特異点
客観的事実に基づいた極めて論理的な推測をまず述べるとしよう。
ここは夢の中だ。
無駄にだだっ広い真っ白な空間に、どこぞのヴィジュアル系バンドがライブで焚いたスモークのような霧。
これだけでもう、俺にここが夢の世界であることを悟らせるのに十分過ぎる非現実感をかもし出している。
それに、俺は寝る前のことをはっきりと覚えている。波の音を遮るためのラジオを聴きながら眠りにつくという、ごくありふれた日課をこなしてそのまま眠りについたはずである。
内容はよく覚えていないが、確か何かの決意表明のようなものを流していたように思う。
それがフィクションなのかノンフィクションなのかよくわからなかったが、どっちにしろどうしようもない思想をいやに熱っぽく語っていたことだけは覚えている。
そして最後にもう一つ。これは決定的だ。
非現実的な状況に置かれたとき、人間がまずとる行動。漫画やドラマでおなじみの、あの行動さ。
そう、「頬をつねる」って奴。御多分に漏れず、俺もそれをやってみたわけだが──結果はもうわかっているだろう。何の痛みもなかった。
そういうわけで、俺はここにきて数秒で最初の一行を推測するに至った。
夢が夢だとわかってしまう。よくあることだが、それはそれでつまらない。
まあ、どうでもいいだろう。どうせこんな夢の内容など瑣末な問題の上、起きたらもう忘れているだろうし。
俺はそう考えて、所在無げにポケットに手を突っ込んだ。
かさり、と何かが擦れる音が耳に入る。右ポケットに入っていた音の主を取り出してみると、それはメモ書きだった。
しわだらけになったその紙を広げ、内容を読んでみる。
『やっと繋がった。まずは目の前の扉を開けてくれ』
なるほど。この夢には一応ストーリーがあるらしい。
結構なことだ。いくら明日になったら忘れるとはいえ、こんなけったいな場所でただ無為に時間を過ごすのはご免被りたい。それならば、まだ何かをしていたほうがマシだ。
しかし、この文面。本当に俺の脳みそが捻り出したのだろうか? これではまるで、第三者からの指示のように感じられる。
まあ、考えてもわからないものにいつまでもこだわっていても仕方ない。視線を紙から目の前に戻すと、いつのまにやら件の扉が出現していた。
いまさら驚きはしない。夢というのはこういうものだ。何の前触れも無く物が消え、現れる。意味や理由など考えるだけ時間の無駄だった。
扉には、「海」を象ったモザイク模様が描かれていた。おだやかな波を湛え、正午の位置に太陽を据えてある。
何がなんだかわからないが、とりあえずは指示に従って構わないだろう。
俺はなんら逡巡することなく──当然だ、ここは夢である──扉のノブへと手をかけた。
開けた瞬間、扉の奥から潮風と香りが舞い込んでくる。嗅ぎなれた故郷の音。匂い。何も問題は無い。
だが嗅覚と聴覚に正常と判断された扉の向こうは、視覚によって最悪と判を押された。
目の前に広がるのは、まさしく扉に描かれた模様どおり正午の位置に座した“満月”と、夜闇に照らされひたすらに黒く塗りつぶされた海だった。まあそこまではいい。
その下に広がる光景が問題だったのだ。
まるで何百年か後のベニスのように水没した街並、波にさらわれた砂の城のように崩れた建造物。その中には──ちくしょう、なんてこった。俺の家も混じってる。
なんなんだよこれは。こんなもんは旧約聖書の世界だけで十分だ。神の所業は、神話の世界限定にしてくれ。
この扉の向こうには、行ってはダメだ。俺がそう判断したのに、一体なんの矛盾があろう?
俺は冷や汗を拭うこともせずに扉を閉めた。くそっ。悪い冗談としか言いようが無い。
最初の一行を訂正するとしよう。ここはたしかに夢に似た世界だが、どこか違う。
確実なのは、俺の夢ではないということだ。俺がどうこうできる世界なら、今頃もっとハッピーな展開が待っているはずだ。
こんな下手糞な演出のホラーなど一欠けだって望みはしない。
にわかに恐怖を感じ始めた俺はまたも所在無げにポケットへと手を突っ込んだ。
かさり、と何かが擦れる音がした。さっきのメモではない。今度は左ポケットだ。
半ば癖になっているこの行動は、この世界に置いてひとかどの意味をもっているらしい。
もはや逡巡することなく、俺はそれを開く。
『このメッセージは十三年後の未来から送っている。扉の外を見たらわかったはずだ。君は死んだ。どうにかするには、正確に指示を続行するしかない』
目の前でメモから文字が消えていき、新たな文字が現れる。
『そこは夢と現実の狭間、深層意識の底の底。全ての意識が統合される、我々が“特異点”と呼んでいる場所だ。君は偶然にもそこにたどり着くことができた』
特異点? 何のことだ?
