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桃源郷  作者: 胡蝶の夢
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第三章 リオン 中編

 あたしたちと彼女が出会ったのは、それからひとつの季節が過ぎた頃だった。

 この頃はだいぶ遊び慣れてきて、リオンは遊びに出かける前にあたしの家で変装をするようになっていた。貧民街を純血種のいかにもお坊ちゃまがうろついていて、トラブルが起きないわけがない。あたしが雑種に変装することを勧めたのだった。

 青灰色に染めたかつらと、化粧品でわざと目立つように描いた顔の悪魔の紋章。あとは洋服をそれらしくするだけの簡単なものだったけど、どうにかそれらしい見た目にはなった。

「どうしたの? リオン? リオンってば!」

 だいぶ酔いが回ってきたのか、グラスを片手に持ったまま、急に動きを止めたリオンを、あたしが突っついた。まだポーカーの勝負がついていない。

「うん……? ちょっと……」

 リオンは曖昧な返事をしながら、まだどこか一点を見つめたまま動こうとしない。何をそんなに熱心に見ているのかと、あたしもその視線の先に目をやってみた。

 そこにあったのは、ひとりのウェイトレスの姿だった。年の頃はあたしたちと同じか、もう少し下かもしれない。浅黒い肌のスレンダーな体に、鮮やかな橙色の癖毛。まるでガーベラの花を思わせるような、華やかな娘だった。古びて色褪せたドレスにエプロンという冴えない格好なのに、それでも十分に美しいと思わせる色彩を彼女は持っていた。

「なぁに? あんた、ああいうのが好み?」

 リオンが片手にぶら下げたままのグラスに、ちょっと乱暴にあたしのグラスをぶつけてニヤリと笑う。それでやっと我に返ったのか、リオンは慌ててグラスの葡萄酒を飲み干した。よほど慌てたのか、むせて咳き込む。

「おほほっ。なに慌ててるのよ? うぶなのね」

 顔を赤くして咳き込むリオンの背中を、あたしはバンバン叩いて笑った。手加減したつもりだったけど、リオンは勢い余って椅子から転げ落ちそうになった。

「痛いじゃないですか……」

 本当に痛かったようで、恨めしそうにあたしを睨むリオン。あたしはそんなリオンを見ないふりで、快活に笑った。それから周りには聞こえないように、声を潜めて囁く。

「ま、そんなわけないわよね。純血のあんたにとっちゃ、雑種女なんてやっぱり気持ち悪いわよね? あたしは好きだけど。あの毒々しい橙色の髪とか、純血の人は気味悪がるわね」

 生まれつき雑種ではない者にとっては、やはり人種の壁があることは否めない。純血エルフのリオンにとっては、雑種でなくても純血ドワーフも純血ノームも異種なのだ。あたしのように友達にはなれても、恋愛の対象にはなり得ないだろう。それが自然だと思った。

 しかしリオンは急に深刻な顔をして黙り込み、深い溜め息をついた。そして向かい合って座るあたしにさえ聞こえるかどうかの小さな声でつぶやいた。

「異常……ですかね。やっぱり」

「えっ?」

 聞き返して、あたしはふとリオンと出会った夜の言葉を思い出した。「私も同じだから」リオンは確かにそう言った。それはリオンにも異種愛の性癖があるってこと?

「リオン……あんた、まさか……?」

 リオンはあたしの問いかけには答えず、再び彼女の方へ視線を向けた。

「美しい……。そう思うことが、罪ですか?」

 そうつぶやいた彼の瞳は、酔いのせいもあるのか、寂しげに潤んで見えた。それをごまかそうとするかのように、リオンはグラスを口元へ運び、空であることに気づいて「ふっ」と一人笑いをする。

 リオンの性格からすると、ラッセイの店を訪れる多くの客のように、雑種女を玩具にするようなことは考えもしないのだろう。彼にはそんな純情なところがあった。ただ叶わぬ恋に切なく吐息をつく、そんな生真面目な青年の姿がそこにはあった。

「いいじゃない! 誘っちゃいなさいよ!」

 あたしはわざと必要以上に明るい声で言って、軽くウインクして見せた。なんだか嬉しくて仕方がなかったのだ。彼が普通の純血種のように、雑種だからといって差別や迫害をしないのはわかっていた。だけど本当に雑種を一人の人間として、美しいと、愛しく思ってくれることが嬉しかった。あたしのことを美しいと思ってはくれなかったのは、残念でならないけれど。

