指パッチンで『やり直し』〜バラ色になり得た俺の未来〜
※本作には、暴言・暴力・残虐表現など、ショッキングな内容が含まれます。強い不快感を覚える可能性がありますので、これらの描写が苦手な方は閲覧をお控えいただき、お戻りください。
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「あっ」
書類の上に、インクがこぼれた。あーあ、やっちまったなあ……俺は苦い顔をしながら右手の指をパチンと鳴らすと、近くにあった雑巾を掴んだ。
「……はぁ」
大きなため息が聞こえる。少し離れたところから、受付嬢がこちらを見ていた。
「またですか?」
「いや、またっていうか、これは……」
「インクのことじゃなくて」
彼女は露骨に眉をひそめた。
「やめてもらえません? その、指鳴らすの。ちょっと苦手なんで」
「し、仕方ないだろ……」
俺が頭を掻いた頃には、彼女はもうこちらを見ていなかった。カウンターまで来た冒険者に向かって、さっきとは別人みたいな笑顔になる。
「お疲れさまです! 今日はどんな依頼をお探しですか?」
冒険者の男が何か冗談を言うと、彼女は愛想良く笑った。
その後ろで、俺はこぼれたインクを拭く。布に黒い染みが広がっていく。
――いつも、こんな扱いだ。
俺はただ、真面目に働いているだけだ。十七年も、このギルドで。朝は誰より早く来る。新人の書類を確認して、依頼の不備を直して、問題が起きれば頭を下げる。
なのに、俺はちょっとミスをしただけで、コソコソと笑われる。あの女なんて、俺を見るだけで顔をしかめる。俺だって、好きでこんな顔に生まれたわけじゃないんだよ。
内心イライラしながら机の上を片付けると、俺は黙って仕事を続けた。
◇
その日の帰りは遅くなった。時計を見ると、もう十時をまわっていた。誰もいないギルドで書類をまとめていると、まだ対応できていない依頼書を見つけた。
「⋯⋯は? これ三日前の受付じゃん」
使えねえ新人め、書類は俺に全部回せって言っただろうが。対応が遅いだの何だの、嫌味言われるのはこっちなんだよ。
「あーもう、鬱陶しいわ! どうせ確認なんかしないクセによぉ!」
俺は上司の机にある承認印を探しながら、パチンと指を鳴らした。今度は、誰も嫌な顔をしなかった。静かな部屋に、音だけが響いた。
◇
翌日、俺は一枚の報告書を手にしながら、冷や汗をかいていた。
「……なあ、お前、それ確認したのか?」
「いえ……私は、聞いてないというか……」
「昨日届いてた報告書だぞ⋯⋯採集場所のすぐ近くだ⋯⋯」
上司の肩が、わなわなと震えている。紙にもう一度、目を落とす。そこには、凶悪な魔物の目撃情報が記されていた。
おいおいおい、なんでだよ。“森に薬草を取りに行く” だけの依頼だろ? もう出発しちゃってるよ、見送っちまったよ。え? なんで目的地にオーガがいるんだよ。
上司が机を思いきり叩いた。
「バカ野郎がッ! 駆け出しの冒険者をオーガに食わせるつもりかッ!」
「……っ!」
怒鳴り声がギルド中に響く。誰かが状況を察して駆け寄り、別の誰かが冒険者を止めるために走り出す。俺の頭の中には、最悪の光景が浮かんでいた。
怪我人……え、オーガだろ? 全員、死ぬ?
