逆らった逆賊、雑種の命を。それも何人と数えられるような数ではない。祭りのたびに貧民街の1区画を襲撃し、そこに住まうもの全てを皆殺しにした。それが生贄の儀式だ。しかしその風習は時代の流れとともに廃れ、もう600年ほどは行われていなかったのだ。生贄の代わりに紙人形を焼いて捧げる儀式が、その痕跡として残っているだけだ。2千年目の祭典の目玉として、この儀式が候補に挙がっているのは知っていた。しかし、費用がかかりすぎるとか、騎士団が嫌がるだろうとか言って、父が乗り気ではなかったようだし、そんな大掛かりなことをするとも思わなかった。だから、あまり式典のことなど興味がなかった私は、そのまま聞き流して忘れていたのだ。
あの花火の方向は……。まさか、まさかとは思う。無事でいてくれ。アメリア、リディア、フムル。
嫌な予感ほど当たるものか、隠れ家のある一角へたどり着くと、そこは既に聖騎士団に包囲され、街からは火の手が上がっていた。
「やめてください! どうしてこんな酷いことを……!」
私は、人目も憚らず、騎士のひとりに取りすがって叫んだ。鎧に身を包んだ屈強なヒューマンの男は、さもめんどくさそうに、私の身体を押しやった。
「なんだ、お前? なに寝ぼけたこと言ってやがる?」
「どいてください! 行かなければ……。中に大切な人がいるんです。助けに行かなければ!!」
街へ入って行こうとする私を、男が剣の鞘で押し返す。そんなことを何度か繰り返すうち、私は何度か冷たい石畳を舐めることになった。回数を増すごとに、その応酬も激しさを増し、ついに私は腹を蹴られ、石畳にうずくまった。そのとき、ポケットに入れたままだった階級章が落ちた。それを見て、男が鼻白んだように、短く笑った。
「なんだ、やたら良い恰好をしてるから、どこかの頭の緩いお坊ちゃんかと思えば、宣教師か。宣教師ってのは、たまに頭のおかしいのがいるって話は本当だな」
そう吐き捨てるように言うと、男は更に私の腹を蹴りあげてから、剣の鞘を振り上げた。後頭部に激痛が走り、意識が遠のいていく。集まってきた野次馬たちの嘲笑を聞きながら、私は闇の中に引きずり込まれていった。
まだアルコールの残る頭を揺らしながら、あたしは、隠れ家への帰り道をぶらぶらと歩いていた。もうこの時間なら、リオンもアメリアも起きているだろう。しかし、今朝はなんだか、街行く人みなが青い顔をしているように見える。今朝……と言ってももう正午を過ぎているのだから、朝でもないのだけど。まあ、貧民街の人間は普段からいい顔色はしていないのだから、気のせいだろう。夕べはちょっとお酒が過ぎたせいかしら?
