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ダメンズを愛する女、転生してやり直す 〜わたしの愛が男をダメにする〜

作者: 小鳥遊ゆう


わたしが愛する男は、ダメ男ばかり。


わたしは愛情深い方だと思う。男たちを献身的に支え、助け、労っているのに。皆、どういうわけか、揃いも揃ってダメ男。


わたしが悪いのか?


いや、そんなことはないはず。ただ、ただ、男運に見放されているだけ……。




大学生の頃だ。友達に誘われて寂れた商店街の裏にある、怪しげな占い師の元を訪ねた事があった。


「あなたの運命占います」


店先にそう、達筆で書かれた紙が貼ってあり、中には煤けた白髪の老婆が座っていた。


わたしの手相を見た老婆は、静かに顔を上げた。その眼差しは魂の奥底を見透かしているようで、当時のわたしはたじろいだ。


「あなたは、ダメな男に惹かれる女だね」老婆の声は、低く、湿っていた。


わたしは反射的に反発した。「そんなわけないです。わたしは、夢を追う、熱心な人が好きなだけです!」


老婆は、わたしの言葉を無視して続けた。


「いや、それだけじゃない。なんなら、男をダメにする女だね、こりゃ酷い。」


「なんですか、それ!」わたしは怒りで声を荒げた。


その瞬間、隣に座っていた友達のサキが、声を上げて笑った。


「やっぱりー! ゆき、図星だよ、それ!」


サキはわたしの腕をバンバンと叩きながら、楽しそうに笑う。


「この前付き合ってた、バンドマンの彼。才能はあったと思うけど、ゆきと付き合い始めてから練習しなくなったでしょ?  ゆきがバイト代で全部、機材買って、ご飯作って、お姫様みたいに扱ってたからじゃない? 結局、彼、ゆきに借金を全部押し付けて消えちゃったじゃん」


サキの言葉は、老婆の言葉よりも、わたしの胸に痛い刃のように突き刺さった。わたしの献身は愛ではなく、依存心を育てるための甘い毒なのか。


老婆は、静かにわたしの掌を閉じた。


「あなたの魂には『献身』と『堕落』の線が、奇妙に絡み合っている。あなたの献身は、男の才能の根を腐らせてしまう。気をつけな。クヒヒヒ」


わたしは「そんなの、たかが占いだ」と強がった。


だが、その後の人生はまるでその予言を裏付けるために存在しているかのように、ダメ男にばかり惹かれてうまくいかなかった。




一人目はバンドマンのシュウ。


彼の歌には、心を震わせる力があった。特に、わたしのために作ったというバラードは、わたしの心を鷲掴みにした。彼はいつも金欠で、チケットのノルマを捌くためにわたしの腕を掴んで「頼む、俺のためだろ?」と囁いた。


ある日、彼のギターの弦が切れた。わたしはバイトで貯めた五万円を叩いて、彼が欲しがっていたヴィンテージのギターを買ってやった。彼は涙を流してわたしを抱きしめた。


「お前だけが、俺のすべてだ」


しかし、わたしの献身は彼の自制心を蝕んでいった。彼は次第に傲慢になり、その熱情を音楽ではなく女へ向けるようになった。複数のファンの子に手を出し、楽屋裏でトラブルを起こすことが常態化していった。


ある日バンドのリーダーから、シュウに宣告が下された。


「もう、お前はクビだ。お前の女関係のせいで、うちのバンドの評判がガタ落ちだ」


シュウはバンドを追い出された。彼の悪評はバンド界隈に流れていたため、当然、彼を仲間にするようなグループはなかった。彼は、ただ一言、吐き捨てるように言った。


「俺の音楽は、孤独から生まれるんだ。仲間なんか必要ない」


彼はそう言って、わたしが買ってやったギターだけを抱え、部屋を出て行った。その後の彼の行方は知れない。




二人目はお笑い芸人志望のタカシ。


彼は、常に人を笑わせることに貪欲だった。しかし、その情熱は舞台の上だけで、生活能力はゼロ。同棲していた六畳一間のアパートの家賃が払えなくなり、電気もガスも止まった真冬の夜。


