第一章 盗賊団の少女 後編
それから10日ほどが過ぎた頃、私は仮面の男に誘われて久しぶりの街を歩いた。乾いた冷たい風が、塵を巻き上げながら吹き抜けていく。
「どこへ行こうって言うの?」
2人とも正体を隠すため、粗末なコートをはおり、フードを深く被っている。一見労働者のように見える変装をしてまで、私に見せたいものとはなんだろう?
少し先を歩いていた男は、軽く私を振り返ると、ただ黙って微笑んで見せた。
仕方なく私も黙ってついていくと、そこは大きな工場だった。しかしどこと言って変ったところはない。雑種たちが大勢働いている、ありふれた繊維工場だ。
大人も子供も、ただ疲れた顔で黙々と働いている。それを純血種の監督員が鞭を持って見張っている。私と母が働いていた農場とたいして変わりはしない。どこも似たようなものだ。
「これがどうしたって言うの?ごく普通の工場にしか見えないわ」
少し離れたところからそれを眺めて、私は男に訊いた。
「普通の工場ですよ。ただ、おかしいと思いませんか? どうして雑種が働いているんですか?」
また男が目的のよくわからない質問をする。何か含むところがありそうだけれど、ここは敢えて常識的な答えを求めていると考えていいだろう。
「別に普通のことじゃない。あんたの属する教皇庁の教えがあるからよ。“雑種はその罪と穢れを清めるために社会に奉仕せよ。それに従うものは罪を許し、逆らうものは処刑する”とね」
男は一度深く頷いてから、ゆっくりと口を開いた。
「それがおかしいと言うんですよ。教皇庁は雑種を悪しきものとして弾圧を続けている。保護することも許さなければ、増殖を抑えるために定期的に雑種狩りをしてさえいる。それがなぜ罪を許し、僅かながら食い扶持を与えるのですか? 全滅させたいのなら一切の職を奪い、生活できないようにしてしまえばいい。もっと簡単なのは、全部殺してしまうことです。今の教皇庁の力なら、できないことではない。それがなぜ数を抑制しながらも、雑種を生かす必要があるんですか? これだけの虐待をしておいて慈悲だなんて答えはありませんよ。理由はなんだと思いますか?」
ここでやっと私にも男の言いたいことがわかってきた。
「労働力……」
「その通りです。差別階級を作ることで、安く使えてどんな酷使にも文句の言えない、使い勝手のいい労働力を得ることができるんです」
「それが教皇庁が歴史を捻じ曲げて語る理由だと言うの?」
「正確には、理由のひとつです。次へ行きましょう」
次に男が向かったのは、貧民街の中でも最も酷い環境の一角だった。ここは既に人が住むところではなく、廃人と呼ばれる、雑種の中でも奇形や障害が酷く、普通の生活を送れない者が暮らすところだ。暮らすと言うよりは、ただ死ぬのを待っているだけかもしれない。
彼らは障害のため、労働力としては役に立たない。ただ毎日を飢えと理不尽な暴力に怯えて、路上に転がって過ごす。
石畳を割って生えてくる雑草をむしり、ねずみや虫を捕らえて食し、ようやく生を繋いでいるのだ。ときには人を襲って死肉を喰らうことすらある。彼らの生活には、すでに人間らしさなどどこにもないのだ。
できることならこんなところに来たくなどない。ここは地獄だ。
蛇のように細長く歪んだ四肢を持った女が、カラスの死骸を口にくわえて地面を這いずっていく。女は鱗をまとった爬虫類のような肌で、私たちに気づくと、鋭い牙をむき出して私を威嚇した。それを見て吐き気を催さずにはいられなかった。
「不思議だと思いませんか? 雑種と言うのは人類5種族を交雑して生まれた悪魔の僕だと言いますが、雑種の中にはこんなふうにまったく別の生き物の特徴を持った人が多くいます。彼女のように爬虫類のような特徴を持った人、鳥類のような羽の痕跡のある人、獣のように尻尾のある人などです。他にも……」
どうにもこの男の話は長くなって困る。こんなところで長話などしたくない。
「いい加減にして。こんなところ、いるだけで不快になるわ。話はわかりやすく短くしてちょうだい」
苛立つ私を見て、男は困ったように頭をかいて見せた。
「すみません。よく私の話はくどいと、よく言われてはいるんですが……性分なもので」
私はわざと大きな溜息をついて、顎で先を促した。男は少し照れたように笑って、ひとつ咳払いをしてから続けた。
「つまり、雑種は呪いのために醜いと言われていますが、呪いなんてものが本当にあるでしょうか? これが呪いだとしたら、なぜ悪魔は自分の僕とする者に、重大な障害を負わせるのでしょう? 戦わせるならこんな歩くことすらできない者を作ってなんの意味があると言うのですか? これは呪いなんかじゃありません。その証拠も私が盗み出そうとしている文書に書かれています」
いったいこの男が盗み出そうとしている文書には何が書かれているのだろう? 教皇庁の語る歴史の嘘を暴く、歴史の真実を記した書物? いった歴史の真実とは……?
なんだか話がますます難しくなっていく。神官を務める側ら歴史学者でもあるという男にとっては難しい話じゃなくても、盗賊として暮らしてきた無学な私にはさっぱり要領を得ない。
「もういいわ。そんな話を聞いたところで、どうせ私にはわからない。時間の無駄よ」
痺れをきらして私が言うと、男は黙って私を見つめ返した。
「わかりました。例の文書にどんな重大な秘密が書かれているのか、少しでも察してもらえればと思ったのですが……。次で最後にします。教会に帰りましょう」
教会の2階の一番奥。男が寝泊りしている部屋へ、私は通された。質素だけど重みのある白木の大きな机をはさんで、なんとなく改まった気分で向き合って座る。
「いいですか? ティセル、これが一番重要なことです」
男はそう前置きをしてから神妙な顔つきで話し出した。
「君も含め、雑種はとんでもない才能を持っているということを知っていますか?」
「才能? それはあるかもしれないわね。人を殺す悪魔の才能。醜い姿で人を不快にするとか? 神官なんかに助けられるなんて間抜けぶりも才能かしら?」
少し自虐的に笑って見せると、男は少し間を置いてから、静かにたしなめた。
「茶化さないでください。不幸にも人を殺すことに使ってしまっただけで、君の才能はそのためにあるわけではありません。たとえばその敏捷性、冷静な判断力、瀕死の重傷からたった10日で回復してしまうほどの回復力と体力。盗賊としても優秀かもしれませんが、世が世なら他にも活かせる道はたくさんあるはずです」
またそこで間を置いて、私が茶化しも反論もしないのを確認してから、またゆっくりと話し始める。
「例を挙げれば、ライカは僅か11歳にして魔力は低いながらも3種類の魔法を使いこなします。アベルは驚異的な記憶力で100冊以上の本を暗誦できます。他にもすごい才能を持った雑種を何人も知っています」
確かに盗賊団の中にも、色々な面で飛びぬけた能力を持った人物は少なくなかった。それが醜さと引き換えに与えられた力だと言われている。
私がそれを言おうと口を開きかけたとき、男がさらに続けた。
「教皇庁が最も恐れたのは、その特異な才能です。自分たちよりも優れた人種に、政権をとられることを恐れている」
教皇庁が……雑種を恐れている?考えてみたこともなかった。徹底的な差別と弾圧の前に、教皇庁と戦い、政権を奪うことができるなどと考えられもしない。しかし確かに特異な才能を持った人材を育て、団結すれば大きな力になるかもしれない。
呆然としている私に、さらに男は畳み掛ける。
「強硬な雑種差別政策を採ることで、得をしているのは誰ですか? それを考えれば、本当の悪魔の正体が見えてくるような気がしませんか?」
「まさか悪魔の正体は……」