次々に浮かぶ疑問によってはやる身体を無理矢理押さえつけ、次の文を待つ。
『君も見たあの大災厄が起きた後、我々はずっとそれを回避する方法を探していた。そして見つけたのが、この“特異点”で規定事象を書き換えるというものだ。それができるのは今その時発生した特異点にいる君しかいない』
──だめだ。わけがわからない。
整理して考えてみよう。ここは夢のようで夢でない、特異点なる世界。その概念までは理解できないが、百歩譲って存在だけは納得しよう。
そしてここで自分が何かをすれば、先ほどみたカタストロフを無かったことにできるという。
本当なら、願っても無い話だ。できうる限りで善処する。
だが一体、何をすればいいんだ?
『そこに存在する“神”とコンタクトをとり、世界を書き換える。それがリセットボタンを押す唯一の方法だ。本来そこへ至る道は固く閉ざされているが、我々はそのための鍵を作り出した』
その文が現れた後、手の中に淡い光と共に幾何学模様の刻まれた鍵が現れた。なるほど。わかりやすくて非常に助かる。
『だが、災厄を引き起こした一派は事象が取り消されるのをよしとせず、我々と同じように特異点に干渉を施した。それによって本来単純であるはずのプロセスは残念ながら複雑化した。我々ではそのプロテクトを崩せない。ゆえに、君に託す』
雲行きが怪しくなってきた。ちょっと待ってくれ。俺の知らないところでどんな争いがあったのかは知らないが、勝手に託してもらっては困るぞ。世界の救いを得るには、俺の行動なんざ何回賭けても足りやしない。
『特異点のさらなる奥、“神”へと至る扉を開けろ。鍵は一度しか使えない。よく考えるんだ。世界は君に──』
それっきり文字は現れることなく、淡い光となってメモごと消え去った。
途端に周囲の空気が変わる。世界が一瞬明滅したかと思えば、次の瞬間には周囲に三つの扉が出現していた。
恐らく、本来ならこの扉は一つだったのだろう。誰が邪魔立てをしているのかは全く知る由もないが、面倒なことをしてくれる。
偶然からここにいる俺の身にもなってほしいものだ。
間違えれば、世界は滅んだまま。そんな責任を何の故もなく負うとは。
かといって何もしないでいればここから出ることもできず、現実の俺は死んだままだ。
考えて、行動するしかない。
扉には、それぞれ先ほど開いた海の扉と同じようなモザイク模様が刻まれていた。
左の扉には、西欧あたりに行けばどこにでもありそうな白い布を纏った聖人像と、ラッパを持った天使達。
中央の扉には、黄金色に輝く、四十の手を持つ観音像。
右の扉には、威厳たっぷりの角と優麗にたなびく髭を備えた、とぐろを巻いた龍。
この中のどれか一つが“神”へと至る扉なのだと言う。
果たしてこのモザイク模様は、十三年後の未来からメッセージをよこしたという奴らからのヒントなのか? はたまた、災厄を引き起こし、俺にそれを正されるのを良しとしない一派からの妨害工作なのか?
もはやこれが自分自身の夢であるという希望的観測は、俺の頭からきれいさっぱり抜け落ちていた。
考えるんだ。俺に残された優位性は“時間”しかない。
単純に考えるならば、神を表す模様を描いている扉を開ければ良いということになる。
だが、どの扉も見るものによっては神であり、同時にそうでないものだ。
唯一不変の神なんて都合の良いものは、この世界には存在しない。いたとしたら、この世のあらゆる宗教戦争は無くなるだろう。そうはならないのが、真の神の不在を証明している。
唯一神がこの中にいないのであれば、まさか多くの者が信仰している神を選べとでもいうのか?
それも考えにくい。時と場合によって信仰なんてものは揺らぐ。この中のどれか一つが常に多くの信仰を寄せていた保障はどこにもない。
くそ。この中に正解なんてあるのか? どれが当たりだったとしても納得なんざできやしねえ。
考え方を変えるとしよう。
思い出せ。さっき十三年後の奴らはこの場所が『深層意識の底の底』だと言っていた。それはどういう意味なのか?
俺がここにたどり着いたのは、まったくの偶然だ。
逆に考えれば、誰だってここには辿り着く可能性があったということになる。
そして、“たどり着く”ために具体的に俺が何をしたかと言えば──夢を見た。ただこれだけだ。
つまり、この“特異点”なる世界は夢を見ている人間が深層意識下へ無意識にアクセスしたことによって至る世界……そういうことだろうか。
深層意識とは、表層意識とは違う全ての人間に連なるもの。そこを介して、すべての人間は繋がっている。
あのメモの『全ての意識が統合される』とは、恐らくそういう意味だろう。
だが──全ての意識が統合された世界での“神”とはいかなる存在になるというのか。
そんな世界では、個人の主観など意味をもたない。故に、あの三つの扉全てが意味を持たないではないか。
ならば、答えは?
