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偽りの聖花(ひまわり)が枯れるまで

作者: やまなし
掲載日:2026/05/07

王都に遅い春を告げる雨が、公爵邸の豪奢な窓を叩いていた。

「愛しているよ、アニエス。君は僕の生涯で唯一の、かけがえのない光だ」

夫であるジェラール・ド・クラレンス公爵は、私の指先にそっと唇を寄せた。

彼の髪は、夜の月光を浴びたように美しい銀色をしている。その髪が私の頬に触れるたび、私は自分が世界で最も幸福な妻であると信じて疑わなかった。

私とジェラールの婚姻は、いわゆる「政略結婚」だった。

私の実家であるローザン伯爵家は、代々この異世界クローバー王国の魔力流通を司る、歴史だけは古い困窮貴族。一方、クラレンス公爵家は若き俊英たるジェラールが率いる、王家すら一目置く新興の権力者。

家格の釣り合わない結婚だったが、ジェラールは私を熱烈に口説き落とした。

『君の瞳の奥にある、決して折れない気高さに惚れたんだ』

その言葉を真に受けた私は、不慣れな公爵夫人の座を全うすべく、死に物狂いで努力した。

公爵領の複雑な帳簿を整理し、社交界での嫌がらせを笑顔で受け流し、彼の完璧なトロフィー・ワイフであり続けるために、血の滲むような日々を送ってきたのだ。

すべては、彼のあの甘い囁きが、私だけのものだと信じていたから。

「……ええ、私も愛しておりますわ、ジェラール様」

私はいつも通り、淑女の微笑みを返した。

だが、私の心臓は、薄氷を踏み抜いたように冷たく凍りついていた。

――彼の銀髪の隙間から、ほんのりと漂う甘ったるい香り。

それは、私が決して使わない、王都の安価な香水店「百合の園」の、悪趣味なほど強い「林檎の蜜」の匂いだった。

そして、彼の仕立ての良い上着の裏ポケットから、ほんの一瞬だけ覗いた上質な羊皮紙。

そこには、ジェラールの端正な筆跡とは異なる、丸っこくて稚拙な文字でこう記されていた。

『愛しいジェラール様へ。お腹の赤ちゃんが、最近よく動くの。あなたの銀の髪に似た子が産まれたら、きっと素敵ね。来週の水曜日、いつもの隠れ家でお待ちしています。あなたの、リリィより』

