001 デイドリーム・オンライン
これは竜胆陽菜からの受け売りだ。
二〇三〇年代後半から市場に登場したダイブ型VRMMOは、失敗と言わざるを得ない。発売した当初はあまりに高額なため、一部の高所得者が興味本位で手にするか、もしくは廃課金者が借金をしてまで購入するというトラブルまで発生した。高額で売買されるため、盗難も相次いだ。
そして、二〇四〇年代に入るとようやく価格も安定し、質も保証されたダイブ型VRMMOが出回り始めた。若者から高齢者まで、ゲームに興味のあるものは我先にと、こぞってプレイを楽しんだ。各種メーカーは競って新作ゲームを開発し、ダイブ型VRMMOは一家に一台とまで言われるほどになった。まさに、ダイブ型VRMMO戦国時代である。
そして、二〇五〇年四月一日。
満を持して一つのダイブ型VRMMORPGが発売された。
そのタイトルは<Daydream Online>。
発売発表があったのは、そのちょうど一年前。二〇四九年四月一日のエイプリルフールであった。
制作メーカーはダイブ型VRMMORPGの最大手で、数々の名作を世に送り出した<Devil Devil Devil>。
当時既に世界中のユーザーを魅了していた<Devil Devil Devil>社製のダイブ型VRMMOはある告知をした。現在稼働中のダイブ型VRMMO専用ゲームのサービスを終了して、一年後全く新しいダイブ型VRMMORPGを発売すると言うのだ。
全世界のネットワークを通じて伝えられたこのニュースは、当初エイプリルフールのジョークとして世間は受け取った。だが、翌日になっても<Devil Devil Devil>社のホームページや、各ゲームの公式サイトからそのアナウンスは消えず、発売日までのカウントダウンが表示される始末。次第に真実味を帯びてきた。やがて半年後には当初の宣言どおり、<Devil Devil Devil>が提供しているダイブ型VRMMOの全タイトルがサービスを終了し、更に半年の沈黙の後…………<Daydream Online>は発売された。
発売されるや否や、半信半疑だった大半のユーザーは度肝を抜かれた。広大なマップとそのグラフィックの精度。そこに暮らす人々の人間より人間らしい立ち居振る舞い。もはやAI――人工知能――は人間を越えたと言わしめた。
数日前の俺はまさか<Daydream Online>をプレイするなんて夢にも思わなかった。
Daydream――――白昼夢と名付けられたそれは、俺にどんな夢を見させてくれるのか。今は楽しみで仕方がなかった。
***
二〇五〇年七月七日。
俺、九重大河は眠い目を擦りながら、布団をかぶり直した。目覚ましのアラームに気づかず、母さんの声で覚醒したが無視して瞼をきつく閉じる。
そして、
「だ、か、らっ、二度寝するなっての!」
竜胆陽菜に、頭まで覆った布団を無理矢理引き剥がされた。部屋のカーテンは全開にされ、朝の日射しが俺の目と脳を刺激する。
ゆっくり目を開けると、制服を着た陽菜が腰に手をあてていた。ポニーテールがゆらゆらと揺れている。
「……陽菜か。いやいや……どうして陽菜が俺の部屋に?」
クラスメイトの陽菜が、平日の朝っぱらから俺の家にいる。戸惑いから完全に目が覚めてしまった。
「おはよう、大河くん」
「お、おはよう」
理解が追いつかない。確かに最近この陽菜とは親しくさせてもらっている…………わけがなかった。
見上げると三つ上の姉が腕を組んで、訝しげな顔で俺を睨んでいた。
「目、覚めた? 顔がニヤけていたわよ。よっぽどいい夢を見てたのね。……ところで、ヒナって誰?」
「姉貴……!」
血の気がすっと引いていくようだ。寝汗で肌に張りついたTシャツの嫌な感触とともに完全に目が覚めた。
一生の不覚。俺は会話らしい会話もしたことのないクラスメイト――竜胆陽菜に起こされる夢を見ていたらしい。それをよりにもよって姉貴に見られるなんて。
対して俺を見下ろす姉貴は、いいものを見せてもらったと言わんばかりにご満悦だ。