「寒いな。なぁ、ゆき。俺が売れたら、こんな寒い思いはさせないよ。もっと、もっと、頑張るからさ」


彼はそう言って、コンビニで買ってきた肉まんと、わたしの安いブランケットを分け合った。その優しい笑顔に、わたしは財布を開いた。だけど私の献身は、彼の努力を停止させた。


いつしか彼はネタを考えることをやめた。そうして劇場へ通うはずの足は、パチンコ店へと向かうようになった。パチンコ代をせびり、それでも足りなければわたしの私物、最終的にはわたしの指輪まで質に入れて、パチンコにつぎ込んだ。


わたしがついに資金の援助を断ち、彼に芸人として成功する夢を諦めるのかと問い詰めたとき、彼はあっさりとわたしと夢を捨てた。


彼が出ていったあと部屋に残されたのは、積み上げられたパチンコ雑誌と、大量のボツネタが書かれたノートだけだった。


後日、風の噂で耳にした。


彼は「良い金になる」という誘いに乗り、パチンコのゴト師のグループに加わり打ち子として郊外のパチンコ店を転々として暮らしている、と。




そして、最後。


カフェで出会った、線の細い、哀愁を帯びた小説家志望の男、リュウ。


「夢は、いつか自分の小説で世界を変えること」という彼の言葉に、わたしの財布の紐は簡単に緩んだ。わたしは彼の生活を支え、彼に執筆の時間を確保してやった。彼の部屋はいつも原稿用紙で散らかり、その熱にわたしは酔った。


貢いだ。貢いで、貢いで、わたしのすべてを彼に捧げた。彼の夢が、わたしの生きる理由だった。


結局、彼はわたしの元にいる間、賞を受賞することも、作品を世に出すこともできなかった。それどころか賞の締め切りに追われる日々の中、彼は徐々に酒に逃げるようになっていった。


わたしの貢ぐ金が尽きると、リュウの苛立ちは頂点に達した。その夜も、彼は創作の苦しみから逃れるように安酒を呷っていた。


「リュウ、もうやめて。また手が震えるわ」


わたしは床に散乱した原稿用紙を踏まないように進み、彼の横にあった安物のウィスキーのボトルを掴んだ。


「余計な世話だ! 邪魔をするな!」彼はわたしに向かって叫び、目を血走らせた。


「わたしはあなたの身体が心配なのよ! お酒ばっかり飲んで、まともな小説が書けるわけないでしょう!」


わたしがボトルを遠ざけようとするとリュウは激昂し、獲物を奪われた獣のようにわたしの腕に掴みかかった。


「返せ! それは俺のだ!」


彼は酒のせいで、力の加減を誤った。わたしの細い腕を掴み、無理やりボトルを取り返そうと引っ張る。その反動でわたしはバランスを崩し、体を大きくよろめかせた。


後頭部に冷たい硬質な感触。鋭利なスチール製の書棚の角が、わたしの頭部を直撃した。


痛みは一瞬で、すぐに身体が床に崩れ落ちた。彼の驚愕と動揺に満ちた顔が、ぼんやりと視界の端に映った。


「……ッ! お、おいっ……ゆき……」


喧嘩の末の偶発的な事故。


わたしの人生は、彼の安酒への執着というくだらないものに突き飛ばされて、あっけなく終わりを告げた。




※※※




「……ぐっ!」


酷い頭痛と全身を襲う激痛。視界に映るのは、煤けた石造りの天井。


意識が遠のき冷たい床に倒れたわたしの視界は、鮮血の赤と安アパートの蛍光灯の光が混ざり合い、すぐに真っ暗になった。


意識が段々と失われ、肉体から魂が離脱していく。


自分は死んだのだ。そう認識できた。わたしは、魂になって鉛色の濁った空間に浮かんでいた。


しばらくそうしていると、視線を感じた。視線の先には、わたしのことを「ダメな男に惹かれる女」と蔑んだ老婆がいた。学生の頃に出会った、煤けた白髪の、街角の占い師の老婆だ。


