第二章 深窓の麗人 中編
甘い悪夢のような恍惚から醒めると、今起きたことが急激に現実味を帯びて感じられた。お父様との最期の情交。お父様の死。そして悪夢のような虐殺。
それと同時にいろいろな感情が波濤のように押し寄せてくる。悲しみ。怒り。そして後悔と恐怖。降って湧いたような突然の出来事に、あたしは戸惑い混乱していた。
人を殺し全身に返り血を浴びたこの身が美しいどころか、急にとても恐ろしく、おぞましいものに思えて、あたしは慌ててぬるくなった湯殿のお湯で体を洗った。いつものローズオイルの香りは消え、辺りはむせ返るような生臭い血の臭いが漂っていた。
全てが死に絶えたこの部屋で、この先どうしたらいいのかもわからず、あたしは恐ろしいほどの孤独に襲われた。
「お父様! あたし……あたしどうしたらいいの!? お父様! 目をお覚ましになって!!」
救いを求めて、どんなに呼んでも、どんなに揺さぶってもお父様は目を覚まさなかった。薄く目を開いたまま、お父様の体は力なく揺れるだけだった。零れ落ちた涙が、血まみれのお父様の頬に徒に白い跡をつけていくだけだった。
叫ぶことにも疲れた頃、不意にきなくさい臭いが鼻をついた。それと同時に大勢の人の声。どうやらユリアスたちの仲間らしい。屋敷を包囲して火をかけたのだ。
このまま焼け死んでもいい。そう思った。だけど炎が燃え広がり目の前に火の手が迫ったとき、あたしは逃げた。お父様の言いつけだからではなかったと思う。ただ生きようとする生き物の本能が、あたしを立ち上がらせたのだと思う。
あたしは再び斧を握り締め、外で待ち構える兵士たちをなぎ倒して必死に逃げた。ただ闇雲に人垣を切り倒しながら逃げていた。
どこをどう逃げてきたのか、さっぱり覚えていなかった。帰る道さえわからない。もっとも生まれて初めて屋敷を出たあたしには、ここがどこなのかさえもわからなかったのだけど。ただ人気のない細い路地を選んで、いくつも角を曲がってそこにたどり着いた。
目の前には石造りの小さな橋が架かっていて、その下を人工の川が流れている。その川辺でやせ細った少女が手で水をすくって口に運んでいるのが見えた。
それを見て急に口渇を覚えたあたしは、川辺に飛び降りて同じように手でその水をすくってみた。でもそれを口に運ぼうとして、あたしは思わず悲鳴をあげてしまった。
「きゃぁっ! なんて汚い水!!」
黒灰色に濁った色。顔を近づけただけで吐き気がするような異様な臭気。とても飲めるような水ではない。手についた汚水を慌てて振り払ったあたしの目の前を、ドブ鼠の死骸が流れていった。
「あんた、よくこんな水が飲めるわね」
あたしは少女に声をかけたけど、少女はただ虚ろな目で一瞥をくれただけで大儀そうに立ち上がると、ふらふらした足取りで細い路地に消えていった。
取り残されたあたしは、何気なく再び川面に視線を落とす。何度見ても汚い水。その濁った水にぼんやりとあたしの姿が映っている。
乱れもつれた髪。すっかり化粧の落ちた顔は、ひどく疲れてやつれて見える。暗い水面に映る歪んだその顔は、まるで今までのあたしとは違う。なにか醜い化け物でも見たような気がして、あたしは身震いした。春とはいってもまだ風に冷たさの残る季節、汗ばんだ体が冷えていたせいかもしれない。
いつも心地よい温度に保たれていたあの部屋が恋しかった。お父様と愛を語らったあの部屋が。まだ自分の身に起こったことを理解できてさえいないのに、もうあそこに帰ることができないなんて信じられなかった。
これからどうすればいいのか自分の行く先を見失って、あたしは橋の下に身を寄せて座り込んだ。無我夢中で逃げてきたけど、落ち着いてみると、ひどい口渇と空腹で疲れきっていることに気がついた。
