第二章 深窓の麗人 後編
それから1年ほどの月日が流れた頃、あたしはひとつの疑問に取り憑かれていた。
「あたしってそんなに醜いかしら?」
日が暮れてから始まるこの仕事は主に夕方から夜中働き、朝眠って昼過ぎに起きる生活になる。交替で昼間の立ち番をするときもあるけど、たいてい午後はのんびり過ごせた。
ジュノンとあたしはすっかり意気投合して、互いに“姉”“妹”と呼び合う仲になっていた。年齢的には“母娘”の方がしっくりくるけど、さすがに“お母さん”は嫌だとジュノンは笑ったものだった。
この頃では、ほとんど毎日午後はどちらかの部屋に入り浸っている。この日はジュノンがあたしの部屋に遊びに来ていたのだった。
「何よ? 藪から棒に」
お化粧談義に花が咲いて、2人して鏡を覗き込んでいたから、ジュノンはそのまま目だけを動かして、鏡に映ったあたしの顔を見て不審そうな顔をした。
「だって、あたしどこへ言っても醜いだとかひどい顔だとか言われるの……。お父様にはそんなこと一度も言われたことなかったのに……」
鏡に映るあたしの姿がうな垂れる。頭頂部にしか毛のない個性的な髪型。細くて疎らな眉。小さな目は腫れぼったい目蓋のおかげで余計に小さく見える。出っ張った頬骨に低い鉤鼻。見事に割れた顎に薄っぺらい唇。
確かに他の人とは違う。美しいと言われる女性たちとは明らかに違う。でもあたしには、そんな自分が醜いとは思えなかった。ただ最近では日に日に髭が濃くなって、髭剃り跡が点々と青い墨をつけているのと、自慢だった黒髪も満足な手入れができないせいでばさばさになってしまったことだけは不満だった。
髪は短く切ってしまえば少しは綺麗になるかもしれないけど、あたしはそれをしなかった。この髪はお父様への誓い。生前のお父様は、絶対にあたしが髪を短くするのを許さなかった。少し切って整えるだけで、もう覚えていないほど小さな頃から伸ばし続けている。いつかお父様が死んだとき、この髪を切って棺に入れる約束だった。
あんなことがあって、それは叶わなくなってしまったけど、あたしは誓った。お父様の事件もきっといつか忘れられる日が来る。そのときが来たら、お墓ならいい、屋敷の跡でもいい、とにかくお父様の霊前に花を手向けられる日が来たら、そのときに髪を切ろう。それまではお父様を忘れないために、髪を伸ばし続けよう。愛するお父様のために。
ふと考え込んでいるうちにいくらか時間がすぎていた。だけどお互い鏡の中で見つめあったまま、目で返答を促したあたしから、ジュノンは一瞬目をそらした。そして不自然に目を泳がせながら言う。
「……そ……そんなことないわよ。ここの連中はみんな口が悪いんだから、気にすることないわ。あたしだって毎日のように気持ち悪いって言われるんだもの」
そう言ってジュノンは笑ったけど、それが嘘だということは火を見るよりも明らかだった。
それ以上話も続かなくなって、気まずい沈黙が流れる。それを打ち破るようにジュノンがパンパンと手を打った。
「そうそう! 忘れてたわ。今日はアンナの身請けの日よね。お別れの挨拶をしておかなきゃ。お餞別に何かあげようかしら?」
ジュノンはそう言っていそいそと立ち上がる。マネージャーの彼の仕事は売春婦たちの管理なのだけど、こんな血も涙もない闇の仕事の中でも、唯一彼は女たちに同情的だった。
ここの売春婦たちには給金もなければ年季もない。ある日突然捕らえられたり、売られたりしてここへ連れてこられる。そして秘密保持のため一切外出は許されず、逆らうことも許されず、ただ慰みものにされて過ごす。逃げても殺される。逆らっても殺される。役に立たなくなっても殺される。ここを出ることができるのは死体になったときだけだ。
しかしそれはあたしも含め、ここで働くものすべてがそうだった。仕事の性質上、外へ出る機会のあるあたしたちには、拘束の代わりに法外な給金が支払われる。だけど逃げたり裏切ったりしようものなら、そんなそぶりを見せたり、冗談でもそれらしいことを言ったりしただけで抹殺される。よほど信頼されていなければ、単独では外出さえも認められないのだ。籠の鳥であることには、あたしたちも売春婦たちも変わりはない。