また一つ姉貴に弱みを握られた。
「もしかして彼女?」
「は? 別にどうだっていいだろ」
俺の返事ににっこり笑うと、姉貴は開け放たれたドアの向こうにあるリビングにいるであろう母さんに聞こえるように言った。
「ねぇ、お母さーん。大河がねー」
「……頼むからやめてくれ」
朝から散々な目に遭った。
姉貴から俺の寝言を訊かされた母さんに、彼女ができた疑惑について追及された。面白がった姉貴は芸能人に直撃するリポーターのように、「大河さん、ヒナさんとはどういう関係ですか?」などと茶化してきた。
同席していた父さんは無言を貫いていたが、話が気になるのか時折俺と目が合った。
俺は急いで支度を済ませると、朝食も摂らずに家を飛び出した。
起床時間はいつもとほぼ同じだが、朝食を抜いた分だけ時間に余裕ができた。
俺はいつもよりゆっくりペダルを漕いでいた。
今日も日射しはきつく俺の肌を焼いていく、ものの三分で腕から汗が滲み出すのが見えた。
「なんで、竜胆の夢なんか見たんだろう」
うちの高校で一番の美少女と評判の竜胆と俺には何の接点もない。単なるクラスメイトただそれだけだ。
俺はクラスの有象無象の一人で、竜胆は謂わば学校のアイドル的存在だ。恋愛感情がないと言えば嘘になるが、TVに出ているアイドルを応援するような気持ちだ。いや、そこまで俺は熱心ではないか。
俺は今朝の夢を頭から追いやると、校門をくぐった。
教室に着くと、朝のホームルームまで少し時間があった。視界の端に女子同士で会話している竜胆の姿を捉えるが多少の気まずさがあり、あえて見ないようにした。
俺が自分の席に座ると、クラスメイトの島本が声をかけてきた。同じ中学出身で、高校二年の現在に至るまで五年連続同じクラスの腐れ縁というやつだ。
黒縁眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、俺の前の席に後ろ向きで腰かける。
「おっす、九重。お前どこまで進んだ?」
「なんだよ唐突に。なんの話?」
「<DO>に決まってんじゃん。で、今レベルいくつ?」
「<DO>? レベル? ごめん、意味不明」
俺の反応を見て島本は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔になる。逡巡してから頷くと、手を合わせて俺に頭を下げた。
「わりぃ。九重は<Daydream Online>やってなかったんだっけ」
「ああ……なんだゲームの話か」
<Daydream Online>。略して<DO>か。
ここ数ヶ月学校ではその<DO>の話題で持ちきりらしい。休み時間ともなると、こぞってその話になるのだという。どこそこの町に到達しただとか、ジョブがどうのこうのって話を延々繰り返しているようだ。
俺はゲームに興味はなかったので、島本の話を聞き流しながらカバンから読みかけの文庫本を取り出して読み始めた。年季が入っているので表紙はかなり傷んでいる。
「九重ぇぇぇ。聞いてんのかよ? せっかく人が面白いゲームを勧めてやってんのによぉ」
どうやら島本の話は<DO>の進捗確認から、俺に勧める方向にシフトしていたようだ。
俺は文庫本の文字を目で追いながら軽くあしらう。
「ハッハッハ。ごめんごめん。勧めてくれていたのか。途中から聞いてなかった」
棒読み口調で言うが、それで怒るような仲ではない。
「おぃぃぃ。あ……そう九重がいつも読んでる小説みたいな世界なんだぞ。それでも興味ないってか?」
島本は俺が手にしていた文庫本を指して「どうなの?」という感じの表情で見つめてくる。
「俺の読んでいるコレと同じ?」
「ああ。その小説は九重の親父さんのだっけ? それもご多分に漏れずファンタジーものなんだろ?」
「そうだな。こういうジャンルの本が家には山ほどある」
読書好きの父さんの書斎には数え切れない本が並んでいる。そのほとんどが所謂ライトノベルというやつだ。父さんが学生時代にはもの凄く流行っていたらしい。俺は幼い頃からその本を読んで育った。なので実際にその手のゲームをプレイしなくても、なんとなく雰囲気はわかるつもりだ。