だけど飲み物も食べ物も得る術を知らない。安心して眠る場所さえない。日が暮れて暗さが深まっていくに連れて、惨めな気持ちも深まってくるようだった。
そのまま膝を抱えてうずくまる。ただただ、涙だけが冷えた膝頭を伝っていった。
「よう、兄さん。こんな寒い夜にそんな薄着じゃ風邪ひくぜ! 追い剥ぎにでもあったのかい?」
すぐには誰に声をかけているのかわからなかった。いつの間にかあたしの目の前に、軽薄そうな笑みを浮かべた小柄な男が立っていた。
その声に気づいて顔を上げると、辺りはすっかり暗くなっている。ひどい疲れのせいか、少しの間眠っていたようだった。
不思議そうに見上げるあたしの顔を見るなり、男は大袈裟にわざと「ぶっ」と噴き出して見せた。
「ははははは! その顔じゃ被害者じゃなくて、追い剥ぎする方にしか見えねぇな!」
男はなおも愉快そうに笑っているが、あたしはちっとも愉快じゃない。
「失礼ね! 誰が追い剥ぎよ!?」
「ぉお~っと! これまた……またまた……オカマちゃんとは、またまたまたまた!」
わざとらしい大袈裟な身振りで驚いて見せて、またも男はひとりで大笑いしている。しかしその無礼で軽薄な笑いの影で、目だけが異様にぎらぎらと光っている。
男は急に笑うのをやめると、身を屈めて座ったままのあたしの顔をまっすぐに見据えた。そして狐のような細い目を更に細める。
「でも、強そうだね。とってもさ。それに……わけあり……だろ?」
そう言って男は意味ありげにニヤニヤと笑った。あたしは男の含むところの意味を解しかねて、怪訝な顔で黙っているしかない。
「まぁ……あれだ。行き場に困ってるわけだろ?」
まだ処世に疎く世間知らずだったあたしには、まだその男が言っていることがよくはわからなかった。今思えば、彼はいわゆる裏社会のスカウトマン(犯罪者や逃亡者に闇の仕事を斡旋して手数料を取る)だったのだけど。
しかしとにかく、どう答えていいのかもわからずに、あたしは適当にうなずいて見せる。こんな得体の知れない男に自分の素性を明かして相談するというわけにもいかない。
「見たところ、逃亡拳闘士だろ? ランクは……」
純血種の金持ちの娯楽に、鍛え上げた奴隷同士を死ぬまで戦わせて勝敗を競う拳闘というものがある。その拳闘士が逃げ出すことは珍しくもない。男は勝手にそう勘違いしてくれたようだった。
「ああ、言わなくていいよ。当ててみせる。そうだな……Aってとこかな? この体ならSランクの実力はあってもおかしくはないけど、まだ歳が若い。違うかい?」
そのときのあたしには何を言っているのかまったくチンプンカンプンだったけど、とにかく合わせておくしかない。
「ええ……。まあ、そんなところだわ」
「OK。見立てどおりだな。実はちょうどおあつらえ向きの仕事があったんだ。こっちも適材を探してたところでね、お互い渡りに船だったな」
こうしてあたしは運良くなのか、悪くなのか、ある仕事にありつくことになった。そしてそれが運命の分かれ道だった。
もしもこの男に出会ってこの仕事を紹介されなければ、あたしは今頃どうしていただろう? 行く宛てもなくさ迷ったあげく、教皇庁に捕まって処刑されていたかしら? たとえ逃げ切ったとしても、普通の労働者に紛れて肉体労働でもして暮らしていたに違いない。
その後あたしは石造りの街並みの中のありふれた住宅の地下に、隠すようにして造られた地下室に案内された。
「ほぅ。これはまたずいぶん逞しいのを連れてきたな。ご苦労」
「いやぁ。苦労して探してきた甲斐がありました」
スカウトマンはあたしに対するのとは打って変わって、依頼主らしい男には精一杯の愛想笑いを浮かべてへいこらしている。いかにもお調子者といった風情だった。
