第一章 第三話
ここのところ晴天続きだったこの村にも分厚い雲が垂れこめてきて、農作物にとっては恵みとなる雨が降りそうだった。天気予報では夜に降るらしいが、この村ピンポイントの予報ではないので、予報の上に、おそらく、の注意が必要だ。予報が当たるなら、僕が学校から帰宅する時間には降り始めているので、やっと日の目を見る防水服の話をした。
ダブリューマン? そう、ダブリューマン。最近は工事現場のだけじゃなくて、街で着るようなデザインのも売ってんだよ。いや、それは知ってる、僕はリュウがそれを持ってることに驚いだんだよ。学校が決まったときに、原チャリで通うごどんなっぺ、それで買っといだんだ、やっと出番だ。備えあれば憂いなし、か。水のはじき方、すげえぞ。雨にばっか気ぃとられで、原チャリのハンドル操作、間違えないでよ。そればあちゃんにも言われだ。
坂道を下りながら、僕たちは夏の坂道と言えばあの曲ってくらい人気の歌を、下手くそだけど大声で歌って笑った。トモ、知ってっか? この歌の歌詞って、十一月に創られたんだって、本当は秋空なんだってよ。そうなの? でもこないだジュニジュニが冬空だって言ってだよ。それは盛ったんだよ、夏のこの歌が冬に創られでだってほうが、よりユニークだっぺ、ほんとは秋、十一月。そうなんだ。
下りで風を切るのが気持ちのいい季節になったのだとあらためて実感し、上りではチャリを押して歩いていった。金持ちってのはなんで高台に家を建てたがるんだろう。答えは見晴らしがいいから、景色がきれいだから、地価が高くて、結果、金持ちにしか買えないから。そんなことをしゃべったり黙ったりしながらチャリを漕いでいって、僕んちからニ十分くらいだろうか? 金持ち屋敷が見えてくる。
「着いたね」
「うん、着いた」
金持ち屋敷は塀に囲まれているうえにぐるりと木々が息吹いており、門のところからしか中を窺うことはできない。僕たちは門の前でブレーキをかけた。
「リフォームの工事中だ。……工事中? 合ってる?」
「合ってんじゃない? 言いたいことは伝わってる」
「ほんとに来るんだな、金持ち。ほんとに外国人なのがな」
「どうだろうね。管理人さんでもいれば、話聞けただろうけど、いないみたいだし」
「いや、管理人さんがいても、プライバシーにかかわることは教えてもらえないだろ。それ以前に、管理人さんって知り合いか? そんな気さくに話しかけられんのが?」
「うん。いや、知り合いじゃないけど、世間話でしょ、今度の金持ち、どんな人って」
「できんのか。その人付き合いのうまさがうらやましいよ」
「ここで休んでたら、来るかもよ、ロールスロイス」
「じゃあ、少し、待ってみっか」僕はロールスロイスはすでに車庫に停まっているかもしれないと思ったのだけども、来るか来ないか、あるかないかが重要ではないので、何も言わなかった。チャリを降りて塀沿いに駐輪し、トモと並んで地べたに座った。金持ち屋敷は南向きに建てられている。こんな田舎に金持ち屋敷を遮るほどの高さの建物などあるはずもなく、日差しは望むままに受けられる。今は窓を開け放って、業者がリフォーム工事をしているのが見られる。門も当然、南側にある。門の近くに座るということは、つまりは日差しを受ける日向に座るということだ。だが、六月の午前中だが太陽は雲の向こうにいて、うっすらと丸い輪郭がここにいるぞと言っていた。半袖で心地のいい気温で、僕たちはチャリの籠のバッグからジュースを取り出した。
十分ばかり、僕たちは口を利かなかった。それはよくあることなので、僕は気にも留めなかった。トモはあくびをして、塀にもたれかかった。僕は眼下に広がる民家の屋根や田んぼや畑なんかをただただ眺めていた。でもそれが十五分、二十分、二十分となって、何のために座っているのか忘れてきたときに、唐突にトモの眠気が吹き飛んだ。
