第一章 盗賊団の少女 前編
「捜せ! 近くに潜んでいるはずだぞ!」
辺りには夜の静寂を打ち破るように、警官隊の喚く声と足音が響いている。狭い路地の入り組んだ貧民街では、その殺気立った音が幾重にも反響して、もうどの方向から聞こえてくるのかもわからない。
いや。普段の私なら……冷静であれば、聞き分けられないこともないだろう。でも今はもう無理だ。酷い頭痛と耳鳴り。それにこの傷では、息絶えるのも時間の問題だろう。
私はとうとう逃げることをやめ、力なくその場に座り込んだ。体中傷だらけ。肩を貫通して刺さったままの矢傷と、サーベルで刺された脇腹の傷は致命傷になりそうだ。見る間に足元に血溜まりを作っていく。もう走ることはおろか、立ち上がることもできそうにない。
次第に耳鳴りが酷くなって、周りの音が遠ざかっていくような気がした。自分の荒い呼吸の音だけがリアルに聞こえている。もう座った姿勢を維持することもできなくなって、ずるずると倒れこむ。倒れて初めて、そこがゴミ溜めだということに気づいた。
私は死ぬんだな……。そう思った途端、急に笑いがこみ上げてきた。なんて私にふさわしい死に様だろう。罪を重ねた醜い雑種の死に様には、ごみ溜めがよく似合う。ぼろくずのようになってごみ溜めに転がっているなんて、まさしく私にふさわしい。
声を上げて笑ったつもりだったのに、痙攣でもしたようにわずかに肩を揺らしただけで、掠れた声すらでなかった。
ふと天を仰ぐと、月も星もない真っ暗な空から、雪がひらひらと舞い落ちてくる。
「きれい……」
柄にも無くそんなことを呟いてその様を眺めていると、ふっと母のことを思い出した。非力で、惨めな女のことを……。
もう顔も覚えてはいないけれど、醜かったことだけは確かだろう。ただ、血のように真っ赤な長い髪だけはよく覚えている。
母に抱かれると、その赤い髪が母の腕や胸元、私の顔や体中にまとわりついて、まるで血の雨を浴びているようだった。思い出すとぞっとする。
もっとも、美しい雑種などいるはずもない。ヒューマン・エルフ・ドワーフ・ホビット・ノーム、それぞれの種族は本来、異種間での繁殖はない。伝説か真実か……悪魔の業で生まれたという雑種には呪いがかかっている。その呪いで雑種は全てなんらかの奇形や障害があり、醜い姿をしているのだと言う。
そんなくだらないことを思い出すなんて、私にも死が迫っている証拠かもしれない。
「あぁ、疲れた……」
掠れた声で呟いて、私は目を閉じた。世界が暗闇に閉ざされ、ただ閉じた瞼に落ちる雪の冷たさだけを感じていた。
じりじりと肌を焦がすような強い日差し。果てしなく遠くまで続いて見える小麦畑。夏の陽光をいっぱいに浴びて、青々とした穂が輝いている。
広大な小麦農場では雑種の労働者たちが、疲れた顔でただ黙々と働いているのが見える。それを大きな刀を持ったドワーフの男が仁王立ちで監視している。
大人に混じって、赤い髪の少女が水運びをしている。10歳の少女の腕には大きすぎる、重い水瓶を抱えて川と農地とを何往復もしていた。
遠くから正午を知らせる鉦の音が聞こえた。「やっと休憩できる……」少女はふと鉦の音に気をとられた。
途端に重い水瓶は少女の手を滑り落ち、乾いた土の上で粉々に砕けた。水が飛び散り、監視員の男の足にかかる。水は高価な革製の靴に、見る間に大きなシミを作っていった。
「このガキが! なんてことしやがる!!」
酒焼けした濁声で男が怒鳴る。しかし少女はわるびれる様子もなく、男を睨み返す。ひれ伏して謝ったところで、どうにもならないことを知っているからだった。
男は少女の顔を平手打ちして、そのまま突き倒す。続けざまに鞭で打ち据え、次には脚蹴りを浴びせる。いつもならそのくらいで終わるのだ。
しかしこの日はどうにも男の機嫌が悪かったらしい。男は手にした刀の鞘を取り払うと、少女の喉元に突きつけた。
少女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに元の冷淡な表情に戻って、再び男を睨み据える。男の顔色は見る見る紅潮し、怒りを顕にした。
「待ってください! どうかお許しください!!」
そのとき小麦畑の中から、同じような赤い髪の女が飛び出してきて男の腕にすがりついた。
「ティセル! 謝りなさい! 早く謝るのよ!!」
次に女は少女の頭を土の上に押し付けるようにして、自分も地面を舐めるかのようにひれ伏した。
「分別のない子供のしたことです。どうか……どうかお許しください!! 娘の命だけは……」
しかし少女は知っていた。どれだけひれ伏そうが、哀願しようが、男の気が変ることはないということを。雑種の命など、気紛れに奪い去ってもなんの咎めも受けないということを。雑種を殺すことなど、蚊を叩くにも等しいくらいのことだと。
「うるさい! どけっ!」
監視員の男は、少女に覆いかぶさるようにしてひれ伏す母親を引き離すと、少女の襟首を掴んで引き立てた。そして再び喉元に刀を突きつける。
「お願いです!!」
母親も再び男の腕に取りすがる。
「しつこいぞ! ならばお前が先に死ね!」
次の瞬間、夏の日差しを反射して刀がきらりと光った。そして赤い飛沫を撒き散らしながら、母親の体は畦を転がり、小麦畑に落ちていった。
少女の目には、小麦の穂に絡みつくように広がった赤い髪と飛び散った鮮血は、青い若葉の上で、まるで毒のある花のように見えた。
そして次は少女の番だった。男の手がか細い少女の腕を掴む……
「大丈夫ですか? ずいぶんうなされていたようですが……」
窓から差し込む光を背にして、背の高い男が立っている。逆光で顔はよく見えないが、優しげな声で言葉をかける。
「夢……」
そう。夢を見ていたのだ。思い出したくもない、あの日の夢を……。
だんだん意識がはっきりしてくる。警官隊に追われて、手傷を負って貧民街に逃げ込んで……。ゴミ溜めで倒れて、そのまま雪を眺めていた。そしてそのまま意識を失ったらしい。
しかし、ここはどうやら天国でも地獄でもないようだ。肩と脇腹の焼け付くような痛みが、まだ生きていることを証明している。手当てをされて、ベッドに寝かされていたようだ。
「警察に追われていたようですね。酷い怪我で……このまま目を覚まさないかと思いました。うなされているようなので様子を見に来たのですが、気がつかれてよかった」
男はそう言うと、私の側に歩み寄ってきた。
明るさに目が慣れてくると、次第に周りのものも見えるようになってくる。ありふれた質素な石造りの部屋。小さな棚と机、窓際にもうひとつ古びた木製のベッドがあるだけで、他には何もない。よくある貧困層の住宅のようだ。
しかし、その景色にまったく似合わない、不釣合いなものがひとつだけある。立っている男だ。
地味だけど小奇麗なグレーのローブも、銀の装飾をあしらったブーツも、こんなところに住むような貧乏人が身につけるものではない。それに何よりも不自然なのは、顔の上半分を覆い隠す仮面だ。
身なりから察するに、おそらく彼は純血種。普通、差別階級にある雑種がこんな身なりはしていない。純血種でも庶民では持てないような高価な品だ。すらっとした長身と長く尖った耳からするとエルフだろう。なんのために顔を隠しているのかも、だいたい想像はつく。
「目的は何? 仕事?」
単刀直入に訊いてみる。私の考えが間違っていなければ、この種の人間がなんの目的もなく人を助けたりはしない。
「え?」
しかし男はきょとんとした様子でじっと私を見ている。とぼけているのだろうか。
「私を助けた目的は何かと訊いてるのよ」
少し苛ついた調子で問い直した私に、男は不思議そうに首をかしげて答えた。