依頼主は背が低く、しきりと貧乏ゆすりをしては、ぶよぶよに太った体を揺らしている。そしてスカウトマンのへつらう姿にはほとんど目もくれず、面倒臭そうに懐から裸の札束を取り出してスカウトマンに投げてよこした。
スカウトマンの方も現金さえ手に入ればもう用はないとばかりに、札束をポケットにしまいこむが早いか、「またごひいきに!」と早口に言ってその場を去っていった。
「店主のラッセイだ。だいたいの仕事の内容は聞いているな?」
ささくれ立った壁板を直しもしていない粗末な小部屋に2人だけが残されると、ラッセイと名乗った依頼主は、挨拶もそこそこに仕事の話を始める。
「あ……あの、あたしはフムル。あの……えっと……」
文字通り“箱入り娘”で育ってきて、お父様以外とはほとんど口もきいたこともないあたしには、こんなときにどう受け答えしていいのかさえわからなかった。まずは名前を名乗って、それから……それから……? そんなことを必死で考えながら、ただもごもごと口ごもる。
お父様があたしに施したのは、いわゆるレディとしての教育。雑種でしかも男の子だったあたしに、上流階級のレディにするような教育をしていた。あんなことさえなければ一生をあの部屋で、社会というものを知らず、お父様と僅かな召使にかしずかれて過ごしていただろうあたしに。
「名前なんか名乗らなくていい。どうせ覚えとりゃせん。それより仕事の内容はわかってるんだろうな?」
ラッセイはいっそう激しく貧乏ゆすりをしながら、苛立った声をだす。
「いえ……、あたしま……」
あたしが答え終わる間もなくラッセイは「ちっ」と大きな舌打ちをした。
「やつめ、また仕事の説明もせずに適当なのを置いていきやがったな! まあ、いい。目利きだけは確かだ。注文どおりの品なんだろう……」
醜く垂れ下がった顎の肉を震わせながらぶつぶつ言うと、今度は汚い事務机の上から錆の浮いた呼び鈴をつかんだ。そしてそれを五月蝿いくらいに忙しく振り鳴らす。
するとこれまた忙しそうにパタパタと足音をたて、体にぴったりフィットするタキシードを着込んだ細身の男が部屋に飛び込んできた。
「はぁい、お呼びですか?」
その男がほとんど言い終わらないうちに、ラッセイが言い放つ。
「新入りだ。ボルドのところへ連れて行け」
そして男の返事を聞くのも待たず、立て付けの悪い机の引き出しをガタガタ言わせながらパイプを取り出し、せわしなく煙を吐き出した。
「あたくし、マネージャーのジュノンと申しますの。よろしくね、新人さん。お名前は?」
ジュノンに促されて部屋を出ると、細い廊下を歩きながら妙に鼻にかかった声でジュノンが言う。外の世界に出て初めて、やっとまともな言葉を話せる人間に出会ったような気がした。それと同時に、何か自分と似通った匂いを感じて、妙に安堵感を覚える。
「あら、申し送れまして失礼。あたし、フムルよ。こちらこそよろしく」
あたしが答えると、一歩先を歩いていたジュノンが急にくるりと振り返り、嬉しそうにぱちんと手を打ち鳴らした。薄暗いせいもあって気がつかなかったけど、間近で向き合ってみると、薄っすら化粧をしているのがわかる。化粧のせいもあって年齢は不詳な感じがするけど、それほど若くはなさそうだった。
「あらぁ! あなたもオカマちゃんなのね? あたしたちお仲間じゃなぁい! 仲良くしましょうね!」
まだオカマという言葉の意味こそわからなかったけど、なんだかあたしも妙に嬉しくなった。
「ええ! 仲良くしてちょうだいね!」
そしてなんとなく目が合うと、2人して「うふふっ」と笑ってからまた歩き出した。
「あなた、前は何をしてらっしゃったの?」
「あ……ええっと……、トウボウケントウシ……って言うのかしら……」
あたしは自信がないながらも、聞きかじりの意味のわからない言葉の中から、合っていそうな物を選んで答えた。“逃亡”と“拳闘士”がそれぞれ独立した言葉であることすら、そのときは理解していなかったのだ。