ただひとつだけ例外はある。よほど信頼のおける上客にのみ許される“身請け”だ。ここ同様に死体になるまでは外へは出さない条件で、気に入った女を買い取ることができる。この場合だけは生きてここを出ることができるのだ。ただその先に待っているのも同じ牢獄なのだけれど。
ジュノンはまだ買ったばかりの貝殻細工の髪飾りを餞別代りにあげるのだと言って、一度自室へ戻っていった。ジュノンの趣味はショッピングで、闇市場に通いつめては要らないものを衝動買いしてくる。その髪飾りも買ったはいいけれど、可愛らしすぎて使えないと愚痴をこぼしていた。
アンナは19歳のときからもう10年もここで使われてきた。エルフの血を色濃く受け継いでいそうな、細身で色白の美人だけど、そろそろとうが立って客足も鈍り始め、処分が検討されていたところだった。
そんな彼女を身請けしたいと言ってきたのは、ここの客にしては珍しい中産階級のノームの男だった。この店は会員か特定の闇商人からの紹介しか受け付けないから、客の大半は上流階級の富裕層が中心だけど、彼のように自ら闇商人の元に通いつめて、どうにか紹介を取り付ける客も稀にいる。
彼は腕のいい靴職人で、裕福ではないながらもノームらしい質素で勤勉な暮らしをしているようだった。身請けというのはそんな彼の財力では簡単にできるほど安くはない。それを押してまで身請けしようというには、それなりの事情があった。
10年ほど前のことだった。当時まだ少年だった彼は、行商人の父親に連れられてこの聖都にやってきた。彼の故郷は遠い山里の小さな集落で、ノームだけがひっそりと生活しているところだった。そして初めて聖都を訪れた彼は、生まれて初めて雑種というものを目にしたのだった。
それは美しい娘だった。背が低くコロコロとした自分たちとは違う。エルフに似ているけれど、あの神経質そうな冷たさを感じさせないのは、自分たちと同じ栗色の髪と瞳をしているからだと思った。
彼はこっそり父親の傍を離れると、彼女の後を追った。彼女は屈強そうな大男に腕を引かれ、悲しげな瞳でずっと俯いたまま歩いていた。途中、男が知り合いらしい中年女と交わした言葉から、彼女が売春宿に売られるのだということがわかった。しかしそのうちに彼は彼女を見失ってしまった。
その後何日か聖都で露店を開き、故郷に帰ろうという日になっても、彼の頭の中からは彼女のことが消えなかった。もう一度会いたい。どうしても気になって、どうしても諦めがつかず、ついに彼は聖都に残ると言い出した。本当の理由は明かさないまま、ただ都会で暮らしてみたいと言い張って。
そして靴職人に弟子入りした彼は、とにかく必死で働いた。いつか彼女を助け出すためには、とにかくお金が要るだろうと考えたからだった。そして休日には貧民街に入り込み、必死で彼女の足跡を探り、ついにこの店を突き止めたのはそれから7年もの月日が流れた後だった。
それでも彼にはすぐに彼女がわかった。忘れもしない、透き通るような肌と暖かな栗色の髪と瞳。それがアンナだった。
彼は決して多いとは言えない給金からどうにか工面して、アンナの元に通いつめた。いつか必ず身請けすると約束して、常に彼女を励まし続けた。
7年の月日の間にすっかり希望を失くしていたアンナも、いつしか彼を信じるようになっていた。彼らは種族を超えて、本当に愛し合うようになっていたのだった。
そしてこの日は、彼が独立して工房を構えた日であり、めでたくアンナを身請けする日でもあった。街はずれの小さな工房で、彼女と2人きりで暮らすのだという。
「おめでとう、アンナ。幸せに暮らすのよ」
見送りに出たジュノンがそう言って涙ぐむ。アンナもジュノンからもらった髪飾りを握り締め、大粒の涙を零した。けれどもその顔は幸せそうに微笑んでいた。
「こんな幸せな旅立ちもあるのね……」
2人が見えなくなるまで見送った後で、あたしがぽつりと言った。
「たまにはね……。たまにはこんなこともなきゃ……救われないわよね」
ジュノンもぽつりと言った。
あたしはこの頃よく考えていた。ただ純血種の玩具にされて希望のない日々を送る女たちを見るたびに。逆境にも負けず真実の愛を貫くこの2人を見るたびに。
あたしの母親は? 母親はどんな人だったのだろう? どんなふうにお父様と出会い、どんな恋をしてあたしが生まれたのだろう?