「く、クソッ……」
俺は目を瞑り、両手で顔を覆った。騒ぎの音が、嫌でも耳に入ってくる。
……俺のせい? いや。俺の仕事が多すぎるからだろ。昨日だって残業だったぞ? というか、俺に伝わるようにしとけよ。だいたい、なんで俺が受付を代わったときに限って、こんなことが起こるんだよ。なんで。なんで俺が、こんな目に。
右手が勝手に動いた。
パチン。
――その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
◇
気がつくと、俺は受付に立っていた⋯⋯あれ、上司はどこに行った? さっき怒鳴られたばかりなのに。周囲も、妙に落ち着いている。
何が何だかわからず、あたりを見回していると、柱に掛けてある時計が目に入った。
「……え、一時間⋯⋯前?」
「あのー、すみません⋯⋯」
声をかけられて、ハッと向き直る。
冒険者が、不思議そうな顔で俺を見ていた。もう出発しているはずの、駆け出し冒険者。
「え? あっ……あ! この依頼は! ですね!」
俺は、胸の前で両腕をクロスさせながら叫んだ。
「これ、ダメ! 中止です! 中止!」
◇
「良かった、間に合ったぁ⋯⋯」
俺は椅子の背もたれに身を預け、天井を見つめていた。良かった、本当に。クビになるところだった⋯⋯あー、それだけじゃ済まないな。全部俺のせいにされて、牢屋にブチ込まれていたかもしれない。
それにしても⋯⋯。
「⋯⋯いや、なんで?」
俺は少し体を持ち上げて、右手を見る。試しに、パチン。
「……」
何も起きない。まあ、そうだわな。でも、考えられる要因っちゃあ、このくらいだ。
もう一度、パチン⋯⋯と鳴らしたところで、近くにいた受付嬢が、ものすごく嫌そうな顔でこちらを睨んでいるのに気づいた。
「何なんですか? さっきから」
「あ……」
「前に言いましたよね。嫌がらせですか?」
相変わらず、うるさい女だ。でも、あまり腹は立たなかった。さっきの不可解な現象が気になりすぎて、それどころじゃなかった。
◇
なんてこった。
俺はその日の内に、この能力が一度きりでないことを知った。あれからきっかり一時間後に指を鳴らすと、俺は胸の前で腕をバッテンにした状態で受付に立っていた。
どうやら、俺は指を鳴らすことで、一時間前に戻れるようになったらしい。一度使えば、次に使えるまで一時間。そして、俺の記憶だけが持ち越されている。
色々と試した。
仕事でわざと間違えて、パチン。
インクをこぼして、パチン。
上司の椅子をうっかり蹴飛ばして、パチン。
――俺は、感激していた。
「勝った⋯⋯!」
そう。俺は、人生に勝った。
最高じゃないか。失敗したら戻ればいい。恥をかいたら戻ればいい。嫌なことがあったら戻ればいい。そう考えるだけで、身体が軽くなった。
だから、以前なら躊躇していたことにも挑戦できた。
仕事で強気に発言する。上司から「お前は何様だ」とめちゃくちゃキレられる。やり直して、今度は言い方だけ変えてみる。柄にもなく、上司に褒められた。
俺は、いつの間にか笑っていることが増えた。受付嬢に嫌な顔をされても、前ほど腹が立たなくなった。
「どうせ、やり直せる」
その事実が、俺を大きく前進させた。
◇
最初は、小さな悪戯だった。
受付嬢の机に置いてあった書類を、別の場所へ隠してみた。
「……あれ?」
彼女が困っている。俺は知らない顔をして仕事を続けた。
「誰か見てませんか? 机の上に置いてたはずなんです」
周囲に尋ねて回る彼女を、俺は横目で眺めていた。しばらくしても書類は見つからず、彼女はとうとう涙目になって謝り始めた。
「すみません……私、どこかに置き忘れたのかもしれなくて……」
……ああ。いいな、これ。俺は口元を押さえた。もう少し見ていたかったが、このくらいにしてやるか。パチン。
次は、冒険者が書いた報告書をこっそり捨ててみた。受付嬢の反応を観察する。
「あれー? 渡しましたよねー」
「⋯⋯申し訳ございません。こちらで確認できない以上、お手数ですが再度ご記入を⋯⋯」
「えー? 渡したじゃないですかー! そっちの不手際でしょー?」
彼女が困った顔で頭を下げている。俺は笑いを堪えながら、同僚の助け舟が出るまでその様子を見ていた。パチン。