 するとリオンははっと顔を上げると、目を丸くしてあたしの顔をまじまじと見つめた。何か言おうとして口を開きかけたけど、言葉にならずにそのまま口を閉じる。

「いいわ。あたしに任せて」

 あたしはもう一度ウインクして、手を上げると彼女を呼んだ。リオンはなにか気まずそうに俯いてしまう。

 彼女は急ぎもせずに、やりかけのテーブルを片付けてから、ゆっくりとあたしたちのテーブルへ来た。そしてニコリともせずに言う。

「ご用は?」

 あたしはちょっとカチンときたけど、ここはぐっと我慢して愛想よく笑って言う。

「あたしはテキーラを。彼は葡萄酒と、それからあなたをご所望よ」

 慌てて顔を上げると、なにか言葉にならない声を出してはまた黙るリオン。彼女はあたしとそんなリオンを冷ややかな目つきで眺めると、鼻で笑った。

「馬鹿じゃないの?」

 そう捨て台詞して彼女が店の奥に消えた後、リオンが顔を赤くして言う。

「余計なことを……!」

「だってあんたって奥手そうだから……。でもあんな女やめときなさいよ。可愛げがないわ!」

 今更に彼女の態度に腹が立って、毒づくあたしにリオンはまた声を潜めて言った。

「そうじゃなくて……! 私にはそんなつもりはないんです。仮に彼女とうまくいったとしても、結局は彼女を傷つけるだけなのがわからないんですか?」

 言っている内容がわからないわけじゃなかった。でもあんまりにも古臭いというか、くそ真面目も度が過ぎて、あたしはぽかんとして言葉がでなかった。

 そこに駄目押しするようにリオンが付け加える。

「今は雑種に身をやつしていても、私は純血種です。彼女を妻にすることはできないんですよ」

 あまり彼と恋愛について話したことはなかったけれど、どちらかと言えば奥手で純情な方だとは思っていた。だけど、さすがにここまで保守的な考えはさすがに珍しい。 

 あたしはどう答えていいのかわからず、刻み煙草をパイプに詰めながら、じっとリオンの顔を眺める。

「あんた……くそ真面目だとは思ってたけど、それはさすがに古臭すぎるわよ。セックス=結婚だとか思ってるわけ? 遊びも知らない男なんて、はっきり言って女の方が引くわよ」

 煙草を一服して、煙を吐き出しながらあたしが言うと、リオンはちょっと怖い顔をしてあたしを睨んだ。

「そうじゃありません。私だってその……それなりには……」

 あたしを睨んだ勢いはその一言で終わりだったようで、リオンは言葉尻を濁してまた少し俯く。そして声を低くして続けた。

「ただそれは同じエルフ同士だからです。未来があるかもしれないし、ないかもしれない。だけど明らかに未来のない相手だとわかっていて、手をつけるのは間違っています。囲い者にでもしろと言うんですか?」

 真面目な顔でそんなことを言うリオンに、あたしは思わず噴き出してしまった。

「おほほほほっ! あんた、囲い者だなんて古臭い言葉をよく知ってるわね。いいじゃない! 囲い者! あんた、お坊ちゃまなんだから、雑種女ひとり囲うくらいのお金、小遣い程度でしょ?あの子の身なりを見なさいよ。こんな闇市の酒場で働いて、あんなみすぼらしい格好をしているより、男一人くわえこんでいい暮らしができれば楽でいいじゃない!」

 調子に乗ってちょっと言い過ぎたかと後悔しかけたとき、ちょうど彼女がお酒を運んできた。物凄い形相であたしを睨みつける彼女。今にも噛み付いてきそうだった。

 怒りに震える彼女の手がお盆の上のグラスに伸びる。そして予想通り、あたしは顔面にテキーラをひっかぶることになった。ただひとつ予想外だったのは、あたしの顔にテキーラをぶっかけたのは、彼女ではなくリオンだったことだ。

「見損ないました。頭を冷やしなさい!」

 リオンはそう強い口調で言って、そのまま酒場を出て行った。その後には、意外な展開に呆然とするあたしと、怒りの矛先を失って呆然とする彼女が顔を見合わせたまま、しばらく動けずにいた。


 それっきりリオンはあたしの元を訪れなかった。後悔半分、苛立ち半分。まさかそんなに怒るとは思わなかったのだ。

 あれからまたひとつの季節が過ぎていった。たいくつで仕方ないけれど、また夜の街に立つ気にもならず、昼間から手持ち無沙汰にぶらぶらと街を歩く毎日。そんなある日のことだった。

 厳しい冬が去りようやく暖かくなったかと思えば、ここ数日続く雨のせいで暗く肌寒い日だった。降りしきる雨の中、見覚えのある男が教会の前でぼんやりとたたずんでいる。白地に青の縁取りのローブに、教皇庁の紋章を描いた石のついたロザリオを首から提げている。

「リオン……」

 声をかけようとしたけど、あたしは彼のなんとも言えず切ない表情に気づき、そのまま口を閉ざした。彼は雨に打たれてずぶ濡れになりながら、じっと何かを見つめている。その視線の先に目をやると、日曜の礼拝を終えた雑種たちの疲れた背中が散り散りに街角に消えていくところだった。

 人の姿が見えなくなると、リオンは大きな溜め息をついてから踵を返し、教会の方へ足を向ける。その途中で、彼の方もあたしに気づいたようだった。

 しばらくお互い何も言わずに向き合っていたけど、リオンの方がゆっくりとあたしに近づいてきた。

「お久しぶりです。フムル」

「久しぶりね。リオン。あんた、宣教師になってたのね」

 たしかリオンはこの春、神学校を卒業する予定だった。どこか良家のお坊ちゃまだとか言ってたから、てっきり卒業後は役人かマジックギルドにでも入って、エリート街道まっしぐらだろうと思っていた。それがこの身なりからすると、一番下っ端で、嫌がられる仕事の宣教師。その見習いの服だった。