「人を助けるのに理由がいるのですか?」
何か噛み合わない……。
「身なりを見ればあんたが雑種ではないことはわかる。それが顔を隠して貧民街に出入りしているとなれば、闇商人しかないでしょう? だから目的は何かと訊いてるのよ」
雑種を呪われた種族として差別して、近づくことさえ嫌う純血種の中にも、敢えて貧民街に出入りする者がいる。闇商人と呼ばれる彼らは、非合法の仕事……盗みや殺しの依頼、盗品の取引、人身売買などのためにやってくる。
闇商人なら、私の正体を知っていても不思議はない。知っていて、利用する目的で助けたと考えるのが一番自然だ。
「えっ!? ち……違います! 闇商人なんかじゃありません。ここは救護施設ですよ……」
「はっ?」
今度は私が呆気にとられて、間の抜けた声を出してしまった。
確かにもう1種類、雑種しか住まない貧民街に出入りする純血種がいる。「雑種も同じ人間なのだから、人権を認めるべきだ」という理念を掲げて、雑種救済の運動をしている偽善者どもだ。
その種の運動家は、世間一般の純血種からは「奇人」だとか「悪魔の手先」だとか呼ばれ、白い眼で見られる。教皇庁に知られれば、神の教えに反する異端者として、再教育という名の拷問にかけられることもあるのだ。
それを押してまでそんな報われもしない無駄な社会運動をする彼らを、私も確かに「奇人」だと思う。しかし私が一番疑問なのは、その奇人が私を助けた理由だ。
「あの……私、そんなに人相悪いですか? 闇商人だと言われたのは初めてです。少しだけですけど、ショックなんですが……」
男を睨み据えたまま、じっと考え込んでいた私に、男はまたも予想外の言葉を投げかける。呑気すぎる……。
「あんた……馬鹿じゃないの? どこのお坊ちゃまか知らないけど、犯罪者を匿うってことが、どういうことかわかってるの? 損することはあっても何も得はしないわよ」
私が言うと、男は少し間を置いてから答えた。
「わかっているつもりです。何も得をしたくて助けたわけじゃありません。怪我をした人を放っておけなかっただけです」
とんだお人よしだ。何を“わかっているつもり”なのか、危険性をまったくわかっていないのだろう。
「雑種のお尋ね者なんか助けたことがばれたら、さんざん拷問にかけられた後で処刑よ」
私がそう言うと、やっと危険に気づいたのか、男は少しの間だまりこんだ。仮面のせいで表情は読めないけれど、何か考えているようだ。
男はひとつ大きな溜息をつくと、部屋の隅から小さな木の丸椅子を引き寄せて、私の脇に座った。
「私はね」
穏やかな口調で、諭すように話を始める。仮面をつけていても、近づけばなんとなく顔立ちや表情も少しはわかる。純エルフらしい澄んだ青い瞳に柔らかそうな細い金髪。声からしても、年の頃は20代半ばと言ったところか……。
「雑種には本当の犯罪者なんていないと思っているんです。環境が……貧しさや理不尽な差別がそうさせている。今の教皇庁が行っている圧政の中では、生きるためには悪事に手を出すしかないから……。雑種を安い賃金で使い捨てのように使い、気に入らなければ気ままに殺してもなんの罪悪感も持たない。そんな純血種の方が、よほど悪辣なのかもしれません」
何を話し出すのかと思えば、青臭い思想。そんなことをいくら訴えてみたところで、何が変るというのか。強大な教皇庁の圧制から逃れるすべなどない。無駄な抵抗だ。
結局、雑種解放活動なんて優位に立っている者の優越感と自己満足なのだ。金持ちが小遣い程度の私財を投げ打って施しをしたところで、そんなものは焼け石に水でしかない。結局、何も変えることなどできずに可哀相がっているだけなのだ。
「だから……君が指名手配犯だと知っていても、見殺しにはできなかった」
男が真面目な顔で言い終わるのと同時に、私はベッドから起き上がった。脇腹に激痛が走るが、我慢できないほどでもない。今までにも修羅場は何度も潜り抜けてきた身だ。
「そんな青臭い話は聞きたくもないわ。助けてもらった礼も言わない。むしろ見殺しにしてくれた方がよかった」
そう言い捨ててベッドから降りる。しかし扉に向かって真直ぐに歩いたつもりが、どうにも足取りがおかしい。激しい眩暈に襲われて、2~3歩進んだところで床に座り込んでしまった。
「無茶ですよ! 死んでいてもおかしくない傷だった。君は3日も生死の間を彷徨っていたのですよ」
慌てて男が駆け寄ってくる。そして私を抱え起こして、再びベッドへ戻す。
「もう少し眠りなさい。次に目が覚めたら、もう少し気分も落ち着いているはずです。そうすればきっと生きていることに感謝できる。君のような若い人が、死んでもいいなんて思ってはいけない。今は、もう少し眠って落ち着くことです」
穏やかな子守唄のような男の声を聞きながら、私はいつの間にか眠りに落ちていた。
どのくらい眠ったのか、次に目が覚めたときには辺りはもう真っ暗だった。机に置かれた小さな蝋燭の灯りだけが、闇の中でゆらゆらと揺れている。
ぼんやりと揺れる炎を眺めていると、再び眠気に誘われる。死にかけるほどの目に遭ったのだ。疲れているのも無理はない。
しかし瀕死の状態から少し回復すると、いつもの冴えも戻ってくる。まだ体は鉛のように重く、微熱もあるようだけど、感覚は研ぎ澄まされている。
扉の外に人の気配がある。微かに聞こえる呼吸と衣擦れの音。あまり動いてはいない。おそらくは扉に貼りつくようにしてこちらの様子を窺っている。
警戒のためにナイフを構えておこうと、自分の服を探ったけれど、ナイフがどこにもない。いつもならベルトやスカートの裏、腕や脚など、至るところに大小さまざまなナイフを備えているはずだ。どうやら傷の手当てをするときにでも、全部外されたらしい。よく探ってみると、服も愛用のものではなく、サイズの合わない間に合わせの肌着のようなものを着せられている。
仕方なく私はそっと足音を忍ばせてベッドを出ると、蝋燭の明かりを吹き消した。そして燭台代わりにしている小皿だけを手に持っておく。
「誰? そこにいるのはわかってるわよ!」
声をかけると、扉の外ではっと息を呑む音がした。それから少し間を置いて、遠慮がちにそっと扉が開く。
床に置かれたままのランプの明かりが作る影で、相手の大きさと正確な位置がわかる。細身で身長は130cmといったところか。ぎこちない動きに殺気は感じられない。
しかし油断は禁物。相手の正体がわかるまで気は抜けない。とにかく先制攻撃をしかける。
相手が完全に扉の陰から出てくる前に、不意をついて脚を狙って小皿を投げつける。驚いて足元に気をとられた瞬間がチャンス。素早く背後に回りこみ首を抱え込むようにして、相手の動きを封じた。
「ひゃっ!」
相手は情けない声を上げて、足をバタバタさせてもがいている。シルエットだけでは、体格は種族によって違うし、雑種ならなおさら標準的なサイズはない。声を聞いて初めて相手が子供だとわかった。
廊下に置いたままのランプの灯りの方へ、顔をねじ向けてみる。浅黒い肌に蝙蝠の羽のようないびつな耳。銀とオレンジのまだらの髪と青い瞳。エルフとホビットの血を濃く受け継いでいそうな雑種の少年だ。
「ガキのくせに覗きとはいい趣味ね。どういうつもり?」
腕に力を込めて首を締め上げながら問い詰める。負傷しているからといって子供一人を絞め殺すくらいの力は十分ある。私は身長151cmで細身の華奢な体つきをしているためか、腕力はないと思われがちだが、並の男には負けない程度の腕力は持っている。
「し……死ぬぅ~。放して……よ。オ……レ……敵じゃ……ない……って!」