よし、ターゲット変更! ガチガチに丸めた依頼書で、上司の後頭部を思いっきり引っ叩いてみよう。しかも、二連撃だぞ。
「うわっ!」
一撃目で上司が席から立ち上がり、困惑した顔でこちらを振り返った瞬間、顔面に二撃目が入る。まさかの事態に、俺は思わず吹き出した。
さてさて、怒鳴られる前に、戻りましょうかね。パチンと。
――何も起きていない。でも、俺だけは覚えている。たまらなかった。
「俺は、やり直せる。やり直せるんだ!」
最高の気分だ。長かった。ここにきて、ようやく世界が俺を認めた。
◇
ある日の午後、俺は仕事でミスをした。わざとじゃなかったが、たいしたミスでもない。依頼書の日付を一日間違えただけだ。
でもまあ、俺が間違えたと思われるのも癪なので、やり直そうと右手の指を構える。
⋯⋯そういえば、左手でも戻れるのか? ちょっと練習しとこうかな⋯⋯ああ、やっぱりうまくいかない。何回試しても、スカッと不発の音がする。
「またですか?」
受付嬢が、俺を睨んでいた。
「な、何だよ。最近やってなかっただろ……」
「本当に嫌なんですよ、それ」
彼女はため息をついた。
「音も嫌ですけど、そうやって失敗したときに鳴らすところも嫌です」
汚物でも見るような目つき。
「俺は別に……俺の勝手だし⋯⋯」
「そういうところですよ」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「いつも、自分は何も悪くないとか思ってません? もう少し、周りからどう見えてるか考えたらどうですか?」
イラ、イラ、イラ。
「お姉ちゃーん! 受付お願い!」
「あ、はーい! お待たせしました!」
明るい声。笑顔。さっきまでとは、まるで違う。
俺は右手を構えた。
「……」
何故だか、今回だけは、やり直す気にならなかった。それよりも⋯⋯そう、アイツに対する怒りを忘れないことの方が大事だ。
そうだ、俺は怒っている。勤め始めて一年そこそこのガキが、好き勝手言いやがって。顔がいいからってだけで周りからチヤホヤされて。何の苦労も知らないクソガキが。
なんとかして、目にモノ見せてやりたい。どうすれば、この怒りを収められる? どうすれば⋯⋯。
⋯⋯ああ。
思いついた瞬間、心臓が一瞬キュッとなって、その後すぐ、自分でもうるさいと思うほどに、鼓動が大きくなった。
俺は何をしても、一時間以内なら許される。
⋯⋯なら。本当に何をしても、いいんじゃないか?
◇
それから俺は、彼女を観察するようになった。
仕事が終わる時間。帰る方向。何時ごろ一人になるのか。どこで買い物をするのか⋯⋯。
次の日も、その次の日も。気づけば彼女の姿を目で追うようになっていた。俺は妙に冷静で、まるで仕事の段取りを考えているみたいだった。
そして、ある日の夜。俺は人気のない港の近くで、彼女を待っていた。
やがて、街灯の明かりが途切れる場所まで、彼女が一人で歩いてくる。
俺は物陰から出ると、後ろから口を押さえた。
「んっ……!」
「騒ぐな……騒ぐなよ……!」
彼女の身体が強張る。俺は震える手で、持っていたナイフを首元に突きつけた。
「わ、わかるか? お前の、大嫌いな男だぞ」
「……!」
「俺のこと、気持ち悪いんだろ? い、いつも馬鹿に、しやがって」
彼女は、俺に動きを封じられたまま小さく震えている。カチカチと歯が鳴っているのが聞こえる。それが妙に腹立たしかった。
「……な、なんとか、言ってみろよ。俺だってな……!」
声が大きくなる。
「俺だって、十七年も真面目に働いてきたんだぞ! お、俺だって……」
次のセリフが出てこない。代わりに、ナイフを強く押しつけた。刃先が皮膚に食い込み、小さく血がにじむ。
「あっ、お前を殺すことくらい、簡単なんだぞ……!」
彼女の唇が震えるのを感じた。
「……お、お願っ……やめ……!」
暗闇の中に、彼女の目が潤んでいるのが見えた。
⋯⋯やめようか。
今、俺はとんでもないことをしようとしているのでは? ⋯⋯ここでやめれば、まだ引き返せる。ナイフを捨てて、指を鳴らして、何もなかったことに⋯⋯。
――いや。違うだろ?