「はい。これが一番私らしいかと思いまして、志願したのです」

 宣教師の仕事は、貧民街にある教会で雑種に教皇庁の教えを説くというものだ。ただでさえ小汚い雑種相手の仕事なんて嫌われるし、危険も伴う。誰も権力に逆らえずにいるだけで、教皇庁をよく思っている雑種などいないのだ。特に教会の保守のために泊り込む見習いが、夜中に惨殺されるという事件は後を絶たない。

 しかし彼が自分で言うように、宣教師の仕事がリオンらしいとは、あたしには思えなかった。こんな破戒坊主が宣教師とは片腹痛い。むしろ彼なら教皇庁の教義とは縁の薄い、マジックギルドで研究職にでも就く方が似合っているように思う。

「そうかしら? あんたみたいな破壊坊主が宣教師に向いてるとは思えないけど」

 あたしが言うと、リオンは小さく笑って「そうですね」と答えた。それから彼はあたしを教会の中へ誘った。宣教師でも上位の神官は、礼拝が終わると、たいていすぐに帰ってしまうのだ。リオンの上司に当たる神官も街へ帰って、今はもう誰もいないらしい。

 濡れた服を着替えると、リオンは温かい紅茶を淹れてあたしにも勧めた。こうして向かい合って座ると、あの頃に戻ったような気がしてほっとする。

 会わずにいた間にいろいろ話したいことはあった。だけどこれといって改めて話すようなことも思いつかず、あたしはただ紅茶の湯気を眺めていた。

「あのときは……ついカッとなって無礼なことをしました。申し訳ないです」

「あら、いいのよ。あたしも調子に乗って言い過ぎたわ。あんたってば、あれ以来ぱったり姿を見せなくなるんだもの。ずっと怒ってるのかと思ってたわ」

 本当はあたしの方が謝らなきゃならないと思ってたのに、先にリオンに謝られてしまって、ちょっと拍子抜けしてしまった。少し困ったような顔で微笑むあたしに、リオンも同じように困ったような微笑を返した。

「すみません。そういつまでも怒っていたわけじゃないんですが、ちょっと事情がありまして……」

 重い溜息をついて黙り込むリオン。何か話したいことがあるように感じて、あたしも黙って彼の言葉を待つ。長い沈黙の後、リオンは再び口を開いた。

「私には腹違いの兄がいるんです。彼の母親の方が正妻で、私は妾腹の子なんですが……。本当なら彼が父の跡を継ぐのが道理です。それが私の最も恐れていたことが起きましてね。父が私を跡継ぎにすると言い出したんですよ。怒り狂った義母が父を殺そうとしたり、私は兄に命を狙われる羽目に……。散々な目に遭って、外出どころじゃなかったんです」

 確かにあの喧嘩の頃、神学校の卒業を目前にして、進路のことで家族と揉めそうだという話をしていた記憶がある。だけどまさか、そんな血生臭い事態に及ぶほどのことだとは思っていなかった。

「命を狙われる……って、あんたの親、そんなもの凄い地位の人なの?」

「ええ、まぁ……。私はそんな地位なんて欲しくもないのに、いい迷惑です。だから後継者になるのを断って、出世には縁の薄い宣教師に志願したんです。これで一応の決着はつきましたけど、父が諦めない限りはこんなことが続くでしょうね。これが初めてのことではありませんから……」

 自分には居場所がないと言っていたリオンの言葉が、今やっと理解できた。良家に生まれたからこその孤独。友達にも恵まれず、家族さえ信用できない。

「あんた……見かけによらず苦労してるのね。それであんな遣る瀬無い顔で雨に打たれてたわけ?」

 さっきのリオンの切ない面持ちが気になっていたけど、そんな事情があったのでは納得がいく。しかし思いがけず、リオンは苦笑して言った。

「ああ……あれは違うんです。もともと私は宣教師になりたかったから、今回のことで希望が叶ってすっきりしてるんです。実は他にも問題がありまして……このことを話したくて、ちょうどフムルに会いたいと思っていたところだったんです。ただ、なんとなく訪ねづらくて……。偶然にお会いできてよかった」

 そう言うと、リオンはおもむろに開け放たれたままの窓の外を見やった。その方向にはさっきリオンが眺めていた街角が見える。

「あのときの彼女、覚えていますか?」

 そのままぼんやりと窓の外を眺めながら、リオンは言った。忘れるわけもない。あの一件でリオンが離れていって、あたしがどれだけ悔やんだか知れない。

「実は彼女がここの教会に来ているんですよ」

「え?」

 あたしは思わず聞き返していた。それは不自然だ。強制労働で純血種に使われている雑種なら、強制的に教会にも通わなければならない。けれど裏稼業で糧を得るいわゆるアウトロー、もちろん闇市場の酒場で働く彼女も例外ではない、が好き好んで教会になど通うはずがないのだ。

 その矛盾をリオンも心得ているようで、少し間をおいてから続けた。

「彼女、酒場の方は副業のようです。少し探りを入れてみたところ、どうも体の不自由な妹を養っているようなんです。自分ひとりなら強制労働で得られる配給か、酒場の給金だけで暮らしていけるでしょう。でも働けない妹を養うにはどちらか片方ではとても足りません。だから……」

