着替え
たった今、仕事を終えて帰ってきた。
帰路の坂道は足取りが重く感じられた。上司に説教をされ、同僚には陰口を言われ、御局様には嘲笑をもらう始末。居心地のいい環境ではない。
だから今日、事務所に辞表を叩きつけてやった。こんな所は本日付でおさらばだ。清々する。
革靴も靴下も脱ぎ捨て、玄関を後にして廊下を歩き、扉を開けてからリビングのソファに近寄って、頭からダイブする。優しく受け止めてくれたクッションには、自分の体重だけでなく疲労も全てのしかかっているだろう。脱力はできたが、だらけてしまうのは許してもらえるだろうか。物言わぬ物だが。
起き上がって、ネクタイもスーツもシャツもズボンも全て脱ぎ、まとめてゴミ箱にぶち込む。もう必要のないものだ。次の仕事は既に決まっているのだから。
数日前に、海外のオークションサイトから買い叩いた高額な商品に、有り金全部を注ぎ込んでいる。家賃、光熱費、水道料金、生命保険、年金、借金、ローン…………あらゆるものが払えなくなるが、もはやどうでもいい。
これから俺は、俺自身を殺す。
買ったものは、昨日のうちに届いている。だが中身を確認する前に、身体を洗って身を清めることにした。
シャワーを浴びて、全身を洗い流す中で、俺という存在ごと下水道に流れ落ちてくれないかと足元を見るが、拳も通らないような狭い穴に何を言うかと自分で苦笑した。
身体を拭いて全裸のまま風呂場を後にし、いよいよもって商品の入ったダンボール箱を開ける。
カッターの刃でテープやバンドを切って出てきたものは、煩雑に畳まれた状態の、肌色の物体。広げてみると、女性の人体を模した薄っぺらな着ぐるみのようなものが、細かなパーツと一緒に出てきた。
喉を唸らせながら生唾を飲み込むと、早速それを着てみることにした。
首元辺りから背中に沿って尻にまで到達しているファスナーを開けると、一度ソファに座ってから片足ずつ中に通していく。
内部の体感温度は少し冷たく、しかも通したところから徐々に全身に密着している。タイツやストッキングの要領で下半身を履き終えた時には、綺麗な素肌に対して骨格が物騒な女性の足が、男性である自分のものになっていることに、鼻の下と膝関節を伸ばした。
同時に、何十年と見慣れた股関節の突起物が、直立するどころか陥没して割れ目になっている光景に、いささかながらも寂しさを覚えた。
続いて同じように、両腕を中に通していく。これも本来の骨格が浮き彫りになってしまい、無骨な大きさの掌に対してきめ細かい肌ツヤとのギャップに笑った。
そしてファスナーを首元まで引き上げると、垂れていた乳房の重量が一気に肩に押し寄せてくる。下からすくい上げるように両手で持ってみると、柔らかく弾力のある感触がめいっぱい伝わってきた。
すると突然、首から下の全身全てが一斉に軋み出して激痛が走り、俺はその場で倒れる。のたうち回りたくなる衝動を抑えてどうにか堪えていると、やがて落ち着いていつしか痛みはなくなっていた。
サイドテーブルを支えにしてどうにか立ち上がると、世界が変わって見えた。
高身長だった自覚がある元の背丈より、明らかに頭一つ分は縮んでいる。また、鍛えていたわけではないが明確に大きかった骨格も細くなり、手足は先程と打って変わって今にも折れそうなくらいである。
また、付け根の部分に空洞が感じられた乳房は、完全に血の通った自身の肉体としての感覚となり重量感が増した気がする。逆に、骨盤が広がったのか大きくなった臀部や、腹部前方寄りに感じられる異物感から、もはや元の肉体ではなくなったのだと自覚する。
そして、箱の中からもう一つの大きなものを取り出す。箱に近寄るための歩く動作や、直後にしゃがんだままの流れでそのまま女の子座りの姿勢を取ったことなど、一挙手一投足に女性感を覚えずにはいられない。
それは、長い髪の毛を有する女性の顔の造形をした被り物。目と口元、鼻の穴に相当する部分には穴が空いている。
向かい合うようにして顔の前に持ってくると、今からこの顔になることを想像して興奮冷めやらなくなってくる。
もはや我慢の限界とばかりに、俺は持ち直しつつ髪の毛が食い込まないように垂らすと、一思いに頭から勢いよく被った。
目や口の位置を調整しつつ、肌に密着してくる冷たい感触に浸る。完全に被り終えた時には、顔だけやや大きな女性が姿見の中に映っていた。苦笑いを浮かべた直後、胴体と同じように頭部にも激痛が走り、少し置いてから同じようにまた止んだ。
改めて姿見を覗くと、その向こうには俺が理想とする女性が全裸で、驚愕の表情をしてこちらを見ていた。
その女性はしばらく無言で顔を触ったり、頬をつねったり、髪の毛を指でツインテール風にしてみたりした後に、気味の悪い笑みを浮かべて鏡の世界から姿を消した。言うまでもなく俺自身だが、さすがに最後の笑い方は自分でも引いてしまう。気持ち悪いと。
それから俺は、本格的に行動を起こした。
部屋中のものを乱雑に倒し、壊し、散らしていく。植木鉢も、電化製品も、日用品も、ゴミ箱の中身も関係なく。
続いてあらかじめ用意しておいたローションを部屋中にぶちまけ、粘液の一部を身体にも塗りたくる。
その後、錠剤の媚薬を噛み砕き、アルコール度数の高い酒を一気飲みして酔っ払う。
最後に、ギリギリの理性のままスマートフォンを起動して、警察に通報しながらスピーカーをオンにして準備を終えた。
それからは、溢れ出る性欲のままに理性をかなぐり捨てて自慰行為にふけった。
これを聞いた警察官たちは、電話の向こうから聞こえてくる嬌声と、この後この部屋にやって来て状況を把握してから盛大に勘違いしてくれるだろう。
知らない男の家で一人の女性が強制わいせつ行為をされているのだろう、と。
◇
記憶が混濁してる……何も思い出せない……
誰かが呼んでいる……その格好は、警察の人……?
寒い……誰か温めて……お願い……
「良かった……他にお怪我はないですか? 消えた男の行き先に心当たりは?」
「わかりません……あの……一ついいですか……?」
毛布を持ったその人に、思い切って質問をした。
「わたしは……どこの誰でしょうか……?」