言いかけたとき、不意にバタバタと廊下を走る音がして、すぐに勢いよく扉が開いた。
「た……大変! 先生、早く!!」
息せき切って走りこんできたのはライカだった。
「どうしたんですか? ……あ、ライカ。部屋に入るときにはノックをするのがマナーだと教えましたよね? 黙ってドアを開けたりしてはいけませんよ」
何か急を知らせる様子で飛び込んできたライカに、男はのんびりと声をかける。さっきまでの真剣な表情とは打って変わって、にっこりと微笑んだ。
まったくこの男の表情はよく変る。穏やかに微笑んでとぼけたことを言っているかと思えば、急に真顔で話し出したりする。怒ることはあまりないらしく、あの一件以来怒ったところは見たことがない。
「もう! それどころじゃないんだよ! マリサの子供が生まれそうなんだってば!」
ライカは男に走り寄って、黒灰色のローブの端を引っ張る。しかし男はゆったりと椅子に腰を落ち着けたまま、諭すように言う。
「ライカ。女の人っていうのはね、生まれながらに子供を産む使命があります。そんなに慌てなくても、自然に子供を産み落とす力を持っているものです。すぐに行きますから、先に行って待っていてください」
ライカは何か言いたいのに上手く言葉にならない様子で、変にもごもご言ったかと思うと、返事もそこそこに出て行った。
混乱しているライカの気持ちはわかる。こんな子供ばかりのところで出産なんて一大事を目の前にして、大人と言えばマリサを除けば男ばかり。慌てるなという方がおかしい。
「落ち着き払ってるあんたの方が、私には不思議だわ……」
呆れ半分に言う私に、男は「ふふっ」と小さく笑って見せた。
「ここで子供が生まれるのはもう4人目なんですよ。初めは私も慌てました。でも不思議なもので、特に何も手を貸さなくても……と言うか何もできることがないんですが、自然の力に任せて子供って生まれてくるものなんですよ。母になる女性の力っていうのは凄いものですね。私たちにできることは、ただ見守ることだけです」
そうのんびりと言って、男はようやく腰を上げた。
ライカからの知らせを受けたのは昼下がり。それから深夜までマリサの苦しむ声が断続的に続いていた。その間、マリサのいる部屋からは、アベルが落ち着きなく出たり入ったりを繰り返している。
私は出産になど立ち会いたくもないし、手伝う気もさらさらない。自室で過ごしながら、なんとなく落ち着かない気分でいた。
ようやく産声が聞こえたのは夜明けも近づいた頃だった。
男から聞かされたことをあれこれと考えているうちに眠っていたらしい。その声で目が醒めた。それに次いで同じように目を覚ました子供たちが騒ぎ出す声が聞こえてくる。
もう少し眠ろうと再び目を閉じたけれど、どうにもうるさくて眠りにつけない。私は仕方なく起きだすと、騒ぎの元へ行ってみる。
廊下には意味もなく大騒ぎをしている子、眠たげに欠伸をしている子、みな思い思いの様相で集まってきている。それを少し年かさの女の子がお姉さんぶって仕切ろうとしているようだが、まったく収まりがつかない状態になっている。
これだからガキは……。私がうんざりして深い溜息をついたとき、扉が開いて仮面の男が姿を現した。
「みんな静かに。今赤ちゃんに会わせてあげますからね」
男が出てくると、子供たちは一斉にその足元に絡みつくように寄り集まる。子供たちの勢いに圧倒されてよろけながらも、男は嬉しそうに子供たちの頭をひとりずつ撫でていく。一通りのスキンシップが終わったところで、男が言った。
「みんな静かにね。赤ちゃんを驚かせないように、静かに部屋に入ってください」
それを合図に皆が先を争うようにして部屋の中へ入る。静かにと言っても喋らないというだけで、意味もなく互いに顔を見合わせてはクスクスと笑ったり、突きあったりして、騒がしいことには変わりない。
子供たちの輪の中に、ベッドの上で生まれたての赤ん坊を抱くマリサと、照れたような笑いを浮かべているアベル。
なんて……なんて幸せな光景だろう。そう、差別と貧困の中で荒みきった生活をする雑種たちの社会の中で、まるでここだけが忘れ去られた楽園のようだ。新しい命を歓迎できる環境がここにはある。
その輪から遠く離れた扉の外から、私はその光景を眺めていた。斑に黒ずんだ肌の雑種らしい姿をした赤ん坊でも、この上なく愛しげにその胸に抱くマリサの姿を見て、少しだけ……ほんの少しだけ羨ましいと思ってしまった。そんな自分が妙に腹立たしく思えて、慌ててそこから目を逸らした。
「ティセル、美しいと思いませんか?」
気づくといつの間にか仮面の男が私のとなりに立っている。男はその顔を見上げた私に、微笑みかけてから、マリサとアベルに視線を戻した。
「どんな種族でも、新しい命を抱く女性の姿は美しい。これ以上ないくらいに美しいものだと、私はそう思います」
またそんな青臭いことを言っている男に背を向けて、自室へ戻ろうとすると、不意に男が私の手を掴んだ。迷惑そうに振り返った私のもう片方の手も掴んで、両の手を組み合わせるようにする。少しの間それを眺めてから、男は私の目を真直ぐに見て言った。
「この手も、いつかは新しい命を抱くための手です。それを忘れないでいてください」
どうしてこの男は、こう大真面目に臭い台詞を……。こっちが恥ずかしいような気分になる。
「馬鹿なこと言わないで! 私は子供なんてご免だわ。雑種の子供なんて生まれてきて、ひとつもいいことなんてない。この教会を出れば外は闇だわ。あの子だって幸せな一生なんて望めはしないのに、産むだけ残酷よ!」
力一杯に男の手を振り払って、歩き出した私の肩を再び男が掴んだ。
「だから……外は闇だから……、その闇を明るく照らすために戦うんです。そのために君の力が必要です。ティセル、話の続きをしましょう。私の部屋へ」
空の端が白み始めていた。再び男の部屋へ入り向きあって座ったまま、重苦しい沈黙が続いている。
「初めてここで目を醒ましたとき、君は“目的は何か”と訊きましたね? 正直……心を見透かされたようで、どきっとしました」
長い沈黙を破って、やっと男が口を開いた。
「この計画はとても危険なものです。“それ”を盗み出せたら……とは思っても、実は私も実行に移す気はありませんでした。しかし君が倒れているのを見つけたとき、君ならできるかもしれないと思ってしまったのです。でも恩を着せるために助けたわけではないことも本当です」
そう言って男はうつむき、大きく息をついた。それから意を決したように真直ぐに私に向き直る。
「失敗は即ち死を意味します。本当はそんな危険なことを君に頼んではいけない。正直、今でも実行に移すべきか迷っています。それでも……それほどに危険なことでも、君は私と一緒に戦ってくれますか?」
これまでの男の話が本当なら、これは教皇庁を始め純血種たちの世界をひっくり返すほどの大事になるだろう。おもしろい。命を懸ける価値はありそうだ。
「やるわ。どうせ捨てても構わない命。教皇庁に一泡吹かせられるなら、やる価値はあるわね」
そう答えた私に、男は深い溜息をついた。
「……本音を言えば、断って欲しかった。君を危険な目に遭わせるのは気が進まない。それでも……やらなければならないことです。未来のために……」
そして男は席を立つと、ベッドの下から黒革に青銅の装飾と大きな鍵のついた箱を取り出した。その鍵を開けて、中から一枚の紙を取り出した。それを黙って私の前に差し出す。
ここに盗みに入るというのか、建物の図面のようだ。しかしよくよく見て、さすがの私も驚いた。
「教皇庁本部!」
男が黙って頷く。そして侵入経路を指で辿っていく。