「危険ね」

 リオンの言葉を遮って、あたしが言った。

 貧民街の教会というのは、雑種に教皇庁の教義を押し付けるためだけにあるのではない。その素行を調査し、管理することが一番の目的なのだ。団結して反乱を起こしたりしないよう、素行の怪しい人物を見せしめに殺したり、拷問にかけたりする。

 ただでさえ定期的に素行調査が行われるし、報奨金を目当てにした密告も多い。体の不自由な妹と暮らしていれば、闇市場で働いていることがばれるのも時間の問題だ。そうなれば彼女もただでは済まない。

「そうなんです。今まではどうにか隠しおおせていたようですが、先日、密告がありました。調査が入るのは明後日です。そうなればもう逃れられないでしょう」

 そう言ってリオンはまた深い溜息をついた。あたしと会わない間に、少しやつれたその顔には色濃い疲れが滲んでいる。

「あのとき……私のものにしてしまえばよかったのかもしれませんね。そうすればこんなことには……。あなたの言うとおり、彼女と妹を養うくらい、私には小遣い程度の負担で済みます。それほどに雑種の生活は貧しく苦しい。こんなことがなくても、いつでも死の危機に晒されている彼らの実情を、私は知っているつもりで、実のところ何もわかっていなかった。私が世間知らずだったんですよ」

 押し殺したような小さな声で言って、リオンはきつく唇を噛んだ。後悔と諦めと、やり場のない怒りに苛まれて、彼はただ固く目を閉じる。死の運命をたどる彼女を悼んで。

 でもそれは間違っている。あたしはそう思った。まだ諦めるのは早い。

「なに辛気臭い顔してるのよ!? まだ彼女は生きてるじゃない。まだ手はあるわよ」

 はっと顔を上げるリオンに、あたしはニヤリと笑って見せる。それからあたしは彼にある秘策を授けて、準備のためにすぐに教会を後にした。明後日の夜の再会を約束して。


 夕暮れが近づくと、あたしは化粧をする。丹念にファンデーションを塗りこむ。鋭く細い眉を描いて、青紫のアイシャドーをつける。濃い目のブラウンのチークとマスカラも忘れない。そして最後に鮮やかな赤いルージュをひく。

 久しぶりのこのメイク。この一夜限り、殺人鬼フムルが復活する。

「ねぇ。あたし、綺麗?」

 ターゲットを狙い澄まして、暗がりから飛び出した。今日のターゲットは一昨日から決めてある。哀れな雑種の娘を引き連れた、宣教師のご一行。

 一番先に情けない悲鳴を上げたのは、先頭を歩く中年男のノームだった。

「な……な……なんだ!? お前は!!?」

 慌てて後ずさる彼を庇うように、若いエルフの男が前に飛び出す。

「マルコ様、下がってください。これが恐らく噂の殺人鬼でしょう。相当手強いとか……。ここは私が引き受けます!」

 やや芝居がかった台詞に、あたしは心の中で苦笑しつつ、顔では残忍な微笑を湛える。真っ赤な唇をぺろりと舐めて、両手を縛られたまま身を強張らせる娘をちらりと見る。

「相手は私です! 覚悟なさい!!」

 エルフは勇ましくそう叫ぶと、戦闘体勢に入る。空で魔法陣を描き、長い魔法の詠唱。あたしはそこへすかさず必殺の斧を振り上げた。

 彼の詠唱が終わる間際、あたしの斧がわずかに早く振り下ろされた。しかしそれを読んでいたかの如く、彼は一歩後ろへ飛び下がった。斧は男のローブを切り裂いただけで、空を切る。

 今度はすぐさま男が短い魔法を唱え、無数の細かい光の矢をあたしに向けて放った。でもそのくらいの魔法に引けをとるあたしじゃない。気合一発、雄叫びと共に斧を振り回すと、光の矢はものの見事に全て打ち砕かれた。

 続いてあたしが斧を振りかぶって、乱打を浴びせかける。彼は光の盾でそれをかわしながらも、どんどん押されて壁際に追い詰められていく。そのうちにあたしの一撃が彼の左腕を捉えた。でもダメージは浅い。彼は腕の傷を押さえながら、再びあたしとの間合いを広げた。

「ふん。威勢のわりにはたいしたことないわね」

 あたしは鼻で笑って、彼に背を向けた。そして雑種の娘の方に近寄っていく。

「女! 答えなさい! あたし、綺麗?」

 ノームにロープの片端を持たれて、逃げることもできずに震えている女に、あたしは問いかける。あたしが近づいてくるのに恐れをなして、ノームがロープを放した瞬間、あたしが代わってそのロープを掴む。ロープを乱暴に引っ張って、女を手元に引き寄せると、あたしはもう一度同じ問いを彼女に投げかけた。