老婆は昔と同じように、低く、湿った声で私を呼んだ。


「おや、おや、ご苦労さんな人生だったようだねぇ、お嬢さん」


わたしは息を呑んだ。老婆は笑いもせず、冷徹な眼差しでわたしを見据えた。


「覚えているかい? 昔、あんたに言った言葉を。

『あなたはなんなら、男をダメな男にする女だね』って。やっぱり、そうなっただろ? 」


その言葉は、妙にわたしの心に突き刺さった。


「わたしのせいじゃ、ないでしょ!」


だから、激しい否定の言葉を吐き出す。


「わたしだって、最大限に努力したんです! 生活を支え、夢を応援し、お金だって惜しまず出した。それでダメになったのは、彼らの自業自得でしょう? 」


老婆はそれを聞いて、わずかに肩をすくめる。


「いいや、やっぱりあんたのせいだよ。あんたの献身は男の才能の根を腐らせてしまう。これも昔、言ったはずだよ」


「どうしてよ? 」


そんなの、認められない。認められるわけがない。


「タカシがパチンコにのめり込んだのだって、シュウが女に溺れたのだって、わたしのせいじゃない。リュウが酒に逃げたのも、そう! 彼らがダメになったのは、わたしのせいじゃない。

わたしはただ、男運がなかっただけ!」


老婆はわたしの返答を予期していたかのように、首をゆっくりと横に振った。


「ほう、そうかい? じゃあ、あんたが男たちに愛を注がなければ、どうなっていたか。その目で見てみるといいさ」


老婆が手を翳すと、どういう理屈なのか、目の前に映像が浮かび上がった。それはわたしのいない世界線で、成功を収める男たちの姿だった。


タカシは、わたしと出会うことなく地道な努力を続け、ローカル番組のレギュラーを獲得し、安定した成功を収めていた。


シュウは、わたしに依存することなく、孤独と情熱を力に変え、メジャーデビュをつかみ取りアリーナで歌い上げていた。


リュウは、わたしに生活を援助されることなく、重労働と執筆を両立し、痛みと孤独に満ちた傑作を書き上げていた。彼の小説は権威ある文学賞を受賞し、書店にはその小説が店頭に山と平積まれていた。


「どうだね、お嬢さん。あんたの愛は病のように、彼らの成功を奪っていたのさ。まるで疫病神だね。成功を奪う女なんだよ。お嬢さん、認めたらどうだい?」


「そんな……! そんなの、認めないっ!」


わたしは映像から目を背けた。


目の前で展開された映像は、何の根拠もないただの幻影と切り捨てることもできた。だが不思議なことに、わたしの心の最も深い部分が、それは、揺るぎない真実だと告げていた。わたしの存在が彼らの成功を阻んだのだ。


絶望しかけた瞬間、あることに気が付いた。だから気持ちを切り替える。


「わかったわ、わたしのやり方が悪かった。甘やかし過ぎたってのも確かにあるのかもしれない。だけど彼らを愛し、信じたわたしの気持ちにだって嘘はない! もう一回! もう一回だけ! 今度は失敗しない! お婆さん、あなた、死者の魂を転生させることができる存在ってやつなんでしょ? 」


老婆は、私の唐突で挑戦的な問いかけに、細い目をさらに細めた。


「ほう?  随分と変なことを言うねぇ、お嬢さん。わたしを何だと思っているのかね。タダの占い師だよ」


「誤魔化さないで! そんな全能の神様みたいなことしておいて、タダの占い師なわけがないでしょう! ねぇ、お願い。もう一度チャンスを頂戴! わたし、知ってるのよ。たいてい、死んだと思った展開で不思議な存在が出てきたら、転生とか転移とかさせてくれるって。そういう漫画や小説を読んで知ってるんだから!」


