第一章 第二話
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「しっかしこごはいづ見でも立派なお屋敷だなや」
「んだなや」
「おららが子どもの頃がら、変わんねえで建ってるもんな」
「んだなや」
「んでも、庭の木。これは変わったど。何代が前の人が植え替えだがらな」
「んだなや」
「おらの家、何戸ぐらい入んだっぺな。どうやったらこだな家、建でられるほど、稼げんだっぺな」
「んだなや」
「おらがこんな家に住むには、大黒様に頼まねば駄目だな」
「んだなや」
「こんだげ広い庭だど、子どもも喜んで遊ぶべな」
「んだなや」
「……庭の手入れ、今も大谷さんがやってんの、知ってっか?」
「知ってるよお。月に一回は庭と家ん中、掃除してんだっぺ」
「月に二回だ」
「そうげ。こんだげ広いど大変だっぺなあ。人手もかがるしな」
「でもその分、儲がってんだっぺ。汗流さねど、稼げねえ」
「んだなや」
「今は誰も住んでねえよな。最後にこごで人見だの、いづだ?」
「いづだっぺなあ? 出だり入ったり、出だり入ったりだもんなあ」
「ああ! 冬だ、冬、冬。スキーやりに来たんだっペ。そうだ、そうだ」
「この村じゃ、夏の登山と冬のスキー、春の桜と秋の紅葉が稼ぎどぎだもんなあ」
「稼ぎどぎかあ。冬って去年だっけが、一昨年だっけが。んじゃあ、行ぐがい」
「行ぐべ」
「おお、車、車。ほええ、おら知ってんど。ロールスロイスっていうんだ、これ」
「お屋敷に、また新しい人が来るんだってな。醤油とって」
「そうなんだ。誰に聞いたの? はい」
「俺は大谷さんから聞いたって聞いた」
「不動産屋の?」
「そう。夏に間に合うように、リフォームするんだって」
「また? 何年か前にもしなかった? リフォーム」
「まるっとやるわけじゃないって言ってたげど、金持ちのやることはわがんねえよ」
「僕、学校の帰りに見たことない車、見たよ。黒くて大きくて高そうな車」
「私も見た。金持ち屋敷から出てきた。金持ち屋敷に何人か、人がいたよ」
「じゃあ、本当だったんだ、あの話。どうせまた夏の間だけ、なんだっぺな」
「そりゃ本宅にはしないべよ」
「こうやって村に金落としてくれるだけでも、ありがたいっちゃありがたいけどな」
「東京の人が珍しいからって、見に行ったり周り囲んだりして迷惑かけちゃ駄目なんだからね。田舎者だって嗤われちゃうんだから。恥ずかしいでしょ」
「はい」
「はい」
「別に東京って限ったわけじゃねえべ。大阪かもしれねえし、福島にだって金持ちはいっぺよ。外国人かもしれねえし」
「外国人!」
「そう、外国人。英語でこんにちははハロー。知ってる?」
「うん」
「知ってる」
「あら、外国人だからって英語とは限んないべよ。ドイツ語かもしれないし、今は中国の金持ちが日本に別荘買いに来るって、テレビでやってたわよ」
「そうか。そうだな。中国語でこんにちはは何か、知ってる?」
「知らない」
「私知ってる。ニーハオ」
こんな会話が、晩飯時の久澄村のいたるところで行われていた。次の金持ち屋敷の持ち主が外国人かもしれないという噂の出どころは、この家族だった。
*
おばあちゃん、いる? ああ、こんにちは、ええ、いますよ、ばあちゃん、お客さん。あらあ、こんにちは。こんにちは。ばあちゃん、僕が店番するから、上がってもらって。いいのげ、んじゃあ、そうすっかい、上がってって。お邪魔します。どうぞ、ゆっくりしてってください。
昨日より風が少し強いくらいで、また快晴のこの村で、僕がトモとまた何を話すでもなくベンチに座っているとばあちゃんの友達が来て、僕は表からばあちゃんに声をかけて、お客さんを中に勧めた。店番と言っても、レジの前でじっといもしないお客さんに注意をはらうのは馬鹿げているので、また僕はベンチに腰掛けた。
トモは子どもの頃から変わらず好んでいるコーラを、キャップをして傍らに置いた。ふうと一息つくものだから、それに続けて何か話すのかと思わされたのだが、また黙った。だから僕も、んんっと咳払いをして何か話すのかと匂わせてから、黙った。ちらりと見るとトモと目が合って、数秒後、僕たちは吹き出した。