俺は、後からでもやり直せる。パチン、と鳴らせば、そうすれば、全部なかったことになる。だったら⋯⋯だったら、何を恐れる必要がある? 俺はやり直せる。やり直せるんだ。
その考えが、胸の奥に落ちた。
俺は一線を越えた。
◇
すすり泣く声だけが聞こえる。彼女は、もう震えてはいなかった。ただ、自分の身体を抱きしめるようにして廃倉庫の床に丸まったまま、ひと言も発さなかった。
俺は、そんな彼女を見下ろしていた。
やった。やっちまった。
達成感? 後悔? なんだろう。この感覚は、俺自身にも説明ができない。ただ、背筋がヒヤッとするような、胸の奥がざわつくような感覚。
⋯⋯大丈夫、大丈夫だ。俺は、やり直せる。全部なかったことになる。彼女は何も覚えていないし、俺だって、何もしていない。
乱れた呼吸が整うにつれ、さっきまでの妙な気分が、少しずつ薄れていく。むしろ、安心感さえある。そうだ、俺はやり直せる。やり直せるんだから。
俺はゆっくりと右手を上げた。
「……じゃあな」
パチン。
◇
翌朝、俺は自分のベッドで目を覚ました。といっても、興奮してほとんど眠れなかったが。
あの後、俺は彼女を襲わず、何事もなかったかのように家に帰った。実際、何事もなかったのだ。
顔を洗い、朝食を食べる。そして、いつもより遅くギルドへ向かう。
彼女は、既にそこにいた。
「おはようございます」
人懐っこい笑みを浮かべながら、同僚に挨拶している。昨日のことなど、何も覚えちゃいない。
「……すごい」
俺は呟いた。
「すごい……」
今までそうだったように、全部消えている。分かっていたはずなのに、それが急に現実味を帯びてくる。
彼女は俺に気づくと、ビクッと体を震わせ、足早に俺から遠ざかっていった。
⋯⋯ああ、顔が緩んでいた。そりゃビビるわな、こんなオッサンが自分を見てニヤニヤ笑ってたら。
俺は、その小さい背中を見つめた。
俺だけは知っている。あの夜、何があったのか。お前がどんな顔をしていたのか、どんな声を出していたのか。胸の奥が熱くなるのを感じる。
――俺は、お前をどうにでもできる。今まで俺を見下してきたお前を。
◇
「えっ、結婚するの?」
⋯⋯なんて?
「はい、来月には⋯⋯」
「えー! おめでとー!」
「もしかして、相手って⋯⋯あの冒険者?」
「そうです」
「うわー、いいなあ! カッコいいし、強いし!」
結婚? 来月に?
