2話
その「希少な存在」に初めてあったのは、今から10年前で、私が5歳だったころ。
その頃、近所に大好きだったお爺さん幽霊がいた。お爺さんは、入院後三ヶ月もしてからは誰も見舞いに来てくれず、死に目に駆けつけてももらえず、葬式すら単調で義務感の滲むものだったという事から「家族に死を悲しんでほしかった」「気にかけてもらいたかった」とよく言っていた。
本格的にお爺さんの悪霊化が目前となり、そのまま、親でさえ幽霊が見える私を気味悪がって話してくれない中私の相手をしてくれたお爺さんがいなくなること恐れた私は、あろう事か思いっきりお爺さんの地雷を踏み抜く慰めの言葉をかけてしまった。
「わたしは、おじーさんがユーレイになってくれてうれしかったよ。だって、おじーさんが死ななかったら、わたし、おじーさんとあえてないもん。
わたしとはなしてくれるの、おじーさんしかいないから、まだいなくならないで」
「私にはお爺さんが必要なんだよ」そう伝えたかっただけなのに、言葉選びを間違えてしまった。
きっと、意識が混濁気味だったお爺さんには前半しか聞こえておらず、「死んでくれて嬉しい」と受け取れたのだろう。「おじーさんしかいない」は、聞こえていなかったのだろう。
お爺さんは、そのまま悪霊に堕ちてしまった。
当然、お爺さんに真っ先に狙われたのは私だった。
呪い殺さんとばかりに呪詛を吐き、鬼のような形相で追いかけられる。
とっさに逃げ出したが、体力という概念すら無い幽霊と身体が成長しきっていない幼女では、当然幽霊に軍配が上がる。
逃げた先は行き止まりで、既に引き返す事ができるような距離もない。
「もうダメだ」そう思った。
でも、いつまで経ってもその時は訪れなくて。
不思議に思って、恐怖で閉じていたまぶたをこじ開け、そっとお爺さんの様子を伺った。
でも、目を開けた私の視界に、お爺さんらしき存在を認める事ができなかった。
代わりに、高校生くらいの少年がいた。
その少年は、蹲って半泣きだった私に声をかけてきた。
「こんな所でどうしたの?もしかして、迷子?」
目線を合わせるように屈み込み、そっと頭を撫でられた。
人の体温に触れた私は、緊張が緩み、堪えていた涙が溢れてしまった。
「うぅ、ふぇ…ひっく……ぅわーん!」
そのまま、少年に縋るように抱きつくと、頭上から困惑しきった声が聞こえた。
「ぅえっ!?ど、どうしたの!?なんか怖いことあった!?…あ!緊張緩んだ感じ?
……えーと…。よ、よしよし?」
ぎこちなく、おそるそろる頭に手が乗せられ、撫でられる。
その手の温もりに、だんだんと心の波が凪いでいくのを感じた。
しばらくして泣き止んだ私に、少年が質問を投げかける。
「僕は杉山 敏悠。君は何て名前?どうしてこんな所で蹲ってたの?」
「わたし、太田 美香。
あのね、わたしね、おじーちゃんにげんきになってほしくて『ミカは、おじーちゃんがユーレイになってくれてうれしいよ。だって、おじーちゃんがいないと、わたしひとりぼっちになっちゃうから』っていったの。
そしたらおじーちゃん、おっかなくなって、わたしのことおっかけてきたの。こわくてにげて、いきどまりにきちゃって、『もうダメだ』っておもったら、おにーちゃんがはなしかけてきたの。
……おじーちゃん、いつのまにかいなくなっちゃってた。
…おにーちゃん、おじーちゃんはミカのせいでおこらせちゃったから、あやまんないとなんだけど…おじーちゃん聞いてくれると思う?ああなっちゃったユーレイさん、ミカがはなしかけても、きいてくれないでおっかけてくるの。まえにつかまっちゃったことがあったけど、しばらくおねつでて、おみみのところで『コロシテヤル』とか『ノロッテヤル』ばっかりいうの。
……おじーちゃんも、わたしのせいで、そういうユーレイさんになっちゃったのかな?もう、おはなししてくれないのかな?