正面入り口から中庭を通って大聖堂の裏へ。そこから地下道を通り、神官宿舎を突っ切って礼拝堂に出る。そのとなりの塔へ入り頂上へ。
「封印図書館です。目的のものはそこに。初代五賢者の一人エルファンが記した、魔神アンサルヴィエについての記録です。そこに全てが書かれています」
初代五賢者の一人エルファン。その話はどこかで聞いたことがある。最後まで教皇庁の設立に反対し、謎の死をとげたというノームの話だ。教皇庁に関する重大な秘密を握っていたために暗殺されたとか、人類を裏切って悪魔に加担したために呪いによって死んだとか、いろいろな説が面白半分に語り継がれている。
しかし封印図書館と言えば、禁呪や秘法・暗黒法の書物を収めた場所だと聞いたことがある。最高位の神官、つまり大賢者と呼ばれる当代の五賢者のみが入ることを許される場所だとも。なぜそんなところに、そんな書物があると断言できるのだろうか? しかしこの男がいい加減なことを言うとも思えない。そんな私の疑問を察したのか、男はまた大きく息をついてから、重い口を開いた。
「私の身分を明かさなければならないときが来たようですね」
そして男はゆっくりと仮面をはずして見せた。緊張した面持ちで私をじっと見つめる顔は、確かにどこかで見たことがある気がする。しかしひと目ですぐにわかるほどの有名人でもないらしい。確かにどこかで見たことはあるけれど、すぐには思い当たらなかった。考え込んでいる私に、男が言った。
「私の名はリオン・ハーメリア。これで……わかりますか?」
「リオン・ハーメリア? ……ハーメリア!?」
エルフでハーメリア家といえば、“あれ”しかない。教皇庁のトップである大賢者は、創設者である初代五賢者の名前と血脈を現在も受け継いでいる。ハーメリア家はその血統だ。
「驚いた……。あんた……大賢者クラウィンの後継者だったとは……」
男は黙ってゆっくりと頷いた。どうりで見たことがあるわけだ。わからなかったと言うよりは、あまりに意外すぎて思い至らなかった感が強い。大賢者は代替わりのときに、初代の名前、エルフならばクラウィンを襲名する。通常は長子が跡を継ぐのだけれど、なんらかの理由で別の後継者を指名する場合があるのだ。
彼がそのケースだ。詳しくは覚えていないけど、1年ほど前のことだったと思う。確か病弱な長男の代わりに、次男を後継者に指名するとかで、盛大な披露の式典を催していた記憶がある。
そこで後継者指名を受けていたのが彼だ。つまり彼はハーメリア家の次男であり、大賢者クラウィンの後継者だということだ。それなら封印図書館に入ることもできるだろう。
「後継者の指名を受ける前から、教皇庁に対する疑惑はありました。密かに闇の伝承を研究していましたから。しかし確証を得ることができず、ただ申し訳ない気持ちで救護だけを続けてきました。それが指名を受けて後継者教育が始まると、疑惑は確信に変ったのです。そして、ついに封印図書館でその証拠を見つけました。それを盗み出して世間に公表しようというのです。どのくらい危険なことをしようとしているのか、わかってもらえましたか?」
これは確かに危険な仕事だ。いくら聖都を荒らしまわった大盗賊とはいえ、教皇庁本部、しかも封印図書館に盗みに入ろうとは、ほとんど自殺行為でしかない。
盗賊たちの噂では、あそこを守っているのは並みの警備隊ではない。全ての部門において選りすぐりの武人を取り揃え、それに加えて100人を超える魔法使いまで配備しているらしい。
「引き受けると言っておいてなんだけど……、無理だわ。自殺行為でしかない。私は武人の相手ならどうにかなるかもしれないけど、あんな魔法使いだらけのところは無理よ」
確かに私は盗賊団で、警備の厳しい大邸宅をいくつも襲ったことがある。だけどそれはサポート役の魔法使いや仲間がいてはじめてできること。どんな武人が相手でも簡単に負ける気はしない。でも魔法使いを相手にしなければいけないとなると、話は別だ。
魔法使いとの戦闘経験が浅いせいもあるけれど、攻撃の方向やタイミングが読めない。それに多様な魔法の中には、かわすことのできないものもある。敏捷性重視であまり打たれ強いとは言えないタイプの私にとっては、苦手な相手なのだ。
しかしリオンは言った。
「だから2人で行くんですよ。逆に私は魔法使いで怖い相手はいません。これでも大賢者候補です。しかし魔法の欠点は詠唱時間が長く、その間が無防備になることです。その間に動きの素早いタイプの物理攻撃で簡単にやられてしまう。つまり……私たちはお互いの欠点を補い合えるんです」
もしかしたら、やれるかもしれない。そんな気がしてきた。
その後、侵入経路や作戦の詳細を打ち合わせ、決行までにそれぞれ準備をするために散会した。3日後の再開を約束して。
それは予想外の訪問だった。約束の日を明日に控えなかなか眠りにつけず、窓から見える星空を眺めていた。そんなときにドアを叩く音がした。
「すみません。全てが終わるまでは、もうここへは来ないつもりだったんですが……」
私の返事も待たずに入ってきたのは、リオンだった。
ハンティングから少女を助けたとき、ホーリーウォールを使ってしまったがために、他の高位の神官も含めてリオンにも疑いの目が向けられた。そのため密かに行動を監視されていることに気づき、必要最低限しかここへは来ないようにしていたのだ。
「どうしたの? こんな夜中に」
リオンは戸口に立ったまま、問いかけた私の顔を、ただじっと見つめていた。私がもう一度問いかけると、やっと部屋に入り、おもむろに仮面をはずした。
どうやら真面目な話でもしにきたらしく、硬い表情で何か言葉を探しているように見える。
「迷ったんですが……ひとつだけお願いをしにきました」
やっと口を開くとリオンは、窓際の壁に背をもたせて立つ私の目の前に歩み寄ってきた。近づくと背の高いリオンの顔を見上げる形になる。月明かりに浮かび上がる柔らかな金色の髪が、風に揺れて煌くように見えた。
「明日のことですが、どうか、誰の命も奪わないことを約束して欲しいのです。無茶な願いだとはわかっています。しかし彼らも悪人ではない。雑種の君たちにとって純血種は非道な人間かもしれない。ですが、ただ嘘を信じて間違った考えを持ってしまっただけで、本当は心根の優しい人たちばかりです。どうか殺さないでください。目的はエルファンの記録を盗み出すことです。戦わなくていい。逃げ切るだけでいいんです」
何を言い出すかと思えば、また甘いことを……。リオンは真剣そのものの様子で言うが、そんなこと冗談じゃない。
「馬鹿なこと言わないで。殺そうと襲ってくる相手に、手加減なんかしてたら命がいくつあっても足りないわ。あんたは本当の殺し合いってものを知らないのよ。お坊ちゃま!」
呆れて皮肉たっぷりに鼻で笑って、人差し指をリオンの胸に突きつける。しかしリオンはその手を、意外なほどの強い力で握り締めた。
「甘いのはわかっています。それでも……」
そこでリオンは感極まったように、目を閉じてかぶりを振った。それから一呼吸置いて目を開くと、少し手の力を緩めて、そこに視線を落とした。
「もしどうしても殺さなくてはいけないときは……そのときは……私がやります。命を懸けてでも、君の身は私が守る。だから君はこの手をこれ以上汚してはいけない。この手を……いつか母になる人の手を、これ以上血で穢してはいけないんです」
両手でやさしく包むように、私の手を握ったその温もり。やさしい声で囁く甘い言葉。
そう、甘い甘い、甘ったれのお坊ちゃまの、現実感のない言葉。夢でも見ているような気分にさせられる。
でも夢は夢。そんなものに惑わされる私じゃない。