どうやら敵意もないようだし、もし襲われても簡単に返り討ちにできる相手のようだ。念のために逃げられないよう、部屋の隅へ突き飛ばして解放する。
しかし荒っぽい対面の仕方をしたというのに、少年は壁に背を打ちつけて座り込んだまま、何故か興奮気味に歓声を上げた。
「すげぇ! すっげぇ! 本物だ! やっぱり本物の“Bloody Lion”だ!」
こんなところで耳にするとは思わなかったけれど、“Bloody Lion”とは私の通り名のひとつだ。他にも“死を呼ぶ舞姫”だとか“鮮血の刃”だとか、殺しの天才としての通り名をいくつも持っている。
「ね? 本物だろ? 盗賊団Dark Kingdomのティセルだろ?」
少年は闇の中で目を輝かせて、遠慮がちにだがじりじりと私に近づいてくる。
確かにDark Kingdomは貧民から富裕層まで、誰もがその名前くらいは聞いたことがあるくらいの、ある意味有名な盗賊団だ。荒っぽい手口で次々と富裕層の邸宅を襲い死体の山を築き上げるという、悪名高いという意味で……。その中でもずば抜けた実力で、若干17歳で行動隊長を任されていた私の名も、それなりに有名ではあるだろう。
しかし恐れられこそしても、こんな年端も行かぬ少年に喜ばれるとはいったいどういうことなのか……。
「私が……怖くないの?」
私が問いかけると、少年は「へへっ」と短く笑ってから答えた。
「ちょっと……ちょっとだけ怖いかな。だけどオレ、ティセルに憧れてるんだ」
「憧れてる?」
意外な答えだった。怪訝な顔で聞き返した私に、少年は微笑んで見せた。
「うん。だって、かっこいいじゃないか。高慢ちきな純血種の奴らを殺しまくって、今だってたった一人で生き残ってるんだろ? すごいよ!」
その言葉を聞いて、私は複雑な思いがした。10歳前後の少年が指名手配の虐殺魔に憧れているとは、世も末だ。
それとは別に、もうD(ark)K(ingdom)の崩壊がこんな救護施設に暮らす子供にまで知れ渡っていることにも複雑な気分だ。アジトが摘発され、拷問にかけられた仲間からの情報で、幹部たちが指名手配されたのはまだ10日ほど前のことだ。その間に既に他の幹部たちはみな捕まって処刑されたと言う。
その情報がもうこんなところまで来ているとは、改めて組織の崩壊が現実だということを思い知らされた。
「こらっ! ライカ! ここへ来てはいけないと言ったでしょう!?」
少年と向き合ったまま、いろいろと思い巡らせていると、不意に扉が開いてひとりの女性が姿を現した。妊娠しているのか、大きなお腹の上に持ち辛そうに籠を抱えている。ぱっと見は純ヒューマンのように見えるが、紫色の髪と奇妙に変形した左腕がそれを否定している。
「あ! やば……。マリサだ」
彼女の姿を確認すると、ライカと呼ばれた少年は決まり悪そうに笑って見せた。
「ごめんね。ゆっくり休ませてあげたいから子供たちを騒がせないようにと、先生から言われていたんだけど……」
人の良さそうな笑顔を浮かべて、マリサは部屋に入ってくると、ランプと抱えていた籠を机に置いた。それから黙って手でベッドを示して、私を促す。
「先生……ってのは、あの仮面の男? 何者なの?」
とりあえず警戒する必要もなさそうだ。私は黙ってそれに従い、ベッドに腰掛けてから問いかけた。
「ええ。どういう人なのかは私もよく知らないの。名前すら教えてもらえなくて……。だけど私たちのような弱い者たちにとっては神様以上の存在だわ」
満足な答えが返ってくるとも思わないけれど、続けて探りを入れてみる。
「身なりからすると、相当の金持ちね。顔も、名前すら伏せているってことは、それなりの身分がある……例えば上流階級のお坊ちゃまとか……」
私の推測を聞いても、マリサは少し困ったような顔をして「さぁ……」と言うだけだった。まあ、こんなところで保護を受けて生活をしているような人間では、先生とやらが身につけているものの価値もわかりはしないのだろう。聞くだけ無駄というものだ。
男と会って直接問い詰めたいところだが、今は家へ帰っているとのことだった。
これ以上聞いても無駄と判断して私が口をつぐむと、マリサはやっとほっとしたように微笑んだ。
「ライカ、これから傷の手当てをするんだから、自分の部屋へ帰ってなさい。男の子が女性の部屋にいつまでもいるものじゃないわ」
そう言ってライカを追い払うと、マリサは籠の中の物をベッドに並べ始めた。手当てに使う薬や包帯。それから、これに着替えろとでも言うのか、新品の衣類と手鏡にブラシ。
しかし下着はともかく、これはとうてい私の趣味ではない。柔らかい素材で裾の広い真っ白な絹のドレス。丸襟には小さなフリルがついている。こんな少女趣味なもの、着られたものじゃない。
まるで汚いものでも触るように、恐る恐る指先でつまんでそれを眺めていると、マリサが言った。
「手当てが済んだら、それに着替えてね。きっと似合うだろうからって、先生が買ってきたものなの」
思わず呆然としてしまった。どういう趣味をしているんだか……。良家のお嬢様じゃあるまいし、こんなもの着られない。趣味の問題もあるが、施しにしては絹のドレスなんて高価すぎる。常識や金銭感覚にも問題がありそうだ。
「冗談じゃないわ。こんな悪趣味なもの着れるもんですか。私が着ていたものを返して」
ドレスをマリサに投げてよこすと、身に合わない大きな肌着も脱ぎ捨てる。そしてマリサの手伝いを断って、自分で傷の手当てを始めた。
マリサは呆然とその様子を眺めていたが、ふと私は彼女の視線が気になった。見てはいけないものを見ているように、ちらちらと私の背中に目をやっている。
「悪魔の紋章が珍しい? 珍しくもないでしょう?」
雑種の体には、大小様々だが必ずどこかに醜い痣がある。それを悪魔の紋章と呼ぶのだ。私も背中に大きな痣がある。まるで刺青のようにくっきりと黒く、悪魔の顔のように見える。同じ雑種から見ても、それは不気味に見えるのだろう。
「ごめん……」
マリサは目を伏せて短く言うと、部屋を後にした。
自分が着ていた服に着替え、警官隊との攻防で欠けたり汚れたりしたナイフの手入れをする。それが終わる頃には夜が明け始めていた。
体にぴったりと貼りつくタイトなシャツに、揃いのベストとミニスカート。使い込んで体によく馴染んだ革製のナイフホルダーを腕や脚に装着すると、不思議と気分が落ち着いてくる。
一通りの身支度を整えると、私は一息つくことにした。ベッドに腰かけ、ベストの胸ポケットを探る。小さなスチールのシガレットケースを取り出して蓋を開けると、巻き煙草が1本転がり落ちた。いつもならきっちり1ダースの煙草を入れておくはずなのに、数日の逃亡生活の間に気づけば最後の1本だった。
煙草を拾おうと手を伸ばしたとき、マリサが置いていった手鏡に自分の顔が映るのが見えた。短く切った、母譲りの毒々しい赤い髪。鉛色と黄土色の獣のようなオッドアイ。まさにたてがみを振り乱した “Bloody Lion~血まみれの獅子~”。通り名のままだ。
私は鏡が嫌いだ。禍々しく醜い自分の姿を映し出すから。なんとも言えず嫌な気分になって、私は手鏡を壁に投げつけて割った。
なんとなく煙草を吸う気もなくして、またケースに収めて部屋を出て行く。仮面の男が戻ってくるまでは、ここで休んでいるようにとの伝言だがそうもいかない。男の素性に好奇心を覚えないこともないけれど、このままここに留まっているのは危険だ。
足音を忍ばせて石造りの廊下を抜け、階段を下る。部屋を出てみると、この建物は古い教会を整備して使っているものだとわかった。しかし貧民街にこんな大きな教会を救護施設として使っているようなところがあっただろうか?