どうした? とも。この状況で申し訳ないんだけども。何? 言っていいよ。トイレに行きたくなった。その辺でしちゃえよ、立ちしょん、立ちしょん。違う、大きいほう。それは一大事だな。かなりの勢いでノックしてきてる。それは一大事だな。
「あ」
「え!」
「いや、それは嘘」
「そんな嘘つくなよ。いや、嘘でよかったけどよお。家までもつか?」
「意地でももたせる。でも立ちしょん勧めるのもどうかと思うぞ」
最悪は名前を名乗ってどこかの家でさせてもらおうという結論になって、サドルにまたがった。そこそこの広さだが人口の少ない村だから、世間は狭い。じいちゃんばあちゃんの顔見知りとか、家のお得意さんとかが点在するのだ。片道二十分くらいの道程を体感で五分くらいで帰ったのだが、その間に何回か、トモの我慢メーターが振り切られそうになり、後日、小学生ならまだしも、二十歳になって大を漏らしそうになるなんて、でも小学生だったら青空の下でしてたよ、よく我慢できた、いい仕事したよね、僕。と涼しい顔で語ることになるのだが、その最中は限界が近いのか坂道がしんどいのか、汗を顎から滴らせながらの苦悶の表情でチャリを漕いだり押したりで、僕は頑張れとかあの家に駆けこもうか? とかとか言いながらトモの肛門周りの筋肉を励ました。友達がお漏らしをするとこなんて、誰も見たくなんてないのだ。家に着いた五秒後にはトモはトイレに駆けこみ用を足して、難を逃れた。ベンチに座った僕たちの遠くには、いつのも山並みがあった。
それから先、金持ち屋敷の話題は何度かのぼりはしたが、初戦は夏の間だけいる金持ち一家のことであって、今までも村人の僕たちと交流を持とうとする金持ちは、いるにはいたがごく少数でいないに等しく、この村では当たり前で珍しくなんてなく、自然、僕たちは興味を失っていった。リフォームが終わったらしいというニュースを聞いても、そういえばそんなことも前に言ってたな、あっそ、くらいにしか思わなかった。
その日、僕はばあちゃんの手伝いをした後、テレビを見ていた。本屋の仕事は、意外に思われるかもしれないが結構な重労働で、八十からまりのばあちゃんひとりでは大変なのだ。店番を買ってでたのだけど、
「いいがら。テレビでも見て休んでな」
とばあちゃんが笑うので、テレビを見ながら、誰にも知られることのない失恋の傷を癒していた。わざわざ報告するべき理由もないし、慰められるのも不愉快なので、これはトモにも話してはいない。男一匹、傷を抱えて生きていく、なんてのは大袈裟だけど。
テレビでは、僕の興味をひくような番組は放送されてはおらず、僕は冷めて、勉強でもしようと立ち上がり自分の部屋に行こうとしたタイミングで、店にお客さんが来た。ばあちゃんの声の感じでは、ばあちゃんの友達が遊びに来たわけでも、ありがたいお得意さんが来たわけでもないような、そんな声色だった。だから僕は、失礼というか非常識であるとわかってはいたけど、聞き耳を立てた。お客さんは男性だった。それも比較的若い声をしていた。具体的に何を話しているのかはわからなかった。かろうじて聞き取れたのは、お客さんが何か言った後の、ばあちゃんの焦っているような返答だった。それを聞いて、何なんだ? ただごとではないぞ、と僕はますます耳をそばだてた。いっそ店に行ってみようかとさえ思った。そのうちに話が終わったらしく、ばあちゃんの、ありがとうございました、が聞こえた。その後で僕を呼んだ。その声で、なんかあったんだとわかった。
「どうした? ばあちゃん」
「来てみろ、リュウ。これ、見でみろ、ほれ、これ」