「冗談もほどほどにするのね。私は母になんかならない。私は醜い血まみれの獅子。この血筋を遺す気なんてさらさらない。穢れきったこの手で、子供を抱くことなんか絶対にないわ。余計な心配は無用よ。殺したい相手がいれば躊躇いなく殺させていただくわ」
女性のように細く白い指をしたリオンの手から、私のナイフで擦れて硬くなった手を抜き取って、私はまた窓の外に眼をやった。
リオンの顔は見えないけれど、その視線だけを横顔に感じる。返す言葉が思い浮かばないのか、呆れてもう何を言う気にもならないのか、リオンはしばらくの間黙って、ただ私を見ていた。
雲間に隠れた月が再び姿を見せ、銀色の光が窓から入ってきたとき、目の端でリオンが動くのが見えた。諦めて帰るのかと思い、私は彼に背を向ける。
しかしそうではなかった。私はまた予想を裏切るリオンの行動に、思わずびくっとなって振り返った。
「今度は何よ!?」
リオンはそのしなやかな指で、私の髪を梳くように撫でていたのだ。振り返った私に、リオンは涼やかに笑って見せた。
「君は自分を醜いと言うけれど、私はちっともそんなふうに思いません。君は醜いわけじゃない。純血種とは違うというだけです。例えばエルフの髪は金か銀か黒。ノームの瞳は茶か緑。ドワーフの背は低い。ホビットは細身。ヒューマンの耳は丸い。そう決まっているだけのことで、それに当てはまらないからといって、決して醜いなんてことはないのです」
そして今度は両手で私の頬に触れた。
「むしろ……私は君を美しいと思う。燃える炎のような真っ赤な髪も、瑠璃と金の宝石を埋め込んだような瞳も、何もかもが美しいと思います」
美しい……。そんなことを言われたのは生まれて初めてのことだった。瞬間、頭に血が昇って何も考えられなくなる。
「ば……ばか!いきなり変なこと言わないでよ!」
自分で顔が赤くなるのを感じて、慌ててリオンに背を向ける。その背後で、リオンが「くすくす」と小さく含み笑いをするのが聞こえた。
「たまに見せる、そんな少女らしい顔、好きですよ。愛しくなる」
もういい加減にして欲しい。こんな状況、なんだか調子が狂う。居心地が悪い。
私は醜い雑種でいい。誰からも、盗賊団の仲間からさえも恐れられた、血に汚れた獅子なのだから。悪魔に魅入られた惨殺魔に情はいらない。このまま朽ち果てていけばいい。
私は死ぬべきなのだから……誰からも愛されてはいけない。
「いい加減にしてよ。あんたに私の何がわかるって言うの? この悪魔を愛せると言うの? これを見てもまだ……」
そう言って私は、私の中で最も醜いものを、リオンの前に曝け出した。シャツを脱ぎ捨て、背中の悪魔を月光の中に解き放つ。悪魔が牙を剥いて、不気味に笑っているような悪魔の紋章。初めて人を殺した日から、人を殺すたびに脈打つように疼く悪魔の証拠を。
「この禍々しい悪魔の顔を見ても、まだ美しいと言える?」
長い沈黙が流れた。冬の夜気に晒された背中が体温を失い、ぴりぴりと痛みだすのを、まるで悪魔の嘲笑のように感じていた。
しかし不意にその背中に、何か温かいものが触れた。
「ティセル……ものの形とは不思議なものです。見る人の心によって、醜くも、美しくもなる」
驚いて硬直する私の背中で、リオンは手のひらで悪魔の紋章をなぞるようにしている。
「これは悪魔の顔なんかじゃない。……私には、美しい大きな蝶に見えます。君の白い肌の上で、舞い羽ばたく蝶の姿に見えますよ」
リオンの手が痣の下端までたどり着くと、今度はまた別の温かみが背中に触れた。私は思わずびくりと身を震わせて俯く。頭の真上にリオンの息遣いを感じる。裸の背中に触れる絹のローブがその体温を伝えている。背中に触れた両手が腰を滑るようにして前で組み合わされる。
私はリオンに抱きすくめられたまま、少しの身動きすらできずにいた。
「ひとつだけ……私は君に嘘をつきました。あのとき、誓って疚しいことはしていないと言いましたが、本当はひとつだけ疚しいことがあります」
耳元で囁くリオンの声さえ遠く聞こえるほど、心臓の鼓動と耳の奥を流れる血の音が高く響いている。混乱しきった頭で、どう動くべきかを必死で考えようとしても、ちっとも考えはまとまらなかった。
「意識のない君を……こんなふうに抱きしめたいと思ってしまった。君があんまり美しいから。重傷の怪我人に対して、不謹慎な考えを持ったことを許してください」
リオンの吐息が耳元から首筋に近づく。そしてその唇が項に触れたとき、私は反射的にリオンの腕を振り払っていた。逃げるように部屋の隅へ走り、壁に身を押し付けるようにしてリオンに背を向ける。
「すみませんでした。無礼な真似をしてしまって……」
リオンは寂しげな声でそう言うと、そっと部屋を出て行った。
私はなんとも言い難い複雑な気持ちで、その場に座り込んだ。後悔のような、自己嫌悪のような、安堵のような……いろいろなものがない交ぜになった、初めて味わう感情だった。
作戦開始は昼下がり。雑種が強制的に通わされる、専用の粗末な教会でリオンと落ち合う。示し合わせた時間に、私は礼拝者を、リオンは視察を装って教会を訪れた。
次に打ち合わせどおり、リオンが従者の一人を使いに出す。事前に私と背格好の似た者を選んで連れてきている。それを私が襲って縛り上げ、衣服を奪う。そうして従者とすり替わってリオンと合流する。
職務中に、まして次期大賢者の前で私語は厳禁。フードを深く被って俯いていれば、簡単にはわかりはしない。
そのままリオンと共に教皇庁本部へと向かう。こうして大胆に正門から侵入するというわけだ。
神官の世界は大賢者を別格として、見習いから大神官までの5クラスに分かれる。そこからさらに得意分野によって神官・僧兵・宣教師など、複雑に細かい分類がなされるようだけど、私には興味のないことだ。
それはともかく、神官の世界の礼節は厳しい。自分より2クラス以上格上の相手とは、許しもなく話をしたり、目を合わせたりしてはいけないのだ。
そのため大賢者を除けば最高位の大神官であるリオンに対して、凝視したり話しかけたりする者はいない。同じ大神官クラスでさえ、次期大賢者には遠慮がある。話しかけられたりして足止めをくうのも都合が悪いため、わざと不機嫌そうな顔で歩いていればなおさらだ。
触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに、面白いように皆が目を伏せ、目礼だけして過ぎていくのを、私は少し愉快な気持ちで眺めながら歩いた。
「少し用があります。セレスは私と一緒に来てください。他の者はもう下がっていい」
大聖堂の前まで来るとリオンは言って、私が摩り替わった神官だけを残して人払いをする。そして無言のまま地下道を通って神官宿舎へ入る。
問題はここからだ。ここから先は立ち入れるクラスが制限されるのだ。門番に顔とクラスを証明する徽章を見せなければならない。顔を隠して通れるのはここまでなのだ。
この先は夜陰に乗じての強行突破しかない。そのため私は宿舎の空き部屋に身を潜めて夜を待つ。余計な疑いを招かぬようリオンは自室で過ごす。そして皆が寝静まった頃にここへ戻り、合流して行動開始だ。
ここまでの行程、私もリオンも必要以外の言葉を何も発しなかった。世界を揺るがす大事を前に、さすがに緊張気味なのもある。しかしそれよりも昨夜の気まずさがあって、まともに顔を見ることができなかった。
夜を待つ間、ぼんやりと幼い頃から自分の辿ってきた道を思い出していた。母が死に、初めて人を殺した日。行き場をなくして街でゴロツキのような生活をしていた日々。盗賊団にスカウトされた日。幾多の暴虐。そしてリオンとの出会い。
この先には何が待っているのか……。リオンと共に革命を成し遂げてハッピーエンド? それとも無残な死だろうか?
