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今じゃなくていい

 夕葵


 まだ夜も明けていないのに、自然と目が覚めてしまった。

 10月となったからか、少し空気が冷たく感じる。


 昼食のお弁当と朝食を並行して作り、自分の食事を済ませる。

 お婆様の朝食は、ラップをして棚の中に入れておいた。


 スタンドミラーに自分の姿が映ると、いつもより入念に前髪のチェックをして家を出た。


 学園に着くと、校門はすでに開いていた。

 どうやら、当番の先生はすでに出勤されているようだ。

 誰もいない学園内を歩いて、弓道場へと向かう。昨日のうちに柳先生に弓道場の使用の許可をもらってあり、道場の合い鍵を使用して、弓道場へと入った。


 試合のため、弓道着と弓は家に持ち帰っていたので道場内で着替える。

 人がいるときには部員の視線もあるが、早朝の学園には当番の先生と私しかいないから問題ないだろう。


 弓道着へ着替えると弓の調子を確かめる。

 昨日、弓に触れなかったので調子を確かめたかった。


 軽く弦に触れ、弓の具合を確かめると、場に立ち弓を構え放った。


 だが、放たれた矢は思い描いていた軌道からずれ、的から外れてしまう。ややムキになりながら、次の弓を引くが当然ながら結果は同じだった。


 それからムキになって、10本以上続けざまに射るがなかなか当たらない。

 当然だ、雑念が混じっているような心持ちで当たるわけがなかった。


 ――朝起きてからずっと、先生の事を考えてしまっている。


 今日のことを考えると、胸の内がぎゅっと何かに締め付けられるようだった。

 けれど、変わらなきゃいけないんだ。


 気持ちを整えるために、矢をつがえて集中する。

 弓道というのは己との戦いだ。敵はがいるとしたら、揺らぎ、動揺する自分の心だ。常に平常心でいられる心を作ることこそが弓道の本来の目的。


 ――この一射だけでいい。今だけは、この弓のことだけを考えろ。


 放たれた弓は綺麗な軌道を描き、的へと吸い込まれる。


 当たったことに一安心し、残心を解き息をつく。

 とりあえず、さっきの一射には満足したので着替えて教室へ行こう。教室の掃除でもしていようか。心の準備もできていないのに、先生と顔を合わせればどうなってしまうかわからない。


