予感
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1
夢の中の『彼』は、いつも甘い瞳で俺を見つめている。
場所は決まって、見知らぬ部屋のベッドの上。
西洋風の美しいインテリアでまとめられた室内は調度品の一つ一つに意匠が施され、ひと目見ただけでそのどれもが高価であることが伺える。それでいて不思議と嫌味はなく、どれもがシンプルかつ美しい気品を纏って、部屋に満ちる澄んだ空気を作り上げていた。
そんな心地よい静寂に満ちた部屋のベッドの上で、俺と『彼』は向かい合って座っていた。
部屋の明かりは落とされ、彼の背後にある窓から差し込む月光だけが俺たちを照らしている。
歳は二十歳前後だろうか。精悍な顔立ちに、月光に淡く光る銀髪が目を引いた。グレーの瞳が時折月明かりを拾っては、その奥に虹色の虹彩を煌めかせる。寝間着らしいゆったりとした服の上からでも分かるほど、彼の体は美しく鍛え上げられていた。
「……どうしたんです、そんなに俺の瞳をじっと見て」
ふと、彼が微笑みながらそう問いかけてきた。溶けてしまいそうなほどの甘い表情に、夢の中の俺も吐息のような笑みを漏らす。
「それはお互い様だろう」
「ふ、そうですね」
喉の奥で笑って、それから彼の指先が俺の頬に伸びてきた。
ゴツゴツと骨張った、男らしい指先。少しだけかさついたその指が、俺の体に触れる時は酷く優しい動きをすることを、俺は知っている。
一度輪郭をなぞるように目元から頬を滑り落ち、それからその温かい手のひらが俺の頬を包む。親指の腹が、スリスリと愛しむように何度も俺の目尻を撫でた。
「ん、ふふ、もう、くすぐったいよ」
口ではそう言うくせにちっとも逃げる様子のない俺に、彼のグレーの瞳が一段と溶けていく。
「……好きです」
その言葉に俺も笑いを引っ込めて、再び彼の顔を見つめた。彼の瞳が、ゆっくりとこちらに近寄ってくる。
「お慕いしております、」
鼻先が触れ、あたたかな吐息が俺の顔にかかる。
彼の唇が、まるで宝物を取り出すような動きで言葉を紡いだ。
「……──様」
耳元で鳴り出した大音量のスマホのアラームを、俺は待ち構えていたのかと言わんばかりの驚異的なスピードで止めてみせた。
我ながらこの反射神経の良さには毎度惚れ惚れしてしまう。どんなに深い眠りに落ちていたとしても、アラームが鳴り出すのとほぼ同時に止めることができるのだ。あまりに速すぎて、いつか俺の方が目覚まし側を追い越すんじゃないかとすら思っている。もしそうなったら目覚まし側はとても悔しがることだろう。
「……なんだそりゃ」
寝起きの頭に浮かぶ意味不明な思考に自分で突っ込みつつ、俺は自室のベッドの上で大きく息を吐き出した。
俺──西宮有斗は、この春から都内の大学に通う、ごくごく平凡な男子大学生だ。
成績は中の下、運動は中の中、見た目は中の上(だと信じている)、これといった特技もなければ取り立てて指摘されるほどの欠点もない、本当にどこにでもいる平凡な人間である。
……強いて言えば、物心ついた時から『見知らぬ謎の男と熱い夜を過ごす夢』を見てしまうだけの、ごくごく平凡な男子大学生だ。
「また見ちゃった……」
ほんとに誰なんだよあいつ……なんて恨めしく呟きながら、ベッドの上でごろんと寝返りを打つ。
最近はあまり見ていなかったのだが、久しぶりに見てしまった。あの謎の銀髪男に熱烈に愛される夢を。無駄にリアルなせいで、頬を撫でられる感触や温度すら肌の上に残っている。思わずゾワワと粟立った頬を誤魔化すように、そこをゴシゴシと乱暴に擦った。
初めてこの謎の男との夢を見たのは、五歳の頃だった。
最初はそもそも夢の意味が分からなくて、両親にも「会ったことない男のひとにベッドで触られたり、ぎゅーってされたり、アレコレする夢をみた」と無邪気に話してしまった。
幼い息子からの突然の告白に両親はもちろん血相を変え、俺を精神科に連れて行ったり、幼稚園の男性教諭が何かしたんじゃないかと疑いの目を向けて一悶着あったりと、それなりの騒ぎになったことも今となっては懐かしい。