行動開始までは体力を温存するために、少しでも眠っておくつもりだった。でもなにか胸騒ぎがして眠れぬまま、持てるだけ持ってきたナイフの数をただ徒に数えていた。
ドアの鍵が開けられる前に、私は全ての支度を済ませて扉の前に立った。
2階の一番奥のこの部屋からでも、宿舎に誰かが入ってきたことを音で察することができる。足音や息遣い、その他の音や反響を聞き分けて対象の位置と速度を把握する。
あと5歩……4・3・2・1……鍵が開く。計算どおりだ。勘は冴えている。
扉を開けてリオンは少し驚いたような顔をしたけれど、何も言わず互いに頷きあう。いよいよ行動開始だ。
足音を忍ばせて宿舎をでると、第一関門。クラス制限のされる聖域へ向かう渡り廊下の手前に立ち番がいる。髭面のドワーフの男は眠そうな顔で柱に寄りかかっていたが、リオンが近づくのに気がつくと、慌てて姿勢を正した。しかしその後ろに潜む私には気づいていない。
大神官の徽章は、天使の彫刻を施した銀の指輪になっている。それを確認して、男が深々と頭を下げたときが好機。私は男の後頭部をナイフの柄で強く殴りつけた。不意の一撃で気絶した男の体が倒れないよう、自分の背で受け止め、また柱に寄りかからせる。
これで第一関門は突破。しかし問題は次からだ。
渡り廊下を進んでいくと、礼拝堂の脇へ繋がっている。手前側面に小さい扉が2つ、建物を回りこんで正面に両開きの大きな扉が1つ、奥側面にも小さい扉が2つ。側面の扉に各1名と正面の扉に2名、計6名の警備兵がいる。
そのうち手前側の2名はさっきの物音に気づいたらしく、怪訝な顔でこちらを見ている。ここからはもう力ずくで突破するしかないだろう。できるだけ静かに、できるだけ殺さぬように……。
ぎりぎりまでリオンの背に隠れ、タイミングを見計らって私から先制攻撃をしかける。素早く床を蹴って左手側の兵の目の前に滑り込む。相手が剣を抜く前に喉元にナイフを押し付けた。右側の兵がそれに気をとられた一瞬をついて、リオンが聖杖でその頭を殴りつける。そこまで打ち合わせていたわけではないけれど、お坊ちゃまにしては上出来だ。
左手側も膝あてに仕込んだ鉄板入りの膝蹴りで意識を奪うと、次は正面。まだこちらの接近に気づかない正面の兵も同じ手口で楽にクリアできるかと思いきや、ここでハプニングが起きた。
どうやらリオンが殴った方の兵は、打撃が浅かったらしく、一瞬気を失っただけだったようだ。急を知らせる笛の音が夜のしじまに響き渡る。
だから殺してしまった方が楽なのだ。軽く舌打ちした私の袖を、リオンは力一杯に引っ張った。
「走って!」
こうなってしまっては、できるだけ戦闘を避けるためには走るしかない。リオンの声を合図に、私たちは走り出した。
足の速い私が先に正面の警備兵に脚払いをかけて隙をつくる。その間にリオンが通り抜けるのを待って私も後を追った。
正面から分岐する方向に進めば、すぐ隣が目的の塔だ。入り口には2人の屈強な男が、互いの槍を交差させて扉を塞いでいる。
私たちが近づくと槍を前面に突き出して威嚇の体勢をとるけれど、そこに隙ができる。槍の間合いに入る前に、その手元を狙って細いナイフを投げる。狙うのは籠手の継ぎ目。そのまま一気に懐に飛び込んで、左右それぞれ肘鉄と蹴りで顎をヒットする。
こんな大胆な攻撃は、正確に手首を突き刺す自信と実力がなければできない。あっと言う間の鮮やかな手並みに、リオンが感嘆の声を上げた。
「あまり誉められたことでもありませんが、さすがですね。私の出る幕がない」
「呑気なこと言ってないで、さっさと進むわよ!」
それを一喝して分厚い鉄製の扉に手をかける。重い鉄の扉に手をかけるけれど、事前の情報どおり鍵がかかっている。こっそりと忍び込めれば、まだゆっくりと錠前破りもできる。しかしこの場合、急がなければ敵に囲まれてしまう。
急いで私が内ポケットから道具を取り出していると、不意にリオンの声を背中に受けた。
「どいてください! 危ないですよ!」
その言葉の意味を理解する間もなく、私は反射的に扉の前から飛び退いていた。次の瞬間白い光が扉にぶち当たったかと思うと、轟音と共にもの凄い風圧が跳ね返ってきた。
錠前破りをしている暇はないと判断したのだろう。リオンが魔法で扉をぶち壊したのだった。
「あんた、意外と大胆なことをするのね……」
「ありがとうございます」
別に誉めたわけではないのだけど……。リオンはにっこりと微笑むと、塔の中へと入っていった。
塔の中は聖域と呼ばれる場所で、警備のためといえども大賢者以外は入ることを許されない。そのため警備兵の代わりにトラップや魔道生物を配置してある。
通常なら立ち入る資格のあるリオンにはトラップを解除することができるらしい。しかし入り口を破壊したために全てが起動して、塔の中には召喚獣やキメラなどが解き放たれていた。
単体ではたいしたこともないけれど、1フロアに10匹程度、それを最上の10階まで駆け上がらなければならないとなると、かなりの消耗になる。
半分は無視して逃げ切ったにしても、最上階まで無傷で来られたのはリオンの魔法なしでは考えられない。
「私の手助けなんて必要なかったんじゃない? ほとんど一人で始末したわね」
「いえ。本当に大変なのはこれからですから、君は体力を温存しておいてください」
リオンは広い円形のフロアの中心に立って、大きく息をついてから言った。
明り取りの窓さえない円柱型の塔は、どの階も殺風景だった。ただこの最上階だけは様子が違う。星のように宝石を飾った濃紺のビロードの幕で壁を覆い、中央には何かの儀式でも行うような立派な祭壇が設けられている。
リオンはその中心にある神像の前に立っている。そして両手で何かを持つようなポーズの神像の、その手の上に、大きな黒水晶をはめ込んだ杯をのせた。
すると神像の足元の床が開き、魔道合金でできた四角い柱がせりあがってきた。その上面の窪みに真鍮製のキューブをはめ込むと、再び柱が格納されて、祭壇のあちこちから機械音が聞こえ始めた。魔道科学の粋を極めた相当に複雑な構造の鍵らしい。
「ティセル、こちらへ」
リオンに招かれて、祭壇を囲むように床に描かれた魔法陣の上に踏み込む。すると急に辺りが真っ白い光に包まれ、パシンと鞭で水を打つような音が連続して辺りに響いた。続いて何か体が浮き上がるような違和感を覚えたかと思うと、光が強さを増して辺りの景色が消えた。
そして次に辺りが見えるようになると、そこはさっきとは全く違った場所だった。
「驚いたでしょう? 空間転移装置です。ここは魔法の力で切り離された異空間。これが封印図書館ですよ」
リオンはそう言って、呆然としている私の肩を叩いた。いつの間にか、私たちは祭壇にあったのと同じような黒水晶を持った神像と魔法陣があるだけの小部屋にいた。
そして像の反対側にある大きな扉に手をかける。紅色のビロードを張って金の鋲で装飾を施した重厚な扉には、教皇庁の紋章が刻まれていた。
その豪奢な扉を開くと、大きな城の大広間ほどもある正方形のフロアに、獣道程度の道を空けただけで、あとはぎっしりと本棚で埋め尽くされているのが見えた。
「ティセル、ここは意外と道が複雑です。迷うと厄介ですから、私から離れないでください」
リオンに言われて、私は小走りにその後を追った。ぱっと見は整然と本棚が並べられているように見えたけれど、ところどころ行き止まりになっていたりして、さながら本棚の迷路のようだ。