脳の芯が、じりじりと焼けるような音がした。

お腹の赤ちゃん。

銀の髪。

来週の水曜日。

私たちが結婚して、今年でちょうど三年になる。

私たちはまだ子宝に恵まれていなかった。ジェラールはいつも「君の体が一番大事だから、焦る必要はないよ」と、私の手を握って優しく微笑んでいたのに。

「アニエス? どうかしたかい? 顔色が悪いようだが」

ジェラールが、心底心配そうに私の頬に手を添える。その手の温かさが、今はただ、蛇の鱗のように不快で、吐き気がした。

「いいえ、少し夜風が冷たいだけですわ」

「そうか。無理をしてはいけないよ。僕の可愛いアニエス」

彼は私の額に優しく口づけを残し、「仕事が残っているから」と執務室へ消えていった。

扉が閉まった瞬間、私は懐紙で額を強く拭った。皮膚が赤くなるまで、何度も、何度も。

涙は出なかった。

ただ、胸の奥で、私が三年間かけて育ててきた「愛」という名の美しい花が、音を立ててボロボロに崩れ落ち、真っ黒な炭へと変わっていくのを感じていた。

「……おいたわしや、アニエス様」

影から音もなく現れたのは、私の実家から連れてきた老従僕、ハンスだった。彼は私が異変に気づいたことを、その鋭い洞察力で察したのだろう。

「ハンス」

「ハ、ここに」

「水曜日までに、すべてを調べなさい。相手の素性、住処、妊娠の真偽。そして……我が夫が、その女に『公爵家の資産』をどれほど流しているかを」

私の声は、自分でも驚くほど冷酷に響いた。

悲しみなど、とっくに通り過ぎていた。残ったのは、私の誇りと人生を足蹴にした男への、底冷えするような激しい怒りだけだ。

「御意に。我が主の誇りのために、すべてを暴いてみせましょう」

ハンスは深く一礼し、闇に溶けるように去っていった。

私は窓の外の雨を見つめながら、静かに拳を握りしめた。

ジェラール、あなたの言う「愛」の価値がどれほどのものか、私が直々に査定して差し上げますわ。

------------------------------

三日後、ハンスがもたらした報告書は、私の想像を遥かに超えて滑稽で、そして醜悪なものだった。

「不倫相手の名はマリー。王都の貧民街に近い裏通りにある、酒場の看板娘です。ジェラール様とは、私どもとの婚姻の前からの関係だとか」

「婚姻の前から?」

「はい。ジェラール様は彼女を『リリィ(百合)』と呼び、王都の高級住宅街に小綺麗な邸宅を買い与え、そこに住まわせています。生活費、衣装代、すべて公爵家の『領地改良費』の名目で処理されていました」

私は思わず失笑した。

領地改良費。私が夜を徹して計算し、少しでも農民たちの暮らしが良くなるようにと捻出した予算が、裏街の女の絹のドレスや、金ピカの調度品に消えていたのだ。

「さらに、マリーの腹にある子は現在、妊娠六ヶ月。計算は合います。ジェラール様が『地方視察』と称して、二週間ほど屋敷を空けていた時期です」

「そう。視察ではなく、愛巣で父親になる予行練習をしていたのね」

ハンスが差し出した数々の証拠書類。

そこには、ジェラールがマリー名義で開設した銀行口座の写し、女に買い与えた宝石の領収書、そして二人が睦まじく腕を組んで歩く姿を捉えた魔導写真までが含まれていた。

写真の中のジェラールは、私に見せる完璧な「公爵としての微笑み」ではなく、一人のだらしない男としての、締まりのない笑みを浮かべていた。

そしてその隣で、お腹を愛おしそうに撫でているマリーという女。彼女の髪は、見事な黄金色だった。まるで、太陽を向いて咲く、ひまわりのように。

「ハンス。クラレンス公爵家の財政状況はどうなっているかしら?」

「アニエス様が経営に介入される前は、放蕩とずさんな管理により火の車でした。現在の黒字は、ひとえにアニエス様が導入された『魔導触媒の流通改革』による利益です。この特許と流通権は、ローザン伯爵家――つまりアニエス様個人に帰属しております」

「そうだったわね」

私は唇の端を吊り上げた。

この世界において、貴族の婚姻契約は絶対だ。だが、それには明確なルールがある。

「不貞を行った側は、相手方に対して婚姻時の持参金の三倍を支払い、さらに婚姻期間中に築いた不貞側の財産の過半数を慰謝料として譲渡する」

これは、クローバー王国の聖法が定めた、絶対の不条理に対する防壁だ。

ジェラールは、私が実家を救うために彼に依存していると思い込んでいる。

だから、私が気づくはずがないと、高を括っていたのだ。

「ねえ、ハンス。次の水曜日、彼らの『愛の巣』に、少し遅れてお邪魔しようかしら。極上のプレゼントを持って」

「お供いたします、アニエス様。極上の『終わり』を用意いたしましょう」

------------------------------

水曜日。王都は雲一つない快晴だった。

ジェラールは朝から「王宮での緊急会議がある」と言って、いそいそと出かけていった。いつもより念入りに銀髪を整え、新しい香水を纏って。

私は、最高級の喪服を思わせる、漆黒の夜会ドレスに身を包んだ。

ベールで顔を隠し、ハンスが手配した紋章のない馬車に乗り込む。向かうは、王都の一等地にある、白い壁が美しい邸宅――通称「百合の館」。

馬車が目的地の前に止まる。

ハンスが静かに扉を開け、私は優雅に足を踏み出した。

庭には、季節外れのひまわりの花が魔導具によって咲き乱れていた。実に見事な、成金趣味の庭だ。

「おい、お前たちは誰だ! ここは私有地だぞ!」

玄関を守っていた私兵が慌てて立ち塞がったが、ハンスがローザン伯爵家の憲兵バッジを突きつけると、顔を真っ青にしてへたり込んだ。王国の聖法に基づく不貞調査において、伯爵家の介入を拒むことは「王命違反」に等しい。