今読んでいるのは<追放された俺は世界最強のハズレスキル使いだった ~勇者パーティーに追放された俺は、ハズレスキルと笑われた実は万能スキルで世界を無双してざまぁする~>というタイトルだった。
「そういったファンタジーの世界観が好きなら、プレイする価値は充分あるんだけどなぁ」
「ゲームは時間がかかりすぎるし、それに高いだろ? そのDOって定価いくらするんだ?」
「一万いくらだったかな」
「高いよ。確かVR用のヘルメットがいるんだったな。それ込みの値段なのか?」
「んなわけないだろ。起動用のソフトの値段だよ。あと課金要素もあるから、俺なんてもう三万も使ってるよ」
「最初に一万払って更に課金まであるのか。合計四万も……お前大丈夫か?」
「俺なんて全然少ないほうだぞ。社会人なんて遊ぶ金持ってるからな。月に何万も課金してるぞ。もちろん無課金でプレイするやつも多い。念のためな」
そんな金があれば本が何冊買えるか。それに今俺の財布の中にはなけなしの八千円しか入っていないので、<DO>を購入するのは無理な話だ。
俺は懐事情から<DO>に手を出せないと断ったが、クラスメイトは不敵な笑みで交渉を持ちかけてきた。
「実は先月、懸賞で<DO>が当たった」
「へぇ、凄いじゃないか」
「ああ。でも俺は既に<DO>を持っている。そこで<DO>未経験の可哀想な九重に、これを一割引の九千円で譲ってやろう」
「だから高いよ。タダならもらうけど」
「誰がタダでやるか。それならゲームショップで売るわ」
それがいいだろう。いくらで売れるか相場を知らないが、人気ゲームなのだから八千円くらいにはなるのかもしれない。俺に九千円で売れるなら、そのほうがいいと思ったのだろう。そして、その金で島本は課金するんだろうなぁ。
「本当に<DO>しないのか? そうか……残念だなぁ。陽菜ちゃんとの接点を作るチャンスだってのによぉ」
「は?」
不意に島本の口から竜胆の名前が飛び出した。しかも『陽菜ちゃん』て……今朝、夢の中で呼び捨てにしていた俺にはツッコむことができない。
しかし、どういうことだ? <DO>と竜胆になんの接点があるというのだ。
気づけば俺は文庫本を閉じていた。
そんな俺の様子を見てクラスメイトは畳みかける。
「噂レベルだが、陽菜ちゃんも<DO>をプレイしているみたいだ」
「嘘つけ。竜胆はゲームしないタイプだろ」
そんな噂があったのか。
竜胆が学校でゲームの話をしているのを見たことがない。いつも一緒にいるのは男三人女三人の仲良しグループだ。所謂クラスでもカースト上位に君臨するグループだった。当然ゲームの話題など皆無。そんな竜胆がゲームなんて……。
島本が言うには、<DO>のゲーム内で竜胆と同じ容姿のアバターをクラスの何人かが目撃したらしい。<DO>では自身のアバターを好きな容姿に変えられる。つまり現実世界と瓜二つにすることも可能なのだそうだ。
「ということは、他人が竜胆の容姿を真似ることもできるんだろう?」
「……まぁ、そうだけど。そんなこと言ったら楽しみが半減だぞ」
なるほど。クラスの目撃者はそれが竜胆本人だと信じたいわけか。あわよくば接点を作ろうという下心が透けて見えた。
「そうか。だけどごめんな。今月の小遣いが八千円しか残ってないから、お前からDOを買うのは無理だよ」
「なんだよー。陽菜ちゃんが惜しくないのかよー?」
「……少しは興味持ったけどな。残念だが別のやつに売ってやれ」
島本が大げさに肩を竦めたところで始業のチャイムが鳴り、同時に担任の先生が教室に入ってきた。雑談していた生徒は各自席に戻り、朝のホームルームが始まった。
担任の話もそこそこに、俺は窓際の席にいる竜胆の横顔に目を留めた。今朝の夢のせいか気まずくて、今の今まで視界に入れないようにしていたが、島本の話が気になって竜胆を見てしまう。
今日はポニーテールではなく長い黒髪を下ろしていた。真面目に担任の話を聞いているようだ。
竜胆が<DO>をやっている?
