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ラウシルンの街で買い物に出かけていた私は、用事を済ませて帰路につこうとしていた。
裏路地を歩き、陽が落ちる前までには帰れる、という確信をしていた私は微かな鳴き声を聞いた。
それは本当に微かな声、虫のように小さな声で、下手をすれば周囲の雑音に消されてしまいそうであった。人の声ではなく、動物の鳴き声であった。だが、どこかしら助けを求めるような音色を感じた。
私は、それをどうしてか、放っておくことはできず、少し道を外れて、ゴミの集積した一角に歩いていく。
異臭と、見るからにゴミと分かる山の中から、やはり、微かに声は聞こえた。弱っていることがわかる。
私は、異臭も穢さも気にせず、その山の中に手をつきこむと、その声の下に向けて掘り進む。
数分後、ゴミの山の中に埋もれていた声の主は、私の両腕の中で、力なく横たわっていた。
灰色の毛並みの、小さな仔犬。生後どのくらいなのかはわからないが、おそらく赤子だ。身体は弱っており、震えている。鳴き声も、徐々に低くかすれている。
私は真紅のマフラーで仔犬を包み、背中に括り付ける。この街で医者に見せようにも、医者の場所はわからなかったし、おそらく犬は対象外であろう。それに、もうじき日が暮れる。陽が暮れてくれば、皆仕事を引き上げるのが一般的。そうなると、ここに置いて帰るわけにはいかなかった。
死に行く命の鼓動が私の耳に響く。
私は急ぎ、屋敷に帰ろうと思った。仔犬は私の差し出す水も、食べ物も口にできないほど弱っていた。
それでも、ローザならどうにかしてくれるだろう、と曖昧な希望を抱いていた。
灰色の毛並みの仔犬。放り捨てられている仔犬に、何時かの自分を重ね合わせていたのかもしれない。
あの時、ローザが手を差し伸べてくれたように、私は仔犬に生きるための助けの手を差し伸べてあげたかった。
私は仔犬の背を撫でながら、屋敷へと急いだ。
血相を変えた私にローザは少し驚いたが、仔犬を見せると、真剣な表情で仔犬を見始めた。
「ローザ」
「だいぶ弱っている。ふん」
ローザはそう言うと、仔犬を近くの机の上に布を広げてそこに寝かせた。力なく、浅い息を仔犬は吐く。
私は何もできずにそこにいた。
ローザはそれから部屋を一度出て、しばらくして戻ってきた。薬箱と、数枚の布を手に持っていた。
「出生してまだ数日でしょうね。かわいそうに、ろくに食事も与えられなかったのだろう。免疫もついていない仔犬には、厳しい状況だったろう」
そう言い、箱から針を一本取りだす。
「それは?」
「犬にも効くといいんだがね」
そう言い、仔犬の前足に針を刺す。
犬はそのうち、目を閉じてしまった。死んでしまったのかと、私は心配したが、ローザは「心配ない」と言った。
「とりあえず、効いたようで何より」
「よかった・・・・・・」
「安心はまだできないけれどね」
ローザはそう言い、犬に毛布を被せる。
「体温は下がっているし、食事、ミルクが必要だ」
そう言うと、ローザは扉に向かう。
「どこに?」
「ミルク、作らないといけないからね。ヴェンティ、その間は見ていなさい」
そう言ってローザは笑った。
「拾ってきたのは、あなたなんだからね。しっかり世話してあげなさい」
そう言い、手を振ってローザは部屋を後にした。
私は毛布にくるまれた犬を、自分の膝の上に置いて、撫でた。穏やかな寝息を今は立てているが、危ない状況なのだと彼女は言った。
私は、ローザが来るまで犬を撫でて、異常がないことを確認しながら夜を明かした。
朝、起きた時には、犬は膝の上にはいなかった。
仔犬は毛布から抜け出て、私の膝をなめていた。立てないほどに弱っていたが、ある程度は回復したようだ。それでも、膝は震えていたし、どこかまだ不安感があった。
「おはよう、ヴェンティ。まあ、おはようというには、少し時間がたちすぎたような気もするが」
そう苦笑いするローザ。
「ローザ、仔犬、大丈夫?」
「油断はできないよ、まだ」
そう言い、ローザは肩を竦める。
「それにしても、あの薬、犬にも効くとはね。はっきり言って私でも自信がなかったんだが」
苦笑いするローザ。その顔は珍しいものであった。
「さて、と。それじゃあ、ヴェンティ。仔犬の世話、しっかりしてあげな」
そう言って、瓶を渡すローザ。私はそれに戸惑う。
「私が、するの?」
「勿論さ、拾ったのはヴェンティ、君だ。それに、その犬も、君を求めている」
未だに私の膝をなめて、小さな瞳で私を見上げる仔犬。漆黒の黒い瞳の奥に、私の姿が見えた。
そうだ、私が手を差し伸べた。私に責任がある。ローザではない、私に。
私は瓶を受け取ると、仔犬を抱き上げる。そして、そうやって瓶の中のミルクを飲ませようかと考える。
そんな私にローザは少しのアドバイスをすると、優雅に部屋から立ち去っていった。
思った以上に、仔犬の世話は大変であった。これ以後、私の生活スタイルは大きく変わることとなった。
一か月が経つと、仔犬は完全に健康体となっていた。
ローザの食事管理でしっかりと成長していて、成長の遅れもあまり見られない。
森の中で、私とともに駆け巡れるようになった。甘えん坊な彼女は、私を見つけるとすぐさま駆け寄り、頬ずりし、舐める。その暖かさを、私は心地よく感じていた。
そんな私には仔犬に対する悩みがあった。それは「名前」であった。
彼女とは一か月以上の時間を過ごしていたが、未だに名前がなかった。
ローザに名前を付けてくれるように頼んだが、彼女は首を振って拒否した。
「ヴェンティ、あなたがつけるべきよ」
そう言い、以後、彼女はその話題を避けた。
私は彼女にふさわしい名前を考えていたが、決めることはできない。
ローザと出会うまで、私自身名前が名無しだったのだ。名を与えることが、できるとは思えなかった。
それでも、私は必死に考えた。名前がないことは、あまりにも悲しいことだから。
森の中を歩く私たち。ふと、仔犬が足を止めた。私は仔犬が止まったそこに向かい、しゃがみ込む。
「ん」
何があった、と見る私に、仔犬はくんくんと鼻を動かし、それを指し示す。私はそれを見る。
それは褐色色の花。確か名前を、「クロユリ」と言ったはずだ。
ローザの屋敷の書斎の記憶を思い出す私。犬は嬉しそうに舌を出して、私を見る。
これほど興味を示すことはあまりなかった。仔犬はクロユリが好きなのだろうか?
そこで私はふと思った。クロユリから名前をもらってはどうか、と。
私も、そしてローザの名前も花からきている名前だ。共に暮らす家族なのだ、仲間外れは寂しいだろう。
仔犬の漆黒の瞳を見て、私はそう思った。
「よし、決めた。お前の名前はサレナだ。わかったか、サレナ?」
そう言うと、仔犬は了承したとばかりにキャンと吠えると、うれしそうに私の顔に顔を近づけて、舐めてくる。
くすぐったいな、と笑う私。灰色の仔犬を抱きしめて立ち上がり、私たちは私たちの家へと帰っていくのだった。