私は、施錠されていた大理石の扉を、自らの魔力で物理的に吹き飛ばした。

轟音と共に扉が粉砕され、館の中に悲鳴が響き渡る。

「な、何事だ! 強盗か!?」

奥の広間から飛び出してきたのは、上着を脱ぎ、シャツのボタンをいくつか外したジェラールだった。その完璧な銀髪は少し乱れている。

そして彼の後ろには、大きくなったお腹を抱え、恐怖に震える金髪の女――マリーがいた。

「ごきげんよう、ジェラール様。王宮での緊急会議は、随分とアットホームな場所で行われているのですね」

私がゆっくりと顔のベールを跳ね上げると、ジェラールの顔から、一瞬にして全ての血の気が引いた。

「ア、アニエス……!? なぜ、君がここに……」

「なぜ、かしら? 夫がどこで、どのような『改良費』を使っているのか、妻として監査に参りましたの」

「これは、その、誤解だ! 彼女は、ただの……!」

ジェラールは必死に頭を回転させ、言い訳を探そうとしている。その姿が、あまりにも哀れで、滑稽だった。

「誤解? では、この書類も誤解かしら?」

私はハンスから受け取った、分厚い報告書の束を、大理石の床にぶちまけた。

ひらひらと舞い散る紙片には、二人の生々しい逢瀬の記録と、公爵家から流出させた金の流れが克明に記されている。

「ジェラール、あなた! この女が、あの本妻なの!?」

後ろからマリーが、ヒステリックな声を上げた。

「話が違うじゃない! 私を一番に愛してるって、あの女はただの飾りだって言ったじゃない! 私のお腹には、あなたの跡取りがいるのよ!」

「黙れ、マリー! 今は喋るな!」

ジェラールが声を荒げる。

「あら、マリーさん。どうぞお続けになって」

私は優雅にソファに腰掛け、足を組んだ。

「ジェラール様が、私を『飾り』だとおっしゃったのね。ええ、確かにそうかもしれませんわ。私はただ、彼の代わりに領地を世話し、金を稼ぎ、公爵家の名誉を守るだけの『便利な飾り』でしたもの」

「アニエス、聞いてくれ! 僕は君を愛しているんだ! 彼女とは、ただの、その……男の甲斐性というか、行きずりの関係で……!」

ジェラールは私の前に跪き、私のドレスの裾を掴もうとした。

「愛している」という、あの銀の髪から紡がれる言葉。

かつては私の世界を輝かせたその言葉が、今はただ、泥水のように汚らしく、耳を汚すノイズにしか聞こえない。

「『愛している』、ですか。ジェラール様、あなたのその言葉の賞味期限は、この書類を作った瞬間に切れていますわ」

私は冷たい目で彼を見下ろした。

「あなたは、私をローザン伯爵家の『無力な令嬢』だと思っていたのでしょう? 私があなたに泣きつき、すべてを許すとでも? ……甘いですわね。私は、クラレンス公爵家のすべての財政の鍵を握っているのですよ」

私は懐から、一枚の聖印が押された羊皮紙を取り出した。

それは、クローバー王国最高法廷が発行した「即時不貞立証および財産差し押さえ命令書」だった。

「本日をもって、あなたとの婚姻関係を解消します。不貞のペナルティとして、クラレンス公爵領の全資産の過半数、および過去三年間の魔導流通利益のすべてを、我がローザン伯爵家が徴収いたします。……ああ、それから」

