夏に生まれた男の子
1992年夏、兵庫県西宮市 高校野球の聖地、甲子園で私は生まれた。 予定より2日遅れて母を悩まし、一般新生児体重より重めの体重、グローブのような大きい手、そして顔はガ〇〇石松、母親の第一声が「ブッサイクやなぁー!」と笑って話していた。小さい頃は何故か扇風機と車が大好きで、真冬なのに行きつけのお肉屋さんに扇風機をつけさせたこともあったらしい。母は将来プロ野球選手を目指して欲しかったらしく子供の頃から何を持つにも左手に持ち替えさせていて、幼稚園の年長から少年野球に入らされた。今となってはいい思い出だが当時の僕は野球が大嫌い、練習行くふりして近くの公園で友達と遊んだりを繰り返していた。 少し自慢になるがそれでもセンスはあったのか、それか周りが下手だったのかわからないが、四年生の時から6年生のレギュラー陣に入りそこからレギュラーになれなかった時がなく、嫌いと言いつつも中学の終わりの10年間野球を続ける事が出来たのが今でも不思議に思っている。
そしてもう一つ不思議に思った事がある。それは私が幼稚園の頃「父親がいない事」に気づいたのだ。当時の私は「お父さんは?」と聞いて返ってきた言葉は「死んだ」と言われた事は今でも覚えている。だから中学の終わりまで私は本当に父親は亡くなっていると思っていたので当時の私は母親と祖母の3人で暮らしていて、母親は仕事で一日中いないとかざらにあったので生粋のおばあちゃんっ子になっていた。
話が戻るが中学に入ってからの私の環境はガラリと変わることになる。中学生になった私に最初に出来た友達は可愛く言うとガキ大将、シビアに言うと将来の不良番長だった。話すこと、好きな事、笑いのツボがことごとく一緒で遊ぶ時は常に一緒、ついには親友と呼べるぐらいの中になった。なので私の周りには世間でいう不良と呼ばれる子たちが集まるように、、、
だから中学生の割にはそこそこ悪い事もした事もある。 ここでは省略させてもらいますが、笑
でも勉強はそこそこ出来ていてクラスでもテストの点数だけは良かったのでいわゆるマイルドヤンキーという部類分けされていた。
中学校の思い出はバカな連中で埋め尽くされ、とても楽しくとても充実した生活を送っていたのだが高校生になってからの私の人生は大きく変わる事になる。