 すると彼女は震えながらもあたしを睨み据え、こう答えた。

「地獄に落ちろ! この化け物!!」

 なんて頭にくる女かしら? 本当に斬り殺してやりたい……。そこをぐっと堪えて、女の背を暗がりの壁に押し付ける。おかげで真に迫った芝居ができそうだわ。

「この生意気なクソ女!! あんたこそ地獄に送ってやるわ!」

 斧を一振り。女の悲鳴と共に壁に鮮血が飛び散る。

「ひぃぃっ!! リオン、逃げろ! 女を襲っている間に逃げるんだ!!」

 ノームが叫んで、一目散に走り出す。エルフはちらりとこっちを見て、一瞬ニヤリと笑ってから走り出した。

 その姿が夜の街に消えていくまで、あたしは女の口を押さえて暗がりに身を潜めていた。斧が食い込んだ壁には血糊の入った皮袋がぶら下がっている。作戦は成功だった。


 その夜遅く、あたしたちは闇市場の一角にある廃屋で待ち合わせていた。女はまだ警戒を解かず、あたしを睨みつけている。せっかくの作戦もここで逃げられては台無しだから、あたしはまだ彼女の縄を解かずに柱に縛り付けておいた。

 そこへ約束の時間に少し遅れてリオンが現れた。彼は彼女の姿を認めるなり、傍へ駆け寄る。

「怖い目に遭わせて申し訳ない。怪我はありませんか?」

 それからやっとあたしに向き直って言う。

「フムル、どうにかあなたのおかげで彼女を殺さずに済みました。ありがとう。しかし、どうして彼女を縛ったままなのですか?」

 あたしは呆れ半分で、答えるのも面倒だから黙って彼女を顎で示す。殺されるところだったのを、助けてやったというのに、いつまでも警戒の色を隠さない彼女に少々苛立ってきた。

 怪訝な顔で彼女に視線を戻すリオンにも、彼女は鋭い視線を返して言う。

「あんたたち、一体どういうつもり? 私をどうしようっていうの!?」

「え……あの、どうって……」

 言い淀むリオンに、畳み掛けるように女が言う。

「あんた、覚えてるわ。だいぶ前にその化け物と一緒に酒場に来てたわね。雑種に変装してたみたいだけど、教会で見てすぐわかったわ。いったいなんのつもり? こんな猿芝居を打ってまで私を助けて、今さら俺の玩具になれとでも言うつもりなの?」

 いい加減に腹が立つ。

「あんたね! 助けてもらっておいて、その態度はなによ!? 可愛くない女ね!!」

 ヒステリックなオカマ声で叫ぶあたしを、リオンは手で制して、一度大きく深呼吸をした。それから落ち着いた声でゆっくりと彼女に語りかける。

「アメリア……という名でしたね? 私はあなたを助けたいだけです。決して悪いようにはしません。あなたに好意を持っているのは否定しませんが、嫌だと言うなら、このまま逃がしたって構いません。ただ、私の話を聴いてもらえませんか?」

 リオンはそう言うとアメリアの縄を解いて、テーブルの方へゆっくり歩き、あたしの隣に座った。彼女はその動きを目で追い、テーブルの上で手を組んで俯くリオンを睨みつける。それから声のない嘲笑を顔に浮かべ、また真顔に戻り、再び軽く笑った。

「純血の考えることってわからないわね。いいわ。聞くだけは聞いてあげる。でも雑種にだってそれなりのプライドがあるの。私はあんたの玩具にされるのはゴメンよ。殺された方がマシだわ」

 アメリアはそう吐き捨てるように言ってから、こちらに来て、リオンの向かい側に腰を下ろした。そして古びて腐りかけた椅子に背をもたせかけ、脚を組む。タイトスカートの大きく開いたスリットから、すらっとした脚が覗いた。

 命を助けられておいてこのデカイ態度は気に入らない。でも雑種にだってプライドがあると堂々と言い、決して媚びたり卑下したりしない彼女が、あたしにはなんだか清々しくさえ感じられた。

 リオンは一瞬スリットから覗く太腿に気を取られていたようだけど、軽く咳払いをしてから視線を自分の手元に落とし、おもむろに話し始めた。

「私はとある高位の神官の家に、妾腹の子として生まれました。詳しい身分は明かせませんが、世襲の慣わしのある職です。そして私には正妻が産んだ歳の離れた兄が一人います。本来なら父の跡を継ぐのは兄です。それが幸か不幸か、自分で言うのもなんですが、私は類まれな魔法の才能を持って生まれてしまった。そのせいで父は、私の方を跡取りにしようと考えたようです。これがことの始まりでした」

 リオンは深い溜息をつき、次の言葉を探すようにテーブルの上の蝋燭の炎に目線を移した。少しの間を置いて再び口を開く。

「私はね、幼い頃、兄に殺されかけたことがあるんです。まだものを知らない、雑種や貧民街がどんなものなのか知らないほど幼い頃です。そんな私を、兄は面白い所へ連れて行ってやると言って、貧民街に連れて行きました。そしてそこに置き去りにした。そうすればどうなるか、想像はつくでしょう?」