俺は黙って彼女を見た。知らなかった。そんな話、一度も聞いたことがない。
いや、当然か。仲のいい同僚が知らなかったことを、俺が知っているはずがない。
⋯⋯嬉しそうだった。本当に、嬉しそうだった。頬を少し赤くして、恥ずかしそうに笑っている。一度も見たことのない顔。
「式とか、もう決めたの?」
「まだ細かいところはこれからですけど……」
「いいなあ!」
楽しそうな声が耳に入ってくる。俺は、その場に立ったまま動けなかった。
……なんだよ。何がそんなに嬉しいんだよ。そんなに笑えるなら、俺にだって少しくらい笑ってくれても良かっただろ。
俺は仕事を続けた。だけど、その日一日、何をしていても彼女の顔が頭から離れなかった。
◇
職場からの帰り道。
街はいつもと変わらない。店から漏れる明かり。楽しそうに話しながら歩く冒険者たち。酒場から聞こえてくる笑い声。全部が、やけにうるさく感じた。
……なんでだよ。俺だって、ずっと真面目に働いてきた。あいつよりも、ずっと長い間。なのに、なんで、あいつばっかり。なんで、俺は。歩きながら、右手を握った。
……そうだ。俺には、これがある。やっと手に入れたこの力。俺だって、幸せになっていいはずだ。
今までずっと我慢してきたんだ。誰にも認められなかった。誰にも大事にされなかった。だったら、これくらい。これくらい、俺が好きにしたって⋯⋯。
ふと、足が止まった。
……そうだ。
俺しか知らない。俺しか知らないんだ。あいつが、あの夜どんな顔をしていたのか。どんな声を出していたのか。俺だけが知っている。俺だけが。
もう一度、彼女の笑顔が頭に浮かんだ。
次のチャンスが訪れたとき、俺は迷いなく彼女を襲った。
◇
「⋯⋯は?」
彼女は泣きながらうずくまり、壊れた機械みたいに謝罪の言葉を繰り返し続けていた。
パチン。パチン。パチン。
なんでだよ⋯⋯おかしいだろ。やり直したはずなのに。
パチン。パチン。パチン。
⋯⋯ああ。
ああああ。おいおいおい。やっちまった。完全にミスった。
一時間、過ぎていた。
なんでだよ。なんで二時間じゃないんだよ。クソ。クソ。どうすればいいんだよ。冗談だろ? どうすんだよこれ。謝る? これまだ手は出してないよな⋯⋯いや、バカがよ、それで済むわけねえだろ。待て待て。え? クビ? 牢屋行き? おい、あんまりだろ。十七年も真面目にやってきてコレかよ。なんでこんなことになるんだよ。
「ごめんなさい⋯⋯ごめんなさい⋯⋯」
ごめんじゃねえよ。ごめんじゃねえよ! え、逃げればいいのか? 俺は。だいたい、全部お前のせいだろ。お前が俺をバカにしたからだろ、全部。何だよ結婚て。何でお前ばっかり幸せなんだよ。これ、逃げ切れるのか? いや、お前のせいで俺の人生メチャクチャなんだよ。おい。どうすりゃいいんだよ。どうすりゃ。
まとまらない。許されるはずがない。口止めできるか? 周りが気づくだろう。俺の積み上げてきたものが、全部パーになる。俺の人生が、全部。コイツのせいで。
あ。
そうだ。
◇
何だか、妙に頭がスッキリしていた。俺は、逃げ延びるために必死だった。食い物は盗んで、バレたらやり直した。
両手に残った、生暖かい首の感触が抜けない。俺を見つめていた瞳が、瞼の裏から消えない。海に投げ入れたときの音が、耳から離れない。
それでも、女を襲ったり、頭をハンマーでぶん殴ったりしていると、あの時の感覚を上書きして、少しずつ薄められる気がした。大丈夫だ、誰にも迷惑はかけていない。やり直せば問題ない。
あれ、やり直したっけ?
あのときは時間オーバーしたから無理だったんじゃ? ⋯⋯あー、そうだそうだ。戻ってなかったかもな。一時間っていうのが、けっこう面倒くさいんだよな。
あの女のときは? あー、失敗したから戻したっけ。あ、戻したわ。その後の女が無理だったのか。
まあいいや。とりあえず、腹が減った。今日の晩メシをどうにかしないとな。まったく、どうにも使いこなすのが難しい力だが、上手く付き合っていけば、何とかなりそうだ。俺は、幸せにならなきゃいけないんだから。
◇
俺は、森の中を走っていた。
息が切れる。足が痛い。もう、どれだけ逃げているのかも分からない。何回もやり直しているのに、何回も道を変えているのに、何回でも追いかけてくる。
背後から声がした。
「オーイ! 止まれよー」
眼帯を付けた男が、手斧を担いで追いかけてくる。またアイツだ。クソが。
「もう年貢の納め時だっつーの! いい加減にしとけー」
しつこいんだよ、畜生。本気になればすぐ追いつけます、みたいな余裕かましながら、ジリジリと距離を詰めてくる。なんて悪趣味なヤツだ。
あと三分。あと三分稼げれば、やり直せる。
「⋯⋯ま、こんだけ言っても聞く気がないなら、しゃーねえよ⋯⋯なァッ!」
後ろから男の声が聞こえた、その直後。
ヒュンヒュンヒュン。
――ザクッ。
「っん、ぎゃあああぁぁぁッ!」
「⋯⋯大当たりィ」
痛いッ! えっ、ない、ない!
