表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桃源郷  作者: 胡蝶の夢
6/20

第三章 リオン 前編

 それからあたしはさ迷い続けている。永遠とも思える闇を。

「ねぇ。あたし、綺麗?」

 夕暮れが近づくと、あたしは化粧をする。丹念にファンデーションを塗りこむ。鋭く細い眉を描いて、青紫のアイシャドーをつける。濃いめのブラウンのチークとマスカラも忘れない。そして最後に鮮やかな赤いルージュをひく。

 夜の街があたしの舞台。血塗られた復讐という名の舞台。

「で……出たぁ!! フムルだ!!」

 今日の最初のお客はどうやら闇商人。鉄仮面で顔を隠してダンビラを腰に下げたドワーフの男。それなりに腕に覚えがあるのか、そう叫びながらも剣を構えた。

 でもあたしの敵じゃない。あたしを目の前にして既に腰が引けているのに、強がっているのが見え見えだわ。

「ねぇ、聞いてるじゃない? あたし、綺麗? 答えなさいよ」

 あたしは腰をくねらせて近づいて、ちんちくりんのドワーフの顔に煙草の煙を吹きかける。

「ひぃぃぃぃっ!!」

 男は悲鳴をあげながらがむしゃらに剣を振り回す。

「危ないわね」

 あたしは素手で刀身を掴むと、背中の方に放り投げる。この男もたいしたことはない。

 腰が抜けた男は、無様にお尻を引きずりながら後ずさる。そして震える声で言った。

「き……綺麗です! 世界一綺麗です!! だ……だから、た……助けて……命だけは……」

 この男も嘘つきだわ。あたしが綺麗なもんですか。

「嘘をおっしゃい!! 嘘つきは地獄行きよ!! いくわよ! フムル3段アクス!!!」

 バラバラになった体を、ダンビラで串刺しにしてごみ溜めにポイ。一丁上がり。

「ねぇ。あたし、綺麗?」

 次のお客は生意気な雑種女。疲れた顔でふらふら歩いていた。

「でたわね。化け物。どう答えたって殺すくせに! あんたは醜い! 姿も心も醜い化け物よ!」

 ホント、生意気な女。

「その通りよ! どうせあたしは醜いわよ! この世の醜いものを全部集めて作られたのが、このあたしだわ! よ~く見なさい! 見なさいよ!!」

 女の頭を壁に押し付けて、あたしの顔がよ~く見えるように顔を近づける。そのままぐりぐりと額同士を合わせて、女の頭を壁に押し付けていく。みしみしと頭蓋骨の砕ける音がして女の目玉が飛び出した。これであたしの姿がもっとよく見える。

「どう? あたし綺麗でしょ?」

 もう一度訊ねたけど、女はもう返事をしなかった。当たり前よね。もう死んでるんだもの。

 あれからもう5年。お父様が亡くなった日から数えれば、明日でちょうど6年になる。その間、あたしはこうして毎夜ごとに街角に立つ。世の中の醜い生き物を全て殺しつくすために。

 どうやらあたしもこの頃ではすっかり有名になったらしい。誰もがあたしを知っている。夜の貧民街に現れる殺人鬼。怪力と斧を武器に、出会った者を無差別に殺す悪魔。その名はフムル。異端審問官に聖騎士団、果ては雇われの殺し屋まで、あたしに戦いを挑んでくるものも後を絶たない。

 でもみ~んな返り討ちにしてやったわ。だってあたしは最強だもの。お父様が作り出した、最強の化け物だもの。純血種たちが雑種を玩具にした結果だもの。逆らいもせず玩具にされ続けた雑種の怨念の結晶だもの。みんなぶち殺してやるわ。


 さて、今日の次の獲物が近づいてきたようだわ。舌なめずりをして建物の陰に身を潜める。そして相手の姿を確かめた。

 すらっとした長身に金髪と青い瞳のエルフの青年。この貧民街を訪れる純血種にしては珍しく仮面をつけていない。神学校の制服を着用しているようだけど、いったい神官候補生がこんなところに何の用があるというのかしら?

