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家系ラーメン

作者: さば缶

 仕事が終わると、いつもふらふらと足が向いてしまう店がある。

横浜家系ラーメンの看板が眩しく光っていて、どうにも一杯食べてから帰らないと落ち着かない。

「いらっしゃいませ、今日もお疲れ様です」

明るい声が飛んできて、思わず顔を上げる。

そこには目がくりくりして、笑うと優しそうな雰囲気のお姉さんが立っていた。

この店には他にも店員さんがいるのに、なぜか彼女ばかりが目につく。

声をかけたくても、うまい言葉が出てこない。

ラーメンが好きだというだけなのに、彼女の顔を見るたびに胸がどきどきしてしまう。


 チャーシューの香ばしさが漂うカウンターに座り、食券を渡し注文を伝える。

「醤油、ほうれん草トッピングで」

「はいっ、了解です」

元気な返事を聞くと、それだけで嬉しくなる。

ふと見ると、彼女は忙しそうに動いていた。

麺を湯切りするスタッフに声をかけたり、お客さんにお水を運んだりと、休む暇もなさそうだ。

それでもカウンター越しに目が合うと、申し訳なさそうに微笑んでくれる。

「すぐにお持ちしますね」

その言葉に「ゆっくりで大丈夫ですよ」と返すと、彼女はまた忙しそうに店内を回っていく。

そんな姿を眺めていると、こっちまで元気を分けてもらえる気がした。


 やがてどんぶりを持った彼女が戻ってくる。

「お待たせしました。

醤油、ほうれん草増しです」

「ありがとうございます。」

そう言いながら、箸をつける。

熱々のスープをすすれば、独特の濃厚な味わいが舌に広がる。


 いつもは食べ終わったら、さっと会計を済ませて帰るだけだった。

でも、この日はなぜか言わずにいられなかった。

「ごちそうさまでした。

……ラーメン、美味しかったです」

彼女は少し驚いたように目を丸くして、それから弾けるような笑顔を見せた。

「わあ、ありがとうございます。

作ったかいがありますね」

その笑顔を見た瞬間、胸がきゅっと締めつけられるように感じた。

「い、いえ。

本当に美味しくて、何度でも食べたくなります」

不器用な言葉だったかもしれないけれど、彼女は嬉しそうに「また来てくださいね」と言ってくれる。

そんなやりとりをするだけで、明日も頑張ろうと思えてしまうから不思議だ。


 だが、その後しばらく仕事が忙しくなり、残業続きで帰りが深夜になってしまった。

気づけばあの店へ行く余裕もなく、通勤路のどこかで深夜営業の弁当を買って急いで帰る日々が続く。

「そういえば、しばらくあのラーメン屋に行ってないな」

ある朝、出勤前にそう思い、急に彼女の笑顔を思い出してしまう。

会いに行きたいと思っても、夜遅くにはもう店も閉まっている。

もどかしい気持ちを抱えながら、俺は仕事をこなすしかなかった。


 数週間ぶりにようやく早めに上がれた日、迷うことなく足はあのラーメン屋に向かった。

暖簾をくぐり、店内を見渡すと、お姉さんがカウンター越しに立っている。

しかし、何だか彼女の表情がぎこちない気がした。

気まずそうな表情の彼女を見て、もしかして俺のことをストーカーみたいに思っているんじゃないかと、不安がよぎる。

黙っていたら、彼女が微笑んでくれた。

「最近見かけなかったから、どうしたのかなって、ちょっと心配してました」

「そ、そうだったんですね。

……よかった。

また来られて嬉しいです」

すると、彼女ははにかんだような表情で「こちらこそ嬉しいですよ」と言ってくれた。


 ドキドキする胸を押さえながら席に座り、ラーメンを注文する。

彼女はいつものように明るい声でオーダーを通し、他の客にも気配りをしながら手際よく動いていた。

料理が出来上がり、どんぶりをカウンター越しに差し出してくれる。

「お待たせしました。

お仕事落ち着いたんですか」

「うん、やっと少し楽になったから、また寄らせてもらいます。

……お姉さんに会いに」

思い切ってそう言ってしまってから、恥ずかしくなって顔が火照る。

彼女は一瞬驚いたようだったが、すぐに笑って「ありがとうございます。

そう言ってもらえると頑張れます」と返してくれる。

周りのお客さんの視線が気になって、LINEを聞くなんて行動はとてもできなかった。

それでも十分だった。

彼女と話せたこと、またこの店に来る理由を素直に伝えられたことが、すごく嬉しかった。


 その日以降も、少しでも早く仕事が終われば寄ろうと心に決めていた。

だけど残業が続くときは行けないこともある。

何とか時間を作ってはあのラーメン屋に足を運び、彼女に「こんばんは」と声をかけた。

彼女も「いらっしゃいませ、今日もお疲れ様です」と元気に答えてくれる。

それが俺のささやかな幸せになっていった。

けれど、ある日から彼女の姿が見えなくなった。

最初は休みなのかと思ったが、何日経っても戻ってこない。

「もしかして、バイト辞めちゃったんだろうか」


 悲しい気持ちはあるけれど、彼女にどうして辞めたのか、連絡先はどこなのか、なんて追及する勇気はなかった。

あまりしつこく尋ねたら、本当にストーカーみたいに思われるかもしれない。

彼女が笑顔で働いていた姿を思い出すたびに、なぜもっと踏み込んだ会話をしなかったのかと悔しくなる。

だけど同時に、あの何気ないやりとりがあったからこそ、ほんの少しの幸せを味わえたんだとも感じる。

「またふらりと戻ってくる可能性だってあるよな」

そんな希望を抱きながら、俺はいつもと同じ席に座り、いつもの醤油を頼む。

どこか物足りない気がしても、麺の湯気だけは変わらずに上がっていた。


 結局、それから何度通っても彼女の姿を見ることはなかった。

新しく入った店員さんが挨拶してくれるたびに、彼女の声ではないことに気づかされて、少しだけ胸が痛んだ。

店を出るとき、ドアガラス越しに街灯の光が揺れているのを見つめる。

「もう会えないのかな」

そう思いながら帰路につく日々が続いた。


 それでも、ふと街のどこかで彼女に出会えないかなと期待してしまうことがある。

歩道を歩く人の中にくりくりした目の女性を見つけると、つい足を止めてしまう。

でも振り返ったその顔は、まったく別の人だったりする。

「仕方ないよな」

そう言い聞かせるしかない。

あの笑顔や明るい声は、俺の中では今も鮮明に残っている。

「いつか、もし偶然会えたら……」

そう考えながら今日も仕事を終え、横浜家系ラーメンの店の前を通り過ぎる。

暖簾の向こうに、もう彼女の姿はない。

けれど、いつかどこかで再び出会えたらいい。

それだけを願いながら、俺は人混みの中に紛れて歩き出した。

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