お父様にもこんなドラマチックな出会いがあったのかしら? それとも召使たちにも優しかったお父様のことだから、召使の誰かと? きっと素敵な恋愛をされたに違いない。
女性からしか子供は生まれないなんてことさえ知らなかったあたしだから、自分に母親がいるなんてことも考えたことがなかったけど、あたしのお母様はどうしたのかしら? 若くして病気か何かで亡くなったのかしら?
だからお母様を亡くした悲しみを癒すために、お父様は遺児のあたしを女としてお育てになったのかもしれない。お母様への永遠の愛を貫くために、あたしやご自分の身の回りの召使も全て男にしたのかもしれない。
そんなありもしない物語を自分の中でずっと紡いできた。少女が美しい悲恋に憧れるように、汚い現実など知りもせずに。
それから数日後、久しぶりにハンティングの依頼が入った。ハンティングというのは行動隊が警備の他に随時行う業務で、女を街から調達してくる仕事だ。女が死んだりして補充が必要なときや、客からの注文で好みの女を捕まえてくるときもある。
この日の依頼は店に出す女ではなく、身請けと同様の条件で売り渡すためのハンティングだった。売春宿の傍ら、お得意様限定での人身売買もしているというわけだ。
しかしこのハンティングというのはなかなか厄介な仕事だった。客の好み次第では相当な苦労をさせられるのだ。そもそも純血種が雑種を求めるような悪趣味な世界なのだから、その好みも趣味のいいものばかりではない。華奢でか弱い女ばかりなら楽だけど、中には筋肉隆々の逞しい女を求める人もいるのだ。
そうじゃなくても雑種の中には小柄でひ弱そうに見えても、とんでもなく強い女がいたりするものだ。あたしの前任者もハンティングで命を落としたらしい。
「今日はまたとんでもないご注文をいただいたぜ!」
ボルドがそう言ってあたしの方をちらりと見た。そして苦笑いをしてから続ける。
「フムルをそのまま女にしたようなマッチョな大女をご所望だ。気合入れていかなきゃまた死人がでるぜ!」
すると集まってきた数人の仲間が口々にあたしを揶揄する。
「そりゃひでぇ趣味だな」
「冗談だろ? 信じられねぇ!」
「こんな不細工、どこ探したっていねぇだろ。フムルのチンコ切って渡してやったらどうだ?」
この頃ではそんな不快な揶揄にも慣れてきたけれど、この日ばかりは妙に落ち込んだ気分になった。数日前、ジュノンにまで醜いと思われていることを知ってしまったせいだろう。いつもなら多少の反撃もするくらいに、この境遇にも馴染んでいたけど、何も言い返す気にもなれずに黙り込む。
そんなあたしの様子に気がついたのか、ボルドがフォローを入れてくれる。ボルドは口は悪いし意地もいいとは言えないけれど、さすが長年行動隊のトップを勤めてきただけはあって、部下を大切にすることは心得ているようだった。ただそのフォローはいつもとても巧いとは言えないのだけど……。
「まあ、いい趣味だとは思わねぇが、それほど珍しい趣味でもないぞ。昔は頻繁にそんな注文を受けたこともあったな」
ボルドが言うとまた仲間たちは笑い、暴言を吐き続ける。その様子を見ていた雑役の老人が口を挟んだ。
「ありゃ違うぞ、ボルドよぅ。20年ほど前のあれじゃろ?ありゃ一人の客が何回も同じ注文をしてきたんじゃ。胸糞悪い男じゃったわいや」
この妙なしゃべり方をする老人は、当時は行動隊長だったという。今は現役を退いて雑役をしながら余生を楽しんでいるらしい。
「しかしひとつだけいいことを言っておったいなぁ。“ものの形とは不思議なものだ。見る人の心によって、醜くも、美しくもなる。それを美しいと思う人がいるならば、それは美しいのだ。だからこの世に醜いものなどひとつもない。”とのぅ」