 でもそんなことはあたしには関係ない。ただ殺すだけ。むしろ神学生だなんて絶好の的だわ。教皇庁の手下で、良家の子弟で、なかなかの美青年。妬ましい。あたしにとってはこの上なく妬ましい。憎い。憎い。憎い。

「ねぇ。あたし、綺麗?」

 恨みが血液に溶けて脈打つ音を耳の奥で聞きながら、あたしは闇の中から問いかける。青年がこちらにランプを向ける。

 良家のお坊ちゃまらしく可憐な悲鳴でも上げるかと思いきや、彼はただ不思議そうにあたしの顔を見つめていた。涼しげな青い瞳で、ただあたしを見ていた。

「き……聞いてるじゃないの! あたしが美しいか醜いか答えなさい!」

 こんな生活を始めてから、あたしを見て驚かない人間に出会ったのは初めてだった。あたしの噂を知らないにしても、暗がりからこんな化け物が現れて、畏れないことが不思議だった。そして逆にあたしの方がペースを崩されるような形になってしまう。

 青年はなおも落ち着き払った態度で、上げていたランプをゆっくりと手元に下ろしてから言った。

「私はその質問に答えることはできません」

 この答えもよく聞く答えだわ。なんのことはない。あたしの噂を知っていて、対策を練った上で挑戦にでも来たのだろう。たまにこんな酔狂な人間もいるものだ。どんな答えをしようと殺すだけなのに、とんち問答でもしようというのか、馬鹿な男だわ。

「答えなければ殺すわよ。さあ、答えなさい!」

 青年の目の前まで出て行って、顔を近づけて見せる。それでも彼はたじろぎもしなかった。代わりにあたしの思いもよらない言葉を発した。

「ものの形とは不思議なものです。見る人の心によって、醜くも、美しくもなる。それを美しいと思う人がいるならば、それは美しいのです。だからこの世に醜いものなどひとつもありません」

 こんなところでこの言葉を聞くなんて……。あたしの心を揺さぶる、懐かしくておぞましい言葉。若き日のお父様のあの言葉と同じだった。鼓動が速まる。

「そしてまた逆も真なりです。どんなに美しいと思うものも、それを醜いと思う人がいる限りは、それは美しくはない。ものの美醜とはそういうものです。そこに正しい答えなどない。あるのは人の心だけです」

「そんな屁理屈は聞きたくないわ! 早くどちらか答えなさい!!」

 あたしは耳を塞ぎたい気持ちで、青年の喉もとに斧を突きつけた。もうこのままこの細い喉笛を掻き切ってしまいたい。でもなにか、そうさせない迫力のようなものを彼は持っていた。

「私がどう思うかというのであれば、残念ながらあなたを美しいとは思いません。ただ、だからと言って醜いと答えることはできない。それはあなたを美しいと思う人に失礼だからです」

 何を言っているの? いったいあなたは何を言っているの? あたしを美しいと思う人? そんなのいるわけないじゃない! お父様しか……あの悪魔しか……。知りもしないでそんなこと言わないで! 憎い……もう一度この手で殺してやりたいほど憎い男に失礼だなんて!

 あたしはそのまま喉もとの斧に力を込めた。でもなぜか思うように手が動かない。何か不思議な力で斧が押し返される。

 まさか……これは魔法? 教皇庁が差し向けた討伐隊とも何度もやりあったことがあるから、魔法使いとの対戦経験がないわけじゃない。でもこれはこんなまだケツの青いような神学生が使えるレベルの魔法じゃない。魔法のことはよくわからないけど、今まで戦ったことのある魔法使いの中では最強クラスだ。

 どんな魔法も気合一発、怪力で押し切ってきたあたしの腕がじりじりと押し返されていく。そしてそのまま押し切られて、あたしの手から斧を弾き飛ばした。

「跳ね返すまでかなり時間がかかりましたね。さすがです。並の人間では適わないわけですね」

「あんた……只者じゃないわ! いったい何者!? 何をしに来たの!?」

 いきり立つあたしをよそに、彼はまだ涼しい顔で微笑んだ。

「見てのとおり、ただのしがない学生ですよ。特に用事らしい用事があって来たわけじゃありません。社会見学ですよ。この貧民街というのは面白いところです。実に興味深い」

 あたしと戦っても勝てるという自信がそうさせるのか、青年のこの飄々とした態度が、苛立つあたしには本当に気に障る。見てなさい。魔法使いの弱点を知らないわけじゃないわよ!