私は怯えるマリーと、絶望に目を見開くジェラールを交互に見つめた。

「この『百合の館』も、公爵家の資産で購入されたものですから、当然差し押さえの対象ですわ。明日には、執行官があなた方をここから叩き出します」

「そんな……! 嘘よ! 私の赤ちゃんはどうなるの!?」

マリーが泣き叫ぶ。

「どうぞ、お二人で手を携えて、貧民街で慎ましく暮らしてくださいな。あなたがたの言う『真実の愛』があれば、お金なんてなくても、きっと幸せになれるのでしょう?」

「アニエス! 待ってくれ! 頼む、僕が悪かった! 君を失ったら、公爵家は破産する!」

ジェラールが床に額を擦り付け、涙を流して縋り付いてくる。

かつて社交界の寵児と呼ばれた、誇り高き公爵の見る影もない姿。

私はその姿に、一滴の同情も覚えなかった。

「さようなら、ジェラール様。あなたの美しい銀髪が、ストレスで白髪に変わらないことを祈っておりますわ」

私は立ち上がり、一度も振り返ることなく、崩壊した扉から外へと歩き出した。

------------------------------

事件から一ヶ月後。

王都の社交界は、クラレンス公爵家の没落の話題で持ちきりだった。

財産の過半数を失い、さらに私という「経営の天才」を失ったクラレンス公爵領は、またたく間に債務超過に陥った。ジェラールは爵位を剥奪され、今や王都の片隅で、借金取りに追われる日々を送っているという。

マリーという女も、金がなくなったジェラールを見捨て、別の男のもとへ走ったそうだ。彼らの「純愛」など、所詮はその程度のものだったのだ。

一方、私は――。

王国の北方に位置する、広大な「レオンハルト公国」の、美しい薔薇の庭園にいた。

「アニエス、今日の仕入れの帳簿だが……少し、私には数字が優しすぎるように思える。君がまた、我が領民のために無理をしたのではないか?」

背後からかかったのは、ジェラールの軽い声とは違う、地鳴りのように低く、だがどこまでも誠実で心地よい声。

振り返ると、そこには漆黒の髪と、燃えるような緋色の瞳を持つ男――リュシアン・フォン・レオンハルト大公が立っていた。

彼は、私が公爵家を飛び出した後、私の「魔導流通の才能」をいち早く見抜き、国家規模の共同事業を持ちかけてきた、新たなるビジネスパートナーであり……。

「無理などしておりませんわ、リュシアン様。これが適正な価格です。レオンハルトの民が豊かになれば、巡り巡って我がローザン家の利益になりますもの」

私が微笑むと、リュシアンはふっと表情を緩め、私の前に歩み寄った。

彼はジェラールのように、おざなりな手への口づけはしない。代わりに、私の冷えた手を、彼の大きな、温かい両手で包み込んでくれた。

「君はいつも正しい。だが、私は利益のために君をここに引き留めているわけではない」

彼の緋色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。そこには、下卑た欲望も、私を利用しようとする欺瞞も一切なかった。あるのは、一人の人間に対する、深い敬意と熱情だけだ。

「私は、君という人間そのものを、私の生涯をかけて守りたいと思っている。アニエス、前の男が君に植え付けた『愛』という名の傷痕を、私が全て塗り替えてみせる。だから……私と、本当の未来を築いてくれないか?」

彼の温もりが、私の凍りついていた心の奥底を、ゆっくりと、確実に溶かしていく。

「リュシアン様。私は、一度裏切られた身ですわ? 簡単に『はい』とは言えませんの」

「構わない。君が私を完全に信じてくれるまで、何年でも、何十年でも、私は君を口説き続けよう」

不敵に、だがどこまでも優しく笑う黒髪の大公。

彼の手の温もりを感じながら、私は確信していた。

私の人生の第二幕は、あの偽りの銀髪の男よりも、遥かに輝かしく、美しいものになるということを。

「ふふ、お覚悟はよろしいですか? 私を満足させるのは、とても大変ですわよ?」

「望むところだ、私の愛しいアニエス」

青空の下、私たちの新しい物語が、静かに、そして力強く動き始めた。

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