貧民街は、はるか昔に捨てられた街だと言われている。狭い路地に石造りの家がひしめき合い、その迷路のような街並みに、雑種たちは隠れるようにして住んでいるのだ。建物の中にはいくつか教会もあるにはあるけれど、神に見捨てられた雑種は教会になどは寄り付きもしない。それに教会は住居に使うには広すぎて都合が悪い。そのため全ての教会は廃墟になっているはずだ。
それはともかく世間的に肩身が狭い、雑種のための救護施設にしては規模が大きい。ここからも男の財力の程がうかがえる。普通は救護施設とは名ばかりで、死にかけたような雑種が狭い家に詰め込まれて、死を待っているだけのところばかりだ。
神像が外された聖堂を通り、正面の扉を出ると荒れ放題の前庭があって、黒く腐食した鉄の柵が見える。きれいに整備された室内と比べると、外観はまるで廃墟だ。教皇庁に対してのカムフラージュのためだろうか。
しかし鉄柵を出たところで振り返って、私は驚いた。ここは私もよく知っている場所だ。貧民街のどこに何があるかはだいたい把握している。ましてここはDKのアジトの近くだ。
この道は何度も通ったことがあるのに、こんなところに救護施設があるなんて知らなかった。いや、確かにこの教会は廃墟だったはずだ。自分たちの縄張りに何があるかくらいは把握している。
「いたぞ! 逃がすな!」
不審に思って引き返そうとしたとき、背後から男の怒鳴る声と、数人の走る靴音が聞こえた。さっそく見つかったのかと思ったけれど、どうも様子が違う。
念のため素早く建物の陰に身を潜めて様子を窺っていると、半ブロック先の角を、幼い雑種の少女が息も絶え絶えになりながら走っていくのが見えた。その後を3人の青年が追っている。
3人はどうやら純ホビットらしいが、手に持っているものを見れば、なんの用で貧民街に足を踏み入れたのか、すぐに察しがつく。
私は足音を立てないように、彼らの後を追った。
この辺りの地理を知らずに闇雲に走って逃げていたらしく、思ったとおり少女は袋小路に追い詰められていた。もう後がない。ホビットの3人組は、よく磨き上げたボーガンを手にじりじりと間合いを詰めていく。
ハンティングだ。武器の試し撃ちなどのために雑種を狩る遊びがよく行われるのだ。特に弱い子供や、重度の障害で体が不自由な者が狙われる。
青年たちは私につけられているとは気づかずにいたが、少女が彼らの後ろに立っている私の姿に気づいた。
「助けて!」
少女が力の限りに叫ぶ。すると青年たちは振り返って、私を睨みつけた。
「邪魔をするなよ。邪魔をすれば次のターゲットはお前だぞ!」
青年の1人がボーガンの先を私に向けて高圧的に言った。笑わせてくれる。
「この私を狩るだって? やれるものならやってみなよ」
私は鼻で笑って返した。
すると3人は威圧するように、肩を怒らせて口々に怒鳴りだす。まったく……弱い犬ほどよく吠えるとか言う言葉を知らないらしい。
肩をすくめて「くすっ」と笑った私に、3人組みは顔を真っ赤にしてさらに怒鳴り散らす。
「虫けら同然の雑種が生意気な口叩きやがって!」
「同じ虫けらでも、蝿と蜂の区別ができなければ、命を落とすことだってあるわよ」
言い終わるが早いか、私は青年のひとりの背後に瞬時に回りこむと、躊躇いなくナイフでその喉笛をかき切った。青年は声を上げる間もなく、血飛沫を上げて崩折れる。
残った2人は恐怖の絶叫を上げて逃げようとするが、私にとれば芋虫が這うのを捕まえるようなものだ。それぞれの方向に1本ずつナイフを投げる。1人は膝頭を切り裂かれて無様に転び、もう1人は服を壁に縫い付けられたと気づかずにもがいている。
それから彼らの落としたボーガンをひとつ拾い、転倒した青年の後頭部に押し付ける。そして引き金に指をかけたときだった。
「ティセル! やめるんだ!!」
昨日の仮面の男だった。私を追って走ってきたのか、やっとのていでそう叫んでから、肩で息をついている。
しかしそのときはもう遅かった。すでに引き金を引いた後で、重い鉛の玉は青年の頭蓋骨を砕いてめりこんでいた。
私が仮面の男に気をとられている間に、もうひとりは無我夢中でもがいて、服を引き裂いて逃げていった。
仮面の男がふらふらした足取りで歩み寄り、力なく呟く。
「なんて酷いことを……。何も殺すことはないじゃないですか」
しかしその言葉は私を非難すると言うよりも、ただ空虚に呟いただけという感じだった。それでも、そう言われて黙っているわけにもいかない。
「ふんっ。こいつらは雑種を虫けらだと言ったわ。それなら虫けらの中には人を襲う毒虫もいるってことを教えてやって何が悪いって言うの!?」
私がそう言い返すと男は何か言いかけたが、そのまま口をつぐんでしまった。気まずい沈黙が流れる。
しかしすぐにその沈黙は破られた。
「いたぞ! Bloody Lionだ!」
どうやらさっき逃げたのが警官を呼んだらしい。喚き声とともに大勢の靴音が近づいてくる。
やばい。ここは袋小路。逃げ切るには強行突破しかない。靴音から判断できる警官隊の人数は8……否、9人。まだほとんど傷も癒えない体で、どこまでやれるだろうか……? しかし迷っている暇はない。もう警官隊はすぐそこまで来ているのだ。
私はまず仮面の男と少女が邪魔にならないように、瓦礫が山になっている陰に突き飛ばす。それから拾ったボーガンを連射して警官隊の先頭2名を仕留めた。そこから一気に斬り込んで乱戦になる。しかし人数が多い。半分を仕留めたところで更に予想外の展開が訪れた。
警官隊の援軍が到着し、いつの間にか囲まれている。しかも建物の2階にスナイパーが配置されているのに気がつかなかった。
肩の傷と同じところを新たな矢が貫く。不意をつかれて屈みこんだ私を目掛けて、一斉に矢が放たれる。
「危ない! ティセル!」
叫んで飛び出してきたのは仮面の男だった。降り注ぐ矢も気にせずにこっちに向かって走ってくる。
「馬鹿! あぶな……」
驚きの余り痛みも忘れて、振り返った私は、さらに信じられない光景を目にした。
男は背後から右腕で私を庇うように抱き寄せ、左手を真直ぐ前に突き出して何かを呟いた。すると男の体を中心に、轟音をたてて膨張しながら光の輪が広がっていく。そしてその光に触れた警官隊員たちは、見えない力に次々となぎ倒されていき、放たれた矢さえも勢いを失って落ちていく。
これは何度か見たことがある。ホーリーウォールとかいう神官魔法だ。魔法のことは詳しくないけれど、なんでも結界を張る力をぶつけて敵を退けるが、殺傷能力はない防御専用の魔法だと聞いたことがある。
しかしこんな巨大なホーリーウォールは初めて見た。術者の能力によって大きさが決まるらしいけれど、仕事で戦ったことのある神官ではせいぜい半径3mくらいの光球しか見たことがない。これはもう範囲を目で追うことすら難しいほどの大きさだ。
「走って!」
仮面の男は、まだ瓦礫の陰で震えている少女に声をかけると、私にも手を貸して立たせる。それから少しばつが悪そうに言った。
「すみません。抱いて走りたいのは山々なんですが、私は魔法使いなので力はあまりないんです。走れますか?」
私はまだ驚きのあまり、まともに声も出ない。その場の空気に流されるように黙って頷くと、男はにっこりと笑った。
警官たちが魔法の力に圧倒されている間に、私たちはどうにか仮面の男の教会にたどり着いた。鉄柵をくぐり、聖堂の扉を開ける。
ここで私はまた驚かされた。早朝出てきた聖堂とはまるで趣が違う。破壊されて瓦礫と化した神像が中央に据えられたままで、ひび割れた壁や天井にはところどころクモの巣が張っている。
「ここまで来れば大丈夫。少し待ってください」
男は大きく息をつきながら、再びなにかを呟く。
すると何かが弾けるような音がして、空気が動くのを感じた。そして目の前でまた信じがたいことが起きる。荒れ放題の聖堂が、瞬時に元のきちんと整備された聖堂に戻ったのだ。
「驚いたでしょう? ここは幻影の結界で守られているんです。私の許可のないものは聖堂より奥へは入れません。あの荒れ放題の聖堂は幻で、奥へ続く道は全て塞がっています」
まったく驚かされることばかりだ。あの馬鹿でかいホーリーウォールにしても、大きな教会を包み隠すほどの結界にしてもだ。それにこの男……
「あんた、神官ね? しかもこの凄まじいまでの魔力……ただものじゃない」
神官とは、雑種蔑視の教義と政策を布く張本人である教皇庁に属する僧侶のことを指す。その神官が雑種を保護しているとはいったいどういうことなのか? まして彼は並みの神官ではない。それなりの地位があるはずだ。なにか魂胆が……?