そんなことを考えながら、いつものように通い慣れた路地を歩いてきたけれど、確かにいつもとは何かが違う。なんだか焦げ臭いような臭いがするし、路地のあちこちで人が死んでいる。物騒なディープのことだから、路地に1つや2つくらいは死体が転がっていたって不思議にも思わないけれど、今日は数が尋常じゃない。自然、あたしは早足になって家へ向かう。
そしてあたしは気づいた。街に、いつも見慣れたディープという街に、生きている人間の気配がしないということに。昼間から酒を煽りながら街角に立つ麻薬の売人も、夜の仕事に備えて武器を磨く盗賊も、誰も……誰も……。
隠れ家の扉は斧で突き破られたような跡があり、壊れて半開きになったままになっていた。その先にあるものを半ば予想して、あたしはごくりと唾を飲み込みながら中へと進んだ。
裏切ってくれればいいものを、あたしの予想ははずれなかった。乱雑に荒らされた部屋の中程に、リディアを庇うようにして倒れたアメリア。2人の倒れた床には、大きな血溜まりが出来ている。2人が既にこと切れていることは、近づいてみるまでもなくわかった。
あの後アメリアはリオンのために着替えたのだろう、彼が好きだと言っていた若草色のドレスは無残に切り裂かれ、割れた石榴のような傷口が露になっている。まるで助けを求めるように伸ばされたリディアの右手の先には、踏みにじられて破れた猫の縫いぐるみが転がっている。血液を吸い込んで、赤黒く染まったその縫いぐるみが、恨めしそうな顔であたしを睨んでいるように見えた。
呆然と立ち尽くすあたしの背後で、不意にガタンと大きな音がした。はっとして振り返ると、そこには崩れるようにして床に膝をつくリオンの姿があった。
「ちょ……リオン! いったいどういうことなのよ!? 何があったっていうの!?」
彼の方に近寄って行って、あたしは初めてリオンも酷い怪我を負っていることに気がついた。彼も既に死んでしまっているかのように、血の気を失った真っ青な顔でただ呆然としている。
「ちょっと! しっかりしなさい! いったいなんなのよ! あたしがいない間に何があったのよ!?」
あたしは力一杯リオンの肩を揺さぶった。汚れて破れたカッターシャツの裂け目から、青黒く腫れ上がった腕が覗いていた。
「生贄の儀式……」
彼は焦点の合わない瞳で、ぽつりと呟いた。呟いたかと思うと、急に拳を握り締め、両手で床を激しく叩きだした。
「ちくしょおーーーーっ!!! どうして! どうしてこんな……!!」
それは今まで見たこともないほどの慟哭だった。いつも物静かに笑っているリオンからは、想像もできない姿だった。
少し落ち着きを取り戻してから、あたしは彼の傷を手当した。手当てを受けながら、彼はことの経緯をぽつりぽつりと話し始めた。
「その後、聖騎士団から異端審問官に引き渡されて、散々な目に遭いました。ようやく身元がわかって釈放されたところだったんです」
それを聞いてあたしは驚くと同時に、猛烈な怒りが込み上げてきた。
「なんてことなの!? 許せないわ!! ああ……こんなことなら、出かけたりするんじゃなかった! あたし……あんたが久しぶりにゆっくり帰ってくるって聞いて、気を利かせるつもりで出かけてたの。久しぶりに離れたところにある昔の馴染みの店に行って……。泊まる宛てもないし、酒場で夜明かしするつもりで、つい飲みすぎて……花火の音にもこの騒ぎにも気がつかなかったの。あたしさえ出かけてなければ……!」
あたしは悔しくてたまらなくなって髪を掻き毟る。引きちぎったまま伸び放題になったバサバサの髪を振り乱して、太い雄叫びを上げる。
その頃にはだいぶ落ち着きを取り戻していたリオンが、そんなあたしの手をそっと掴み、掻き毟った頭から離す。
「フムルが悪いんじゃない。悪いのは……全部私です。もっと教皇庁の動きを慎重に見極めていれば……。騎士団と闘ってでも助けに入っていれば……」
「そんな……荒くれ者揃いのディープを一夜にして全滅させるほどの兵力なのよ。いくらあんたでも闘って勝てるわけないじゃない。それじゃあんたも一緒に死んでたわよ。あたしでも……きっと同じね。悪いのは、あたしでも、あんたでもない。」
そんなあたしの言葉をよそに、リオンは虚ろな目で深い溜息をつき、小さな声で呟いた。
「そもそも、こんなところに囲ったりしたのが悪かったんですよ。一緒に……死んだ方がよかった」
「馬鹿!!」
あたしは叫ぶように言って、リオンの頬を打った。大馬鹿だわ!
