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屋敷のそばの森の中で、私は精神の統一と鍛錬に励む。これは朝の日課となっていた。
毎回ではないが、ローザの手ほどきも受けている。私の肉体は暗殺の道具として完成させられたはずなのに、どれだけやってもローザには圧倒されていた。
もう彼女がどういう存在なのか、はあまり気にしていなかったが、不思議であった。
彼女ほどの力があれば、こんな辺鄙な場所にいなくとも、やっていけるのに、と。
だが、そう考えてすぐにその考えは捨てた。
彼女は自由でいたいのだろう。誰にも縛られず、誰も縛ることなく、ただただ思うが儘に生きていく。それがローザ・ヴェラスコスという女性なのだ。
ある日、ローザは数日間屋敷を留守にする、ということを私に伝えた。
「ヴェンティはお留守番を頼むわね」
「何の用があるの?」
私が聞くと、ローザはニコリと笑った。
「ちょっと因縁の相手がいてね、それが私を挑発してきているのよ」
少し、懲らしめに言ってくる、となんでもなさそうに彼女は言うと、深紅のドレス姿で、あまり大きくないバッグを抱えて優雅に歩き去っていった。
私はその後ろ姿を見送った。
ローザ不在の屋敷はさらに無駄に大きく感じられた。
私はローザのいない間、屋敷をどうするべきかと、悩んだ。
とりあえずローズが言い残したのは、薔薇の世話と彼女の私室を絶対に開けてはならない、という二点だけ。掃除や屋敷の管理については全く指示されなかった。
やったほうがいいのか、と考えたが、やめた。
私は生活能力は皆無だ。飽くまで生き残ることだけに特化した教育しか受けてこなかったので、世の中の女性ができる大半のことはできないのだ。(それでも時たまローザは淑女のたしなみ、と言って教えてはいるが、一向に私はできなかった)
そう言うことで、結局私の生活はほとんど変わり映えはなかった。
毎日の鍛錬と、屋敷内の書庫にある本を適当に読み漁り、瞑想をして、眠る。狩りをして、野草を採集する。専らそんなところであった。
食事は、ほとんど生のものを煮るか、炙るかするだけ。
流石に、味気なかったが仕方がないだろう。
私はそうしてローザのいない一日目を過ごした。
自室の寝台に寝そべり、シーツを羽織る。
闇の中でも目ははっきりと周囲を映し出す。沈黙に包まれる中、私は思った。
これほど一人でいたのは久しぶりだな、と。
最近はローザがずっといた。ふと見ると、どこからか彼女が私を見守っているのがよくわかった。不思議と、その視線を不快には感じず、暖かく感じてさえいたのだ。
彼女の存在がないだけで、この屋敷はこうまで雰囲気を変えてしまうのか、と思ってしまう。
それほどに、私の中でローザの存在は大きなものであった。
孤独感の中で、私は枕元の小刀を握った。
任務で、一人、敵地の近くで寝たことは度々あった。その時は、孤独も恐怖も感じてはいなかった。
あの時は、生き残ることに必死で、心のない、殺戮機械でしかなかった。
そう思うと、私は弱くなったな、と思う。だが、ローザは笑って言うのだろう。それは弱くなったのではない、と。
非常なまでの殺人者としての一面を持ちながら、慈悲深い女神のようなローザ。
彼女のことを、私は「母」という存在のように思っていた。
今、彼女は何をしているのだろうか?
