第二章 深窓の麗人 前編
遅く目覚めた気だるい朝。ベッドから抜け出したあたしは、一糸纏わぬ姿のままで大きな鏡の前に立った。美しい金縁の姿見に映る生まれたままの自分の姿を、そっと指先でなぞっていく。
天窓から差し込む日差しが、筋肉が描く美しい稜線を浮かび上がらせる。その端正なボディラインに思わず溜息が漏れる。
艶めく漆黒の髪。情熱を語る赤い唇。優美な首のラインをなぞって、白い胸板で指先を遊ばせる。少し黒ずんだ小さな乳首の脇には、昨夜の愛欲が赤紫色の痣になって形をとどめていた。
「ああ……なんて美しいのかしら……」
溜息混じりに呟いて、あたしは自らの両腕で自らの体を抱きしめた。あの肌に吸い付く唇の、痛いようなくすぐったいような感触が蘇ってくるようで、思わず身震いをする。愛する人の欲望を受け止めたこの体は、いっそう美しい。
鏡の前でいくつかポーズを取って、自分の美しい肉体を堪能してから、次は湯殿へ向かう。紫一色に統一した寝室のすぐとなりが、あたし専用の湯殿。
床に敷き詰められたベルベットの感触を素足で楽しみながら、白と淡い紫を重ねた天蓋をくぐる。その瞬間に、ふわっと立ち昇るローズオイルの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
ゆったりとお湯につかって手足を伸ばすと、また今日も新しいあたしになれる気がする。これがあたしの朝の日課だった。
そう、あの日までは……。お父様の愛情だけを信じ、それ以外何も知らなかった。とてもとても幸せで……、今思えば少し退屈な毎日だった。
お風呂から上がると、今度は衣裳部屋。お父様からの贈り物で埋め尽くされたこの部屋に入ると、あたしはまた、愛で満たされた気持ちになる。その衣装の山の中から、皮製のTバックの黒いショーツと濃い紫の薄絹のガウンを選んだ。
紫は、お父様とあたしが大好きな色。美しさと艶めかしさを最大限に引き出す魔法の色。その色を纏って鏡台に向かい、情熱的な赤い口紅をひく。
そのとき背後で扉の開く音がした。あたしは鏡を覗き込んでその姿を確認する。短く刈り込んだロマンスグレーの髪と、短くカットして綺麗に整えられた顎鬚。逞しい眉と優しい瞳があたしを見つめていた。
「あら、お父様。どうなさったの? お仕事にいらっしゃらなくていいの?」
お父様は鏡の中で、にっこりと微笑んでこちらにいらっしゃる。そして背中からあたしをぎゅっと抱きしめた。
「うむ。少しお前の顔を見たくなってな。今日も美しい。世界中の誰よりも美しいお前を……」
振り向いたあたしの唇に、お父様の唇が重なる。長いキスの後で、あたしもにっこりと笑って、お父様の唇を指で拭った。
「いやだわ。口紅がついちゃったじゃない」
でもお父様は構わずに、またあたしの唇を奪った。そして肩からまわした手で胸をまさぐって、指先で敏感なところを執拗に刺激する。
「あんっ! だめよ、お父様。お仕事に遅れるわ」
あたしは乳首の辺りを這い回るお父様の手を、やっと捕まえて言った。熱い溜息をつくあたしの耳元で、お父様が囁く。
「フムル、見てごらん。こんなところにバラの花が咲いた」
鏡に映るあたしを見ると、左の乳首の脇に昨夜の痣に重なるように赤いバラが咲いている。お父様の唇を拭ったとき指についた口紅が、お父様の手を止めようとしたときにそこについて、まるでバラの花のような模様を描いていた。
「あら、素敵ね」
お父様とあたしと、目を見合わせてくすくすと笑った。
「そうだ。ここにバラの刺青を入れよう。わしの愛が永遠にお前を守るように……」
そう言ってお父様は、すぐに召使に刺青の道具を持ってこさせて、あたしの胸に1輪の黒バラとあたしの名前の刺青を彫った。
「こんなことをしていていいの? お仕事にいらっしゃらなくて大丈夫?」
あたしが聞くと、お父様は何故か悲しそうな顔をして言った。
「いいんだ。今は1秒でもお前と一緒にいたいんだよ」
刺青を彫り終わるとすぐ、仰向けに寝転んだあたしの上に、お父様が覆いかぶさる。細身だけどよく鍛え上げられた長身が、あたしの肉体に絡まる。
そのときはまだあたしは、これが最後の情交になるとは知りもしなかった。たぶんお父様はそうと知っていらっしゃったのね……。行為の終わった後も、お父様はいつまでもあたしの長く伸ばした黒髪を弄んでいた。
そう。あたしはまだ何も知らなかった。この世界がどんな世界なのかも、この愛が禁断のものだということも……。
生まれてから一度も外へ出たことがなかったあたし。愛しいお父様と召使たちに囲まれて過ごした日々。そんな幸せで平和で少し退屈な毎日が、もうすぐ終わろうとしていることを、あたしはまだ知らなかった。
異変は突然訪れた。
