平然
逃げるように部屋に飛び込んだ塁はベッドにうつ伏せになった。
俊一は談話室でテレビでも見ているのだろう。部屋には誰もいない。
まだドキドキしている心臓を押さえた。
どうしたらいいのだろう。孝明と雅人は同じ部屋だ。どうしたら雅人を守る事ができるだろう。
塁は枕もとに置いてあるカーディガンを手繰り寄せる。すっかりしわくちゃになったそれからは雅人の匂いがした。
「好き……」
ふいに言葉が出た。
「そっか、僕、先輩が好きなんだ……」
呟いた時、ドアノブが回ってぎくりとした。
「塁」
ノックもなしに孝明が顔を出した。
「孝明先輩……」
「あれ? それ何?」
「これは何でもないです」
慌ててカーディガンを後ろに隠した。孝明はふうんと言ってから、ベッドのふちに腰掛けた。
「何で逃げたりしたの?」
「逃げてなんか……」
孝明は隣においでと手招きした。塁は小さく首を振った。
「い、嫌です」
そう答えると孝明がふうっと息を吐いた。
「そんな事を言ってもいいの?」
「嫌です」
「あっそ……」
言うなり、孝明は塁の頬を撫でた。塁は抵抗したかったが、怖くて動けなかった。
「塁はかわいいね。うらやましいな…」
「え?」
ぞわっと悪寒が走り、塁は思わず持っていたカーディガンで孝明をばしっと叩いた。
「うわっ」
孝明が頭をかばう。塁はそのすきを見て逃げ出した。
部屋を飛び出して必死で走った。
手には雅人に借りたままのカーディガンがしっかりと握りしめられていた。
屋上に駆け上がって外へ飛び出す。
一面、暗い闇が広がっていた。
ひやりとした風が吹き抜けた。
塁は息を呑んだが、孝明が追いかけてくるようで怖かった。
どうすればいいんだろう。追いつめられて行き場がない。
体を震わせてから、カーディガンを羽織る。
雅人先輩に会いたい。
塁はその場にしゃがんだ。アスファルトが冷たかった。
膝に顔をうずめると、涙が出そうになった。
――先輩…っ。
雅人先輩に迷惑ばかりかけている。
もう、謝っても許してくれないかもしれない。そう思うと苦しい気持ちになった。
ぐすっと鼻をすすり、これからどうしたらいいんだろう…と呟いた。
その時、
「塁っ」
頭上から声がした。
え――?
「先輩…どうして……」
「何やってんだよっ」
雅人が立っていた。
どうして雅人が屋上にいるのか。
塁は、ぽかんとした顔で雅人を見た。
「孝明に足止めを食らっていた」
「え?」
「もっと早く追いかけようと思ったんだ。お前、孝明におびえていただろう」
優しい言葉に胸を突かれた。思いがけず目尻が熱くなる。
「知って……」
「当たり前だろ。それくらい考えたら分かる」
雅人が困ったように息を吐いた。塁は、うれしさのあまり泣きそうになった。雅人が肩に手を置いてそっと撫でた。
「部屋にいないから心配した。何かされなかったか?」
「何も……」
小さく首を振る。
「本当か?」
「はい……」
「部屋に戻ろう」
顔をのぞきこまれ、頭を撫でられた。その笑顔を見て、塁は凍りついた。
この笑顔は誰のもの? 弟? 僕は弟じゃないよ。
ふいに湧き出た感情に塁は胸を押さえた。
塁は思わず目を逸らした。雅人が少し驚いて目を見開いた。
「塁……」
その時、寮全体の明かりが消えた。
「わっ」
塁が小さく飛び跳ねた。
「やばい……」
「え?」
「消灯時間だ」
「消灯時間? 嘘っ」
一気に現実に引き戻された。塁が青ざめると雅人がその腕をつかんだ。
「とにかく中に入ろう。ここは寒い」
「はい」
塁はおとなしくついて行った。
雅人が追いかけてきてくれて、すごくうれしいはずなのに、素直に喜べない。
「先輩……」
「ん?」
「先輩の弟ってかわいいですか?」
出し抜けに聞くと、雅人は一瞬押し黙った。そして、ああ、と言った。
ずきんと胸が痛む。
「ど、どんな子?」
「俺より十歳年下だから、まだ七歳だ。」
「そんなに年が離れてるんだ……」
そんな小さな弟だとは思っていなくて驚いた。
「ああ。母は少し体が弱かったから、よく入院していたんだ。だいぶよくなってから、弟は生まれた」
「そうなんだ。うれしかったですか?」
「ああ」
雅人が笑う。塁は切なくなった。
「先輩どこに行くの?」
雅人が部屋に戻らないので、塁は怪訝に思った。
「孝明はまだ起きているだろうから、少ししてから戻ろう」
「どこに行くの?」
「図書室」
雅人は平然と言ってのけた。