その一
とある有名な怪異さんのお宅に世話係として派遣された藤乃のドタバタ話。
その村に入った瞬間、藤乃は「あ、これは面倒なやつだ」と思った。
山に囲まれた小さな集落だった。舗装のひび割れた一本道の両脇に、古い木造家屋がぽつぽつと並んでいる。昼間だというのに妙に薄暗く、吹き抜ける風は湿っていて、肌にまとわりつくようだった。すれ違う村人たちはみな口数が少なく、藤乃を見ると一瞬だけ目を合わせて、すぐに逸らした。
よそ者を歓迎していない、というよりは、よそ者に関わりたくない。そんな空気だった。
「……まあ、そうでしょうねえ」
藤乃は助手席の窓から外を眺めながら、ひとりごちた。
彼女をここまで乗せてきた村役場の男は、ハンドルを握ったまま、びくりと肩を揺らした。四十代半ばくらいの、やせた男だ。額にはじっとりと汗をかいている。山道に入ってからというもの、彼はほとんど口を利かなかった。
「あの、藤乃さん」
「はい」
「本当に……その、引き受けられるんですか」
「何をです?」
「ですから、その……八尺様の、お世話係を」
今さら何を、という話である。
藤乃は肩にかけた鞄の持ち手を直しながら、事務的な口調で答えた。
「求人票には『住み込み管理人』とありました」
「ええ」
「面接では『少々特殊なご家庭の生活補助』と聞きました」
「ええ……」
「契約書には小さい字で『八尺様に類する存在への日常的支援業務を含む』って書いてありました」
「はい……」
「だいぶ後出しでしたけど、まあ納得はして来てます」
役場の男は、何とも言えない顔になった。そりゃそうだろう。自分でも無茶苦茶だと思っている顔だ。
藤乃だって、冷静に考えれば断るべき案件だったとは思う。だが、給与はよかった。住み込みで家賃もかからない。前職を辞めたばかりの身としては、多少の怪異より生活のほうが切実だった。
それに、面接の担当者が神妙な顔で「どうか、どうか長く続けてください」と頭を下げてきた時点で、逆に腹が据わったのだ。そこまで困っているなら、いっそ見てやろうではないかと。
結果、山奥の村に連れて来られているわけだが。
「着きます」
男の声に顔を上げると、木々の向こうに、ひときわ大きな屋敷が見えた。
村外れの高台に建つ、古びた日本家屋だった。門は黒ずみ、塀には蔦が絡みつき、庭木は好き放題に枝を伸ばしている。人の手が入っていないのが一目でわかる有様なのに、奇妙なことに荒れ果てた印象は薄かった。むしろ、何かがここに“居続けている”せいで、下手に崩れることも許されていないような、不自然な整い方をしている。
車が門の前で止まった。
エンジンが切れると、あたりはしんと静まり返った。鳥の声すらしない。風に揺れる木々のざわめきだけが、遠くでさわさわと鳴っている。
「……ここです」
役場の男はそう言ったきり、まるでこれ以上門に近づきたくないとでもいうように、ハンドルを握りしめていた。
「案内は?」
「無理です」
「即答ですね」
「無理なものは無理です」
切実だった。
藤乃は小さく息をつき、シートベルトを外した。
「わかりました。じゃあここで」
「す、すみません……! 本当にすみません……!」
なぜか泣きそうな顔で謝られながら見送られ、藤乃はひとりで門をくぐった。
足を踏み入れた途端、空気が変わった。
生ぬるい。けれど背筋だけがひやりと冷える。耳の奥で、誰かの吐息のような音がした気がした。
ぽぽぽぽ、ぽ。
低く、湿った声が、風に混じって落ちてくる。
藤乃は足を止め、顔を上げた。
屋敷の二階。雨戸の半分閉じた窓の隙間から、白い何かが覗いている。長い黒髪。異様に白い顔。そこから伸びる首は、ありえないほど高い位置にあった。
――ああ、いる。
思ったよりしっかりいるな、と思った。
「はじめまして。今日からお世話係として参りました、藤乃です」
とりあえず挨拶をしてみる。
窓の隙間の白い顔が、ぴたりと止まった。
ぽぽ……。
ひどく間の抜けた声がした。
「藤乃と申します。これからお世話になります」「…………」
「聞こえてます?」
「……供物が足りぬ」
「は?」
初対面の第一声がそれだった。