「あら、拳闘士だったの。どうりでいい服着てるわけだわぁ。上等の絹ね。これ。素敵だわ」
そう言ってジュノンはあたしの着ている薄いカシュクールの裾をひっぱった。夢中で手近にあったものを着てきたけれど、あたしの持っていたものの中では決して上等なものではなかった。もっとたくさん上等な服も持っていたのに……。そう思うと、少し涙が出そうになった。
「でもあたしは拳闘士なんて嫌だわぁ。そりゃ拳闘士は強くなればいい待遇も受けられるから、志願する人も多いけど、死んじゃ元も子もないもの。金持ちの玩具にされて死んでいくなんてあたしはまっぴら! 逃げて正解よ! フムルちゃん!」
ジュノンはやたら大きく身振り手振りをしながら早口に話す。そして饒舌になればなるほど声のトーンが上がっていく。しかし少し間をおいて、声のトーンを落としてからこう付け加えた。
「まぁね、あたしたちの商売はその金持ちの悪趣味な道楽のおかげで成り立ってるんだけどね」
廊下の突き当たりの小さな扉を開けると、急に世界が変わった気がした。これまでの地下を掘ったままの空洞に壁板で仕切りをしただけの粗末な造りが嘘のようだ。
きれいに漆喰で塗り固めた壁。点々と置かれた花鳥を透かし彫りにした美しいランプが、ローズレッドの柔らかな絨毯を敷き詰めたフロアをぼんやりと映し出している。それほど広いフロアでもないけれど、今出てきた他2箇所に扉がありどこかへ続いているようだった。
あたしたちが出てきたのは、そのフロアにあるカウンターの奥の扉だった。黒光りする黒檀の立派なカウンターから正面に見える扉は木製の大きな2枚扉で、2枚を繋げて1枚のキャンバスにするようにして、横たわる裸婦の彫刻がされていた。ジュノンがその扉を指差して言う。
「ここがフロント。あっちは正面玄関。お客様の出入り口だから、あたしたちが使うことは滅多にないわ。あたしたちが使うのは裏口。フムルちゃんもここへ来るときにそっちを使ったはずよ」
それからカウンターを出てもう一つの扉の方に向かう。その扉は普通の開き戸だけど、顔が映るほどぴかぴかに磨き上げられた金色のノブがついていた。
でもその先で見たものは、少なからずあたしを驚かせた。フロントとさほど広さは変わらない部屋の右手半分が、頑丈そうな鉄格子をはめた檻になっている。そしてその中には多種多様な女たちが入れられていた。
そう。そのときあたしは、初めて“女”というものを見た。お父様をはじめ召使たちもみんな男で大柄な人ばかりだった。あたしに礼儀作法を教えてくれた家庭教師も、今思えばオカマだった。
今までに見たこともない、華奢でか弱そうな生き物。柔らかな乳房を持つ生き物。もちろん女にも例外というのはいくらでもあるけど、身長180cmを超す大男のあたしにとってはみんな小さく見えた。
彼女たちはみな思い思いの格好で座っていたけれど、みな一様に疲れた顔をしていた。
「フムルちゃん、こっちよ!」
しばしその光景に見とれていたあたしに、いつのまにか部屋の奥へと進んでいたジュノンが声をかける。そこには小さな椅子がひとつ置かれていて、頭に小さな角の生えた屈強そうな男が座っていた。
「彼が行動隊長のボルドよ。あなたの上司にあたるわけ」
ジュノンが彼をそう紹介する。
「で、この子が新入りのフムルちゃん。元拳闘士だそうよ。そしてなんとあたしのオ・ナ・カ・マ! 苛めたら承知しないから!」
続いてあたしをそう紹介すると、ボルドは「げぇっ!」と濁声をあげて、厳つい顔をさらにしかめて露骨に嫌な顔をした。そしてまじまじとあたしの顔を凝視する。
「……しかしこりゃひでぇ顔だな……。これでカマとは恐れ入ったぜ!」