「あんたがそんなことでどうするのよ!? あんたが一緒に死んで、アメリアが喜ぶとでも思うの!? アメリアはあんたのどこに惚れてたと思うのよ!? そんな生ぬるい優しさなんかじゃない! 世界を変えると……必ず変えると言ったあんたの心根の強さに惚れてたのよ! それなのに情けないこと言ってんじゃないわよ!! やり遂げなさいよ! 生きてやり遂げなさいよ!! 彼女の死を悼むなら、こんなことが2度と起きない世の中を作りなさいよ! 死ぬなんて……死にたいなんて卑怯よ! 逃げてるだけだわ!!」
愕然とした面持ちでその言葉を聞いていたリオンの目から、再び涙がこぼれる。そして彼はあたしの服の襟首を掴み、激しく揺さぶった。
「私に……こんな私に何ができるって言うんです!? 助けてくれた女性を救えなかった幼い日の私と今の私、どう違うと言うんですか!? 何もできなかった……! また何もできなかった! 愛しいひと一人救うことができなかった……。こんな無力な私に……何ができると言うんですか……。世界を変えるなんて……やっぱり夢物語でしかない……」
最後の方はもう涙声で、あたしの襟首を掴む手の力も抜けて、言い終わると同時に力なく床を叩いた。あとはもう疲れきった顔で、ただ徒にじっと床を見つめている。
「言うことは……それだけ?」
あたしの声にももう反応を示さず、彼はただ虚ろに座り込んだままだった。あたしは苛立ちと、怒りと、悲しみと、いろいろなものが綯い交ぜに胸に込み上げてきて、そんな彼を見ていられなかった。キッチンに無事なままで残っていた酒瓶を手に取ると、あたしは自分が寝泊りしていた2階の部屋に上がって、ただ浴びるように酒を煽った。
何も……考えられなかった。ただ酒を煽り、じっとしていられなくなっては、誰もいない、音もしない空間で斧を振り回した。アメリアとリディアの無残な遺体と、まるで魂が抜けてしまったかのように動かないリオンの姿だけが頭に浮かんで消えなかった。
気がつくとあたしは、斧を片手に階下に降りていた。リオンはあたしが来たことにも気づかぬ様で、アメリアの遺体を胸に抱き、ただじっと暗闇を見つめていた。
あたしは何も言わずその背後に立ち、斧を振り上げる。恐ろしいほどの静寂が辺りを包んでいた。
「そんなに死にたきゃ、今ここであたしが殺してやるわよ」
しかしリオンは身じろぎひとつせず、闇を見つめ続ける。
何もできなかったのはあたしも同じ。どれだけ魔法ができようが、腕力が強かろうが、圧倒的な数の前に何もできない。無力なのはあたしも同じ。それを嘆く彼を責めることはできない。世界を変えるなんてこと、あたしには口に出すことさえできやしないのに。
それでも、あたしはこんな風に無力感に打ちひしがれる彼の姿を見ていることができない。こんな生ける屍のように虚ろな目をしていて欲しくない。それならいっそ、あたしの手で殺してやろうと思った。
生きて欲しい。あたしの斧から無様に逃げ回ってでも、生きて欲しい。それなのに彼は動こうとしなかった。
もう終わりにしよう。この斧を振り下ろして、死体をひとつ増やしたら、あたしはまた怪物に戻る。宵闇の殺人鬼フムルに戻ろう。
そう覚悟を決めた瞬間、不意にリオンが口を開いた。
「私は……上を目指します」
「え……?」
咄嗟に何を言っているのか理解できなくて聞き返したあたしの方に、リオンはゆっくりと顔を向けた。そこにはさっきまでの虚ろな瞳はなく、闇の中で静かに煌くような強い瞳があった。
「私は今まで、権力を振りかざし、弱いものを犠牲にしてなんとも思わないような権力者を嫌ってきました。私には権力など必要ない。世界を変えるというのは、そんな権力者を……今の体制を底辺から打ち砕くことだと、漠然と考えていました。しかしそれは違う。そんなものは私の独りよがりだと気づきました」
強い決意を秘めて、ゆっくりとした口調で話すリオン。あたしは振り上げた斧を下ろし、彼の隣に腰を下ろす。あたしは何も言わずそっと彼の肩を叩くと、そのまま視線を落として無言で話の先を促した。リオンも再び冷え切った闇を見つめる。