疑惑と警戒心を露にした面持ちで問いかける私を見ると、男は困ったように黙り込んだ。そしてうなだれて溜息をつくと、「はい」と小さな声で答えた。
「ただ、まだ今は身分を明かすことはご容赦ください。いつか……時が来れば全てお話できると思います」
わからない……。この男が何を企んでいるのか、見当もつかない。まだ警戒を解かない私を、男はやはり困ったように見つめて、もう一度溜息をついた。
「ともかく……まずは傷の手当てをしましょう。まだボロボロの体で、9人相手に斬り込んでいくなんて信じられない人だ。自殺行為ですよ」
男は、一緒に逃げてきた少女をマリサに託すと、私を元の部屋へ誘導した。一度退室して、それから改めて薬箱を持ってくる。
「手伝いはいいわ。薬箱だけ置いていって。あまり人に体を見せたくないの」
私は、箱を開けて必要なものを机に並べ始める男の背中に向かって言った。傷の手当てくらい手馴れたものだ。人の手を借りるまでもない。
しかし男はなぜかびくりと身を震わせて、激しく動揺した様子で振り返った。すぐには言葉も出ずに、口をぱくぱくさせて意味不明な手振りをしている。
「す……すみません。気がつかなくって……!」
やっと声が出たと思ったら、仮面で隠していてもわかるほど顔を赤くして頭を下げている。ますますこの男の考えていることがわからない。怪訝な顔で男を見つめる私に、彼はさらに慌てた様子で言葉を継いだ。
「女性の体を見る……いや……その……私も見たかったわけじゃなくて……えっと……」
落ち着きなく目を泳がせながら、必死にわけのわからないことを言う男に、私は思わず呆気にとられてしまった。
しばらく「えっと……その……」などと繰り返した後に、男はまた深く頭を下げて、やっと言葉を発した。
「ごめんなさい! 初めて君をここに連れてきたとき、意識のない君の手当てをしたのは私です。そのときにもう見てしまった……というか……。でも誓って何も疚しいことはしていません! 本当に……」
「……ぶっ。くくっ……あはははは!」
あまりに滑稽な様子に思わず笑ってしまった。今度は逆に男がきょとんとしている。
「あんた、いったい歳いくつよ!? 女の裸見て恥ずかしいような歳でもないでしょ? それともその歳で童貞だとでも言うの?」
可笑しくて笑が止まらない。笑い転げる私を前に、たじろぐ男を見ていると、よけいに可笑しい。
「だいたいねぇ……こんな醜い雑種の女の体を見て、何かしようと思うの? あんた、変態? 誰もそんなこと心配しないわよ!」
いつまでも笑い転げている私に、さすがに気分を害したのか、男は急に怒ったような顔をして、黙って部屋を出て行った。
「いったいなんだって言うのよ……?」
私もなにか白けた気分になって、ひとり呟くと、黙々と傷の手当てを始めた。
さすがに疲れているのか、不覚にもいつの間にかうとうとしていたようだ。ドアをノックする音で目が覚めた。
仮面の神官は謎だらけの男ではあるけれど、とりあえず敵ではなさそうだし、結界に守られた場所なら警察に見つかる危険もほとんどないだろう。それに最終的には怒らせてしまったようだけど、さっきの大笑いのおかげでなんとなく緊張感が緩んだらしい。いつの間にか逃亡犯の危機感を欠いていたようだ。
「なに?」
ドアに向かって声をかけると、ドアが開いてライカが顔を覗かせた。
「ねね、入ってもいい?」
昨夜の手荒な歓迎がこたえているのか、遠慮がちに廊下から声をかける。私は無言で、入ってもいい、と目で促す。
「あのさ……ティセルにお願いがあるんだ」
入室の許可をもらうと、途端に勢い込んで駆け寄り、足を止める間もなく喋りだす。そして勢い余って前につんのめりそうになりながら、私の手を掴んでとんでもないことを言い出した。
「オレをティセルの弟子にしてよ! いいだろ?」
「何を馬鹿なこと言ってるの? いいわけないでしょ」
「お願いだよ。なんでもするからさ」
即座に却下したものの、ライカは簡単には引き下がらない。同じようなやり取りを何度も繰り返した後、うんざりした私はある条件を出すことにした。
「わかった。なんでもするって言うのね? それじゃ、煙草を買ってきて。これと同じものよ」
そう言って最後に1本だけ残った巻き煙草を投げてよこす。ライカはそれを受け取ると、縦にしたり横にしたりして眺め回している。煙草の銘柄がどこかに書いてあると思っているのだろう。しかしそんなものはどこにも書いていない。その煙草は特注品だ。
「なんて名前の煙草? どこで売ってるの?」
「いい? それと同じものよ」
訊ねるライカを無視して、私は部屋を出て行った。これ以上ガキの相手もめんどくさいし、教えたところでどうせ子供が買ってこられる代物じゃない。
部屋を出てすぐ、マリサに呼び止められ、昼食に案内された。初めてここでの食卓について、保護されている人数の多さに改めて驚かされた。30人ほどの大所帯で、そのうちのほとんどは子供だ。大人はマリサを含めて5人しかいない。
どこかへ出かけたらしく、仮面の男は食事の席にいなかったが、いろいろと話は聞けた。話によれば、基本的には子供しか保護しないことにしているらしい。救護施設など焼け石に水の状態で、全てを対象にはできない。それなら、子供に教育を施してやりたいという理由で、仮面の男が学問を教えているとか。怪我人や病人は一時的に保護するが、治り次第出て行かなければならない。その一時保護を受けているのが、3人。子供たちの世話と家事全般を勤めるマリサともう1人、アベルと言う若い男は保護ではなくここで働いているのだという。2人は夫婦でもうすぐ子供が生まれるのだと、惚気半分に嬉しそうに話すのを、私は複雑な気分で聞いていた。
「子供なんて産もうと思う気が知れない。生まれてきて、いいことなんてひとつもなかった」
そう言う私に2人は何も言わず、ただ少し寂しそうに笑って見せた。
皆が騒ぎ出したのはもうすっかり暗くなってからのことだった。昼食の後出かけていったライカが帰ってこないという。
「困った子だ……。あの子は賢い子ですが、少し無茶をするところがあります。無事に帰ってこればいいのですが……」
仮面の男が疲れた顔で深い溜息をついた。知らせを受けてから、男が夜の街をあちこち捜しまわったけれど、ライカは見つからなかった。すっかり夜も更けて、他の子供たちはみな眠りについている。
まさか、まさかとは思う。私が頼んだ“煙草”がどこで手に入るものなのかを突き止めてしまったのでは……。
「私が捜してくる。……心当たりがあるの」
もしかしたら私のせいかもしれない。いや、間違いなくそうなのだろう。しかし捜しにいくと言う私を、男は引き止めた。扉の前に立って行く手を塞ぐ。
「心当たりとはどこなのですか? 私が行きます。夜の街は危険です。怪我をしている人を、まして女性を行かせるわけにはいきません」
「……いったい私を誰だと思ってるの? Bloody Lionとの異名をとるほどの女よ。それに……その場所はあんたみたいなクソ真面目が行ったって、なんの役にも立ちはしないわ」
「だからそれはどこなんですか?」
「いいからそこをどいて!」
私と男がそんなやりとりをしていると、不意に聖堂の方から声がした。