苦虫を噛み潰したような顔でボルドが言うと、ジュノンが半分は冗談めかしてたしなめる。
「あら、酷いこと言うのね! 苛めたらあたしが承知しないって言ったでしょ? 覚悟して頂戴。今夜ベッドにお邪魔しちゃうから! 寝かさないわよ!」
ボルドが顔を背けて、ジュノンに手で「あっちへ行け」と促すと、ジュノンはひとりで笑いながら去っていった。あたしはその背中を見送りながら、また途端に心細くなった。
ボルドの説明からすると、要するにここは売春宿なのだそうだ。ただ絶対に許されない、ばれれば死罪は免れない特殊な売春。物好きな純血種の男が雑種の女を買いに来る秘密クラブだった。
彼の言葉を借りれば、汚い雑種女を小奇麗に手入れして、伝染病やその他雑多な厄介ごとを心配せずに、安心して遊べる商品にして提供する。それがこの商売だということだ。
ただ、この仕事の大まかな説明を聞かされても、あたしにはよく理解できないことばかりだった。なにしろあたしはこの世界の常識というものを全く知らなかったのだから。“売春”という言葉の意味さえわからず「女を買う……って、召使にでもするのかしら?」なんてとぼけたことを言って、ボルドに小突かれたほどだった。
「俺たち行動隊の仕事は主に警備だ。ここの秘密を守るために招かれざる客をぶち殺すことと、女どもが逃げないように管理することだ。いいか? これだけは忘れるな。やばいときは躊躇なく殺せ!」
なんでもないことのように「殺せ」と言うボルドの言葉にあたしは驚いた。ここへ来るまでに自分が何をしてきたかを考えれば、彼を非道だと言うことはできないけれど。
「いくら秘密を守るためだからって、殺せなんて……」
とはいえ、そのときにはそんなことを考えもせず、あたしはボルドを非難するような目で見ていた。しかしそんなあたしの甘い考えをボルドが一喝した。
「馬鹿野郎!! もしここが教皇庁に摘発されたらどうなると思ってやがるんだ!? 命がなくなるのはテメェだけじゃねぇ。従業員も客も皆殺しだぜ! そんなこともわからねぇのか!! まさかテメェの命を懸けて教皇庁に直訴する馬鹿もいねぇとは思うが、不審な動きでもしてみろ。そのときは仲間だろうと容赦なくぶっ殺すからな!」
そんなことを言われても、雑種も教皇庁もわからないあたしにはさっぱり理解できない話だった。ただいきなり怒鳴りつけられたことで萎縮してしまって、その後はもう何も言えなくなっていた。
その日は深夜まで施設の案内や仕事の説明を受けた後、閉店後の掃除までさせられて、やっとあたしに与えられた部屋に戻ったときには、もう夜明け近い時間になっていた。
「あぁ~! 疲れた! 」
あたしは生まれて初めての労働というものに、すっかり疲れきっていた。慣れないことだらけで緊張の連続だった。ただ有難かったのは、そのおかげで自分の身の上や犯した罪について考える余裕もなかったことだった。
それでも一人になると、この長い一日を思い出すともなく思い出していた。古びた粗末なベッドが硬くてかび臭く、今にも壊れそうにぎしぎしと鳴るせいで、なかなか眠れなかったせいもある。
「お疲れ様、フムルちゃん。ちょっといいかしら?」
こんな時間に不意の訪問者はジュノンだった。軽くノックはしたものの、あたしの返事を待たずに彼は、鍵のついていないドアを開けた。
「こんな時間にごめんなさいね。でも、きっと困ってるんじゃないかと思ったものだから」
そう言いながらジュノンは何か包みを抱えて、するりと部屋に入り込んでくる。なんだか彼がそばにいてくれると、とても安心した気持ちになって、あたしは微笑んで彼を迎え入れた。
するとジュノンは早速包みを開いてあたしの前に差し出した。そこには質素だけど清潔な洋服と、化粧品のセットが入っていた。