老婆は、私の必死さと、その論理的な観察力に、面白そうに口角を上げた。


「ほほう。魂の性質というものは物理法則と同じで、簡単には変わらないものさ。だが、そこまで言うなら……」


彼女は、何かを試すように、私を冷徹に見つめた。


「ならば、もう一度、試してみるかね? お前の愛が本当に『成功を奪わずにいられる』ものかどうか。もう一度、お前の人生を、やり直させてやろう」


「お願いします! 今度こそ、わたしは……!」


私の返答に、老婆は満足したように、深く頷いた。その目には、未来の悲劇を予感させる、冷たい光が宿っていた。


「よかろう。だが、覚えておきな。魂の性質は簡単には変わらない。これが、お前が愛を試めすことができる、最後の機会だよ」


老婆が手を振り払った瞬間、強烈な光が私を包み込んだ。


その光は鉛色の空間を一瞬で焼き尽くすほど眩しく、わたしは魂が分解されていくような、奇妙な剥離感に襲われた。視界はホワイトアウトし、耳鳴りがキーンという高音に変わる。まるで高速で回転する螺旋の中に、自分の存在が無理やり押し込められていくようだ。


意識が情報の奔流に溺れそうになりながら、それでも私は、必死に一つの思考だけを掴んでいた。


(今度こそ……今度こそ。まともな恋愛をして、自分の愛を成就してやる。自分も、手の男も、ハッピーエンドで終わるんだ。また死んだときに、老婆に「やっぱり、魂の性質は変わらなかったね」なんて言わせない!)


激しい頭痛と全身を襲う激痛と共に、わたしは光の渦の底へと叩き込まれた。遠のく意識の中で、老婆の冷たい、湿った声が、聞こえてきたような気がした。


「魂の性質は変わらないよ。まったく、学習しない魂ってのは見てて最高に面白いねぇ!  —せいぜい次の舞台で、もう一幕、喜劇を演じておいで……クヒヒ」


そして、意識は完全に途絶えた。







※※※









※※※









※※※







わたしは気が付くと、異なる場所、異なる時代の女性ユーディットとして生まれ変わっていた。


年は二十代半ば。場所は、薄汚れた石畳が広がる、中世ヨーロッパ風の街の一角。どうやら貧しいが治安の悪い地域ではないらしい。


この体は、近隣の工場で働くごく普通の平民の女性のもの。質素なワンピースに、常に煤がついたエプロン。わたしの前世の派手な遍歴とは真逆の、地味で真面目な人生を送っていたようだ。


前世を思い出すきっかけは、本当に些細なことだった。


工場での仕事終わり、行きつけの食堂で、隣席の男と揉め事を起こした。彼の身勝手な振る舞いに、つい口調が強くなったのだ。


「いい加減にしなさい! 自分の間違いを店の人のせいにするのは、もうやめな!」


その剣幕に驚いた男が、わたしを突き飛ばした。わたしは石の床に頭を打ち付けた。その鈍い衝撃と、頭に広がる激しい痛みと共に、目の前に前世の映像が走馬灯のように流れ始めた。


タカシの情けない笑顔、シュウの裏切りの歌声、リュウに殴られた時の鈍い衝撃、そして老婆の心に刺さった鋭い言葉。


「……ッ! あ、ああ……」


わたしは前世の記憶を取り戻した。そして、この転生後の人生で、自分をやり直す機会を与えられたことを悟った。


(今度こそ、失敗しない。わたしは、男の成功を奪う女なんかじゃない! 今度こそ、男を支え、導き、そして一緒に幸せになる……!)




そんな折、わたしは一人の画家に恋をした。彼の名は、フィンセント。


彼の絵は、仄暗く、貧しく、まるで彼の人生そのもののようだった。自画像はまるで世界の苦痛をすべて背負い込んだような表情。描いているのは、寂れた畑や、みすぼらしい農民の姿ばかり。


彼は、画材を買う金にも事欠く売れない画家。でも彼の絵には「何か」があった。ほとばしる才能の激しさ。


わたしは、彼の生活を支え始めた。わたしの男の趣味は前世と同じだった。わたしは、夢を追う、熱心な人に惹かれてしまう。愛し、のめり込んでしまう。


(でも大丈夫。あなたの才能は、わたしが守る。失敗しない。絶対に、あなたを売れないままにはさせないわ!)