「開けて~!」
ライカだ。教会の外へ出るときは普通に出て行けるのだが、中へ入るには結界を解かなければならない。術者である仮面の男以外は、外から結界を開けることはできず、結界内部にある魔石を操作して入り口を開けるのだ。つまり内鍵がかかっているような状態で、入るときには中から開けてもらわなければならない。
男がすぐに結界を解くと、ライカは聖堂から奥へと続く扉を開けて、私たちが待ち受ける食堂へ走って入ってきた。
「どこへ行っていたんですか! 心配したんですよ!」
すぐさま男がライカに駆け寄って、怒るのかと思いきや、少年のその小さな体を抱きしめた。
「ごめん。先生。ちょっと……ちょっとね」
ライカはそう言って男の腕を離れると、私の方へ来て小さな箱を差し出した。まさかと思いながら受け取って開けてみると、中にはぎっしりと巻き煙草が詰まっている。
「まさか本当に手に入れてくるとは思わなかった。よく無事で帰ってきたわね……」
私が驚き半分呆れ半分に言うと、ライカはにっと笑って言った。
「これで文句ないだろ?」
そういえば、この煙草を買ってこれば弟子にしてやると約束したんだっけ……。
「たしかに……私の負けね。しかしどうやって手に入れたの? よくあの黒蜥蜴があんたみたいなガキを相手にしたわね」
黒蜥蜴とはこのあたりの麻薬の売人の総元締めの男だ。つまり“煙草”というのはただの煙草ではなく、煙草の葉に数種類の麻薬をブレンドした特別製。手に入りにくい高価なものが入っているため、下っ端の売人では手に入らない。
するとライカは武勇伝でも話すように、得意げに話し始めた。
「オレを子供だと思って舐めてもらっちゃ困るんだな~。オレの親、もう死んじゃったけど麻薬の売人だったから、そっち関係の知り合いいるんだ。ちょっと協力してもらった……って言うか、脅して手に入れてもらっちゃった。ふふ。オレそいつの弱み握ってるんだ~」
呆れた。この歳にして麻薬の売人相手にゆすりを働くとは……。たいしたタマかもしれない。
「でも、それすごいんだって? その一箱で1ヶ月は遊んで暮らせる値段ってほんとなの? それに普通の人じゃ……」
調子に乗って喋り続けるライカを手で制して黙らせる。
「無事で帰ってきて何よりだわ」
私はそれだけ言うと、片手を上げる仕草を挨拶代わりにして、自分の部屋へ戻ることにした。去っていく私の背後では、さっそく仮面の男がライカを捕まえて、説教を始めるのが聞こえていた。
部屋へ戻ると、さっそく煙草に火をつけた。嗅ぎなれた匂いが部屋に充満していく。焦げ臭いような煙草の匂いに、麝香と薄荷を混ぜたような刺激臭が微かに混じる。軽い興奮作用と高揚感がありながら、意識は鮮明。落ち着いた気分で冷静でいられる。この絶妙なブレンドは、職人技と言っていいだろう。
ただ2つだけ難点がある。その日の体調によっては幻覚や焦燥感に悩まされることがあるのと、激しい毒性でしばらく肺に焼け付くような感覚が残ることだ。
どうやら今日は幻覚症状がでているようだ。相次ぐ負傷で貧血気味なのと、久しぶりの煙草で効きが強いらしい。
幻覚だとわかってはいるけれど、手に血のぬめりを感じる。目の前で私が誰かを殺しているのが見える。意味もなく相手をナイフで滅多刺しにして、返り血をシャワーのように浴びている。酷い耳鳴りで何も音は聞こえない。
どこまでが薬の見せる幻覚で、どこからが夢なのかよくわからないけれど、私はいつの間にか夢を見ていた。私が初めて人を殺した日の夢。それは母が死んだ日であり、私の中の悪魔が目覚めた日だった。
小さな私が熊のようなドワーフの男に散々に暴行を受けている。体中の骨がバラバラになりそうなほど、殴られ、蹴られ、踏みつけられた。
だからと言って別に反抗する気もなかった。醜く生まれ、貧しさと理不尽な暴力に怯える毎日には、もううんざりだった。生きる希望なんてどこにもない。早く死んだ方が幸せだと思っていた。
しかし何をされても泣き声ひとつ出さないことが、監視員のその男には不満だったのだろう。男はさらに怒りを募らせて、肩で息をしながらついに刀を抜いた。
男は大きく振りかぶって、地面に伏して倒れている私の背中目掛けて刀を振り下ろした。ところが運命の悪戯か、悪魔の仕業か、不意に一匹の大きながま蛙が小麦畑の中から飛び出した。そしてタイミングよく踏み込もうとした男の足の下にもぐりこむ。
踏み込んだ拍子に蛙を潰した男は足を滑らせ、大きく狙いが逸れた。背中から心臓を一突きのはずが、私の背中を掠めて服を切り裂いただけだった。
「うへぇ! 気持ち悪い! なんだそのガキ!」
面白がって様子を見に来た別の監視員が声を上げた。
「ほんとだ! まさに悪魔の紋章だな」
「背中に悪魔の顔が浮き出てる! しかも睨んでいるようじゃないか!」
集まってきた野次馬が口々に騒ぎ始める。私の背中の悪魔の紋章を見ているのだ。
無様に転んだドワーフの男も、やっと起き上がると私の背中を見て、顔になんとも言えない嫌悪感を表して身震いした。
「早く殺せ! このガキはきっと悪魔の化身に違いない!」
「気味の悪いガキだ! 殺しちまえ!」
意識も朦朧として、もう倒れたまま起きることもできない私に、石を投げつける野次馬たち。「殺せ!」「殺せ!」との声は次第に高まり、辺りは異様な興奮状態に包まれていた。
そのときだった。
「殺せ!」
一際大きな声がすぐ耳元で聞こえた。その声はさらに大きくなり、耳を聾するほどの声、否、既に音ですらない何かが私の体を支配していった。背中の痣が疼く。
私の意志とは関係なく、私の体はまるで四足の獣のように大地を蹴って跳び上がった。そして男の腕を強く蹴り、刀を弾き飛ばす。
突然のことに我を失った男は、ただ呆然と立ち尽くしているように見えた。その喉笛に、文字通りかぶりつく。ぶちぶちと皮膚を破る音と、血の味が口の中に広がった。
もうそこからは何も覚えていない。気がつくと、辺りには5つの死体が転がり、私は血の海の上に立っていた。
不意に体中に激しい痛みが走り、そこで夢から醒めた。
もうひとつ、煙草の難点を忘れていた。薬の効果が出ている間は強い鎮痛効果があるが、醒めてくるとその分の痛みが一時に訪れる。その痛みは30分ほど続き、怪我をしているときは地獄の苦しみを味わわされる羽目になる。
そしてその痛みから逃れるためにまた煙草に手を伸ばす。悪循環だ。新しい煙草に火をつけたのとほぼ同時にドアをノックする音がした。
「こんな夜更けにすみません。君に話があります。入ってもよろしいですか?」
仮面の男の声だ。また馬鹿丁寧な挨拶だが、なんの用事だかはだいたい想像はつく。私は一度大きく煙を吸い込んでから「どうそ」と答えた。
男はゆっくりとベッドの脇まで来ると、少しの間黙って私の顔を見つめていた。仮面の下の表情はよくわからないが、心なしか怒った顔をしているように見える。
「まずは……それを消してもらえますか?」
今までに聞いたことのない、硬い声で男が言った。やはり怒っているらしい。おおかたライカから事の次第を聞いて、咎めに来たのだろう。
「悪かったわよ。ライカに危険なことをさせたのは謝るわ」