「見たところ逃げてきたばっかりでしょ? 手荷物ひとつ持ってきてないんだもの。着るものやお化粧品もないんじゃないかと思ったから……。よかったら使って」
このときの嬉しさといったらなかった。お父様の屋敷を出て以来、こんなにひとから優しくしてもらったのは初めてだった。涙が込み上げてきて、思わずジュノンに抱きついた。
「いやぁね。このくらい当たり前じゃない。だってあたしたちお友達よ! むさ苦しい男どもと違って、衣装と化粧はオカマの必須アイテムだもの。他にも困ってることがあったら何でも言って頂戴!」
それほど力一杯抱きついたつもりもなかったのに、勢いあまってジュノンはよろよろしながらも微笑んで言った。あたしはいちどきに胸の中にくすぶっていた感情があふれ出して、ジュノンの胸にすがって泣いた。
「あらあら、どうしたの? 何かよっぽど苦労なことがあったのね。逃げてきたんだものね」
ジュノンの優しい言葉に弾かれるように、あたしは今までのことを全部彼に話していた。彼なら信用できる。そう確信していた。
話を聞き終わったジュノンの顔は心持ち青ざめて見えた。そして何か悪いことでもしているかのように、辺りをきょろきょろと見回してから、声を潜める。
「フムルちゃん! 今の話はもう絶対誰にもしちゃダメ! 命がいくつあっても足りないわよ!」
自分の身に起きた事ながら理解はできなかったけど、身に迫る危険は感じていた。お父様や召使たちは殺された。あたしももう少しで殺されるところだった。きっと追っ手もかけられているだろう。
それはわかっていたけど、あたしは何故自分がそんな目に遭わなくてはならないのかがわからなかった。逃げ切るためにたくさんの罪も犯したけど、あたしの目から見れば、罰せられるべき悪党は相手の方だとしか思えなかった。
「いい? あなたのお父様の地位が地位だし、それだけの人を殺してきたなら、あなたの首にはきっと高額の賞金がかけられるわ。ここでは金のために仲間を平気で売るような人間なんて珍しくもないの。絶対に秘密にしなきゃだめ!」
それからジュノンはあたしがよく理解できるまで、ゆっくりとこの世界のことを教えてくれた。種族のこと、教皇庁のこと。お父様がどんな地位にいらっしゃった人なのかも。こうしてあたしが住まうようになった裏社会の常識まで。そしてこうアドバイスもしてくれた。
「だいたいのことは教えたつもりだけど、やっぱり常識的にずれたところは隠せないと思うの。何か不審がられたら、自分は“養殖”だからって言うのよ。養殖の元拳闘士だって答えるの」
ジュノンの言うことには、拳闘というのは闘犬や闘牛と同じ扱いで違法なことではなく、むしろ純血種の中でも上流階級では一般的な娯楽なのだそうだ。通常は自分の奴隷や貧民街でスカウトしてきた雑種を使う。しかし熱心な人の中には、違法な手段でより強い戦士を作る方法を採ることがある。強い“雄”と“雌”を掛け合わせて子供を産ませ、幼いうちから英才教育を施すことを言う。前者を“天然”後者を“養殖”と呼ぶのだそうだ。
しかし雑種を奴隷や使用人として使うことは認められているけれど、意図的に増やす、つまり子供を産ませることは違法になる。管理ミスなどで万が一妊娠した女は殺処分が義務付けられており、違反すれば高額の罰金と再教育との名目で拷問が科せられるのだ。
そのため養殖は秘密裏に行われる。だから彼らもあたしと同じように、外の世界を知らずに育てられることが多いのだ。これならどうにかごまかしもきく。
ただあたしはこのとき、“養殖”と呼ばれる拳闘士たちをとても可哀相だと思っていた。戦って死んでいくために作られた命。誕生そのものが非道な純血種の玩具にされてしまった、とても可哀相な命だと思った。自分の誕生の秘密も知らずに……。
しかしともかく、あたしの新しい生活はこうして始まったのだった。