右腕がない!
「手がッ! 右手ぇッ! うわああぁッ!」
血! 血が! 痛い! 痛い! 痛い!
そうだ戻ればいい、やり直せば元に戻る、やり直せば!
どうやって? え?
右腕! 俺の右腕がない、俺の右腕がない!
左、左手! ダメだ、できない! 出ない!
できない、頼む! 頼む!
「あー、勘違いすんなよ。まだ死なれたら困るからさ」
コイツ! コイツがやった! お前っ⋯⋯なんで! なんでこんなことができる!
「止血してやっから、大人しくしとけ⋯⋯オラァッ!」
「ぎゃああああぁぁぁッ!」
熱い! 熱い! 痛い! 熱い!
「⋯⋯あのさぁ、知ってっかァ? お前のとーちゃん、自殺したらしいぞ。救いようのねェ親不孝モンだな、ホントに」
熱い! 痛い! なんでっ! なんで俺ばっかり、こんな目にッ!
「はーあ。ダメだな、こりゃ⋯⋯」
「いたぞっ! 追いついたっ!」
な、何だよ! 誰だよ、お前らっ! なに集まってきてんだよ! 見せ物じゃねえんだよ!
「なぁ、人気者……よかったなァ。お前を忘れられないヤツが、こんなにいるんだぜ」
◇
「くたばれッ!」
「クズ! この、人間のクズが!」
痛え、痛えよぉ⋯⋯。
「このゴミ野郎! 死ね!」
「ねーちゃんを返せぇッ!」
もう、うるせえよ⋯⋯誰だよお前ら。なんでこんなことするんだよ。なんで俺がこんな目に遭わなきゃならねえんだよ⋯⋯。
「お前が、お前のせいで⋯⋯結婚も決まってたんだぞ……それをお前がっ! お前がっ⋯⋯!」
知らねえよ⋯⋯お前の結婚なんて。誰だよ。
「よくも、よくも……!」
「おい、頭はやめろ! できるだけ苦しめるんだ!」
ひでえ。なんでこんなことできるんだよ。寄ってたかって。一人を虐めて。俺だって、好きでこんな顔に生まれたんじゃねえんだよ。
「地獄へ落ちろォ!」
ああ、戻りてえ。やり直してえ⋯⋯なあ神様。アンタ、ホントにクソだな。ずっと真面目にやってきたのによ。ひとつくらい、願い叶えてくれたっていいだろ。
「なんであの子が死んでっ! お前が生きてんだよっ!」
書類の山。毎日遅くまで働いて、上司に怒られて。家に帰って。一人で飯を食って。腹を立てながら、次の日も仕事へ行って。
「このヤロォッ! 娘の痛みを思い知れぇッ!」
⋯⋯戻りたいか? いや、あんな生活、クソ食らえだな。どっからやり直そうかなあ⋯⋯あー、どっからやり直してもクソかなあ。やっぱ生まれたとこからがいいかなあ。
「テメェなんて人間じゃねえッ! 悪魔ッ! 悪魔だッ!」
あー、悪魔? 悪魔かあ。そうだよなあ。お前らは悪魔だよ。ちょっとミスしたくらいでコソコソ笑いやがって。
⋯⋯え、俺が悪魔? ああ、そっちね。
あー、なるほど、人間じゃねえってか。
そっか。そっかそっか。あー。
俺はもう、やり直せないんだ。
はは。