「あら、ホント。素敵な言葉ね。あたしもそんな素敵なことを言える紳士とお付き合いしたいものだわ」
あたしが言うと、老人は何か嫌なものでも見たかのように口元を歪めて、それから鼻で笑った。
「何が素敵なもんかい! それにヤツは死んだわいや。元聖騎士団長のシューリックじゃ。1年前、公式の発表じゃ病苦で屋敷に火を放って焼身自殺をしたことになっとったが、ありゃ悪事がばれて処刑されたにちがいない」
この言葉を聞いて、あたしは愕然とした。1年前に死んだシューリック……。あたしの愛しいお父様のことだ。教皇庁でも上位にあたる聖騎士団長が、その教義に反するような罪を犯したのでは、体面上の都合で死の真相を隠されるのは仕方がない。ただ若き日のお父様がこの店に出入りしていたことと、「胸糞悪い」などと言われることが意外だった。
「ど……どうして胸糞悪い男……だなんて? おと……いえ、シューリック氏はとても紳士的な方だとお聞きしたことがあるわ」
そんなことどころか噂話など一切聞いたこともないけれど、あたしのお父様はいつも紳士的な方だった。あたしの知る限りでは。悪く言われるのは心外だし、とても信じられなかった。
でも老人はさらに険悪な表情を作って毒を吐くように言った。
「わしゃ見ちまったんじゃぃ。ヤツはここで買った女とその子供らしいのを殺して川に捨てとった。“可哀相だけど、失敗作じゃぁな。”などと呟いたときの、罪悪感のかけらもない微笑は気味が悪いほどじゃったわいや」
まさかそんなことは信じられない。あたしにも召使たちにも優しかったお父様が、そんなことをするわけがない。
「嘘よ!! そんなの嘘! あたし信じないわ!!」
あたしは後先を考えずにそう叫んでいた。そしてすぐに走り出していた。姉さんは? ジュノンはどこ? まだ自分の部屋にいるかしら? もう仕事に出たかしら?
この1年、あたしは何かあるとすぐにジュノンにすがる癖がついていた。何も知らないあたしが外の世界に出てから、いろいろなことを教え導いてくれた彼。母を知らないあたしには、まるで母親のような存在だった。
しかしこのときは、悪夢を見た子供がただ母親にすがるような気持ちとは別に、もうひとつの目的を持っていた。もう50歳近いジュノンも長くこの店に勤めている一人だ。彼なら20年前のことも何か知っているかもしれない。
ジュノンは自室でのんびりと紅茶を飲んでいた。慌てて飛び込んできたあたしに目を丸くする。
「あら、どうしたの?」
「姉さん、教えて! 20年前、あたしのお父様がここへ来ていたって本当なの? ここで女を買っていたの? それを殺して捨てていたってどういうことなの!?」
もう半泣きでジュノンにすがりつくあたし。そんなあたしの耳に、ジュノンの微かに震える声が聞こえてきた。
「そう、知ってしまったのね……。知ってほしくなかったわ。だってあなた、傷つくだけだもの。知らないほうが幸せよ。それでも知りたいの?」
あたしはジュノンの胸にすがりついたまま、顔も上げずにただうなずいた。ジュノンの硬い声を聞けば、真実はあたしの望まないものだということはわかった。それでもあたしは知りたかった。あたしの愛した人の、真実の姿を。
今では男は扱わなくなったけど、あたしがここで働き始めたときの仕事は男娼だったの。今でこそ中年のオジンなっちゃったけど、若いころのあたしって綺麗だったのよ。
その頃、確かにあなたのお父様、オベリオ・シューリック氏はここへ通っていたわ。当時はまだ一介の聖騎士団員だったけど、お父様、つまりあなたのお爺様に当たる人が富豪だったのよ。よくは知らないけど、一代で財を築いた事業家だったそうなの。