私はもう一度煙草をふかして、とりあえず謝ってみせた。悪いことをしたとは思うけれど、まさか本当にやるとは思わなかったのだ。それほど非難される覚えもないが、ここで是非を争っても仕方ない。
しかし男は更に強い調子で繰り返した。
「それを消してください。話はそれからです」
そこまで強硬な態度に出られるとこっちも意固地になってくる。
「嫌よ。そんなことを強制される謂れはないわ!」
そう言ってわざと深く煙を吸い込むと、男の顔に煙を吹きかけた。
「消しなさいと言っているんです!」
男はいよいよ怒りを顕にして、私の手から煙草をむしりとると、足で揉み消した。
「ライカのことは素直に謝ってるじゃない! 何なのよ!? その態度は!」
こちらも喧嘩腰になって怒鳴ると、男も同じように怒鳴り返してきた。
「私が怒っているのはそんなことじゃありません! どうして君は自分を大切にできないんですか!?」
「えっ?」
予想外の言葉に、思わずきょとんとなって聞き返してしまった。
少しの間を置いて、男も少し落ち着きを取り戻したのか、椅子に腰を下ろして項垂れた。
「大きな声を出してすみません。でも……どうしても……」
うつむき加減で、膝の上で組み合わせた自分の手を見つめながら、男は元の穏やかな調子に戻って話し始めた。
「ライカから話は聞きました。今回は無事に戻ってきたからよかったようなものの、子供に無茶なことをさせたのは確かに問題です。しかしライカを心配して捜しに行くと言った君の気持ちに嘘はないでしょう? 私だってライカがそんなものを手に入れてこられるわけがないと思う。君には悪意はなかったと、私は確信しています」
男は慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと話を続ける。
「ただ、私は初めて君と言葉を交わしたときのことがずっと気になっていました。君は“見殺しにしてくれた方がよかった”と言いました。こんな酷い差別をされる苦境の中で、希望を見失ってしまうのも無理はない。ここでしばらくまともな暮らしをすれば、気も変るだろう。最初はそう思ったのです。しかし……」
ここで言葉を切ると、男は私の顔をまっすぐに見つめた。
「しかし君の行動を見ていて思ったのです。君は“死んでも構わない”と思っているわけではない。もっと積極的に死のうとしている。違いますか?」
その違いを改めて考えてみたことはなかったけれど、確かにその通りかもしれない。盗賊団に入って無茶な仕事ばかり選んでやってきたのも、最前線で人を殺しまくってきたのも、こんな暮らしをしていれば、普通に暮らしているよりは早く死ぬだろうという期待があったからだ。そのくせ自殺するのは逆境に負けるようでプライドが許さない。自分でもわかっている。どうしようもないクズだ。
何も答えない私をじっと見つめたまま、男は続けた。
「これだって……煙草なんて呼べるような可愛い代物じゃないでしょう? ライカから全部聞きました。よほどの常用者で耐性ができていなければ、激しい毒性のために即死する危険すらあるものだと。即死はしなくても、続けていれば体も神経も精神も、全てを破壊しつくしていずれは死に向かう。知らずに使っていたわけではないでしょう?」
だからどうだと言うのだろう? 私が死んだって悲しむ人などいない。どうせ雑種には生きる価値も希望もない。むしろ私なんか死んだ方がいいのだ。悪魔にとり憑かれた醜い殺人鬼に生きる価値などあるはずもない。
「だったらどうだって言うの? あんたに関係ないでしょ? 呪われた雑種に生きる価値なんてあるの? 余計なお世話だわ」
私は鼻で笑って、さらに挑戦的な態度で、また新しい煙草に手を伸ばす。
男はすかさずその手を掴んで、それを止めた。そしてそのまま私の手を両手で包み込むようにして、自分の胸に押し当てる。
「自棄になってはいけない。雑種は……君たちは呪われた存在なんかじゃないんです」
強く私の手を握り締め熱っぽく訴える男に、私はうんざりしていた。今までに何度かこの種の活動家には出会ったことがある。歴史がどうとか種の起源がどうとか難しい話ばかりで、結局はなんの解決にもならない。
「君たちの存在は、歴史という大きな作為のために捻じ曲げられてしまった。君たちはただの被害者なんです」
ほら、始まった。
「歴史がどうとか、そんな役にも立たない話は聞きたくもないわ。ここでそんなことをいくら訴えてみたところで、この悲惨な現状が変わるとでも言うの? くだらない。こんな救護施設だって同じよ。ただ哀れんでいるだけ。こんな施しなんてただの自己満足にすぎないわ」
私は男の言葉を遮って言うと、その手を振り払った。返す言葉が思いつかないのか、男は横を向き悔しげに唇を噛んだ。しかし短い沈黙の後、男が再び口を開く。
「その通りです。変わりませんよ! 今のままでは何も変わりはしません。自己満足にすぎなくても、それでも何かしなければいられないんです! 罪もない人々が虐げられているのを、ただ見ているだけなんて辛すぎるから……」
興奮気味に早口でまくし立てる男を、私は冷たい目で見やって、ベッドから飛び降りた。そしてわずかな手荷物の入ったショルダーバッグとシガレットケースを乱暴につかみ取って、男に背を向ける。
「どこへ行くんですか!?」
すかさず男が私の手をつかむ。
「出て行くのよ! 助けたいなら“罪のない”人でも助けておくのね。私は悪名高いBloody Lion。その名の通り、血に飢えた獣よ! 悪魔そのものよ! 生きる価値もない。哀れみは必要ない。迷惑だわ」
どうせ神官になるような温室育ちのお坊ちゃまに、私の気持ちなんてわかりはしない。悪魔に魅入られたけだものの気持ちなどわかるわけもない。
再び男の手を振り払おうとしたが、男は放さなかった。
「行かせない! 生きる価値がないなんて言わせませんよ! 私が……」
男はそこで言葉を切ると、大きく息をついた。そして私の腕を引いて、まっすぐに向き合うようにする。まっすぐに私を見つめる男の瞳は、まるでその炎が宿ったかのように、ランプの光を映して揺れていた。
「私は君に生きていて欲しい。死なせたくない。私がそう願っているのに、まだ価値がないなんて言うんですか? 君は……悪魔なんかじゃない」
「私は……」
言いかけた私を遮って、男が続けた。
「君が本当に悪魔だと言うなら、どうしてハンターに追われていた少女を助けたんです?」
「別に。ただあの3人をぶち殺してやりたかっただけよ!」
「警官隊に追い詰められたとき、私と少女を庇ってひとりで切り込んでいきましたね?」
「庇ったわけじゃない。邪魔されたくなかっただけだわ」
「帰ってこないライカを心配して、探しに行こうとしてくれました」
「それは……」
そんなやりとりが続いてついに私が口ごもると、男はにっこりと微笑んだ。それからそっと私を抱きしめて、耳元で囁く。
「君は悪魔なんかじゃない。ただ自棄になっているだけです。本当に悪魔なら、苦しんだりしない。悪魔なんかじゃないから……本当は優しいから心を痛めているんです」
予想外の動きに、少しの間抗うことさえ忘れてその言葉に聞き入っている自分に気がついた。背の高い男は、私の頭の上に自分の顎を乗せるようにして、赤い髪に顔をうずめている。そしてもう一度ゆっくりと囁いた。