 どれだけ強い魔力を持っていても、どんな強力な魔法を使いこなせても、魔法というものも万能ではない。経験的にその攻略法をあたしは学んでいた。

 跳ね返す魔法はたいてい跳ね返す回数に限度がある。強力になればなるほどその上限は低い傾向にあることも知っている。そして一度効果が切れれば、再び発動させるには長い呪文の詠唱が必要になることも。

 ここは速攻あるのみ! どんな魔法の天才であろうと、魔法使いがたった一人でこのあたしに挑んだことを後悔させてやる。

 あたしは大きく息を吸い込むと、必殺のフムル3段アクスの構えに入った。しかしまだ青年は動じもせず、穏やかに話しかけてくる。

「私には戦う気はありません。その斧を収めてもらえませんか? あなたは興味深い人だ。できればあなたと少し話してみたい。因みに私の使う魔法は神官魔法ですから、殺傷能力はありません。どうしてもやるというなら私は逃げますが、どうします?」

 なんだか気持ち悪い。この青年の澄んだ青い瞳があたしの心の暗闇を見透かしているようで、やたら焦燥感を掻き立てられる。この瞳を閉ざしてしまいたい。早く、早くこの斧でその目を抉り取ってしまわなくては。そんな気分になる。

 でもそれをさせない力も、その瞳にあるように感じられた。この青年と話をしなければいけないと、あたしの直感が告げている。

「……わかったわ。あたしもあんたが何者なのか興味がある」

 あたしは斧を下ろした。あたしに振り上げた斧を下ろさせたのは、彼が初めてだった。自分の手の内を明かして「逃げる」と宣言した彼の率直さに、なんとなく気勢を削がれてしまったのかもしれない。

「ありがとうございます」

 青年はやはり涼しい笑みを見せて、軽く頭を下げた。純血種が雑種に頭を下げるなんて聞いたこともない。風変わりなのは確かなようだ。

 しかし彼の次の言葉で、あたしは思わず笑ってしまう。

「あの……ずっと気になってたんですが、あなたは俗に言うオカマ……というやつですよね? 女性として扱っていいのでしょうか? それとも男性? すみません。こういうタイプの方と面識がないもので、どうしていいものかわからなくて……」

 しばらく黙って何か真剣に考えていると思ったら、こんなことを考えてたなんて。深刻な顔で大真面目に聞くのを見たら、あたしは思わず声を上げて笑っていた。

 声を上げて笑うなんてもう何年ぶりのことかしら? あたしはなんだかこの青年が少し好きになってしまった。


 彼に誘われるまま、あたしは貧民街の中でもディープと呼ばれる地域に足を踏み入れた。ディープと言うのは、盗賊や殺し屋、麻薬の売人など、裏社会の中でも最も柄の悪い連中が集まる、要するに危険地帯だ。

 彼らは余所者の侵入をことのほか嫌う。迂闊に踏み込めば命の保障はない。だから同じ裏家業の経験のあるあたしでも、このあたりには足を踏み入れたことはなかった。

 それなのに青年は慣れた様子で細い路地を抜けていき、一軒の酒場に座を占めた。普通ならこんなところに純血種の若者、しかも神学校の制服を着たようなお坊ちゃまが来たら、間違いなく殺されるに違いない。でも店の方も馴染みの客でも来たように、軽く目礼だけして迎えた。

「驚いたわ。あんた、こんなところに来てよく殺されないわね」

 あたしは呆れ半分に感心した。まあ、この男を殺そうと思ったら相当骨が折れるのは、あたしもよく知っている。

「何度も殺されかけましたよ。でもしつこく通い詰めるうちに諦めてもらえたようです。この店の常連の方で、どうしても会いたい人がいたもので」

 そんな話をしているうちに、注文した飲み物がテーブルに届いた。天板が痛んでささくれ立った粗末な丸テーブルに、不似合いに洒落た陶器のワイングラスが2つ運ばれる。

 ひとまず場を仕切りなおすように、お互い何も言わずに葡萄酒に口をつけた。こんな安っぽい酒場に似合わず、お酒は高級なものだった。そんなところはいかにもディープの店らしい。

「そう言えば、まだお互いに名乗ってさえいませんでしたね。私はリオンと言います」

「あたしはフムルよ」

 考えてみると、こんなふうに名を名乗りあうなんてことも随分久しいことだった。このリオンという青年が、あたしを化け物から人間に戻してくれる。そんな気さえした。

「しかしあんた、どうしてこんなところに出入りしてるの? 社会見学とかふざけた答えはなしよ」

 初めはリオンがあたしに興味があると言っていたけど、あたしもすっかり彼に興味を持っていた。彼の素性や人となり、考えていることなどが知りたくてたまらない。

「ふざけたつもりはなかったのですが……。不快に思われたなら、それは申し訳ありません。私は見てのとおり神学校の学生です。私は歴史に興味がありまして……特に宗教史なのですが、その歴史の謎に迫る鍵が、この貧民街というところには溢れています。研究のため、というと聞こえは良いですが、実のところ単なる興味の部分が大きいので、社会見学と言ったまでのことです」