オベリオ様はちょっと変わった方だったわ。紳士的で誰にでも優しかったけど、なんていうか、すごく自惚れの強い人だった。ことにご自分の肉体美を誇りにしてらしたわね。確かに騎士団で鍛え上げた見事な肉体だったわ。ヒューマンであそこまで鍛え上げた体は、あまり見たことがないくらいだわ。
そして女でもあたしみたいな男娼でも、同じように筋骨隆々のものを好んでらした。あたしはこんな貧弱な体だからまったく相手にもされなかったけど。
どっちにしてももう年かさだったあたしは、ほとんどお客をとることもなく、控え室で噂話に花を咲かせるばかりだったから、当時のことはいろいろ知ってるの。
そのうちオベリオ様はドワーフの血が濃そうな、筋肉質な女を何人か身請けしていった。最初はハーレムでも作るつもりだとか噂されてたわ。でも少し様子が違ったの。
身請けしていく数が多すぎるのよ。お父様があまり金銭の出入りに気を使わない人だったから、お金はそこからいくらでも引き出せるにしても、一人で囲うには多すぎる数だった。仕舞いには店の女では飽き足らずにハンティングを依頼して、筋肉質かつ大柄な女を捜させた。
そんなことが2年近く続いた頃だった。当時の行動隊長が憤懣やるかたない様子で帰ってきたことがあったの。
「どうしたの? おじさん、何か嫌なことでもあった顔ね?」
その日も暇を持て余していたあたしは、何気なく隊長に声をかけたわ。隊長は吐き捨てるように言った。
「シューリック家の馬鹿息子め、何かとんでもないことをしてやがる。ここで買った女と、その子供らしい死体を川に捨ててやがった。1人や2人じゃねぇ。馬車の中に折り重なるようにしてまだ何人も入ってたんだ」
あたしもそれを聞いたときは、とても信じられなかった。あの紳士的で優しいオベリオ様がそんなことをするとも思えない。でも隊長が嘘をつくような人でもないのも確かで、あたしは気になって、ちょっと探りを入れてみることにしたの。
オベリオ様が店に来たとき、あたしちょっと声をかけてみたの。この頃は、もう店で遊ぶことはぜんぜんなくて、ハンティングを依頼した商品の受け取りのときくらいしか店に来なかった。
あたしは男娼として“女”を売る仕事が好きだったし、結構下の女の子たちにも人望があったから、このときにはもう次のマネージャー候補として店に残ることが決められてたの。だから暇なときは自由にショーケースを抜け出してもよかったのよ。
商談用の部屋で待ってるオベリオ様のところに行くと、長く待たされて退屈なさっていたみたいで、快く迎えてくださったわ。
「オベリオ様ったら最近じゃずいぶんご無沙汰ね。あたし、一度でいいからオベリオ様に抱かれてみたいのに。素敵だわ。その肉体美。どれだけ鍛えたらそんな美しい肉体ができるのかしら? 羨ましいわ。あたし憧れちゃう!」
そんなことを言っても相手にはされないのはわかっていたけど、オベリオ様はこうして肉体を褒められると、途端に饒舌になるというのは有名な話だった。
その通りにオベリオ様は1日にどれだけの鍛錬をするとか、騎士団でのご活躍のことなんかを、あれこれと話してくださった。あたしは頃合いを見計らって本題の探りを入れてみたわ。
「また今日もお買い物だけなんでしょ? そんなに女を一杯買ってどうするの? さすがのオベリオ様でもそんなにたくさんお相手がいたんじゃ涸れちゃうんじゃなくて?」
冗談めかしてあたしが笑うと、オベリオ様も笑った。それからこうおっしゃったの。隠しもせず、本当に何も悪気のない様子で。