「もし私が見習い宣教師などでなかったら……大神官や司祭なら、生贄の儀式が決定されるのを確実に知ることができただろうし、そのものを止めることだってできたかもしれない。騎士団の一兵卒ごときに殴られて気を失うような失態もなかったでしょう。それは底辺からの改革だってときにはあります。でも、やはり世界を動かしているのは中枢にいる権力者です。故に上位のものに逆らうことが出来ないのが世の中です。それなら……私は上を目指す。誰にも……聖騎士団長だろうと魔導師長だろうと大司教だろうと、逆らうことの許されない地位を……」
あたしはリオンが示している地位がなんであるのか、このときはまだわからなかった。神官たちの上下関係は複雑でよくわからないけど、ただなんとなくとんでもない地位を目標にしていることだけはわかった。そしてそこへ至る道が容易ではないことも。
「リオン……あんたそう簡単に言うけど……」
「わかっています。そのためには、望まないこともしなければならないでしょう。神官の上位に立つということは、雑種を敵に回すことでもあります。ときにはこの手で……なんの罪もない人たちを殺さなくてはならないこともあるでしょう。それでも……私は権力の座を手にする。どんなことをしても」
彼の決意が固いことは、闇を睨み据え、奥歯をきつく噛み締めたその顔が物語っているようだった。あたしは、リオンとの別れのときが来たことを悟った。
「もうここへは来ません。あなたとも会わない」
そんなあたしの思いを察したように、リオンが言った。
「あたしは……お別れの言葉は言わないわよ。絶対にまた会えると信じてるから……。あんたならやれる。世界を変えて……誰はばかることなく、純血のあんたと雑種のあたしが友達だと言える日が来ると信じてるから。その日まで、あたしはここで待つわ」
あたしは困難な道を行く彼の身を案ずることも、別れの寂しさも背中に追いやって、精一杯の笑顔を見せた。必ず会える。これが永久の別れではないと信じて。ただその瞳に光るものだけは隠せなかったけれど。
「フムル……。ありがとう。必ず、また会いましょう」
リオンはそう言うと、壊れ物でも扱うかのように、そっとアメリアの遺体を床に降ろした。そして氷のように冷たくなったその唇に、自らの唇を重ねた。
「最後の頼みです。アメリアとリディアを手厚く弔ってやってください。私はもう行かなければ……」
そう言ってリオンは立ち上がった。そして扉に向かってゆっくりと、しかし振り向かずに歩いていく。あたしもその後をゆっくりと歩いた。
「せめて見送らせてね。この家から……アメリアとあたしたちのこの家から出て行くときくらいは」
戸口に立って、あたしが声をかけると、リオンは背を向けたまま、ただこくりと頷いた。そして寒々とした夜空を見上げる。
「こんな不甲斐ない私を信じたために……、私の身勝手のせいでこんな惨い死に方をして……。結局私は、彼女を不幸にしてしまっただけでしたね。たとえ世界を変えることができたとしても、それだけは償えない。愛さなければよかった……」
そう言ってリオンは長い間、ただじっと空を見上げている。月も星もない真っ暗な夜空から、ひらひらと雪が舞い落ちてきた。雪は瞬く間にリオンの頭を、肩を白く覆っていく。まるでその冷たい雪がリオンの心にも降り積もり、その心を閉ざしていくようで、あたしは切なくなった。
「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ! アメリアは幸せだったに決まってるじゃない。だって、愛されたんだもの。一緒に死にたいとまで思われるほど、あんたって男に愛されたんだもの! 囲い者だってなんだっていいじゃない。ひとりの男が命を懸けてもいいと思う程に愛されるなんて、彼女、幸せだったわよ。絶対に……」
リオンはあたしの言葉を黙って聞いていたけど、最後に一度だけこっちを振り返った。
「ありがとう」
しんしんと降る雪に溶けて消え入るような小さな声でリオンは言った。そして再び背を向けると、ゆっくりと歩き出した。それからもう2度と、こちらを振り返ることはなかった。