ばあちゃんが突き出したのは、一枚のメモ用紙だった。
「なんだがでっかい立派な車止まったど思ったら、若い、暑いのにスーツ着た男の人が来て、本、注文してったんだ。ほら、これ。お屋敷の人間だって自分で言ったんだ。本、入荷したら電話すっから電話番号、それと住所書いでって言ったら、書いでくっちゃ。取りに来っから配達はしないでいいって言うんだど」
ばあちゃんは興奮していた。ばあちゃんにとっては、金持ち屋敷に住むような人種は雲の上の存在で、田舎者が初めて東京の地を踏むことや、テレビの向こうの芸能人と会って高揚するのと同じようなものだった。メモ用紙を受け取って、見た。
御子園 ちより
住所と携帯電話の番号の下に、そう書かれていた。メモの字は男性のもので、さっき来たお客さんも男性のはずなのに、名前は女性のものだった。それにしても、御子園ときたか。いかにも金持ちという名字で、ドキッとした。僕も知らず知らずのうちに高揚していたのだ。村にやってくる金持ちはやっぱりどこか神秘的で、ここに住む僕たちにとっては別世界の住人そのものだから、それは仕方がないと言えた。金持ちだからってそれがどうした、と思っていたはずなのに、名前だけであがっている。生まれてからずっとこの村で過ごしてきた僕も、十二分に田舎者なのだった。コンタクトをとってきた相手が金持ちってだけでひれ伏してしまうこの田舎者気質。笑えてしまう。
「今度の金持ちは御子園さんって言うんだ。なんにしてもいいべよ。おきゃくさんなんだがらよ」
「お屋敷の人がうちに本、注文しに来んのなんて、初めでだあ」
ばあちゃんの目はらんらんとしていた。でも、僕だって平静ではなかったはずだ。
メモ用紙に書かれていた本のタイトルから察するに、大学生くらいの人が読むのだろうから、と頭の中で金持ち一家の家族構成を考えながらメモ用紙を返して、僕は自分の部屋に行った。
昼飯休憩のばあちゃんと入れ替わりでレジの前に座ったのが十二時半になる前で、外出から帰って来たトモがうちに駆けこんできたのが一時過ぎだった。
自動ドアが完全に開ききる前に、体を横にして入ってきての第一声がこれだ。
「ロールスロイス、来たんだって」
「うん。来たよ」とこともなげに返事してやった。
「どんなだった? 髭はやしたおっさんだった? 指前部にごつい宝石したおばさんだった? お付きの人は何人いた? 道歩くときに赤い絨毯転がした?」
「金持ちのイメージが貧困すぎだっぺ。ばあちゃんが接客したがら、僕は見てないよ」
「なんだあ、知った顔して。結局知らねえんだ。じゃあ、いいや、帰る」
「でも本注文するのに連絡先書いてもらった。名前も書いてあるよ」
「教えて」
「どうすっかなあ。お客さんのプライバシーか軽々しく言うのもなあ、どうかと思うしなあ。店の信用問題になってくるしなあ。言うに言えねえよなあ」
「わがったよ。聞かない。僕が間違ってだ。帰るよ」
「でも本取りに来る日に、僕と一緒に店にいたら、必然、会えるよな、金持ちに」
「いいの?」
「配達はしなくていい、連絡もらったら取りに来るって、言ってった。本が入荷したその日じゃなかったとしても、取りに来る日とおおよその時間はわがっからな」
「ありがとう、やっぱリュウはいいやつだ。待って、アイスおごる」
「うん」
もしも溶けたアイスが本の上にポタリ、なんてことになったら一大事なので、僕はいつものベンチに座ってトモを待った。パラソルを開いているとはいっても、七月の昼の日差しは容赦なく、冷房の効いた店内にいた僕の体はすぐに汗ばんだ。カップのアイスと銀色のスプーンを受け取って、お客さんのいない間に、アイスが溶けてしまう前にと、僕たちは無言で食べた。夏休みを控えた子どもが笑っていた。