そんなことを考えながら、私は微睡みの中に落ちて行った。
朝日が昇ると、私は覚醒した。
私はローザに言いつけられた薔薇への水やりのために、庭へと出る。
美しきヴェルベットローズは、昨日と変わらずにそこに咲いていた。
屋敷の主のような真紅の花は、陽の光の中を堂々と立っている。
ローザの言いつけを守って私は水やりをする。適度な水やりでないと、花はダメになる。ただでさえ、ここの気候とは合わない花なので、細心の注意が必要なのだそうだ。
そうまでしてこの薔薇を育てているのだから、彼女には恐れ入る。
私は水やりを終えると、朝食のための肉を狩りに森へと向かっていく。
森の中には獣たちがいるが、私やローザにはまず近づかない。
彼らは人間を餌と認識しているはずなのに、私たちを襲いはしない。決して近づくこともないため、森の奥に入り込んで探す必要がある。
この森の中は案外危険がたくさんあって、毒蛇、毒蜘蛛をはじめとした危険な小動物や、熊や虎といった大型の猛獣も数多くいる。
私は森の奥深くの泉のある場所へと向かっていく。そこにはシカやイノシシなどが水を飲みにやってくる場所で、狩場の一つである。
いつもならば猪の一匹や二匹獲れるのだが、あいにく今日は来なかった。
ほかの狩場にもいってみたが、獣たちはその姿を見せなかった。
そのことに、どこか私は不安を感じた。
そして、急いで屋敷の方へと戻っていった。胸騒ぎがしていた。
屋敷は相変わらず沈黙に包まれて、ローザの気配も人の気配もしなかった。だが、私には確信があった。
何者かが、ここにいる、という確信が。
私の直感は、敵意を持つものがここにいると教えてくれる。
私は真紅のフードを深くかぶり、周囲を警戒する。
屋敷の中に入り、警戒しながら進む私。
何者かの視線、そして、強い感情。それを感じ、私は懐から苦無を抜くと、その方向に投げつけた。
ちょうど暗闇となっている中に苦無は入り込む。その直後、苦無が弾かれて、光の下に墜ちる。
そして、一人の男が現れた。
蒼い髪で右目を隠した銀色の瞳の男。知性と野心を感じさせるその瞳が私を見る。
顔に刻まれた皺が男の年齢を感じさせた。だが、決して男の顔は醜くはなく、渋みがあり、若いころは相当女性を相手にしてきただろう、と思えるものだった。
だが、男が普通でないことはわかりきっていた。私の投擲を弾いたばかりか、気配すら察することを許さなかったのだから。
「誰?」
私の問いに、男はフッと笑う。
「いやはや、彼女が広いものをしたというから見に来てみたが、なかなかどうして」
そう言い、男は優雅に礼をする。私の向ける殺意や敵意をさらりと受け流して。
「はじめまして、新しき『VENGEANCE』。私の名はドクター・テラー。彼女、今はローザ・ヴェラスコスだったかな?とは古い知り合いだ」
そう言うや否や、男は急に走り出す。私は小刀を手に、男を迎え撃つ。
男の胸を貫くはずの刃は、男のわきを掠っただけで終わった。男は鋭利な手刀を、私の右目目がけて突き出す。フードを掠る。私はすぐに身体を後ろにずらして、攻撃をすんでで躱した。そして、反撃に苦無を三本、続けて投げつける。
男は最初の一本目を掴むと、二本目と三本目を叩き落とし、再び踏み込んでくる。
「しつこい!」
「それが私の取り柄でね!」
男は嬉しそうに笑う。
「いやいや、面白い!まだ若いというのに、なかなかの腕だ」
「っ」
余裕のある男に対し、私は若干後れを取り始めていた。体格的な差は大きく、なかなか攻撃が当たらない。追撃のための拳や蹴りは、男には届かなかった。
「どうした、どうした?」
徐々に男の攻撃は勢いを増す。男の手刀が、私の全身を襲う。鳩尾、腕、脚、背中。男の攻撃は無駄なく私を打ち据える。
「どうした、どうした」
「く、う」
とっさに繰り出した必殺の一撃は、男の苦無で阻まれた。小刀は大きく弧を描いて、遠くへと投げ飛ばされた。男の腕が伸びて、私の首を絞めつける。
「さぁて、御遊びも終わりとしましょうかねえ、そろそろ彼女が帰ってくるかもしれないですしね」
「・・・・・・・・・・何が、目的、なの?」
私はそう言った。すると、男は愉快そうに目を輝かせる。銀色の瞳に狂喜が宿る。
「すべては彼女、ローザのためだよ!私は彼女に『恐怖』を味わわせてやりたいのさ!彼女の恐れること、それは他者の死!彼女が孤高であろうとするのは、そういった存在を作らないためなのさ。だから、彼女が子どもを拾ったと聞いて、私は急いで駆け付けたんだよ」
異常な興奮。男は饒舌に語る。
「狂ってる・・・・・・・・・・」
「そう、狂っているだろうさ。だが、それがなんだ?正気でいることも狂っていることも、結局は一緒なのさ。本能に抗うか否か、それだけさ」
そう言い、男は苦無を私の首筋に当てる。わずかに血がその刃を濡らす。
私は、恐怖した。死の恐怖を感じた。
男の目は、私の存在など、映してはいない。男が見ているのは、私の肢体を前に佇むローザの姿だけだった。
「怖いか、死が」
私の顔色を見て、男は言った。