「学校はどう?」トモの声は年齢よりも幼い。
「慣れた」ひとうなりして考えてから、僕は答えた。「最初はやっぱ緊張したからだと思うげど、下痢止めの薬なしじゃ学校行けなかったげど、最近はそうでもなぐなった。いや、最近ってほどでもねえが? いや、まあ、最近は最近か。前にも言わねがったっけ?」
「言った。楽しい?」
「楽しいって聞かれて楽しいって即答でぎるほど楽しぐはねえげど、まあ、つまんなぐはねえがな」
「そう」そう言ったトモは笑顔で、山並みを見ていた。
「まあ、二十歳になって高校一年生じゃ、カッコもつかねえげどな」
「いや、リュウが一歩踏み出したのは、僕は嬉しいよ」
トモの声に風が重なって、僕は最後のほうを解読するのに時間がかかった。こういう照れ臭いことをさらっと言ってのけられる、トモはそういうやつだ。
僕はごちゃごちゃになった頭の中を整理して何か言おうと思ったのだけど、言葉は容易には出ず、その事情もわかってくれているトモに、沈黙という返事をしてしまった。それを破ったのは、僕ではなかった。
「リュウ、ちょっと明るぐなったっぺ。自分で思わない? 前より昔みてえ」
僕の頭に大きな疑問符がついた。少しの間考えてみても、自分ではわからないという結論に達したので、黙りこくっているよりもと、逆に尋ねた。
「明るぐなったがなあ?」
「うん。前よりは、だげど」
そう言われても、とは思ったのだけど、トモが言うならそうなのだろうと思えるのは、長年の付き合いのなせる業だ。
僕は二度、三度とうなずいて、山を見た。一昨日も、その前も、なんにも変わらない、山並みだ。時を重ねるごとに少しずつ少しずつ変わっている、僕らの村の、何千年も変わらない、山並みだ。少し緑が濃く見えたのは、きっと気のせいだ。僕に調子を合わせたのか、トモも黙った。風が強く吹いた。
「リュウ、正直に答えてよ。好きな子、できた?」
口を開いたと思ったらそんなことを言い出すので、僕はわかりやすく泡を食った。
「できたんだ」
「彼女探しに学校行ってるわけじゃねえんだがらな。からかってんだろう」
「……」
「できたよ」
僕は白状した。年頃の男の子が、かわいい子を見て恋愛感情を抱くのは、至極当然だ。トモは、やっぱりか、と笑った。なんだよ。リュウのことだがらそうだと思ってだんだ、どこまで進んだの? ねえ、リュウ? 目をキラキラさせて、トモは明らかに僕をからかっている。それでも腹は立たない。進むも何もただちょっと気になってるだげだよ。そう答えて、もうおしまい、と断言した。トモはやっぱりにこにこしながら、それでもそれ以上追及はしなかった。あるいは、また次の機会に、なんて考えているのかもしれない。
そうしてまたふたりでベンチに座って、山並みを眺めて過ごしていると、トモの家のほうにお客さんが来た。商品を買いに来たほうのお客さんだ。トモはいらっしゃいませーとお客さんを店内に入れて、仕事を始めた。僕はひとり、ベンチでペットボトルのキャップを開けた。トモが僕に立ち入ったことを聞いてきたのだから、僕もトモに立ち入ったことを聞いてもいいのだろうか? その辺の距離感は微妙で、計りかねている。友達だからとてうかつには聞いてはいけないのかもしれないし、こんな風に考えこんだりしないで軽く言っちゃえば、大山鳴動して鼠一匹、みたいに話せるようなことなのかもしれないけど、僕の学校話より、それは重いのだ。
トモは高校を卒業してから、一度、就職している。今は家のスーパーの手伝いをしているのだから、どういういきさつかは言うまでもない。
笑って聞くのが友達か? 触れずにおくのが友達か?
この答えを一年以上出せないでいる僕の脳裏に居座る、悪口雑言マンが言う。うじうじと言いたいことも言えない根性なし。男のくせにみっともない、情けない、カッコ悪い、恥ずかしい。反論ならできる。それはもう烈火怒涛の如く。でもしない。それはできないからだ、頭の中だけでしか。苛立つのは誰に対してか?