 この馬鹿丁寧な答え方にも、あたしは噴き出しそうになった。外の世界を知る前のあたしなら笑えもしなかっただろうけど、これは本格的に育ちのいいお坊ちゃまに違いない。それがこんな治安の悪い所を徘徊しているなんて、まだ信じられない思いだった。

「しかしお坊ちゃまの道楽にしては、命知らずね。まあ、あれだけの魔法が使えれば怖いものなしかもしれないけど。気をつけた方がいいわ。ディープなんて、やばいヤツばっかりよ」

 わかっていてやっているのだろうけど、一応釘を刺してみる。しかしその反応は意外だった。

「命知らずですか……。そうですね。それでいいんです。私が死んでも悲しむ人はいませんから」

 あたしとたいして歳は変わらないように見えるけど、そう言って寂しげに笑ったリオンの顔は、なんだか痛々しいほどに幼く見えた。

「あらあら、良家のお坊ちゃまが寂しいこと言うのね。未来を嘱望される神官様の卵の言う台詞じゃないわ」

 なんだか見ていられなくって、あたしは半分茶化すように笑って見せた。

「家柄がいいからこそ……苦しまなくてはいけないこともあるんですよ。命の危険に晒されるのは、何もディープの酒場ばかりじゃありません。私には居場所なんてどこにもない」

 まるで迷子の子供みたいだわ。うつむいて必死で涙を堪えてる子供みたいな顔をしている。温かい母親の手を捜している。あたしにはリオンがそんな風に見えた。

 どうしてそんなふうに思うのか、いったい彼の過去に何があったのか、あたしは知りたい気持ちで一杯になった。だけどその表情が余りにも痛々しくて、何も聞けなくなった。

 あたしはもうこのときに、この男に惚れていたのかもしれない。お父様とは全然違うタイプ。だけどこの寂しげな顔が、オカマの母性本能を強く刺激したのは確かだった。

「やめましょう、こんな話は。辛気臭いだけです」

 そう言って無意味に明るく笑ったリオンの顔からは、あの幼い影は消えていた。元の涼しい微笑を湛えて、葡萄酒を飲み干した。

「それより、あなたのことを聞きたい。あなたはなぜあんなことを? あなたの方がよほど命知らずだ。あんなことを続けていては、いずれ殺されますよ。まだ教皇庁はあなたを害虫程度にしか見ていませんが、このまま討手を全滅させ続ければ、教皇庁もメンツをかけて精鋭部隊を送り込む。さすがに勝てませんよ。私の見立てではね」

 この口ぶりからすると、リオンはそれなりに教皇庁の内情を知っているらしい。少なくとも教皇庁の兵力がどの程度のものなのかまで。そうだとすると彼の家、おそらく父親が教皇庁の関係者で、地位も低くないことが伺える。しかし今はそんなことを詮索しても仕方ないし、意味もない。

「あたし? あたしのも別に面白い話じゃないわ。辛気臭い話よ」

 あたしもリオンの真似をして、グラスを空にして見せた。

「聞きたい」

 リオンは両手で頬杖をつき、少し上目遣いでまっすぐにあたしの顔を見ていた。まるで母親に絵本の続きをねだる男の子みたい。彼にはこんな子供っぽい仕草をすることが度々あった。そこがまた、たまらなくオカマ心をくすぐる。

「それじゃリオン、あんたの話も聞かせてくれるならあたしも話すわ」

「では、私の話はまた次に会ったときにでもします。今日はあなたの話を聞きたい」

 本当に次があるものかどうか怪しいような気もしたけど、仕方なくあたしは話すことにした。彼のそのまっすぐな視線には言い出したらきかない頑固さを感じる。話すまでは一歩も引かないだろう。

 でもあたしは嘘をついた。なんだかリオンには、あたしの出生の秘密を知られることが怖い気がしたから。穢れきったあたしの過去を知ったら、さすがのリオンにも軽蔑されそうで。

「あたしね、養殖の拳闘士だったの。養殖ってわかる? 何も知らずに毎日命がけの戦いをさせられて、それが当たり前だと思ってた。でもあんまり修練が厳しくて逃げ出したの。それで外の世界に出てみて、初めて養殖ってことの意味を知ったのね。あたしは玩具にされるために作られた命だったんだって。それってショックじゃない!? だからあたし、復讐してやることにしたのよ。なんていうか……そう、社会の体制っていうか……」