その複雑な迷路を通り抜け、いくつかある小部屋の中のひとつに入る。小部屋には封印図書館の中でも最も重要な書物を保管しているらしく、扉を開けるのにさらに鍵が必要だった。
古びた本をぎっしりと納めた棚には、難しい古代文字や魔法記号を記した背表紙が並んでいる。そんなものは私には読むことができないけれど、読める文字だけを拾い読みしてみると、どうやら歴史関係の書物が集められているようだ。
「あった。これが目的のものです」
リオンはその中から、1冊の大きな本を取り出した。黄ばんだ革の表紙に黒いしみがついた分厚い本で、タイトルは何も書かれていない。
ぱらぱらとページをめくり、中を確認すると、リオンは大事そうにそれを胸に抱えた。そして改まって私に向き直る。
「大変なのはここからです。実はね、鍵さえあればここへ侵入するのはそれほど難しいことではないんです。秘密保持のためもありますが、見ての通り警備兵もいなければ、危険なトラップも仕掛けられていません。外の警備も取り立てて厳重にはしていません」
確かにその通りだ。教皇庁の重要機密を隠したこの場所へ侵入するというのに、たいした苦労はしていない。リオンが鍵を全部持っていることもあるけれど、それにしても簡単すぎる。
「なぜならこの封印図書館は、それ自体が大きな牢獄のようなものだからです。出ることができないのですよ。外からしか開けることができないのです。ですから通常は必ず2人以上で組んで、外から扉を開けてもらう役を頼まなければならない」
「ちょっと待って。それじゃ、2人ともここへ来てしまったらどうやって出ようって言うの? 誰かが開けてくれるまでのんびりと待つつもり? どっちかが外に残るべきだった……とかやめてよ」
誰か、つまり大賢者の誰かがここを開けるときは、完全に包囲されて逃げ場のない状況だろう。すぐに出られたとしても、既に外は厳戒態勢になっていることに変わりはないだろうけれど。完全に網を張られてから出るよりは、少しでも早く脱出しなければならない。
しかしリオンの落ち着き払った様子からすると、何か考えてはあるらしい。
「片方が転送の祭壇に残るのは危険です。おそらく急の知らせを受けて、すぐに大賢者が揃って駆けつけます。残った方はひとりで彼らとの戦闘に臨まなければならなくなるし、そうなれば転送装置を動かす余裕はありません。それに、もう一度開けるためには新しい鍵が必要です。さすがに私にもそれは用意できませんでしたから、外に残る意味もありません」
リオンはそう言ってから、胸に抱えた本を軽くぽんぽんと叩いて見せた。
「もうひとつ、ここにある本には全て魔法処理を施してあります。万が一に侵入者があったとき、本を盗み出せないように仕掛けがしてあるのです。本を元の場所に戻さなければ、転送装置が作動しないようになっています。だから、これを盗むことが目的である限り、転送ゲートを開けることはできません」
「だったら……どうするって言うの?」
訊ねた私に、リオンは少し悪戯っぽい笑みを向けた。
「これは完璧なセキュリティです。盗人は完全に袋の鼠。本には傷つけることもできないように、一冊ずつ全部強力な局所結界も施してあります。だから盗人をここに閉じ込めて、餓死するまで放置しておけば、わざわざ踏み込んで捕らえる必要もないくらいです。しかし、その完璧さが盲点なのですよ。私は歴史の他に、魔道力学を得意分野にしています。空間マナというものをご存知ですか? 魔法を使うには……」
どうにもリオンの話はまわりくどい。じれったくなってきた。
「すみません。今はのんびり魔道力学の講義をしている場合じゃありませんね」
私の無言の訴えに気づいたのか、リオンは一度咳払いをして話をまとめた。
「ここは魔法の力によって切り離された、小さな空間です。その限られた空間の中で、転送魔法に本に仕掛けた魔道トラップに局所結界、その他にも魔力を消費する要因がたくさんあります。もうこの空間で使える魔力量は限界に近いところまできているのです。限界を超えたらどうなると思います?」
ただでさえ難しい魔法の、さらに力学だとか空間だとかさっぱりわからない。とにかく何も答えずに、ただ目で先を促した。
「人工的に作られたこの空間は、ただでさえ不安定です。限界量を超えれば脆いところから壊れます。一番脆いのは空間に穿った穴、転送ゲートですよ。つまり、私の魔力を暴走させて空間そのものを破壊しようというのです。開けることはできないけれど、壊すことならできる。これが盲点です」
「ふっ。あんた、見かけによらずなかなか大胆な発想をするわね。気に入ったわ」
思わず笑ってしまった。空間ごと破壊しようとはスケールがでかい。リオンもにやりと笑って見せたけれど、またすぐに真面目な顔に戻って言った。
「たださすがに、空間を破壊するほどの力を使えば、私の魔力はほとんど残りません。まともに戦えるだけの余力はないと思います。全力は尽くしますが、主戦力は君に頼ることになるので、覚悟しておいてください」
リオンはそこまで言って、ひとつ大きく息をついた。それから神妙な面持ちで本を私に差し出す。
「計算上、絶命するほどのことはないはずですが、万一のときを考えて本は君に渡しておきます。それから……私に何かあっても、助ける必要はありません。目的はこの本を白日の下に晒すことです。どうか君だけでも逃げ切ってください」
正直、ここまでなんとなく簡単に来られたこともあって、この挑戦が命懸けのものだということを忘れていた。リオンの思いつめた表情で、改めて認識させられる。
私も改めて気を引き締めて、深く頷いた。そしてリオンの手から本を受け取る。薄汚れた分厚い本は、見た目よりも、ずっしりと重く感じた。
「行きましょう」
短い間だけれど、リオンの声に促されるまで、私たちはただ黙って見詰め合っていた。互いの覚悟を確認しあうように、ただじっと。
再び転送の間へ戻ると、私を部屋の隅に誘導して、リオンは魔法陣の中央に立った。そして精神統一でもしているのか、目を閉じて何度か深呼吸を繰り返す。
リオンの呼吸の音以外には何も聞こえない。静寂の中で、刻々とその時は迫っていた。しかしリオンが閉じていた目を開いた瞬間、日中から感じていた胸騒ぎが不意に現実的な危機感に変った。
魔法陣の描かれた床の上に、白い毛髪。うっすらと積もった埃の上についた私たちの足跡を、布を引き摺ったような跡が消している。私たちの後に何者かがこの部屋に立ち入った形跡があった。
それに気づき感覚を研ぎ澄まして辺りを探ると、確かに人の気配もある。さらに、天井に仕掛けられたあるものに目が留まった。
「リオン! 待って!」
叫んだときには遅かった。リオンが魔力を放ち始めると同時に、天井から何重にも光の輪が落ちてきて、リオンの体を縛った。
対魔法使い用の捕縛トラップだ。魔力を感知すると作動して、魔力を封じるリングで魔法使いを縛る。盗賊という職業柄、トラップに関しては常に細心の注意を払っている。最初にここに来たときにはこんなトラップは仕掛けられていなかったはずだ。
それにこんな強力なトラップを、何の準備もなく、こんな短時間で設置できるわけはない。侵入者の知らせを聞いてから追ってきて、そんな短時間でできる仕掛けではない。どうやら罠にかけられたらしい。
「雑種のクズのくせに、なかなか勘がいいようだ。しかし惜しかったね。気づくのが一瞬遅かった」