わたしは彼の汚れたアトリエに足を踏み入れ、彼の最も暗い絵の前に立ち止まった。前世の反省と強い決意が、わたしを動かした。


「あなたの絵は、素晴らしい。心が震えるわ……でも、売れない。あなた、このままでは飢え死にしてしまうわよ」


そして、彼の胸倉を掴むかのように、強烈に説いた。


「いい? 才能はあっても、それだけではだめ。あなたは世界に歩み寄るべきよ。美学校へ行きなさい。売れるための技術を学びなさい。流行の色を、人々が好むモチーフを学びなさい!」


彼は反発した。「僕の絵は、僕の魂なんだ! それを曲げるなんてしたくない……」


わたしは知っていた。前世の男たちをダメにしたのは、男たちに言われるまま尽くした、わたしの甘さのせいだ。だから今回は男を甘やかさずに、努力を促す。


わたしは彼の生活を援助し、美学校の学費を出し、毎日優しく叱咤した。


「フィンセント、あなたの暗さは誰も望まない。人々が求めているのは、安らぎよ。もっと明るい絵を描きなさい! あなたの才能は、もっと多くの人に見られるべきよ」


彼の生活の中に、わたしの献身が溶け込んだ。その献身は彼の孤独を埋め、彼の荒れた生活に秩序と安らぎをもたらした。わたしは、この愛が彼の成功を導くと確信していた。


彼は美学校で技術を学び、売れる絵を知り、わたしが勧める「流行の絵」を描き始めた。それは彼の魂とは遠いものだったかもしれない。明るい色彩、穏やかなタッチ、誰にでも受け入れやすい風景。


彼の才能は凄まじかった。わたしの助言に従って彼は「売れる芸術」を身につけた。暗い自画像は微笑んだ肖像画に変わり、ねじれた樹木は、可愛らしい花瓶の花々に変わった。


絵は売れ始めた。一枚、また一枚。


画商は「これは良い、壁に映える。人々が求めているのは、これだよ」と彼の絵を褒めた。


わたしたちは貧困を脱し、絵だけで生活が成り立つようになった。彼の目の狂気の輝きが和らぎ、感情が穏やかになっていった。


だが、わたしは知らなかった。


成功が深まれば深まるほど、彼の心と魂が、静かに摩耗していったことを。




ある夜、目を覚ますと、フィンセントがアトリエで蹲り震えていた。彼が描いていたのは、売れ筋の明るい農村の風景画だったが、彼はキャンバスの前で、顔を覆って泣いていた。


「どうしたの、フィンセント?」


「ユーディット……これは、僕の絵じゃあない! 僕が描きたいのは、貧しい農民たちの、苦痛に歪んだ手だ! 彼らが背負う絶望の闇だ!