 貧民街に純血種の幼子が一人。純血種にいい感情を持たない人間も多いところへ置き去りにすれば、ほぼ間違いなくなぶり殺しの目に遭うだろう。

「ひどい兄貴ね。いくらあんたの才能が妬ましいからって、自分の弟を殺そうだなんて……!」

 あたしは言ったけど、リオンは微かに微笑んで言った。

「父はなにかにつけて、私と兄を比べては兄を侮辱していましたから……兄も辛かったと思います。正妻を母に持つ長男が、妾腹の子に負けられないというプレッシャーもあったのでしょうね」

「あんた、ひとがいいわよ。あたしなら絶対ぶち殺してるわ」

 そんなあたしの言葉に、リオンは黙って寂しげな微笑を返した。そしてまた俯き加減に話を続ける。幼い頃の悲しい出来事を。


 私は帰り道もわからずに、ただ泣きながら夕暮れの街をさ迷っていました。みんな一様に嫌な顔をして、幼い私を見ては通り過ぎていきました。

 そのうち、労働者風の男が何か喚きながら石を投げつけてきました。それを見た子供たちが面白がって真似をしました。いつの間にか私は周りを囲まれて、雨のように降り注ぐ石つぶての中にただ蹲っていたのです。浴びせかけられる罵声。嘲笑。さも可笑しげに笑う声。どうして自分がこんな目に遭うのか理解もできないまま、ただ不安と恐怖に苛まれていました。

 そんなときです。そのとき突然、取り囲む衆人の中から一人の中年女性が大きな声を上げて、人の輪の中から飛び出しました。

「やめなさい! 罪もない子供相手にこんなことをして大人げないったらありゃしない! 恥ずかしいと思わないのかい!?」」

 男性と見間違うような大柄な女性で、藁束のような太いお下げ髪が腰まで下がっていたのを覚えています。私を庇って広げられた白い腕に小石が当たって落ちるのを、私はぼんやりと眺めていました。

「どけよ! 純血のガキがこんなところに迷い込んでくる方が悪いんだ」

「今さら逃がしたりしたら、後で報復されるぞ!」

「純血の子供なんか庇ったっていいことなんてないわよ」

 口々に飛び交う言葉にもめげず、彼女はまっすぐに立ち、強い口調で言いました。

「この子があんたたちに何をしたって言うんだい? まだ何もわからないような小さい子をいたぶって憂さ晴らしとは、情けない奴らだね! なんの罪もない子供を面白半分に殺そうだなんて、あんたたちのやってることは、雑種みんなが嫌ってる純血の奴らと同じだよ。恥を知りなさい!」

 女性の剣幕に押されて、次第に人の輪がばらけていくのを、不思議な気分で眺めていました。最後に数人残った子供たちも、彼女のひと睨みで夕闇の街に消えていくと、彼女は言いました。

「さあ、あんたもいつまでも泣いてるんじゃないよ! 男の子だろ! また酷い目に遭わないうちに家へお帰り」

 それから、力強く私の背中を叩くと、その場を離れて歩き出しました。私は他に頼るものもなく、彼女の後をついて歩くしかありませんでした。

 彼女は少し前を早足に歩いては、後をついてくる私を、時々振り返って見ていました。私はその度に足を止めて、声をかけるでもなく、助けを求めるわけでもなくただ彼女を見上げました。そんなことを何度も繰り返した後、彼女から声をかけてきました。

「どうしたの? 早く家に帰りなさい。こんなところをウロウロしてると、また怖い目に遭うよ」

「家がどこかわからない……」

 うなだれて消え入るような小さな声で言った私を、彼女はしばらく無言で眺めていました。それから大きな溜息をついて言いました。

「迷子……ってわけね。こんな小さな子を夜の街に放り出すわけにもいかない。仕方ない。ついてきな」

 そうして彼女は、明日の朝になったら安全なところまで送ってくれることを約束して、私に一夜の宿を与えてくれました。その一夜のことを、私は忘れられません。

 彼女にはたくさんの子供がいて、私と同じ歳の子もいました。貧しいながらも、賑やかでとても暖かい家庭でした。些細なことで取っ組み合いの喧嘩を始める子供たち。それをゲンコツひとつで治める母親。炭鉱で働く筋骨隆々の父親は、そんな様子を楽しげに眺めていました。

 貧しいということを除けば、普通の純血種の家庭と変わらなく見えました。子供が騒ぎ、母親はそれに手を焼き、父親はそれを見て笑っている。私の家のような例外はありますけどね。いつも空気が張り詰めていて、笑い声が聞こえることなど滅多にない家ですから……。

 ともかく不思議な気分でした。まだ歴史など知らず、ただ雑種は悪魔の手先で恐ろしいものだということしか教えられていなかった私は、そんなありふれた家族の姿が不思議でならなかったのです。恐ろしいはずの雑種の家族が、羨ましくさえ思えたのですから。

 私は2段ベッドをいくつも置いた狭い子ども部屋で、子供たちと一緒に床につきました。しかし子供たちがみな寝付いたあとも、私は眠ることができませんでした。

 そんなとき彼女が戸口のところに立って、じっと私の方を見ていることに気がつきました。私は眠ったふりで、薄目を開けてその様子を見ていました。

 彼女は深い溜息をつくと、私と同じ歳の女の子のところへ行き、すやすやと眠っている娘の髪をそっと撫でていました。それから私の方をもう一度振り返り、小さな声でつぶやいたのです。