窓の向こうの白い顔が、すうっと消える。次の瞬間、どたどたどたどた、と二階から何かがものすごい勢いで駆け下りてくる音がした。怪異にしては足音がうるさい。
玄関が、ばん、と開く。
そこに立っていたのは、白いワンピースに大きなつばの帽子を被った、長身の女だった。見上げるほど背が高い。白粉を塗りたくったような肌に、黒々とした長髪。口元だけがにたりと弧を描いていて、噂に聞く怪異そのものの姿をしている。
だが、その手には空になった菓子袋が握られていた。
「供物が足りぬ」
「それ、まさかおやつのこと言ってます?」
「かっぱえびせんが尽きた」
「供物のスケールが庶民的すぎるでしょうが」
藤乃のツッコミに、女――おそらく八尺様は、心外そうに目を細めた。
「何を申す。あれは美味い。やめられぬし止まらぬ」
「怪異が企業努力の結晶に屈してるんじゃないですよ」
「昨夜のうちに最後の一袋を開けた。チョコもない。せんべいもない。プリンも切れた」
「買い溜めしてた駄菓子を食い尽くした報告をされても困りますが」
「故に、供物が足りぬ」
言い切った。誇らしげですらある。
藤乃はしばらく無言で八様(八尺様では長いので八様と呼ぶことにした)を見上げた。見れば見るほど、見た目だけは本当に怖い。薄暗い玄関先に立たれると、それなりに迫力がある。夜道で出会ったら卒倒する自信がある。
しかし言っていることは、ただの買い食いの在庫切れだった。
「……確認しますけど」
「うむ」
「私は八様のお世話係として来ました」
「そうであるな」
「初日の業務が買い出しなんですか」
「うむ」
「せめて屋敷の説明とかないんですか」
「後でもよい。今は供物が先だ」
「完全に駄目な雇い主だな……」
八様は帽子のつばの下からじっと藤乃を見下ろし、それからふいに唇を尖らせた。
「あと、炭酸も欲しい」
「増えた」
「しゅわしゅわする桃のやつ」
「銘柄指定まで始めた」
「それと、ぽてとちっぷすの薄塩」
「言い方だけ不気味ぶるのやめてもらえます?」
「ちょこれいとも要る」
「発音どうしたんですか」
八様は、す、と顔を寄せてきた。
ぞっとするほど白い顔が目の前に迫り、帽子の影の奥で、暗い目が細められる。
「買うてこぬなら」
一瞬だけ、空気が変わった。
ひやりとした冷気が足元を這い、玄関の奥の闇が不自然に濃くなる。耳の奥で、ぽぽぽ、と低い声が重なった。さっきまでただの残念な大女だったものが、唐突に“そういうもの”へ戻る。
「夜ごと枕元に立つ」
ぞくり、と背筋が粟立った。
なるほど、こういう脅し方をするのか。さすがに怪異である。
藤乃は数秒だけ黙ってから、にこやかに言った。
「買ってきますので、現金ください」
「…………」
「まさか無銭で行かせる気ですか」
「財布の場所がわからぬ」
「初日から世話の解像度が高すぎる」
八様は気まずそうに視線を逸らした。さっきまでの不気味な圧はどこへ行ったのか、帽子のつばを指先でもじもじいじっている。
「たぶん居間のどこかにある」
「たぶんで済ませるな」
「この前、座布団の下から千円札が三枚出てきた」
「生活が杜撰すぎる」
藤乃は空を仰いだ。
山の上の屋敷。閉鎖的な村。得体の知れない怪異。普通なら恐怖に震えてもおかしくない状況だ。だというのに、実際に始まろうとしているのは、どう考えてもポンコツ家主の家計と生活環境の立て直しだった。
転職先を間違えたかもしれない。
いや、かもしれないではない。かなり間違えている。
「とりあえず、財布探します」
「おお」
「あと屋敷の台所と風呂と洗濯機の場所を確認します」
「うむ」
「お菓子の在庫も見ます」
「頼もしいのう、藤乃」
「その代わり、八様」
「なんだ」
「今日中にゴミの分別を覚えてください」
「……それは供物の後でもよいか?」
「駄目です」
ぴしゃりと言うと、八様は露骨にしょんぼりした。
見た目だけなら人を呪い殺せそうな怪異が、ゴミの分別を言い渡されて肩を落としている。
藤乃はその光景を見て、思った。
たぶんこの仕事、思っていた方向とは別の意味で大変だ、と。
そしてその予感は、おそらく当たっている。