それでもその夢を見る以外は特におかしなこともなく、もちろん現実で誰かに何かをされたり精神を病んでいるわけでもなかったので、やがては「テレビか何かで見たものが変に記憶に残ってしまったんだろう」という結論で終わった。
そんなわけで、とにかく俺がこの夢を見ることは幼い頃から何度もある、さして珍しくもない事なのだ。慣れたからといって精神的にどっと疲れることに変わりはないが、目覚ましも鳴ったことだし、早いところ支度をして学校に行かなくてはいけない。
「有斗ー、そろそろ起きなさーい」
「んー」
階下から母の声が飛んできて、俺はそれに返事をしながら緩慢な動作でベッドから降りた。
ついこの前までは何も考えずにただ学校の制服を着ればよかったのに、大学生になったら毎朝自分で洋服を選ばなくてはいけない。失って初めて気づいたそのありがたい存在に思いを馳せながら、俺はのろのろと洋服を選び始めた。
「おはよ……って、なんか疲れてる?」
最寄り駅の改札前、スマホを弄っていた金髪の男が俺に気づくと顔を上げ、それから俺の表情を見るなり不思議そうに首を傾げてみせた。
「おはよう伊吹……何でもない」
「あぁ、また例の『夢』?」
「ゔ……」
苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた俺に、彼──幼馴染の蔦伊吹が、苦笑を漏らした。
「『小さい頃から何度も見る悪夢』って……やっぱもう一回病院で診てもらったほうがいいんじゃない?」
「いや……別にどっか悪いわけじゃないし」
「ふーん?」
話しながら改札を通り、大学に向かう方面の電車に乗り込む。
伊吹とは家が近くて、幼稚園から大学に至るまでずっと同じ学校に通い続ける、筋金入りの幼馴染だ。
おじいちゃんがロシア系のクウォーターの伊吹は、柔らかい白金の髪に整った目鼻立ち、おまけに身長は高二の時点で百八十センチに到達したらしい。それからは伸びなくなったとぼやいていたが、百七十センチ手前で止まってしまった俺の前でその話をするんじゃないと苦言を呈したら失笑を返してきたこと、俺はまだ根に持っている。
「で、結局その夢ってどんな内容なわけ?」
「それは……内緒」
「えー」
隣に並び立って残念そうな声を上げる伊吹だけど、こればかりは伊吹を含め、両親以外の誰にも教えたことはなかった。
……だって、見たこともない男に抱かれる夢とか、普通に引かれるだろ。
夢は深層心理が影響するとかよく言うし、病気というわけではないにしても、正直に話した結果、俺の人間性みたいなものがどんな風に思われるか分かったものではない。男に抱かれる夢、しかもその相手は見たことも会ったこともない相手とか、俺の深層心理は一体全体どうなってるんだ、と我ながらぞっとしているくらいなのだ。
そんな俺の思惑を知らない伊吹は、無邪気な表情で隣の俺の顔を覗き込んできた。
「怖い系の夢? おばけとか、ホラーな感じ?」
「そういうんじゃないけど」
「夢の国のアリス的な? メルヘンで逆に怖い〜とかそういうやつ?」
「うーん……」
「じゃあ、誰かに殺されるとか?」
「あーもー、俺の夢の話はもういいから! それより昨日送った動画見た? あれの続きが今夜上がるらしいんだけどさ……」
話題をどうにか別の方向に向けた俺に、伊吹も少し残念そうにしたものの、それ以上は特に突っ込んでこなかった。二人でいつも通りの雑談を始めながら、窓の外に流れる風景をぼんやりと眺める。
あの夢を見た日は決まって頭がぼうっとするから、今日の授業は頭に入らないだろうなぁと他人事のように考えた。
俺たちの通う大学は、家から電車で三十分ほどの場所にある。学部によって差はあるが、学力もせいぜい中の上くらい。学生数がやたら多いだけの、可もなく不可もない学校だ。
「……ていうかさ、やっぱ伊吹、他の学校行った方が良かったんじゃないの」
「え?」
入学して三週間、やっと少しだけ慣れてきたキャンパス内を歩きながら不意にそう切り出した俺に、隣を歩く伊吹がきょとんとしながらこちらを見やった。
「伊吹の学力だったらもっと上行けたじゃん。何でこんな何の特徴もないつまらない大学にしちゃったんだよ、もったいない」
「ははっ、入学したての人間とは思えない発言だな」