「何の意味もなせず、利用されて終わる。やっと見つけた生きる意味も果たせぬまま」
男は私の心を覗き見たかのように言う。
「なぜわかるって?私にはわかる。お前の考えも、何もかも」
そう言い、銀色の瞳は、私の中をのぞくかのように、より大きく見開かれる。
「やめろ、私を、見るな」
私はそう言い、抵抗をする。だが、男の異常な力が私の首を絞め、身体を封じる。
「さて、そろそろ殺すかな。早く、君の亡骸を作らないと、彼女が帰って・・・・・・・・・・」
男がそう言い、腕の力を強め、私は生を諦めかけた。
その時、ヒュン、という音が聞こえ、次の瞬間には、男の絶叫が響き、私の身体は地に落ちた。
「大丈夫、ヴェンティ」
「ローザ・・・・・・・・・・・・!!」
私は自身を見下ろす、紅い髪の女性の名を叫ぶ。
真紅のドレスを纏い、その手には弓矢が握られていた。彼女は私の前に立つと、矢で右腕を貫かれた男を睨む。
「久しぶりね、テラー」
「・・・・・・・・・・・思った以上に、早かったな、『VENGEANCE』・・・・・・・・!」
男は苦々しく言う。すると、彼女は美しく微笑んでいった。
「あなたの仕組んだ罠なんて、もうお見通しよ。まあ、それでも、こうやって私の大事なものに手を出すことを許しては閉まったわけだけれども」
ローザはそう自嘲する。そして、手に持った弓を構える。狙いは男の心臓であった。
「テラー、あなたとの遊びももうこりごり。そろそろ終わりにしたいのだけれど」
「それは、無理な相談だ」
その瞬間、弓矢が放たれるが、男は立ち上がると、その矢を目の前でつかんで、へし折った。
「!?」
ローザが驚く。
「君は酷いなあ、そうやっていつも僕の愛を無視して」
そう言った男の右目が見えた。私は息を吞んだ。
ローザも表情から見るに、男の状態を悟ったようであった。
「・・・・・・薬物による身体強化」
「そうだよ」
男は嗤う。もはや、完全に狂っていた。
「君のために、僕はここまでしなきゃならなかったよ。さあ、遊ぼうよぉ、『VENGEANCE』!!」
男は獣のように叫んで、私たちに向かってくる。ローザの矢も、野生動物のように俊敏な男の前には無駄であった。
「ち、厄介ね」
そう言うと、ローザは私を見る。
「ヴェンティ、援護よろしくね」
そう言って、ローザは敵に向かって突っ込んだ。
いくら彼女と言えど、それは無謀すぎた。男の塚っている薬は、並大抵のものではないのだ。私に使われていた薬とは違い、急激に肉体に作用する劇薬。その効果は、あまりに強大。その代り、使用者は理性を亡くし、血肉を貪る獣と化す。『バーサーカードラッグ』と呼ばれるもので、それを使用した人間はヒュドラーの暗殺者でも数名は必要なのだ。
それでも、彼女は向かっていく。私は彼女を守るために、後に続く。
彼女を失うわけにはいかない。今の私にとって彼女は寄る辺なのだ。彼女がいなくなってしまったら、私はどうすればいいのか、わからなくなる。それは、困る。
私は両手に苦無を握り、駆ける。前方では、深紅のナイフを翳し、男と戦うローザがいた。
美しく踊るローザ。それでも、相手は微動だにせずに彼女を狙っていた。
男の攻撃が、ローザのバランスを崩した。その数秒の出来事を見逃さず、男はローザを押し倒した。
そして、その手刀を彼女の顔に向ける。
「させない」
私は跳躍した。無理やりな跳躍で、脚の腱を痛めたが、気にはしていられない。
「ローザから、離れろ」
私は空中で男の背後に回り込むと、苦無を一閃させた。男の身体から血が噴き出す。
男は私の腕をつかむと、地に叩き落とし、私に止めを刺そうとする。
私は最後の力を振り絞り、苦無を思い切り投げる。
男の右目に、苦無は深々と刺さる。男が絶叫しながら、私の首の骨を折ろうと力を込める。
だが、男はそれに夢中で気が付いていなかった。
背後で、復讐の女神が起き上がっていたことを。
ローザは、深紅のナイフを男の首筋に当て、引いた。血しぶきが上がり、男は痛みに叫ぶ。だが、まだ倒れずに、私を殺そうとする。だが、力は弱まっていた。
私は男の腕から逃れると、男の顔めがけて蹴りを放った。
その蹴りは、男の右目に刺さっていた苦無を押して、男の顔面深くに押し込み、そして、貫通させた。
脳と血を吹き出して、男は、意味不明の、言葉にならない言葉を発しながらついに事切れた。
私は全身が傷だらけで、立つこともできなかった。
そんな私を、ローザは抱き上げた。
「まったく、無茶をする」
そう言い、彼女は私の頭を撫でる。
「ローザ・・・大丈夫?」
「ああ、おかげでな」
そう言うと、彼女は申し訳なさそうに、私を見て言った。
「すまないな、私がしっかりしていないばかりに。今回は、ヴェンティに危害はないはずだったのに」
「いいよ、ローザ」
私はそう言った。私はただ、そうやって彼女の胸に抱かれているだけで満足だった。
彼女に心配され、必要とされている。それが、無性にうれしいのだ。
私はローザのぬくもりに抱かれながら、微睡の中に落ちて行った。