島本の教えてくれた噂が気になった。そんなことを考えていると、不意に竜胆と目が合ってしまった。
あ…………。
竜胆もこちらに気づいているらしく、可愛らしく首を傾げて見せた。俺は何事もなかったかのように極めて冷静を装い、首をギギギと九十度前方に向けて目を逸らす。若干、心臓の鼓動が早くなった気がしないでもないが、視界に入る担任教師に集中して気持ちを落ち着かせた。
<Daydream Online>…………か。
午後五時、学校から帰るとリビングには誰もいなかった。両親は共働きなのでまだ帰宅していない。姉貴は大学生だが今日は休みだと言っていたな。自分の部屋にでもいるんだろう。
俺は冷蔵庫から麦茶を取り出し喉の渇きを潤してから、自室に向かった。
「な、何してるんだよ!?」
部屋のドアを開けた俺はその光景に戸惑った。そこには俺のベッドに仰向けに寝そべっている姉貴がいた。頭には妙なヘルメットを被っている。何度か見かけたことはある。確かゲーム機だったはずだ。
寝ているのか姉貴は俺の声にも無反応だった。
「ったく……寝落ちかよ。ゲームするなら自分の部屋でやってくれよ」
俺は呟いたが、寝ている姉貴を起こすのは躊躇われた。これで起きないのなら大声で声をかけるか、体を揺らすしか方法がないからだ。
帰宅後の定位置であるベッドの上を占領された俺は、仕方なく椅子に腰かけてカバンから取り出した文庫本の続きを読むことにした。
二十分ほど経過しただろうか、姉貴が上半身を起こしてヘルメットを脱いだ。
「あー、帰ってたんだぁ。おかえり」
「おかえりじゃないよ。人の部屋で何やってんの?」
「ゲームよ、ゲーム。見たらわかるでしょ」
「動かないから寝てたのかと思ったよ。というか自分の部屋ですればいいだろ。あり得ないよ……まったく」
俺が言うと、姉貴はヘルメットを抱えて頬をぷくっと膨らませた。
「Gが出たのよ、Gが!」
どうやら自分の部屋にゴキブリが出たので、俺の部屋に移動してゲームをしていたらしい。俺の部屋で見かけたことはないが、姉貴の部屋が汚いからじゃないか……とは口が裂けても言えない。
「レベル上げ完了っと。大河もやる?」
「やらない」
「あっそ。学校で聞いたことない? <DO>って人気ゲームなんだけど」
姉貴の口から<DO>発言。
俺はハッと文庫本から顔を上げて、ベッドに座る姉貴に振り返った。
「え? <DO>って<Daydream Online>? 姉貴のやってたそれ……<DO>なのか?」
「そうよー。最近嵌まってるの……あ、もうこんな時間! バイトに行かなきゃ」
姉貴は壁掛け時計で時間を確認すると、ヘルメットを俺のベッドに置いたまま、慌ててバイトに向かって行った。
今年に入ってから始めたバイトらしい。どこで働いているのかは知らないが、俺はあまり興味はなかった。
ガチャンと玄関が開閉する音が聞こえ、姉貴がバイト先に向かったのがわかった。
「おーい。ヘルメット置きっぱ」
そう呟いて、俺はため息をついた。
取り残された俺の視線は、そのヘルメットに釘付けになる。しかし帰宅後姉貴がいたせいで着替えができなかったことに気づく。俺は制服から部屋着に着替えると、ヘルメットが気になりつつ夕食の準備を始めることにした。
両親が共働きで帰宅が遅いため、夕食を作るのは当番制になっていた。今日は俺の番だ。買い物は昼間に姉貴が済ませてくれているはずなので、キッチンに立って食材を確認する。献立は姉貴任せだった。
「了解。今日はカレーか」
調理中に母さんが帰ってきて、二人で食事を摂った。父さんはもう少し帰りが遅いだろうし、姉貴がバイトから帰ってくるのがいつもどおりなら深夜零時を回ってからだろう。
俺は自室に戻ると、ベッドの上に放置していたヘルメットを眺めた。
「……ここに<DO>がある」
俺はほとんど無意識にヘルメットを手に取っていた。意外と軽い。
「このヘルメットの中に<DO>が入っているのか? えっとこれが電源っぽいな」
好奇心を抑えきれなかった。
ゲームに興味はないがファンタジー系の物語は好きだ。<DO>はファンタジー世界を体験できるゲームで、しかも竜胆陽菜に似たプレイヤーが存在する。そして、目の前に<DO>があった。
俺はヘルメット被り、姉貴がしていたように仰向けでベッドに寝そべった。それから、耳元にある電源ボタンに触れる。
「……少し借りるくらいいいよな」
俺は何かしらの期待と不安を抱きながら、<Daydream Online>を起動した。
その瞬間、視界が暗転し俺の意識は深いところに沈んでいった。