「そう毎日全員の相手をするわけじゃないからね。種さえつければもう用はない。私はね、究極の美というものを求めているのだよ。どんなに探しても満足なものは見つからない。だから作ることにしたのだ」
そしてオベリオ様はまるで芸術でも語るかのように、目を輝かせて語ったわ。
「ドワーフの持つ逞しい筋肉は素晴らしい。でも背の低いドワーフではどうしてもずんぐりむっくりになって美しいとは言えない。やはりバランス的に美しいのはエルフやヒューマンのような、理想を言えば6頭身だ。しかしエルフでは繊細な美しさはあるが、逞しさは望めない。ヒューマンにしても悔しいがどれだけ鍛錬を重ねてもドワーフには敵わない。血筋的にはヒューマン2対ドワーフ1くらいが望ましい。性別はどちらでも構わないが、やはり肉体の鍛錬を考えれば女には限界がある。だから男だ。男がいい。しかしそれだけじゃない。極限まで鍛え上げた肉体で、あくまでも気高く、貴婦人のように優雅で、娼婦のように淫らで艶やかな人間。いや、人間というよりむしろ芸術だ。芸術作品を作っているのだよ」
あたし、思わず絶句したわ。もう恐ろしくなって、それ以上話を聞くのも嫌になったけど、オベリオ様は上機嫌で続けた。
オベリオ様は自分の理想の人間を生み出すために、たくさんの女を買っては子供を産ませていたの。そして女は子供を産み次第すぐに始末する。もう一度妊娠できるようになるまでは時間がかかるし、一度失敗作を産んだ女では次も成功の可能性は低いから、なんて身勝手な理由で使い捨てるの。
そして失敗作……奇形があったとか、悪魔の紋章の形が気に入らなかったとか、女の子は無条件に……すぐに殺して捨てる。残った子を育てて、満足な子供ができるまで繰り返す。
まさに悪魔の所業だったわ。純血種の中には雑種を虫けらか何かと同じように思って、どんな残虐な行為もなんとも思わないような人間が少なくないのは確かよ。でも子供まで……自分の血を分けた子供まで平気で手にかける残虐性は異常だった。
「そして今から15年ほど前、オベリオ様はここに姿を見せなくなった。満足なものができあがったのね。きっとそれが……」
「嘘!! 嘘よ!! やっぱりあたし信じられない! 姉さんも嘘つきよ!!」
あたしは取り乱して叫んだ。でも自分の鼓動の音が耳鳴りのように響く頭の中には、ジュノンの話が嘘ではない確信を持たせる記憶が蘇っていた。すっかり忘れていた記憶だった。
何歳だったのか定かには覚えていない。けどまだ幼い子供だったことは確かだった。あたしともう一人、同じくらいの歳の子供がお父様に斧の稽古をつけてもらっている。
そしてあたしともう一人の子供は、お父様の指示で試合をする。勝ったのはあたしだった。お父様はあたしの頭を優しくなでて言った。
「よくやった。今日からお前がこの家の主人だよ。お前がこのお父様の宝だ。愛してるよ」
あたしは嬉しくなってお父様の逞しい太ももに擦り寄った。次の瞬間、何か変な音がしたのを覚えてる。何か硬い木の枝でも圧し折るような、それでいて何かこもったような鈍い音。
気になって音の方を見ると、反対側のお父様の手には、あたしと同じようにもう一人の子が抱かれていた。ただお父様の手は、猫の子を掴むようにその子の首根を掴んでいて、その子の足元には水溜りができていた。
「いやぁね、お父様。リックったらおもらししてるわ」
そう、その子の名はリックだった。思い出した。あたしはそう言ってお父様の顔を見上げた。お父様は満足げに微笑んでいた。
「フムル。お前は絶対にこんなみっともないことはしてはいけないよ。お前は貴婦人になるんだ。お父様だけの、世界一美しい貴婦人になるんだよ」
お父様があたしを抱き上げてキスをした。リックはまるで糸の切れた操り人形のように、変な格好で床に崩れた。