 有無を言わせない勢いで早口に喋るあたしの顔を、リオンはただじっと見つめていた。あたしの話が嘘だと見抜いているのは、その固く閉じたまま相槌さえしない口元が語っていた。

「そ……それより、あんた、さっき物の形とは不思議なものだ……って言ってたでしょ? あれ、誰か有名な人の言葉なの? ……どこかで聞いたことがあるわ」

 あたしは咄嗟に話を変えようと、違う話題をふった。つもりだったけど、これがまた意外な展開を見せることになる。

 リオンは少し考える仕種をしてから、首を傾げて自信なさげに答えた。

「さぁ。私も人から教わった言葉なので、誰が最初に言ったものだかは知りません。ただ私が聞いたときは、真に迫っていて、受け売りには聞こえませんでした。だから彼の心から出た言葉だと思っていたのですが……」

 それからリオンは少しの間遠くを見るような目をして黙り込み、その後で瞑目して深いため息をついた。

「名前は伏せますが、教えてくれたのは、私の家庭教師でした。もう10年も前のことになります。残念なことに6年前、彼は大罪を犯したために無残な死を遂げました。彼は立派な騎士でしたが、彼には異種愛の性癖があって、多くの雑種の女性と関係を持った挙句、何人も子供を産ませては殺していたということです」

 あたしは思わず息を呑んだ。6年前に大罪を犯して殺された……まさか……。平静を装おうとするけれど、みるみる顔が紅潮してくるのが自分でわかる。

 しかしリオンはそんなあたしの様子にも気づかず、小さな声で呟くように言った。

「でもね、私はとても彼を非難する気にはなれないんですよ。あの言葉……あれは彼の本当の心から出た言葉だと思うから。他人がどう言おうと、自分が美しいと思うものが美しい。彼は、雑種の彼女たちを美しいと思ったのでしょうね。ただ、愛し方を間違ってしまった。そんな気がしてならないんです。非難できませんよ。同じだから……私も同じだから……」

 リオンの言葉を聞きながら、あたしはふと昔のことを思い出していた。そう、あれは確かに10年ほど前だと思う。あたしには全く仕事のことを話したことがなかったお父様が、たった一度だけあたしに話したことがあった。

 その日のお父様は上機嫌だった。ある高貴な家の子息の家庭教師をすることになったのだと、嬉しそうに話していたのを覚えている。お父様は美術にお詳しい方だったから、教養のひとつとして美術を教えるのだとか。

「とても聡明な少年で、きっと将来は大物になる。できることならお前にも会わせてやりたいものだ」

 そんなことを言っていたのを覚えている。

 だけどあたしのそんな回想も、本当に蚊の鳴くほど小さな声で言ったリオンの最後の一言で、すっかりどこかへ飛んでいってしまった。

「え……同じって……?」

 リオンは何も答えず、ただ目を伏せて小さく微笑んだ。そして今度は話の矛先をあたしに向ける。

「あなたもこの言葉になにか思い入れがあるようでしたね? これを聞いた途端に顔色が変わった。だから私はあなたに興味を持ったのですが」

 痛いところを突いてくる。

「あ……いえ、あたしは別に……。ただどこかで聞いたことがあっただけよ」

 そんな言い訳が通じる相手ではないことはわかっているけど、そうとしか答えられず、あたしは無意味に笑って見せた。リオンはしばらく黙って、笑うあたしの顔をじっと見つめていた。それからまたおもむろに口を開く。

「そうですか。でもあなたがご自身の美醜にとても拘っているのは確かでしょう? 前々からあなたに会ってみたいとは思っていたのです。『あたし、綺麗?』という言葉と共に現れる、噂の殺人鬼にね。美しさというものについて、語ってみたいと思っていたのですよ」

 あたしが嘘をついていること、何かを隠していることを承知で、リオンはそれには目をつぶるつもりらしい。お父様にゆかりのあるこの青年に、自分のことを話してみたい気もするけど、とりあえず今は目をつぶってくれることが有難い。

 まだあたしには、自分についてきちんと話せる自信がなかった。まだあたしは混乱のさなかにいる。感情的にならずに話せる自信がなかった。

 あたしは笑うのをやめて、リオンに向き直ったけど、今度はリオンが不意に立ち上がった。

「まだ話していたいのはやまやまなんですが、今日はこれで帰ります。明日は朝が早いので。明日の夜、またここで会えませんか?」

 そのまま翌日の再会を約束して、この日は別れた。まだ宵の口。いつもなら空が白み始めるまで惨劇を繰り返すところだけど、なんだかそんな気分にもなれず、あたしはねぐらにしている廃屋に戻った。