なのに僕は売るために、嘘の光を描いている……」


わたしは優しく彼を抱きしめた。


「でも、この光が、私たちを貧困から救ってくれるの。誰も見向きもしない、孤独と狂気の絵を描く必要なんてないのよ。」


彼はその夜、わたしの腕の中で、まるで悪夢に怯える子どものように眠った。彼の魂は、絵を描くことの渇望を失い始めていた。




ある時、わたしは、フィンセントが密かに描いていた血のように赤く、地の底のように暗い自画像を、偶然目にした。


「フィンセント! こんなの描くの止めなさい! 顧客が離れてしまう! この絵は、あなたの評価を台無しにする!」


わたしは叱責した。彼は、わたしの前で頭を下げ、謝罪した。


「ごめん、ユーディット。僕の、古い病気が出た。君が言う通りだ。僕は、こんな絵のせいで、君まで破滅させるわけにはいかない」


わたしは安堵した。


これで前世のような破滅はないと。わたしの愛が、彼を失敗から遠ざけたのだと。


しかし、彼の心は、売れる絵と魂が求める絵との(ギャップ)に、完全に疲弊しきっていた。


そして、ついに彼は筆を置いた。


ある日の夕暮れ。彼はキャンバスに最後の筆を入れることなく、静かにわたしを呼んだ。


「ユーディット。もう十分だ。僕は、君と普通の生活がしたい。()()()()()()()()()から解放されて、君と静かに暮らしたいんだ」


一瞬、老婆の嘲笑が耳元で響いた気がした。わたしはすぐに、その思考を打ち払った。


「そう……」


私は動揺を押し隠し、優しく、しかし確固たる声で言った。


「そうね、フィンセント。あなたの頑張りは、もう十分よ。絵がなくてもわたしたちは暮らしていける。もう、自分の魂を削る必要はないわ」


彼の顔に、安堵の表情が広がるのを見たとき、わたしの決断が間違えていなかったのだと、心の底から安心した。


そしてフィンセントは筆を置いた。


彼は絵筆とキャンバスをアトリエの隅に片付けた。そして町の工房で、肉体労働を始めた。


彼の瞳から、かつての狂気的な光は消え失せ、穏やかな安堵の表情が宿った。


(これでいい。これで良かった。平凡でも人並みの幸福を選んだ彼を、わたしは愛する。今度は失敗しなかった!)


わたしたちは、小さくても暖かい家を買い、穏やかな日々を送った。子どもには恵まれなかったが、二人で静かに本を読み、庭で花を育てた。


そしてわたしたちは年老いた。


「ああ、愛しのユーディット。先に逝って、待っているよ」


彼は、わたしの手を握りながら、満ち足りたような表情で息を引き取った。


そして数年後、わたしも自身の人生に満足して永い眠りについた。


今世こそ、わたしの愛は成就したと信じて。




※※※




生前ユーディットだった魂が鉛色の空間に浮かんでいた。その目の前には、煤けた白髪の、あの老婆が立っている。


「やぁ、お嬢さん。お帰り。成功を奪う女の人生の第二幕も、見事に終演だねぇ」


老婆は優しげな笑みを浮かべ、穏やかな眼差しで魂を見据えた。


「やり直しの人生は、どうだったかね? 」


目の前の魂は言葉を発しない。ふよふよと浮いているだけ。


「そうかいそうかい、それは良かった。心残りのない人生を送れたんだね」


強い心残りがなければ、魂となってまで、意識が残ることはない。


返事がないのは、そういうことなのだろう。


「だけどね、魂の性質は変えられなかったね。お嬢さんはやっぱり、男の成功を奪う女だ。()()()()()()()()を与えなかったわたしに感謝するんだね」


老婆は、静かに魂に背を向けた。


「さぁ、もうおしまいだ。ゆっくりと、本来の場所へ戻りなさい」


魂は、そのまま空に上がっていった。


老婆は、魂が完全に空から消え去るのを見届けてから、ゆっくりと振り向いた。その顔には、先ほどまでの優し気な笑みとは真逆の、皮肉めいた表情が浮かんでいた。


「……フン。心残りのない人生、ね」


老婆は、宙に向かって静かに呟いた。


「普通の幸せという名の結果に、お嬢さんの魂は満足したのかもしれないね。でも、男の魂には意識があった。強い心残りがあったからね。

お嬢さんと出会わず、好きに絵を描いていた場合の世界線を見せてみたら、面白かったね、クヒヒ」


男は、思ってもみなかったのだ。


自身の絵が、自身の名が、自身の得られるはずだったものが、どれだけのものだったのか。










男の名は、フィンセント・ファン・()()()


後世、彼の名が世界で語られる未来は、永遠に来ないのだ。









老婆「だから言ったじゃないか、あんたは男の成功を奪う女なんだよ、イヒヒ。」

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― 新着の感想 ―
まずは長文の感想になってしまうだろうことを、先んじまして謝罪させて頂きます。 お話は大変面白く、駄目男に惹かれてしまうことや、良かれと思って甘やかしてしまうこと、それを指摘することで、敢えて真逆に作…
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