気づくとあたしは走っていた。自分でも何を叫んでいるのかわからないくらいに大声で、もう叫びというよりも雄叫びのように何か喚きながら走っていた。
もう何も考えられず、ただ今までのあたしの生きてきた記憶が、頭の中を駆け巡っていた。
幼い子供の頃のこと。眠れない夜、リックと2人で星を数えたっけ。あたしより少しお兄ちゃんだったリックは、泣き虫のあたしをよく慰めてくれた。お父様の誕生日に、リックと一緒にお父様の絵を描いたこと。お父様はとても喜んであたしたち2人をぎゅっと抱きしめてくださった。
無邪気な少年時代。お父様におねだりしてペットの犬を買ってもらったこと。言うことをきかない犬を鞭で打とうとして、それは貴婦人のすることではないと叱られた。弱いものを慈しむ気持ちを忘れてはいけないとお父様は教えてくださった。
やがて思春期を迎えた頃。初めてお父様に抱かれたあの日。美しい絵画や美術品に囲まれた部屋で、初めて知った性の快楽。優しい寝物語。毎日飽きるほどに「愛している」と言ったお父様。
そしてお父様の死んだ日。最後の情交。胸の刺青。最期のときまであたしを守ってくださったお父様。初めて悲しみを知った日でもあった。
ラッセイの店での暮らし。いつもいつも亡くなったお父様のことばかりを懐かしく思って過ごした日々。あたしは知らなかった。この世がどんなに穢れたものだったのか。
この世は裏切りに満ちている。お父様はあたしをずっとずっと裏切っていた。あたしはお父様を本当の紳士だと思っていたのに。
ラッセイの店で働くあたしたちは、雑種でありながら同じ雑種を食い物にして生きている。純血種にへつらって生きているのに、裏では軽蔑し、軽蔑するのに逆らうこともしない。純血種だって同じ。ユリアスはお父様の言葉を平気で裏切った。心の綺麗な人なんてどこにもいやしない。
あたしも同じ。あたしも同じ。汚い。お父様を信じると、どんなことがあっても信じられると思っていたのに。お父様の真実の姿がどんなものであっても、お父様への愛は変わらないと信じていたのに。今はお父様をもう一度殺したいと思うくらいに憎いと思う。
全てが憎い。いくら呪われた雑種だからといって命をも玩ぶ純血種が憎い。雑種を散々玩具にしたあげく、こんなに醜いあたしを生み出したお父様が憎い。力なく、気力なく、生きるために仲間を売ることも厭わない雑種も憎い。
あたしは狂乱してジュノンの首をねじ折った。同情だけで何もできない無力な彼が憎かった。彼がお父様に意見したところで、彼の命が危うくなっただけだろうけれど、彼はあたしのような化け物が生まれることを見過ごしにした。
店から飛び出そうとしたあたしを止めに入った行動隊の仲間を、全員血祭りに上げた。自分たちが生きるために、同じ雑種を食い物にして罪悪感さえ持たない下等な彼らは最初から気に入らなかった。
道端に座り込む痩せ細った老人を斬り捨てた。力なく、みすぼらしく、ただ死を待つだけの老人は醜かった。生きる価値などない。
あたしは完全に狂っていた。長い髪を振り乱して、通りすがりに目に入った生き物を全て殺しながら走ってきた。
そしていつの間にか、あの日川面に映る自分の姿に身震いを覚えたあの川べりに来ていた。もう一度川面に自分を映してみる。
美しかった。これほど完璧な化け物はいない。醜悪な形相で、全身に返り血を浴び、全てを憎み目を血走らせた化け物。究極に醜い姿は、醜さを通り越して、むしろ美しかった。
あたしは長い髪を力任せに引きちぎった。お父様を忘れないために。お父様への恨みを忘れないために。お父様だけじゃない。こんな化け物を世に生み出した、世の中の全てに復讐を誓って。