 けれど、そんな余裕すら神様は私には与えてくれないみたいだった。


「おはよう。夕葵」


 昨日から歩先生のことばかり考えていたので、幻覚でも見たのかと思った。

 けれど、まぎれもなく目の前にいるのは歩先生だった。


 ◆


 夕葵は俺と視線が合うと、一瞬で顔が真っ赤になる。

 動揺して大切にしているはずの弓からも手を放してしまい、慌てて持ち直す。普段、落ち着きのある彼女からは想像もできない動きだった。


「――っ――あ、ああ、歩先生! なぜ、こんな早くに!?」


 動揺しているせいか、噛みまくりだ。


「当番。夕葵は朝練?」

「き、昨日。学園を休んでしまったので射の確認をと思いまして。柳先生には伝えてあります。その……一昨日は失礼な態度をとってすみませんでした!」


 失礼な態度……もしかして、俺と顔を合わせて逃げ出してしまった時のことだろうか。あれは誰だってそうしてもおかしくはない場面だ。それに、怒るわけもない。


「いや、気にしないで。昨日、歩波から話したいことがあるって聞いたんだけれど」

「あ……はい」


 弓道場の外にあるベンチで夕葵が着替えてくるのを待つ。


「お待たせしました」

「いや」


 時間にしてみれば、10分もかからなかったくらいだ。

 ベンチに2人ならんで座る。制汗スプレーでも使ったのだろうか、柑橘系の爽やかな香りが鼻をくすぐる。香水とかそういうのは苦手だが、この香りは嫌いじゃない。


「「……」」


 俺からは何か聞きだすようなことはせずに、夕葵が話すのを待つ。

 時折、ちらちらと窺う視線が感じられた。何かを言おうと口を開いて閉じるを繰り返す。こういう時ってどうすればいいんだろうか。


「あの……」


 心の準備ができたのか、ぎゅっとスカートのすそを握りしめ、夕葵が話し始める。


「歩先生は、もう私の気持ちにお気づきになられていると思います」

「……」

「思いもよらない伝わり方でしたけれど。……間違いではないです」


 誤魔化すということはしない。

 というより、やっぱり間違いじゃなかったか。

 ただ、スカートを握る手も声もわずかに震えているのに気が付く。彼女は必死に勇気を振り絞っているのだろう。


「本当は、先生の迷惑にならないように、私が卒業してから、気持ちを伝えるつもりでした。それに、歩先生が私を恋……そのような対象として見ていないのもわかります」


 嗚呼、彼女はわかっている。

 俺が気持ちに応える気はないのはわかっているのだ。


「……私は、自分の気持ちを自分で伝えることができなかったことがどうしても納得ができないんです。後悔してもしきれません。だから、応えるのは……もう少し、待っていてもらえませんか?」


「自分の言葉で伝えたいんです。だから、まだ何も言わないで……てください……」


 懇願に近い頼み事だった。

 俺を見上げてくる潤んだ瞳から目をそらすことができない。

 消え入りそうな声で囁いた後半は何を言っているかは、聞かないことにした。


 きっと、それは今の彼女が望むことではないだろうから。


 ……

 ………

 …………


「お時間をいただいてありがとうございました。では、教室へ戻ります」

「いや……」


 心なしか、靄が晴れて少しすっきりした表情となっている。

 なんというのだろうか、彼女の何かが変わった気がする。


 夕葵の話を聞き終えると、彼女とは弓道場の前で別れた。

 正しくは、俺が座ったまま動かず、彼女が立ち去った。


 今回の件で、彼女との関係は前と同じというわけにはいかなくなるのだろうか。

 だからといって、彼女のことを嫌いになったり、見放すようなことは絶対にない。


「教師……だからな」


 それに、10代の恋だ。

 夕葵だけじゃなくて、俺に告白してきた子たちにも言える。


 これから、彼女たちの世界は広がっていく。色々なことを知って、学んで、出会う。


 教師という職業は見送るのが仕事みたいなものだ。俺がかかわるのはあの子たちの人生の通過点といってもいい。俺よりいい人に出会えることだって十分にあり得る。


 ◆


 夕葵


 弓道場の前で先生と別れる。

 自分の身体が先生の視界から消えると、私は全速力で廊下を走った。


 ――無理! もう無理! これ以上は――!!


 穴があったら入りたい!!

 あんなの、もうほとんど告白みたいなものじゃないか!!


 胸の内と顔がものすごく熱い。

 心臓もかつてないほどに脈打ってる。


 廊下を突き抜けて、中庭にある大木に手を置いて、息を整える。


 けれど、先生は何も言わず私の言うことを聞いてくれた。

 私が欲しいのは答えじゃない。それは今じゃなくても構わない。


 ――私がどれだけ先生の事を想っているか、それだけを知っていてほしい。


 私は先生の生徒だ。けれども、これからは一人の異性として見てほしい。

 だから……


『自分の言葉で伝えたいんです。だから、まだ何も言わないで……先生を好きでいさせてください……』


 これが、今の私が言葉にできる精一杯。


 10代の移ろいやすい恋だと思うだろうか。

 けれど、あなた以外考えたこともないんです。


 先生の答えが出るまでは、ほかの人を好きになるなんてありえない。

 そうでなかったら、あんなことはしない。


 読んでくださりありがとうございます!

「面白かった」など短くても結構です!


 ユエさんからレビューいただきました。この場でお礼を言わせていただきます! ありがとうございました! これからもよろしくお願いします。

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