そんなもの、あの中に見出すことは不可能じゃないか。
八方塞がりだ。俺は不安定な地面の上に仰向けに寝転んだ。
ああ、やってられねえ。なんだってこんなことに巻き込まれなきゃいけないんだ。
俺は本来、こんなわけわからないことをやらされるような人間じゃない。至って普通に生きる、一生を脇役で過ごすような人間だ。
それが、なんだってこんなことに。
ここにたどり着く確率ってのは如何ほどのもんなんだろう。根拠は無いが、気が遠くなるほど低い気がする。
そんな極小確率なら、宝くじを買ったときに起こって欲しかったもんだ。
そこまで考えて、俺はあることに気付いた。
仰向けのまま見上げた空が、わずかにブルーに染まっている。
さっきまでは、ここは全くの白一色だったはずだ。何がきっかけで色がついた?
「……そうか」
しばしの黙考の末、俺は思わず漏れた独り言と共にある考えに至った。
この世界に色がついた理由──それは、俺がブルーになったからではないか?
もう一度思い出してみよう。この世界は、深層意識の底の底、『全ての意識が統合される』世界。
ならば、俺の意識もまた世界の一部なのではないか?
ゆえに、俺の感情の傾きによってわずかに世界に変化が訪れた。
錆付いた歯車に潤滑油を垂らしたように、一気に思考が加速する。
“神”へと至る道。それは、世界のさらなる奥にアクセスするということ。
ならば、その扉とは、世界の欠片のことではないのか?
答えが出た。あの三つのどれでもない真の扉。それは……俺自身、だ。
もはや迷いは無かった。右手に握った幾何学模様の鍵を、ためらい無く心臓へと突き刺す。
思いっきり突き刺したはずなのに、俺の胸からは一滴の流血も無く、鍵は沼に沈みゆく木の枝のごとく、ずぶりと収まっていく。
やがて鍵が完全に心臓に達したとき、またも世界は激しく輝き──その光がゆっくりと消えると、代わりに大きな『球』が現れた。
手の中に納まるような、ほんの小さな『球』だったが、そこには途方も無いほどの存在感と、どんな宝石よりも魅惑的な光が溢れていた。
まさか──これが、“神”?
俺は何かに取り付かれたかのようにその『球』を手に取った。
途端、圧倒的な情報量が嵐のように俺の脳みそへと殺到する。
「っく……!」
取りこま……れる……
顔中にびっしりと浮かんだ脂汗を拭うこともせず、俺はその『球』から手を放す。
ほんのわずか、触れただけだったが、俺にはわかった。いや、わからされた。
今までに生き、死んでいった人間の全ての意識がそこにはあった。
人間が今までにしたことはすべて記憶され、あらゆる主観と客観性を備えていた。
ことこの星に住まう人間に限って言うならば──これは間違いなく、“神”というべき存在だ。
なるほど。よくわかった。確かにこいつならなんだってできそうだ。
神サマ。願い事を叶えてもらうぞ──
そう念じながら俺はさっきよりもずっと慎重に、目の前に浮かぶ『球』に手を触れた。
さっきと同じ感覚がやってくる。個が消え、圧倒的大多数に飲まれそうになるあの感覚。
神になりたいなんざ欠片も思わん。俺が望むのは、元通りの俺の世界だ!
脳みその中をでたらめに駆け巡る情報の奔流の中、俺はそれだけ吼えて口の端をにやりと歪ませた。
砂浜を静かになぞる、穏やかな波の音がする。
耳にはめたままにしていたイヤホンからは、何の音もしてこない。とっくにラジオの放送は終わっていたようだ。
俺はさっきと同じように、頬をつねってみる。
「いてえ」
思いっきりやってみたのだが、結果は思わず口から言葉が漏れるほどだった。
帰って来たのか。現実に。
いや、全て夢だったのだろうか?
いざ終わってみれば、いまいち自信がもてない。俺が、世界を救ったなどと。ちゃんちゃらお笑い種だ。
俺は半ば自嘲しながら、ベッドから降り立って窓の外を眺める。
またしても無意識に手をポケットの中につっこむと、右ポケットからかさり、と音がした。
何とも言えない予感と共に音の主を取り出し、しわがれたそれを広げる。
『ありがとう。君は世界を救ったんだ。未来を代表する者として、礼を言う』
俺は遠い目をして窓の外の海を見やった。
なんてこった。証拠が出てきちまったよ。まあ、それでも誰も信じやしないだろうが……
そう思いながらも、俺は奇妙な高揚感と満足感に包まれていた。
人知れず世界を救うヒーロー。かっこいいじゃないか。
客観的に認められる主人公になんざ、興味は無い。けれど、独りよがりなヒーローはもっと最悪だ。
だから、これでよかったんだろう。
ひとしきり満足した後、心地よい疲労感と眠気に襲われた俺は再びベッドへと舞い戻り、眠りに落ちた。
今度は“特異点”なんておかしな世界に繋がらないことを祈りつつ。
「夢の自覚」という小説をこれでもかー!というほど修正しまくった結果、さらによくわかんないこの小説が誕生しました。すいません(何