02_出会い
「須藤菊音さんですね。」
背後から声を掛けられた。
慌てて振り返ると背の高い精悍な青年が立っている。
(この私の背後を取るなんて。一体何者なの。)
ディジーは子供の時から父親に少林寺拳法を習っている。
生まれつきの運動神経と勘の良さに加え、少林寺を通じて磨かれた感性は鍛え抜かれた軍人というより武人のそれに近い。
今までそれが可能だったのは彼女の父親ぐらいだった。
故にこの年齢25~26歳、銀髪碧眼のロシア人のような青年が流暢な日本語を使った事実に気がつかなかった。
「はいそうですが。貴方は。」
「ランカスター家から迎えに来ました。どうぞ乗ってください。」
青年は足下の荷物を持って歩き出す。
その先には黒いリムジンが止まっていた。
何時の間に。
ディジーの座っていたベンチは道路に面していて周囲に視線を遮るものはない。
それなのに、人の気配はおろか車の接近さえも気付かなかったのだ。
(何か変だ。)
ディジーはこの仕事に妙な胸騒ぎを覚えた。
しかし、それも仕事が終わった後、手に入るであろう給料の重さと好みの異性を前にして朝露のごとく消えていった。
ランカスター家の別荘は、駅から車で2、3時間の山の麓の鬱蒼とした森の中にあった。
御丁寧にも周囲に堀を巡らした吊り橋付きの中世の御城である。
しかも尖塔が一つ、聳えるように立っている。
イワンという名の青年は軽い自己紹介の後、一言も口を開くことなく、ディジーを玄関前で降ろすと車庫の方へ消えた。
「私にどうしろというのよ。」
一人取り残されたディジーは暗闇に消えたイワンの後ろ姿に向かって恨めしそうに呟いた。
初めてのバイト先で快適に過ごす秘訣は、第一に情報収集である。
それを信条にディジーは今まで例え一日の単発バイトでもそれなりの情報収集を怠らない。
しかし、今回は勝手が違った。
まず始めに、大学での採用面接。
この場で詳しい仕事内容と相手先の家族構成等を聞き出さなくてならない。
しかし、教授が聞き上手だったのか、簡単な仕事の説明の後、気がついたら教授の秘書が呼びに来るまで過去の武勇伝を披露していた。
その後、採用通知が着いてから休みに入るまでの間、何度か教授とコンタクトを取ろうとしたのだが、学会の準備で忙しいと教授の秘書に追い返されている。
それ故に、ここまでの道中、勤め先のことやら仕事の内容やらいろいろ聞こうと思ったのだが、
・・・
道中2時間、仕事に関する話は向こうに着いてからの一点張り。
世間話以上の会話は成立しなかった。
住み込みで働くというのに館の構成人員さえ掴めていない。
(不味い状況ね)
採用面接にしても学生課の話では現地で2次面接が行われたという話だったがそれも無し。
直前のバイトが馘になったのも唐突。
その少し前まで夏季休暇中のシフトの話をしていたのだ。
元同僚にディジーが居なくなって大変という愚痴を聞かされている。
(ここで引き返した方が良いかもしれない。)
そんな予感を覚えていた。
ここでじっとしていても埒があかないので仕方なくビクトリア風の庭園を横目に階段を上る。
玄関の前に立ちライオンの形をしたノッカーに手を触れる。
が、その直前で、すっと奥に引っ込んだ。
「須藤菊音さんですね。」
頭上から硬質な声が降ってきた。
「はい、そうですが。」
思わず日本語で答え、はっと気付く。
ここは北アイルランド、どうして日本語が。
そう言えばイワンも日本語を使っていたのような気がする。
「わたくし、当家の女中頭を務めるシャーロッテ・シュバルシュタットと申します。」
目の前の女性はディジーを頭の天辺からつま先までじろじろと見回し、納得したように一二度頷く。
(嫌な感じ。)
どうも自分の知らないところで何かが動いている様な気がする。
ロッテはディジーに身振りで付いてくるように伝え、スタスタと歩き出す。
ディジーはその後を追いながら、このロッテと名乗る背の高い鷲鼻の中年の女性に理由もなく反感を持った。
大体、今時古風なメイド服の似合う女なんてろくなもんじゃない。
これで白髪の執事なんて出てきたら完璧じゃない等考えていたら、
・・・!!!
その絵に描いた様な小柄な執事と、その隣に12~14歳くらい、淡い栗色の髪の少年が好奇心むき出しの瞳でこちらを見ている。
「おや、そちらが須藤さんですか。」
「ええ、菊音、こちらが当家の執事のセバスチャン殿。」
ディジーは白髪頭の老人に頭を下げた。
(この人、どこかで会った・・・。)
勿論、初対面の筈である。
だがどこかで会った、そんな気がしてならない。
どうもそれは老人の態度に理由がありそうだった。
「この人が新しく入るメイドさんなの。」
気が付くと少年はディジーの服の端を掴んでいた。
「エドワード様!!」
セバスチャンとロッテの両方から耳元で怒鳴られ、ディジーは耳を押さえた。
エドワード様と呼ばれた少年の方は慣れているようで、未練たらしく服の端を放すと顔をディジーの方へ向け、ニコッと微笑む。
(天使みたい。)
口にするとどうも陳腐だがそういう表現しか出てこなかった。
ロッテが気を取り直し、軽く咳をする。
「菊音、こちらは当家の主、サー・エドワード・フェアフォックス・ランカスター様。
エドワード様、彼女が今日から働いてもらう須藤菊音です。菊音挨拶しなさい。」
言われなくてもちゃんとしますよ。でもどうしてみんな日本語なんだろう。
内心の呟きを胸に菊音は出来る限りの笑顔を顔に浮かべる。
「初めまして、須藤菊音です。よろしく御願いします。」
「僕はエドワード・ランカスター、よろしくね、ディジー。
そうそう、これからは僕のこと、エドって呼んでね。」
ちょっと待て、ここに来てから一度もその通り名は使っていない。
なんで知っているの。まさか教授が。
「エドワード様、使用人にそんなに親しくする必要はありません。
それはそうと今日の御勉強はお済みでしょうね。」
ロッテの言葉に、エドは少し舌を出し、そっぽを向いた。どうやらやっていないらしい。
「そうですか。ではリチャード様が御戻りの際、叱って頂くことにしましょう。」
余所を向いていたエドは満面笑みを浮かべて、勢いよく振り返り、
「リチャードは何時、戻ってくるの。」
と、聞いた。
その様子に半ば呆れながらディジーは、
リチャードってもしかして教授のこと。
そう言えば、学生課のおっちゃんが実家がこっちの方だって言ってけど。
一体どういう関係なんだろ。
等考えていた。
「ロンドンで行われる学会が終わってからという御話ですから来週の半ばにはこちらに御帰りになられることでしょう。」
「ふーん。今度は何がテーマだったんだろう。帰ってきたら教えてもらおうっと。」
「エドワード様、祈祷の御時間です。」
それまで黙っていた執事が口を開く。
そうしでしたねとロッテが頷き目線でエドを促した。
エドはというとこの場に未練があるらしく、暫くぐずぐず何か言っていたが渋々執事に連れられて奥の部屋へと消えた。