「君は悪魔じゃない」
そこで私ははっと我に返って、慌てて男の腕から逃れる。なぜか胸の鼓動が妙に大きく感じた。思いもよらない男の行動に、動揺を隠せない自分に腹が立つ。次の言葉を探し出せないまま、ただ俯くだけだなんて我ながら情けない。
「だから……だからなんだって言うの? 私にはこんなところで保護してもらう必要はないわ。私は自由にやらせてもらう」
やっと言葉を探し当てたものの、動揺が声に現れているのが自分でわかる。男はそれを見て微笑んだ。それから少し困ったような顔をしたかと思うと、神妙な顔で黙り込む。いったい何を考えているのかと、ころころ変わるその表情を見ていると、男はようやく口を開いた。
「それでは……私を手伝ってもらえませんか?」
「冗談じゃないわ。マリサやアベルのようにここで働けとでも言うの?」
私は即答したけれど、男は静かに首を横に振った。
「いいえ。君が言うとおり、こんな救護施設など無意味です。しかし、本当の意味で世界を変えることを……君ならできるかもしれない」
「本当の意味で世界を変える? どういうこと?」
男はまた難しい顔をして黙り込むと、意を決したように話し始めた。
「君は歴史など役に立たないと言いましたが、それは違います。歴史を知ることは、己を知るということです。君はこの世界の歴史というものをどのくらい知っていますか?」
なんだかまた難しい話を始めようとしているらしい。私がうんざりした顔をするのを見て取ると、男はそれを予想していたかのように、満足げにうなずいた。
「おそらく君が知っている歴史というのは、こうではないですか?」
それから男が語った歴史は、だいたい私が教えられたものと同じだった。
約二千年前のこと、悪魔は一匹の魔物を遣わした。魔神アンサルヴィエと呼ばれるその魔物はあまりに強大で人類には打つ手がなく、世界は滅ぼされかけていた。そのとき悪魔は言った。
「命を永らえたければ、我と契約を結び僕となれ」
それは神の禁じた行為である異種交配をして子供、つまり雑種を生み出すことだった。悪魔の力を借りて生まれてきた雑種は、その呪いのためおぞましい姿と驚異的な生命力を持っていた。そして雑種たちは悪魔の手先となり、純血を守る人類との戦いが始まった。
しかし戦いの趨勢は、あるときを境に逆転を始める。五賢者の登場だ。それまで同じ世界に暮らしながらもいがみあってきた、ヒューマン、エルフ、ドワーフ、ノーム、ホビットたちが手を組んだのだ。各人種からもっとも優れた人間が選ばれ、協力することで勝利が見えてきた。
最終的に魔神アンサルヴィエを倒すことはできなかったが、五賢者は魔神を追い詰め、地下深くに封じることに成功したのだ。しかし強い生命力を与えられた雑種は限度を知らぬように増え続け、滅し去ることができなかったのだった。
そしてその災いを忘れぬよう、五賢者は魔神アンサルヴィエを封じた地上に都を築き、教皇庁を建てて魔神と雑種を現在も監視し続けている。
「そんな話、改めて聞きたくもないわ。雑種は悪魔の僕となった者たちの末裔。生まれながらに呪われた存在だと、子供の頃から何度も聞かされてきた」
逃れようもない穢れた血筋を思うと、今更ながらに寒気がする。改めてそんな話を聞かされて、すっかり気分が悪くなった。しかしそこで男は意外な言葉を口にした。
「それが全部嘘だとしたら?」
「嘘……だって言うの?」
怪訝な顔で問い返す私に、男は力強く頷いて見せた。
「ティセル。君はこの話に出てくる悪魔とはなんだと思いますか?」
そんなことを訊かれたって、なんと答えていいのかわからない。悪魔は悪魔でしかない。私は何も答えず、ただ目で先を促した。
「答えられませんよね? 誰も悪魔の正体を知らないのです。ついでに言えば、私は神様というものもいないと思っています」
「ちょっと待って。あんた、神官よね?」
無神論者の神官なんて聞いたこともない。
「はい。ですが、私は父の跡を継ぐために神官になっただけで、神も悪魔も信じていません。ここで神の存在を論じてみたところで意味がないのでやめておきますが、これだけは言えます。歴史を作るのは神ではなく、人間だということです」
なんだかまた難しい話になりそうだ。うんざりする私の胸中を知ってか知らずか、男はますます饒舌に語りだす。
「世間には知られていませんが、歴史学者の中では有名な“闇の伝承”というものがあります。太古の昔……2千年前の大戦以前から雑種は存在していたという学説です。しかしそれを研究しようとする者は“表向きには”いません。おおっぴらに研究すれば、異端者として裁かれるからです。なぜ知ろうとするだけで異端者扱いされるのでしょう? そこには知られては困る教皇庁の秘密があるからです。歴史と言うものは……」
いい加減に我慢の限界だ。
「ちょっと待って。そんな小難しい話をされても私には理解できないわ。わかりやすく話して。私が世界を変えることができる……ってどういうことなの?」
あからさまにイライラした態度で言う私を、男は困った顔をして見つめていた。しかしひとつ大きな溜息をついてから、またにっこりと笑って見せた。
「君は歴史の話が好きではないようですね。私は好きなんですが……」
またそんなとぼけたことを言ったと思うと、すぐに真顔に戻って調子を改めた。
「私が君に頼もうとしていることは……とても危険なことです。歴史の真実を記したある文書を、ある場所から盗み出してもらいたいのです。しかしまだその文書の内容や、場所をお教えすることはできません。今情報が漏れてしまえば、もうこの計画を遂行するチャンスを永遠に失うかもしれないからです。失敗は許されないのです。君がこの計画に必ず乗ると約束した時点で教えます」
ややこしい話の上に、さらにややこしい話で、結局私の訊きたいことは何一つわからないままだけれど、これ以上ややこしい話を積み上げられるのも面倒だ。何かを盗めと言うなら、やってみてもいい。何もしなくても危険など日常茶飯事だ。
それにこの話が本当なら、高慢な教皇庁を引っ掻き回してやることができる。それは面白そうだ。
「どうせ捨てても構わない命だわ。教えて」
「いいえ。これはそんなに簡単に答えを出してもらうことではありません。それに君の体の傷が完治して、最高のコンディションで臨んでもらう必要があります。ですから君の傷が完治したら、そのときに返事を聞きたいと思います。それまでに、君にはいくつか見てもらいたいものがありますから、ここで大人しく過ごしてもらえますね?」
なんだか面倒な話になってきた。もう放り出したい気持ちと、男がここまで真剣に語る計画とやらに対する好奇心が、心の中で競り合っている。
しかし今すぐに返事をする必要もないようだし、逃亡者の身としては結界に守られた隠れ家はこの上ない場所でもある。とりあえず今のところは男の言うとおり、ここに留まることにしよう。黙って頷いた私に、男は微笑み返すと、ベッドの上に転がったシガレットケースを手に取った。
「これは私が預かっておきます。返事を聞いた後でお返ししますよ。その後でこれをどうするのかは君が決めてください」
そうして男はシガレットケースを持って部屋を出て行った。