………また、ひとりぼっちになっちゃうのかな?だーれもはなしてくれないいつもに、もどっちゃうのかな?」
そこで一度言葉を区切る。話している間に、だんだんと俯いてしまっていたらしく、視界には地面と敏悠さんの靴しかなかった。
「…えっと、ミカちゃん、でいいかな?ミカちゃん、そのお爺さんにはお兄さんが謝っておいてあげるから、大丈夫だよ。でも、もうそのお爺さんみたいな人に話しかけちゃダメ。ユーレイって、生きてる人を一緒に連れて行こうとしちゃうんだ。連れて行かれると、二度とお母さんやお父さんに会えなくなっちゃうよ。それは嫌でしょう?」
普通なら、『気持ち悪い』と吐き捨てられるような事を告げたのに、敏悠さんは当たり前のようにそう返してきた。一切詰られなかったことが無性に嬉しかった。その時、素直に敏悠さんの言葉に理解を示すべきだと分かっていたけれど、
「でも、おかーさんもおとーさんもわたしとおはなししてくれないし、たまにごはんくれないときもあるの。そんなおかーさんたちにあえなくなっても、ミカ、イヤじゃないもん。それならわたし、おじーちゃんみたいなユーレイさんとはなしてたいよ」
と、反抗してしまった。怒られるかも、と敏悠さんの様子を伺うも、なんだか難しそうな顔をするばかりで怒っている様子はない。ひとまず、詰めた息を吐き出した。
「…ねえ、ミカちゃん。もし、僕が『友達になって』って言ったらOKしてくれる?」
少しして、決意を込めた瞳でこちらを見た敏悠さんが言った。
「ともだち?…うん!いいよ!わたし、おともだちできるの、うまれてはじめて!」
その瞳を、幼い頃の私はあまり気に留めずにそう返した。
敏悠さんはあからさまにホッとした表情になり、
「そっか。…友達になってくれてありがとう。ミカちゃん、これからは僕が話し相手になってあげるから、ユーレイさんと話しちゃダメだよ?そしたら、僕と二度と会えなくなっちゃうからね」
と言った。
私は、神妙な表情を作って頷いた。
後で知ったことだが、その時の敏悠さんは、丁度祖父の葬儀帰りだったらしい。なんとなく、持っていたお清めの塩の効果や敏悠さんの祖父を悼む気持ちでお爺さんの幽霊は成仏したのだと今の私は考えている。
それから、敏悠さんが高校を卒業するまでの約2年半(出会った季節は秋)、私達は共に過ごした。高校生が部活を終えるまでの時間に外出は幼稚園生には不可能なので、土日に3時間ほど雑談をする程度の仲でしかなかったが、それでも十分に幼い頃の私は救われた。
今思えば、私は刷り込みに近い形の恋を、敏悠さんにしていたのかもしれない。憧れや親愛の交じった、恋に恋するようなふわふわした感情を、抱いていたのかもしれない。
敏悠さんは、どんなに自分が困っていても他人を優先してしまう、自己犠牲精神の強い人だった。だから、近所の公園で話に付き合ってもらっているときに転んだ子供や喧嘩している子供を見ると「ごめんね」と一言断ってそちらに行ってしまい、会っていた3時間中、実際に私の相手をしてくれたのは30分に満たないことすらあった。
そんな敏悠さんを独占するべく、わざと浮遊霊に声をかけて気を引いたこともあった。
本来は親や仲の良い友達やお気に入りの保育士さんに分散される、子供特有の独占欲を一身に受けた敏悠さんは、それを向ける私をどう思っていたのだろうか。
高校卒業と同時に一人暮らしを始め、街を引っ越してしまった彼に聞ける日は来ないだろうが、今でも想い続ける彼を思い出す度、気になってしまう。
11歳差の実らない初恋。それを未だ、12歳の頃の私は引きずっていた。幼い頃のような顔を見る度心臓が跳ねるような感覚はなくなっていたが、別の女性がそばにいる事を考える度、胸が僅かに切なく軋む程度には。
優しくとも特別を作らない分、好意を寄せる相手には残酷と言える敏悠さん。
大学卒業後に一度実家へ帰っていたらしく、私が中1の頃に近所を歩いていた時、道端で声を聞いたことがあった。
「私の事、本当に好きなの!?」
ヒステリックな女性の声に次いで、
「なんでそんなこと聞くんだい?」
と、『訳がわからない』と言いたげな声音で告げた、聞き覚えのある男性の声。
すぐに、敏悠さんだと分かった。約4年の年月が過ぎても、好きな人の声を聞き違えるわけがない。
「『なんで』ですって?貴方、本当に女心がわからないのね。……もういいわ。別れましょう」
敏悠さんは、特別を作っても知らない人を気にかけるのをやめない。私もそれに随分と振り回された。敏悠さんの彼女も同じで、今日、とうとう痺れを切らしてしまったのだろう。
「ああ、変わってないんだな」と微かに喜ぶと同時に、なんだか燻っていた感情が薄まったのを感じた。それはきっと、11歳の壁を越えたとしても、一番にしてくれない彼に痺れを切らし、彼女と同じように逆上して別れることになるのがわかったから。
その時を境に、実らない初恋は私の中で完全に終わった。
………筈だった。
ありがとうございました。