「こんな小さな子になんの罪があるもんか。雑種でも純血でも、子供には罪がないのにねぇ。遣る瀬無い世の中だよ」

 そのときには彼女の言っていることが、私にはよく理解できませんでした。しかし今ではその言葉の重さを、痛いほど感じます。

 子供だけではありません。大人だって同じです。自分が犯したわけではない、遠い昔の祖先が犯した罪のために、虐げられなければならない雑種。それを罰することが正しいと教えられてきたが故に、憎まれなければならない純血種。なぜ過去の因縁のためにいつまでもいがみ合わなければならないのでしょう? 同じ人間なのに。何も知らずに生まれてきた、同じ無垢の子供だったはずなのに。

 その母親の大きな背中を眺めながら、私はいつしか暖かな眠りの中に落ちていました。

 翌朝、私は彼女に連れられて貧民街を歩きました。大きなコートを頭から被せられ、私が純血種の子だとわからないようにしていたおかげで、誰も私を睨んだり石を投げたりしません。明るいせいもあるのか、夕べのような不安も恐怖も感じませんでした。

 何よりあの一夜で、すっかり雑種というものが恐怖の対象ではなくなっていたのです。そうして見た貧民街は、幼い私の目にとても新鮮に映りました。見たこともない人種。純血種にはあり得ない色彩。そのとき私は初めて思ったのです。雑種の人々は、奇妙ではあるけれど醜くはないと。むしろ美しいとさえ。

 街はずれまで来ると、見覚えのある顔を見つけました。屋敷の警備兵で、誰かを探している様子に見えました。彼は私の視線に気づくと、あからさまに嫌な顔をして持っている槍の柄で私の頭を小突きました。

「虫けらのガキがじろじろ見るんじゃねぇ!」

 しかしその柄の先がコートに引っかかり、頭から被っていたそれが地面に落ちるなり、彼の顔色は一変したのです。そして驚いた顔をして叫びました。

「お坊ちゃま!? リオン様!」

 その声を聞きつけて、兵たちが続々と集まってきました。そしてあっという間に取り囲まれてしまいました。

「し……失礼をお許しください! まさかこんな……。しかし御無事で何よりです」

 そしてそのまま彼女ともども屋敷へと連れて行かれました。そのときは、無事に家に帰れた安堵だけで、その後に何が起きるのか、予想さえしませんでした。

 私が帰ったとき、先に知らせを受けて、父と義母と兄、それから主要な使用人が玄関ホールで出迎えました。しかし帰るなり兄は私をもの凄い形相で睨みつけていました。あとで知ったことですが、私を貧民街などに連れて行ったことで、父にこっぴどく叱られ罰を受けたようで、手足には鞭で打たれた跡がくっきりと残っていました。

 しかし兄はすぐに笑みを浮かべ、こう言いました。

「面白半分に貧民街なんかに連れて行って悪かった。でも無事に帰ってきてくれてよかったよ」

 それから兄は私を助けてくれた彼女を指差して、思いもよらないことを言い出しました。その一瞬、確かに彼は笑ったようでした。

「私が少し目を離した隙に、この女がリオンをさらって行ったんだ! リオンを見失ったとき、確かにこの女が走って逃げる後姿を見た。間違いない。この女だ!」

 その言葉にさっと辺りに緊張が漲りました。警備兵が彼女を取り囲み、一斉に槍を突きつけたのです。

「そんな!! 私は迷子になったこの子を助けて……!!」

 悲鳴に近いような彼女の声を遮って、兄が大きな声で父に訴えました。

「父上! 私が目を離したのはほんの一瞬です。そんな少しの間に幼いリオンがそう遠くまで行けたわけはないんです。この女がさらって行ったんだ!」

 どうして兄がそんなことを言い出したのか、私にはわかりませんでした。ただ驚きの余り、言葉もなくきょろきょろとその場にいた人の顔を見回すばかりでした。そのうちに父と目が合いました。すると父は眉をひそめたまま私に問いかけたのです。

「そうなのか? リオン」

 私はただ何度も横に首を振って見せましたが、また兄が言いました。

「迷子になっていたなんて嘘だ。自分でさらっておいて、礼金目当てに連れて来たに決まっている」

 そして兄は普段見せたことのないような優しい笑顔で私の隣にしゃがみこむと、私に諭すように言いました。

「お前はまだ小さいから、雑種ってものがどんなに汚いものなのか知らないんだ。騙されちゃいけないよ。この女はお前を助けたりしない。そうだろ?」

 それから兄は「貸せ」と言って、警備兵の持っていた剣を手に取りました。そして冷酷な笑みを浮かべ、その切っ先を彼女に突きつけたのです。

「私の弟をかどわかした罪は命で償ってもらう。覚悟しろ!」

 止める間もありませんでした。否、私はその手に必死でしがみつき止めようとしましたが、たった5歳の子供の力が12歳も歳の離れた兄に敵うわけもなかったのです。彼女を救うには、私の手はまだ小さすぎたのです。喉を突かれ、声もなく崩れた彼女の姿を、私はただ見ていることしかできませんでした。