お父様の腕枕でうとうととまどろんでいると、いきなり鎧姿の兵士が何人も部屋に入り込んできた。先頭の背の低いずんぐりした男が何か縦長の紙を広げて、その文を読み上げる。そのときはまだ純血種や雑種なんて種族があることすら知らなかったけど、それが初めて見る純血のドワーフだった。
「教皇庁直轄聖騎士団団長オベリオ・シューリック。下記の罪状により出頭を命じる。邪神崇拝。雑種の繁殖及び保護。異種交配。以上。教皇庁警察隊異端審問官長ユリアス・ケイン」
それが終わると、3人の兵士がお父様に槍を突きつける。
「教皇庁? 邪神崇拝? なんのことなの? 異端審問って……」
混乱するあたしをよそに、お父様はもう覚悟を決めていたのか、落ち着き払ってベッドから起き上がった。
「抵抗する気はない。わしが犯した罪の罰は受けよう。しかし他の者には乱暴な振る舞いは一切許さん。雑種といえども罪のない者に手出しをすると言うのなら、このわしが相手だ」
お父様はそう言ってから、あたしを引き起こして最後の接吻をした。そして愛しむようにあたしの髪を撫でて囁く。
「許してくれ、フムル。お父様はもうお前を守ってやれそうもない。この先何があっても……強く生きておくれ」
そしてお父様は自ら異端審問官の縄にかかった。あたしはただ呆然とその姿を見ていた。
「異種愛ってのは聞いたことあるけど、これは酷いな。まるで化け物だ!」
「しかもオカマだよ。オカマ。気持ちわりぃ~」
「異種愛で同性愛で近親相姦とは……非道にも限度があるな……」
「いくら雑種でもここまで醜いのは珍しいほどだな!」
異端審問官たちが口々に暴言を吐いて嘲り笑うのが聞こえた。「異種愛」だとか「オカマ」「近親相姦」、そんな言葉の意味はそのときはまだ知らなかった。だけどあたしはそのとき、初めて「醜い」と言われたのだった。でもあまりに突然のことにあたしはただ戸惑うばかりで、そんな暴言にも怒ることさえ忘れて呆然としていた。
お父様は目を伏せて、そんな悪意に満ちた言葉を悲しげに聞いていらっしゃった。けれど不意に頭を上げて、あたしに向かって優しく微笑んだ。
「フムル。誰がなんと言おうと、おまえは世界一美しい。お父様の宝物だよ」
でもお父様を縄で縛ると、先のお父様の言葉を無視して、異端審問官たちは残ったあたしと召使たちに弓を向けた。
「聖騎士団長殿。いや、元……だな。雑種なんてのは害虫と同じだということはよくご存知でしょう?害虫なんて生きているだけで罪なんですよ」
そう言って先頭に立っていたドワーフがニヤリと笑った。
「ユリアス、貴様!」
お父様が怒りを露に拳を握り締める。全身に力を込めて、今にも縄を引きちぎりそうな勢いだった。ギリギリと軋んで綻びはじめる荒縄を見たユリアスが、慌てて腰の刀を抜く。
「きゃぁっ!! お父様!!」
あたしは叫ぶと同時に、もう無我夢中で、壁にかけてあった手斧に手を伸ばしていた。直後あたしの手を放れた斧は唸りを上げて空を切り、ユリアス目掛けて飛んでいく。
普段からお父様に戦斧を習ってはいたけれど、それは体の鍛錬のためのもので、まさかこれで人を殺すことになるとは思いもしなかった。この先に起こることを想像して、あたしは一瞬血の気が引くのを感じた。
頭が胴体から離れて血飛沫がドバッ! という予想に反して、斧は高い金属音を響かせて再び宙を舞った。間一髪ユリアスの剣が斧を弾き飛ばしたのだった。
そのときのあたしは、しくじったという思いと同時に、少しほっとしてもいた。あたしは生まれてから16年間、まだ人の死というものに出逢ったことがなかった。
「この汚らわしい害虫が!!」
小刻みに痙攣する頬に怒りと嫌悪を滲ませて、ユリアスは呻くように吐き捨てた。そして背後の部下に向かって「撃て!」と号令をかける。
絶体絶命。そう思ってあたしは固く目を閉じた。弓が空を切る音がして、その切っ先が肉に食い込む嫌な音がした。そしてあたしの背後から召使たちの呻く声。
「……あら?」
でもあたしは体のどこにも痛みを感じない。恐る恐る目を開くと、目の前にはお父様の大きな背中があった。矢の放たれる瞬間、縄を引きちぎったお父様があたしを守ってくださっていたのだ。
「お父様!!!」
夢中でお父様の体に取りすがると、あたしの両手に何か生温かくぬめった感触がした。驚いて見上げると、お父様は体中に何本もの矢を受けている。そしてその中の一本が喉笛を貫き、その傷口から脈打つように血が溢れ出して、お父様の胸を伝い流れ落ちていた。
渇いた呻き声を漏らして崩折れるお父様を、あたしは信じがたい思いで呆然と眺めていた。鋼の肉体を持つお父様。とても強いお父様。あたしは一度も試合に勝ったことはなかった。それがこんなことで……こんな簡単に死んでしまうの……?