 リオンは約束の時間にはもう酒場に来ていた。荒くれ者の集う荒んだ雰囲気の中に、そこだけ空気が違うかのように優雅なたたずまいで足を組んで座っている。

「フムルさん、ここです」

 あたしに気がつくと、彼は手を上げて大きな声を出した。呼ばれなくても一目瞭然だ。目立ちすぎているくらいなのに、自覚がないらしい。

「いちいち大きな声で呼ばなくてもわかるわよ。それにこんなところで“さん”付けはやめてくれない? 社交界じゃないのよ。場にそぐわなすぎて恥ずかしいわ」

「そうですか? すみません。ものを知らなくて……」

 きょとんとした顔をしたまま、あまりにも素直に謝るリオンに、あたしはまた噴き出しそうになってしまった。ホント、憎めない男だわ。

「あんたって面白い男ね。飄々としてて抜け目がなさそうなのに、どこかずれててとぼけてるわ。笑える」

 笑いを堪えながら言うあたしを、リオンはなおも不思議そうな面持ちで見つめている。そしてそのまま固まったように動かない。

「そんなことを言われたのは初めてです」

 眉ひとつ動かさずに彼はポツリと言った。

「あら、ごめんなさい。気を悪くした?」

 あたしが言うと、初めて彼は相好を崩して快活に笑った。

「いえ。嬉しいです。私の周りにはそんなことを言ってくれる人がいないので」

 それからリオンはまた急に真面目な顔になって、いきなりあたしの手を掴んだ。大きくてごつごつしたあたしの手を、リオンの長く細い指がしっかりと握り締める。

 今度はあたしがきょとんとする番だった。

「フムル。私の友達になってくれませんか?」

 唐突に何を言い出すのかと思えば……。ホント、変な人だわ。あたしは笑うのも忘れて、ただ呆然とリオンの顔を見つめていた。

 しばらくそのままお互いに見詰め合っていたけど、そのうちにリオンの顔が見る見る曇ってきた。

「あ……嫌……ですよね? すみません」

 今にも泣き出しそうな表情で、リオンは慌てて手を引いた。今度はあたしが逆にその手を捕まえる。

「違う! 違うのよ! あんまりにも唐突だから驚いただけ。嫌じゃないわ。歓迎するわよ! いいわ。友達になりましょう」

「……ありがとう」

 まるで子供を慰めるように言ったあたしに、リオンは照れくさそうに笑った。

「しかしあんた、やっぱり変な人だわ。他に友達がいないってタイプにも見えないのに、あたしなんかと友達になりたがるなんて変よ」

 あたしは呆れ半分に溜め息をついた。

 リオンはまた不意に寂しそうな笑顔を見せる。

「友達なんていませんよ。取り巻きならたくさんいますけど。小さい頃からそうでした。権力者の息子だから……将来の地位を約束されているから……周りに人は集まってくるけれど、遠慮なくものを言ってくれる人なんていません。だからフムルの言葉が嬉しかったんですよ」


 これがあたしとリオンの出会いだった。こうしてあたしたちはまるで子供同士が「友達になろう!」と無邪気に約束をするかのような、陳腐なノリで友達になった。

 あたしとリオンは夜毎、貧民街をつるんで歩いた。くだらない冗談を言い合ったり、ときには真面目な話もしたり、とにかくいろいろなことを話した。

 あたしたちは、どこにでもいるような若い友達同士のような付き合いをした。雑種と純血種という異色の組み合わせであることを除いては。闇市をそぞろ歩いたり、いろいろな酒場を開拓したり。

 それぞれの事情で謳歌できなかった青春を、少し遅蒔きに取り返すように、あたしもリオンもそんな日々を楽しんでいた。ときに子供のように馬鹿笑いもしたし、ただ黙って2人寄り添っているだけのときもあった。

 そんな毎日が続くうちに、あたしはいつのまにか夜の街角に立たなくなっていた。獲物を待つ殺人鬼フムルの姿は夜の闇から消えた。

 夕暮れが近づくと化粧をすることだけは変わらないけれど。濃いオレンジのアイシャドウに、光沢のあるピンク色のルージュ。あたしはいつの間にか人間に戻っていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