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彼女に拾われて一週間がたった。
私は、これほど暇な時間を過ごしたことはなかった。ヒュドラーにいたころは、休むことを知らず、ただただ殺すための技術を磨き続けてきた。休みと言える時間は本当に限られていて、それはあっと言う間であった。
ローザ・ヴェラスコスは、特に私に何も要求しなかった。彼女はただ、私に穏やかな顔を向けると、どこかに去っていった。
恐らく、屋敷の中にいるのだろう。だが、思いのほか広いので、どこにいるかは把握できていない。曲がりなりにも訓練を受けた暗殺者であり戦士である私は、彼女をうまく見つけることができなかった。
やはり、彼女は只者ではない。見た目は麗しき貴婦人、といったところだが、それは飽くまで彼女の表でしかない。油断したものをじわじわと殺す、毒の花。それが彼女の印象だった。
だが、不思議と警戒心は抱かなかった。組織の大人と違い、強制も命令もしない。そして、彼女の中には、私と同じ、ある種の感情が渦巻いていたのだ。
それがなんなのかを、私はまだうまく言えないが、それこそが私と彼女の繋ぐ絆、なのだと思う。
ローザ・ヴェラスコスはこの屋敷を一人で管理している。一週間かけて掃除やらなんやらをやっているようで、埃は見当たらない。これほどの屋敷があるのだから、使用人の一人や二人いてもおかしくはない。だが、彼女は穏やかに微笑んで、私のその意見を否定した。
不可解すぎる彼女に、その夜、私は聞いた。
彼女の作った質素だが、堅実な料理を前に、私は優雅にそれを食べる貴婦人に尋ねた。
「あなたは、私に何を望むの?」
その質問に、貴婦人は静かに咀嚼し、口元をふくと、私を見た。穏やかな瞳であった。
「なにも」
「?」
その答えに、私は呆然とした。
「なら、どうして私をここに?」
目的がないのに、私をここに置く意味が分からなかった。目的がないはずがない。そう思った私の言葉に、彼女は怪しく目を輝かせた。妖艶な女性の魅力は、男ならばどんなものでも魅了しそうだ、と同性の私でも思った。いや、下手をすれば、同性でも墜ちる、そんな予感がした。
「あなたが望んだからよ」
「何を?」
私は確かに命を望んだ。だから、ここにおく、とはあまりにもお人よしが過ぎる。私の疑惑の目を、しかし、貴婦人は笑って受け止める。
「復讐を」
そう言った彼女は、私の目には復讐の代行者、というように見えた。彼女の纏う、オーラとでもいえばいいのか。もしそれが目に見えるものならば、黒い死神がきっと背後にいるだろう。
「私はあなたの望む復讐を手助けする。それだけ」
そう言って彼女は立ち上がると、私の背後に立ち、細い腕で私を抱きしめる。
彼女の吐息が、私の耳を刺激する。
「ヴェンティ、あなたの心は、私に復讐を訴えていた。あなたの望み、それをかなえるために私はいる」
「・・・・・・・・・・・・あなたは、誰だ?」
私は、圧倒されながら、小さな声で言った。その声は、彼女に届いたのだろう。彼女は、おそらく笑いながら言った。
「私は死神、私の名は『VENGEANCE』。虐げられ、命と自由を奪われたすべてのものの代行者」
復讐という名の女神は、静かに笑った。
血のような、深紅の髪が、私を包んだ。
この日以降、彼女は私が望みさえすれば、何でもしてくれた。
彼女の知識は幅広かった。ヒュドラー内でも、彼女ほどの知識の持ち主はいないだろう。
毒薬などの知識。遠い西方の国々の話。政治体制や社会の知識。剣術や棒術、投擲の技術。
私はヒュドラーで訓練を受け、仮にも一人前と認められたものの、彼女には到底かなわない気がした。
私のために用意した刀やナイフでは、彼女に肉薄することができない。彼女は涼しい顔で私のナイフをはじき、脚をひっかけて、首元にナイフを突きつける。経験の差も大きいのだろう。
聞くと彼女は30歳を超えているという。外見的にはまだ20歳前後にしか見えないし、そこにそれほどの力があるのか、と疑問に思ってしまう。身体は女としては魅力的だが、腕や足は細い。筋肉がそこまでついているようには見えない。だからといって身体強化剤や麻薬で身体や感覚を強化している、というわけでもない。
それに、西方の言語や知識があることから考えても、この周辺地域の人間ではないことは確かである。
彼女は何者なのだろうか?その問いに対する答えはいつも同じであった。
復讐者。それだけだ、と。
ある日、彼女は街に出る、といった。
街は、この屋敷から大分離れた場所にある。深い森の奥にこの屋敷はあって、そこを抜けた先なのだという。
私は何度か森に入ったことがあるが、常人ならまず近寄らない場所だろう。
似たような風景ばかりで、精神がおかしくなりそうだった。道に迷い、心がくじけてしまったところを、森の獣たちに襲われる。そう、昔から言い伝えられているらしく、街の住人は近寄らない。時たま、迷うものもいるが、そういうものはついに戻ってこなかった、という。
ローザ・ヴェラスコスは、もともとあったというこの屋敷を自身の好きなように変えた、という。どうやってここを見つけたのか、どうやって森を通ってきたかは、彼女は言わなかった。
街には私も行くのだという。なぜか、と問うと、彼女は笑って言った。
「黙ってついてきなさい。あなたの食事とか、いろいろとあるのよ」
そう笑って話す彼女だが、その目は笑ってはいなかった。
その目は、獲物を探す死神の目であった。
森を抜けるのはあっという間であった。彼女は迷うことなく道を進んだ。
憶えれば案外簡単に森は抜けられる、と彼女は言った。だが、それは飽くまで一部の人間だけだろう。
森にすむという凶暴な獣の気配はしていたが、なぜか襲い掛かってくることはなかった。
人間が二人、しかも女性。それなのに、獣たちは襲ってこなかったし、彼女も優雅に歩いていた。まるで、彼らが襲ってこないことを知っているように。
微かに感じる恐怖の感情は、おそらく獣たちのものだろう。獣たちが本能から裂けるほどの存在。
私は、ますます彼女のことが分からなくなる。
そうして森を抜けると、遠くに街が見えた。規模的にはそこそこ大きな都市、といった感じか。
「ラウシルン。この国では上位に入る都市のひとつ。海には面していないけど、近くにある大河があるでしょう」
そう言い、街の北の大河を指さすローザ。
「水路を使えるし、この国の穀倉地帯とも近いため、貿易で栄えているのよ」
それならば、いろいろな人がラウシルンの街に来るのだろうな、と思った私は彼女を見た。
街に行く目的。それは食料や私の道具、というものもあるのだろう。
だが、私は確信していた。彼女が街に行くのはきっと、彼女が言う「復讐」のためなのだと。
そう思いながらも、私は歩を進める紅い貴婦人の後をついて行く。
私の灰色の髪が揺れ、目に入る。私は、彼女からもらった真紅のフードで髪を押さえた。
次第に大きくなる街に向かって私たちは歩き続ける。