背後から含み笑いが聞こえたかと思うと、いきなり突き飛ばされてバランスを崩した。背後から攻撃をしてきたのは、身なりのいい壮年のホビットだ。リオンに気をとられていたとは言え、まったく悟られずに私の背後に回るとは只者ではない。
「ふんっ! 気づいたところでどうなるものでもないがな。どうせお前たちは袋のねずみだ」
そう言いながら扉の陰から姿を見せたのは白髪のエルフ。それに続いて何かひそひそと囁き交わしながら、年老いたノームと筋骨隆々のドワーフが現れた。外に残る役のためかヒューマンがいないようだけれど、どうやらこれが当代の大賢者のようだ。
バランスを崩しながらも、どうにか体勢を立て直して大賢者たちに向き直る。エルフ、ということはリオンの父であるクラウィンが、私の胸に抱えた本に視線を投げて言った。
「リオン、やはりお前の狙いはそれか……。こんなことをして何になる? 次期大賢者になろうという者が、自分たちの権勢を危うくするようなことをして、何の得があると言うのだ?」
ひとつでも相当の威力のあるリングで何重にも縛られて、リオンは苦しげな表情でやっと顔を上げる。その目には今までに見たこともないような怒りの色が表れていた。
「父さん! いつまでこんな理不尽な虐待を続けるつもりですか!? 罪もない人々を虐げることが、この世界の頂点に立つ者のすることですか? もう十分じゃないですか! 十分に権勢を極めたでしょう? 十分に搾取したでしょう? もう解放してあげてもいいんじゃないですか? 雑種の人々を……」
リオンに向き直ったクラウィンは、リオンの激昂をよそに、薄笑いを浮かべて淡々と言った。
「馬鹿なやつだ。なぜそんなクズに固執する? 歴史の真実だ? そんなものはどうでもいい。お前だって権力は欲しいだろう? 支配者がいれば、支配される側も必要なのだ。犠牲が必要なのだ。それで世の中は丸く治まっている。お前がしようとしていることは、ただ世の中を掻き乱すだけのことだ。お前は間違っている」
「違う! 間違っているのはあなただ! 誰かを不幸にしなければ得られない権力なんて、私は欲しくない! 正しいことをしなければならないんです!」
リオンはまるで捕らわれた獣のように、髪を振り乱してもがき、叫ぶように訴える。しかしクラウィンはそれに冷笑を向けた。そして今度は私の方に歩み寄る。
「それを渡すんだ。抵抗すれば殺す」
私は本を抱いて1歩後ずさり、クラウィンと睨み合う。緊張感が漲った。
「ティセル! その男は君を殺すことなんてなんとも思わない。その本を、渡してください……」
そのリオンの声を合図にしたように、私は本をクラウィンの方に放り投げた。
「わかってるわ。さすがに大賢者4人を相手に勝てるとは思わない。無駄な抵抗はしないわ。どっちにしても生きて帰れはしないんだろうけどね」
クラウィンは本を拾い上げると、短く呪文を唱えた。するとバチバチと弾ける音を立てて、その手に雷をまとい、それを私に向けて放った。
死の覚悟はもとより。もう避ける気もない。雷が私の体に当たった瞬間、体中を鋭い痛みが走りぬけ、目の前が暗転した。薄れていく意識の中で、私の名を呼ぶリオンの声と、冷淡なクラウィンの声が聞こえていた。
「今はまだ殺しはしない。リオン、お前に最後のチャンスをやろう」
冷たい風が頬を撫でる。どうやらまだ死んではいないようだ。体の芯に電流が走り続けているかのようなぴりぴりとした痛みが、まだ生きていることを証明している。
その不快な痛みに身をよじって、私の体が石の土台に縛り付けられていることに気がついた。見渡すと、円形の広いホールの中ほどにいることがわかる。
そして規則正しい幾何学模様を描く石畳の上に転々と設置されている物を見れば、ここがどんなところなのかもすぐにわかった。様々な拘束具や拷問器具、断頭台。ここは処刑場だ。公開処刑を行うために、古い闘技場を転用していると聞いたことがある。
石造りの梁だけで、覆うもののない天井を見上げると、遥か遠くの空が朝焼けに赤く染まるのが見えた。不思議と恐怖心はない。何かリオンと出会ってから今までのことが、まるで夢でも見ていたかのように感じられて、現実感がないのだ。
DKのアジトを追われ、手傷を負って捕らえられた。そして処刑場に運ばれてきた。その間に見ていた夢から醒めたのだ。そんな気がする。
しかし今までのことが夢ではないことは、少し離れて私の周囲を取り巻く面々を見ればわかる。封印図書館で会った4人の大賢者と、もう一人のヒューマンの男。黒地に赤の刺繍を施した絹のローブに身を包んだヒューマンの男は、にやにやと笑いながら近づいてくる。
そして傍らに立つなり「くっくっくっ……」と含み笑いをしながら、杖の先で私の体のあちこちをつつき始める。眼鏡の奥の陰気そうな目を不気味に歪めて笑っていた。
「くくっ……。今から何が始まるかわかるかね? 楽しいねぇ。処刑には残酷なやり方がいっぱいあるけど、特に見ごたえのあるのをクラウィンが選んでくれたよ。知りたいかね?」
男は杖でつつくのをやめ、今度は服をめくり上げて素手で体中を撫でさする。冷たく湿った手が素肌の上を這い回る感触に悪寒がする。しかし逃れることもできず、されるがままに耐えるしかなかった。
「しかし惜しいねぇ。君はなかなか優れた能力を持っているそうじゃないか。我らが教皇庁の精鋭部隊を切り崩して逃げ切った大盗賊なんだって? こんな小さな体のどこからそんな力が出てくるのかね? 雑種の神秘というやつだね。いい研究対象になりそうだ。しかしクラウィンがどうしても処刑すると言って譲らない。仕方ないからね、生体実験は諦めるよ。でも死体はもらう約束なんだ。この体、大事に扱わせてもらうよ」
思い出した。この男がヒューマンの大賢者ニコラだ。あまり式典などの表舞台には顔を出さず、国のトップとしての勤めを果たさない。生粋の科学者で変人と噂されている。しかしその評価が控えめなものであることがよくわかった。これは生粋の科学者どころか、ただの狂人だ。
「そろそろお楽しみの始まりかな。何が始まるのか教えておいてあげるよ。その方がショーが楽しくなる。クラウィンはね、あの馬鹿息子に条件を出したんだ。自らの手で君の処刑を執行すれば命だけは助けてやる、とね。さもなければ2人仲良く処刑される。とてもとても残酷な方法で。絶体絶命だねぇ! リオンが暴れないように、ここはアンチマジックフィールド(魔法禁止領域)にしてあるんだ。だ~れも助けてはくれないよ!」
そういうことか……。リオンはその条件を呑んだということらしい。確かに絶体絶命だ。しかし別段、怒りは感じなかった。もし逆の立場だったら、私もきっとリオンを手にかける方を選んだだろう。
ただ少し失望はしたかもしれない。リオンの優しい言葉の全てを信じたわけではない。これまでのリオンの言動は、単に私を計画に引き入れるための策かもしれないと、心の隅では考えていた。だけど……信じたかったという気持ちは、否定できない。
ニコラは「ひぃ~ひっひ!」と甲高い引き笑いをして、舌なめずりをする。それから急に両手を私の左上腕に回して、力いっぱいに締め上げた。
「まずはここを革紐できつく縛って血止めをするんだ。ショーが全部終わる前に失血死してしまっては面白くないからね。それからまずは腕。錆びた剣で左腕から順番に切り落とすんだ。同じ手順で右腕、左脚、右脚、最後に首。痛いよ~。わざと切れ味の悪い錆びた剣で切るんだ。何度も何度も何度も!」