のどを潤して、僕はまた庇を見た。スーパー、紛うかたなくそう書かれている。スーパーから連想するのは、アメコミで金字塔を打ち立てたヒーロー、エスーマンだろう。エスーマン、存在するわけがない完全無欠の男。だからみんな渇望する。僕は彼のようになれるだろうか? 目を閉じ鼻から息を吐いて、僕は山を見た。わかってる、馬鹿げてるってことくらい。
そうして時間を無駄にしていると、ガラガラガラチリンチリンチリンと音がして、じゃあ、またねトモ君。はい、ありがとうございましたー、とトモがお客さんを見送った。シニアカーが小さくなっていくと、空にしたコーラのペットボトルをごみ箱に捨てて、トモはベンチに戻って来た。答えが出るのはまだ先だ。僕は黙り、トモも黙った。でもその沈黙は重苦しいものではなく、誰にでもある会話の間、インターバル、その間が、他の人たちよりも若干長いという、ただそれだけのものであって、気まずい感じなどはまったくないのだ。僕は僕で何かを思い、トモはトモで何かを考えている。それだけだ。それに、長年の付き合いになると、言葉を交わさなくてもわかりあえるような、一緒にいるだけで満たされるような、そんな関係もある。そう、あるのだ。僕とトモもその域に達しているのだろう。昔の僕が今の僕よりおしゃべりだったとしても、前の僕が今の僕より無口だったとしても、わかりあえる。そんな関係をなんて言うか、知ってるかい?
「ねえ、リュウ」
二の句を言わないので、僕の返事待ちか、とわずかに慌ててから、ん? と言った。
「リュウは偉いね。学校に行った。次のステップに踏み出した。僕は駄目だ」
「駄目なんかじゃねえよお。トモにはトモのペースがあんだし、それは人と比較してどうこう言うような問題じゃねえべよ」
へへ。文字に起こすとそうなる声を漏らして、トモは笑った。そしてまた黙った。キジバトがどこか近くに止まって、独特なリズムで鳴きだした。
さて問題です、あのキジバトは、いったいなんて言ってるでしょうか? 今晩カレーだがら明日の朝もカレー確定。ははは。それで学校の給食もカレーだったら最悪だ。ははは、カレーあるあるだ。あのキジバトは、実は怒っています、何があった? え、僕? もちろん、トモの番。……そのプリン、僕がとっといたやつだよ! 食われちゃったんだ。そう。ははは。ははは。
「そうそう、金持ち屋敷に新しい金持ちが来るの、知ってる?」
「いや、知らない」僕は身を乗り出した。乗り出して考えて、はっと閃いた。「こないだのロールスロイス。あれ、あれがそれだったの? もしかして」
「そう、もしかして。今度の金持ちは外国人らしいよ」
「マジげ」
「噂の上では、だげど」
「いや、でも待でって。外国人が来るなら、金持ち屋敷の管理人、外国語で応対したって言うのげ? それはちょっと無理あっぺよ。いや、金持ちが通訳連れてきたってごどが? いや、金持ちだがらってそれはねえべよ。あんのがなあ?」
「今度見に行ってみっけ? 金持ち屋敷。でも今のうちから屋敷に来んのがなあ? 普通は観光のシーズンだけ、なんだげど。今度の金持ちは今がら住むのがなあ? 今六月なんだげど」
この後、僕たちはそれぞれの家族との会話で、金持ち屋敷に金持ちが来るのは例年通り学校が夏休みになってからだと知った。でも金持ちが外国人だという噂の真偽までは、わからずじまいだった。ばあちゃんが言うには、昔この村に金持ち屋敷を建てたのは外国人だったらしい。僕はそれを聞いてから、以前にも聞いたことがある、と思い出した。思い出した恩は学校に行く前だったので、まだ時間に余裕があったのだけど、トモのほうに余裕がなかったので(夕方は稼ぎ時なのだ)、僕たちがそれを話したのは次の陽が昇ってからだった。僕の運転が危なっかしいという理由で、車ではなくチャリで、金持ち屋敷の様子を見に行くことになった。それに、稼ぎのない僕はマイカーというものを持ってはいなくて、じいちゃんばあちゃん用の車は仕事と足とでどうしても必要なのだ。どの道、チャリ一択だったのだ。ばあちゃんに店番を代わってもらって、僕たちは漕ぎ出した。