「もし本当のことを言ってみろ。お前も同じ目にあわせるぞ」

 兄は血の滴り落ちる剣をわざと私の足元に置き、他の人には聞こえないように耳元でそう囁きました。本当のことを言えば、兄は更に父から罰を与えられていたでしょう。私を脅して口を封じるために、そんなことのために罪も無い彼女を、私の目の前で血祭りにあげたのです。

 それでも、違うと、さらわれたのではなく、ただ私が兄からはぐれただけだと何度訴えても、父は聞こうとはしませんでした。ただの迷子だったにせよ、さらわれたにせよ、雑種の女ひとりの命を奪ったことくらいどうでもいいことだと言われました。

 本当は兄が私を廃屋に閉じ込めて立ち去ったのだと、私はやっとの思いで窓から這い出したのだと言ってやればよかったとも思いました。しかしそんなことを言ったところで、何が変わるわけでもありません。彼女は生き返らないのです。私は無力でした。


「そう……。そんなことがあったの。それで彼女を助けられなかった代わりにこの子を助けようと?」

 リオンが重い溜息とともに口をつぐんだ後、あたしもひとつ深い溜息をついて言った。リオンは俯いたまま少し考えるような仕草をしてから、ゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。代わりに……というのは少し違います。こんな茶番で救える命など、極限られたものでしかない。もっと根本的にこの世界を変えない限り、こんな悲劇は数限りなく続くでしょう。まだどうすればいいのかはわかりませんが、いつかは雑種も純血種も同等の尊厳の下に生きられる世の中を実現したい。それこそが彼女に対する……いえ、理不尽な死を遂げた雑種たち全てに対する償いだと思っています。だから、代わりに……というのは違う。ただ、目の前で理不尽に奪われようとしている命を、見過ごしにできなかっただけです」

 リオンはそうはっきりと言い切ると、まっすぐにアメリアの目を見つめた。それまで表情ひとつ変えずに黙ってその話を聞いていた彼女が、その視線に射られたように目をそらす。

「不快に思われましたか? これでもまだ純血の戯れだと?」

 そのまま不貞腐れたように横を向いていた彼女は、彼の問いには答えず、ただ小さな声でつぶやいた。

「世界を変える……できるわけがない。そんなの絵空事だわ」

「それでもやらなくてはいけない。きっとやり遂げてみせる」

 彼女のそんな言葉に、リオンはきっぱりと言い返した。その澄んだ力強い声は、闇夜の静寂に凛と響くようだった。

 長い沈黙が流れた。

 溶けて短くなった蝋燭が、じじっと小さな音を立てたとき、不意にアメリアが大きな音を立てて椅子から立ち上がった。しかしそのまま立ち去るでもなく、ただ立ち上がってじっとリオンを見つめている。

 しかしリオンはそんな彼女の方を見ようともせず、静かな声でこう言った。

「長々と話しましたが、私があなたを助けたのは、恩を着せてどうこうしようといった下心からではないということをわかって欲しかっただけです。あなたは自由の身です。どこへなりと、好きなところへ行くといいでしょう」

 それから再びわずかな沈黙。ふとアメリアの顔を見上げると、心なしか彼女は少し気の抜けたような、がっかりしたような顔をしているように見えた。

 まったくリオンってば、ここまできて何をカッコつけてるのかしら! 今さらきれいごとを言って紳士ぶって、彼女を手放そうなんて馬鹿にも程があるわ。欲しいものは欲しい。そう言えばいい。あたしが口を挟もうと思った瞬間、アメリアは静かに背を向けるとドアに向かって歩き出した。そして振り返りもせずにドアを開ける。

「あんたって馬鹿よ! ここまでして諦めるって言うの!?」

 あたしは早口にそう言って、彼女の後を追いかけようとした。しかしその手をリオンが掴む。

「いいんです。やはり間違っていますよ。命を助ける代わりに私のものになれ……だなんて、卑怯でしょう?」

 リオンは寂しげな笑みを浮かべて言う。

「だから馬鹿だって言うのよ!!」

 あたしはその手を振り切って彼女の後を追った。しかし彼女は探すまでもなく、扉を出てすぐのところで、ぼんやりと空を見上げていた。暖かい春の夜空に、綺麗な満月が浮かんでいる。

 勢い余って彼女の背中にぶつかりそうになりながらも、あたしは寸前のところで足を止めた。

「ほんと……馬鹿な男ね……」

 彼女は空に浮かぶ月を見上げたまま、小さな声でつぶやいた。そこへあたしを止めようと追ってきたリオンも追いつく。

「でも気に入ったわ。世界を変えると言うなら……その瞬間を見てみたい。あんたのそばにいれば、見られるのね?」

 振り返った彼女とリオンの目と目が合う。まっすぐに見つめあう2人。リオンはアメリアにゆっくりと歩み寄ると、彼女の細い手をしっかりと握った。

「必ず。その日が来るまで、私があなたを守ります」

 あ~あ、もうやってらんないわ! 色々と気を揉んだあたしの方が馬鹿みたい。ただ静かに見詰め合う2人と、のけ者にされて不貞腐れるあたし。そんな3人の姿を、ただ金色に輝く月だけが見下ろしていた。



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