08_ここはどこ?
ヒンヤリした風が頬を撫でた。
遠くで獣の鳴き声が聞こえてくる。
(ここはどこ。)
頬に当たる冷たい石の感触にディジーは目を薄く開いた。
「リチャード、気がついたみたいだよ。」
頭上からエドの声が降ってくる。
少し離れた場所からコツコツと靴音が響いてきた。
ディジーはガバッと身を起こした。
そして周囲を見回す。
そこには床にペタンと座り込んで心配そうに自分を見つめるエドと、懐中電灯を片手に近づいてくる教授の姿があった。
天井から薄く光の射し込むこの部屋は広さが30畳くらいだろうか。
「ここはどこ。」
「さあ。僕が目を覚ました時はもうここにいたから。
でもあの地下室じゃないことは確かだね。」
「そんなの見れば分かるわ。」
そう言ってディジーは自分の頬を抓る。
「痛いということは夢じゃないのね。」
コクンとエドが頷くと後ろに振り返った。
「リチャード、何か分かった。」
教授はゆっくりこちらに近づいて来る。
「ああ、少しは。ところで。」
二人の側にくると地に片膝をつき、ディジーの様子を見つめた。
「ミス須藤、体の調子はどうかね。」
「ちょっと体の節々が痛いけど、大丈夫です。」
自分の姿を見回し、そう言ったところでディジーは地下室の最後の瞬間を思い出した。
六芒星の台座の上に刻まれた奇妙な文字を教授が解読し、それを口にした途端周囲が光り出してここへ飛ばされた。
ディジーは正座し、詰問調で問い掛けた。
「教授、少し分かったと言いましたけど、どうしてこういう事態になったかきちんと説明してくれるんでしょうね。」
教授は困ったような表情で首を横に振る。
「説明しようにも私にもよく分かっていない。」
「ちょっと、どういうことです。」
声のトーンが半オクターブ上がった。
「ディジー、怖いよ。」
エドが横から服の袖を引っ張る。
「僕もリチャードに聞いたんだ。そうしたら。」
ディジーの形相にエドは首を竦めた。
「そうしたら。」
「申し訳ないが、最初の行を読み始めてからここで目を覚ますまでのことはよく覚えてない。」
教授は済まなそうに頭を下げた。
3人は人気の無い小部屋に移動し、現状把握のため、互いの情報確認を始めた。
どうやら最初に意識を取り戻したのは教授だったらしい。
気がつくと見知らぬ神殿の中にいて、近くに二人が倒れていた。
そこで近くにいたエドを揺り起こし事情を聞き、気を失って倒れているディジーをエドに任せて周囲を調べに出かけた。
「それでここは一体どこなんです。」
「壁面に描かれているレリーフが正しいとすればここは古代エジプトのデイル・エル・バハリの神殿だ。」
「エジプトですって。
私、パスポート、部屋に置いてきたわ。」
ディジーの言葉に教授は静かに言った。
「パスポートが有ってもここでは役に立たない。」
「どうして。」
「ここは古代エジプトだ。
それもハトシェプト女王在位中かその直後の。」
「どうして分かるんです。」
その言葉に教授は小部屋の向こう、大広間のような部屋の正面の壁面に懐中電灯の光を向ける。
「あのレリーフが見えるかね。」
「ええ。そういえば妙に新しい気がする。」
「あのレリーフの下にハトシェプト女王への賛美が刻まれている。」
ディジーはそれがどうしたのかと視線で問い掛けた。
「現代の神殿にはそれは削られている。」
「誰がそんな酷いことを。」
「トトメス三世だ。」
トトメス三世って誰だったっけ。
最近間違いなく聞いた覚えがあるんだけど。
「彼はハトシェプト女王の後を継ぎ古代エジプト第18王朝のファラオとなった人物だ。
後を継ぐという言い方は正しくないがね。」
「どういうことです。」
「先王、トトメス二世が死んだ時、王位を継いだトトメス三世はまだほんの幼児だった。
それ故に先王の妃であったハトシェプト女王が摂政として22年間上下エジプトを支配したんだ。
トトメス三世は女王の死によってファラオとしての実権を手に入れた訳だ。」
「それで。」
「トトメス三世がファラオとなった時、彼には王として振る舞うだけの年齢でもなく、実力もなかった訳だから、彼女が摂政としてファラオのように振る舞うのはまだ許せるだろう。
だが彼女は22年間、実質のファラオであり続けた。
子供の頃は兎も角、成人して一人前の大人になった後も子供扱いされては面白くないだろう。」
「それで女王を讃える文字を削り取った。」
「そうだ。」
「なんて度量の狭い奴。」
その言葉に教授は口元に手をやり、確かにと呟いた。
「逆に言えばそれだけハトシェプト女王が偉大なファラオだったということだよ。
そうでもしなければ新王が自らのアイデンティティを保てないほどの。」
「単に器が小さいだけじゃないの。」
ディジーの問いに教授は訝しげな表情を見せる。
「ミス須藤、エジプト史の講義を受けたことは。」
ちょっと考えてから答えた。
「特にない。」
「では、トトメス三世がどんな人物かは知らない訳だ。」
何となく不審そうな口調にディジーは聞き咎める。
「何か問題でも。」
「いや大したことではない。フランスは古代エジプト研究のメッカだからね。
この分野のバイブルである『エジプト誌』はナポレオンのエジプト遠征の成果をまとめたものだ。
過去の重要な文献の大半はフランス語で書かれている。」
「で、私が当然知っていると思った訳ですか?」
呆れ顔のディジーに教授は微かに頷く。
「フランスのことはフランスにいる人間が一番よく知っていると思うのは間違いであるということを忘れていたよ。」
教授の苦笑に、ディジーは頭を掻いた。