耳に残る不快な甲高い声でまくしたてるように話し、ニコラは狂ったような絶笑を響かせた。そして再び私の体中を撫でさすり、ぶつぶつと呟く。
「あぁ、もったいない。本当は生きたまま解剖したいんだよ。神秘のメカニズムに触れたいんだ。人類の英知が創り上げたこの体……。あぁ、もったいない」
人類の英知が創り上げた? いったいどういう……。その言葉に一瞬気を取られたと同時に、リオンの声が響いた。
「ニコラ様! 罪人といえども、死を前にした者に対する冒涜は感心しません。やめていただけませんか?」
少し青ざめた顔をしたリオンは、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。そして少し離れたところで待機している黒装束から、革紐と錆びた剣を受け取った。
ニコラは振り返って、小さく舌打ちする。
「あ~厭だね。聖職者面した頭の固い神官は。礼儀だの死者への冒涜だの、五月蝿いったらない。手を下すのは自分だってのにねぇ。できるだけ綺麗に切ってよ。あとで僕がもらうんだからさ」
「少し離れていてもらえませんか? 気が散りますから」
リオンはニコラの言葉を無視して、私の傍らに来た。ニコラは「ふんっ!」と鼻を鳴らして背を向けると、他の大賢者のいる方へ移動した。
リオンは一度大賢者たちに向き直ると、深々と頭を下げた。それから私の頭側に来て膝をつくと、そっと私の髪を撫で、頬に触れた。そして囁くような声で言う。
「許してください。こんなことになってしまって……」
私は何も考えることができず、ただリオンの手の温かみを感じていた。リオンは静かに微笑んだまま、惜しむようにゆっくりと私の髪を弄んでいる。
その手が止まったとき、不意にリオンの笑顔が崩れた。固く目を閉じ、唇を噛み締める。そしてリオンは右手で剣を高く振りかぶった。転々と赤錆の浮いた刀身が、明け空の澄んだ空気の中に踊る。
それでいい。どうせ捨てても構わない命。一度はその手に助けられた命。再びその手で奪われるのなら、それでこれまでのことは全て夢だったと思えるかもしれない。
しかしリオンは振りかぶったまま、躊躇しているようだった。再び目を開き、青ざめた顔で呼吸を整えている。
「別に恨みはしないわ。一思いにやればいい」
私が言うと、リオンは一瞬なにか不思議そうな顔をしたと思うと、不意ににっこりと笑った。
「その言葉……ちょっと心外です」
リオンはそう言って、思いもよらない行動に出た。振りかぶった剣を力一杯振り下ろした先は、自身の左手首だった。
「まさか!! いかん! リオンを取り押さえろ!!」」
叫んだのはクラウィンだった。他の4人は何ごとが起きたのかと、顔を見合わせている。
「吾が身に宿りし闇の精霊よ! 今、鮮血の盟約に拠りてその力を示せ!」
リオンは痛みに顔を歪めながらも、流れ出る血で床に魔法陣を描きそう唱えた。すると魔法陣を描いた血液が赤い霧となって舞い上がり、中空に霧の塊を作り出した。その塊が先の尖った形をとって、私を縛り付けている鎖を直撃する。すると鎖は高い金属音を発して、ねじ切れた。
私はやっと鎖から解放されて起き上がったけれど、驚きのあまり言葉が出ない。呆然とリオンの顔を見上げていた。そんな私にリオンは、痛みを堪えて眉根に皺をよせながら、それでも笑顔を見せる。
「君をあっさり裏切るほど、私は薄情な男に見えましたか? 見損なってもらっては困ります。ちゃんと最後の切り札は用意してあったんですよ。今のうちに逃げて!」
そう言ってリオンは右手で私の腕を掴んで立ち上がらせた。反対の左手の傷口からは、不思議なことに大量の血が拍動を伴って噴き出しては、霧になって舞い上がっていく。
異変に気づいた大賢者たちが一斉に駆け寄ってくるのを見て取ると、リオンは左手をその方向に振りかざした。すると赤い霧が奔り、大賢者たちをなぎ倒す。
「邪法・鮮血の盟約! まさかこんなものを仕込んでいたとは……!」
無様に床に倒れたまま、クラウィンが悔しげに拳で床を叩いた。
「邪法……鮮血の盟約? いったい……」
その答えを求めて私はリオンの顔を見上げる。その顔は血の気を失って青白くなっていた。
「禁呪のひとつですよ。魔法でありながら魔法ではない。自分の血液に魔力を帯びさせて、それを霧状にして攻撃する両面攻撃ですから、アンチマジックフィールドでも影響はありません。威力はありますが、痛いのと自分を傷つける度胸が必要なのが難点ですね。すごく複雑な仕組みで動く術ですが、今それを説明している場合ではないのが残念です」
こんなときにまで「残念」などとリオンは呑気なことを言っているけれど、その蒼白の笑みは私を不安にさせた。禁呪というものは、あまりに威力が強すぎて周囲が危険に晒されるか、術者自身に生命の危険が及ぶものがほとんどだと聞いたことがある。これはおそらく後者なのだ。そのことに触れぬよう、わざと茶化しているのだろう。
こうして話している間にも、リオンの手首の傷からは勢いよく鮮血の霧が噴き出し、強い力で大賢者たちを地面に押し付けている。
「行きますよ!」
リオンはそう声をかけると、私の手を引いて走り出す。向かう先は正面の大門だ。
「アンチマジックフィールドを解除しろ! 2人ともまとめて始末してくれる!!」
クラウィンがもがきながら絶叫する。
そこから少し離れたところでは、さすがに体力があるらしくドワーフの大賢者が、霧の圧力にどうにか耐えてフィールド制御盤にたどり着いたところだった。そしてすぐさまアンチマジックフィールドが解除され、同時に非常警報がけたたましい音を鳴らす。
あっと言う間に警備隊が集結し始めるのを、背後にちらちらと見ながら、リオンは大門の開閉装置を操作している。警備隊を掻き分けるようにして、怒りを顕にしたクラウィンも追ってくる。
やっと大門が開くと、リオンは私を外へと突き飛ばした。そして今度は門を閉じる操作をして、それ以上機械を触れないように機械そのものを破壊する。追っ手を閉じ込めようという作戦らしい。
「リオン! 早く!!」
私は外からリオンに呼びかけた。しかしリオンは何を考えているのか、外へは出ようとせず門の前で立ち止まった。そして私に唐突な質問を投げかけた。
「ティセル! ひとつだけ聞かせてください! もし……もしも2人とも無事でいられたら、私の子供を産んでくれますか?」
「はぁっ!? こんなときに何の冗談なの? いい加減にして!」
呆れて他に言葉もない。まったくこの男の頭の中はどうなっているのか、理解に苦しむ。今はそれどころじゃない。しかしリオンは至極まじめな顔で、再び問いただす。
「答えてください。真面目に聞いているんです」
何を考えているのかわからないけれど、とにかくどうとでも答えて、早くリオンを外に引きずり出さなければ。
「あ~、もう! わかったわよ! わかったから早くこっちへ!!」
私がそう叫ぶように言うと、リオンは不意に満足げににっこりと微笑んだ。
「ありがとう。勇気が出ました。私はここで追っ手を食い止めます。君は逃げてください! 早く!!」
「出血多量でふらふらのくせに、なにカッコつけてるのよ!? 逃げながら一緒に戦えば、どうにかなるわ!早く出てきて!」
しかし私の叫びも虚しく、大門は地響きのような音をたてて口を閉じていく。そして扉が閉ざされる寸前、円形のホールが鮮血の霧で満たされるのを見た。
「リオン……」
私はしばらくの間、呆けたようにその場に立ち尽くしていた。