「お父様!? ……お父様!! 嫌よっ! 死んでは嫌っ!!」
取り乱して泣き叫ぶあたしをめがけて、再び無数の矢が放たれる。何も考えることができず、身動きもできなかったあたしを庇って、お父様は再び立ち上がった。そしてそのままあたしに覆いかぶさるように倒れこむ。
「もうやめて! あたしも死なせて……。あたし、お父様と一緒に死ねるなら本望よ」
お父様は胸にも背にも矢を受けて、顔も体も全てが血に染まっていた。もう焦点の定まらない目で、それでもお父様はそう言うあたしに微笑みかけた。
「フムル……。生きてくれ。お父様のために生き延びておくれ。お前ならできる」
あたしは激しく首を横に振る。大粒の涙がお父様の肩に降り落ちた。
「嫌よ! お父様がいなくては、あたし生きていけないもの」
「強く……生き……ろ……」
涙で掻き曇ったあたしの瞳には、もうお父様がどんな顔をしていらっしゃるかも見えなかった。ただお父様が最期の力を振り絞った震える手で、あたしに手渡した物の、冷たい感触だけが妙にはっきりと感じ取れた。その冷たい物を握り締めたとき、あたしの中で何かが壊れるのを感じた。
「うおおおおおおおおおおぉっ!!!!」
気づくとあたしは、地の底から湧き上がるような低い雄叫びをあげていた。握り締めた手斧を高く振り上げてただ意味もなく叫んでいた。そこへ三度目の矢が降り注ぐ。しかし怒りと悲しみに叫び、硬く緊張したあたしの筋肉は、その矢をことごとく跳ね返した。
「ば……化け物め!」
ユリアスは引きつった顔で後退り、狂ったように「撃て撃て」と繰り返す。弓を構えた部下たちも、動揺のあまり弓を取り落とすもの、逃げ出そうとするものもでて、すっかり統制を失っていた。
あたしはそこに向けて、渾身のトマホークを放つ。斧は風を巻いて激しく回転しながら、次々と兵士たちの首を跳ね飛ばしていった。飛び散った血飛沫は漆喰の天井も、紫色の天蓋も、バラの香りの湯殿も、ビロードの床も、すべてを毒々しい赤色に染めていく。
恐怖の絶叫を上げながら逃げ惑う者。急所を逸れたのは幸か不幸か、痛みに呻き泣き叫ぶ者。阿鼻叫喚。まさに地獄絵図だった。
見事な円を描いてあたしの手に斧が戻ると、夜叉の如くまだ生き残っている者に襲い掛かる。人の頭が薪を割るように裂け、首はゴム鞠のように宙を舞った。
そして最後に残った一人、ユリアスの元へゆっくりと歩みを進める。
ユリアスはすっかり青ざめ、腰を抜かしてへたり込んでいる。そこへ一歩一歩足を進めるたび、血液を吸い込んだ絨毯がぺちゃぺちゃと音をたてた。
あたしはそのリズミカルな水音を聞きながら、奇妙な興奮を覚えていた。血溜まりを踏みしめる音に自分の胸の鼓動が重なって、互いが互いを高めあうようにその速度を速めていく。
「お父様の仇! いくわよっ!!」
ユリアスの前に立ったとき、そのリズムは最高潮に達した。大きく斧を振りかぶる。
「せ~のっ!」
大きく縦に一振り。斧の刃先はユリアスの太い眉と眉の間から、大きな団子鼻を真っ二つにして胸と腹を切り裂いた。
「もういっちょっ!!」
再び大きく振りかぶって、今度は肩から脇へ向かって袈裟懸けに切りつける。肩を深く抉った刃先が鎖骨、肋骨と次々に折りながら進んでいく感触が、斧の柄を通して感じられた。
「オマケにもひとつっ!!!」
最後に渾身の力を込めた一薙ぎ。最初の一撃で破壊された頭蓋骨から脳漿を撒き散らしながら、醜い男の首が宙を舞い踊った。
これが後に「フムル三段アクス」と呼ばれて恐れられる、あたしの必殺技の誕生だった。
視界から動くものが何もなくなると、あたしはふと大きな姿身鏡に目を留めた。そこには今まで見たこともないほど美しいものが映っていた。
それは全身に返り血を浴びたあたしの姿だった。どこもかしこも燃え立つような鮮赤。まるであたし自身が巨大な赤いバラの花になったような気分だった。情熱の赤。命の輝きの赤。
そしてあたしは鏡を見て初めて気がついた。はちきれんばかりに勃起したあたしの男性器に。そっと指先でなぞってみる。それだけであたしはすぐに頂点に達していた。