俺の言葉に笑いながら、伊吹が顔にかかった髪を指先で掬って自分の耳にかけた。伊吹のストレートの髪の毛は、男の俺から見ても羨ましいくらいにサラサラだ。一方俺の赤みがかった茶髪はくせっ毛で、ちっとも主人の言うことを聞いてくれない。試行錯誤の末、最近は前髪をセンター分けにした短髪スタイルに落ち着いている。
「大学なんて、ぶっちゃけ僕もそんなにこだわりなかったし。程よく家から近くて、程よく勉強したら入れる場所だったらどこだってよかったんだよ」
「お前……俺が必死に勉強してやっと入ったの知ってるくせに……」
あっさりとした伊吹の言葉に、正直この大学もギリギリ合格したレベルの俺はジト目で隣の男を睨んだ。そんな俺に、眉目秀麗・文武両道の幼馴染サマは、軽やかな笑い声を上げた。
「はは! ごめんごめん。……でも、僕だってヒヤヒヤしたんだよ?」
「え? 何で?」
「だって有斗と一緒がよくてここにしたのに、当の有斗が落ちたんじゃ意味なくなっちゃうもん」
「……!」
さらりと放たれた台詞に、俺は咄嗟に左胸を押さえた。
「? 何、どうしたの?」
「伊吹……お前ほんと、不意打ちで胸キュンさせてくるよな……」
「何それ。全部本心だよ? 有斗といるの楽しいし、大学も一緒に行けたら嬉しいなって」
恥ずかしげもなくそう言う伊吹に、俺はもう耐えられなくなって、横を歩く幼馴染にじゃれるように抱きついた。
「うわっ、ちょ、何だよ歩きづらいなぁ」
「伊吹〜! 俺も伊吹と一緒の大学行けてよかったよ〜! 俺にはお前が必要だ! ずっと幼馴染でいてくれな!」
「幼馴染って自動的にずっと幼馴染なんじゃ……ていうか、頼むから留年とかするなよ。流石に卒業とか進級は待っててあげられないからね」
伊吹の言葉に一転スンとしながら体を離したところで、ちょうど目当ての教室に到着した。ぱらぱらと埋まっている教室内の、ちょうど真ん中あたりの席に二人並んで腰を下ろす。
高校とは違う大学の空気感にはまだ慣れないけど、隣にいる幼馴染のおかげで、今のところ俺の大学生活は順調だ。ついつい茶化してしまったが、俺だって伊吹のことが大好きだし、昔から変わることなく隣にいてくれる彼に、俺は心から感謝していた。
……感謝は、しているのだが。
「有斗」
「……」
「有斗さーん」
「……」
「もー、機嫌直せって。僕だって望んで話しかけられたわけじゃないんだよ?」
「……分かってるけど」
ぶすっと唇を尖らせる俺に、伊吹が呆れた声を漏らした。
「『よかったら連絡先交換しましょう』って女子が声かけてきたのは確かだけど、同学年だし、単に友達作りとしてみんなに声かけて回ってただけかもしれないじゃん」
「いーや、あれは確実に伊吹狙いだった」
「有斗にも連絡先聞いてただろ」
「俺は『隣にいたから仕方なく』感がダダ漏れだった」
「考え過ぎだって」
授業終わり、学食に向かいながらため息を漏らした伊吹に、俺はもう一度むーっと唇を尖らせてみせた。
俺が不機嫌な理由。それはさっきまで受けていた授業終わりに、席で荷物をまとめている俺たちのところへ見知らぬ女子数名が声をかけてきたことだった。
みんなキラキラした感じの可愛い子ばかりで、もちろん声をかけられたことそのものが嫌だったわけじゃない。(むしろ嬉しいくらいだ)
じゃあ何が不服だったかというと、その女子全員が、俺の隣のイケメンしか眼中にないことだった。
「いつも伊吹ばっかりずるい……俺だって大学こそは彼女作りたいのに……!」
至極真剣な表情でそうぼやく俺の隣で、全く気にした様子のない伊吹が「今日の日替わり定食は何だろうねぇ」などと呑気にのたまっている。
本当は女の子たちが「よければお昼も一緒に」なんて言ってくれたのだが、伊吹は「また今度」なんて柔らかい笑顔であっさり断ってしまったのだ。そのせいで俺たちはそれぞれ連絡先を交換しただけで、特に盛り上がることもなくすぐに解散してしまった。
男二人で学食に向かいながらも、いまだ物申したい気持ちでいっぱいだった俺は、澄ました表情の伊吹に噛みついた。
「もう、何で断っちゃったんだよ! お昼一緒に行けば、もしかしたら俺だってあの中の誰か一人くらいとはお近づきになれたかもしれないのに!」
「でも有斗、人見知りじゃん」
「……」
伊吹の切り捨てるような言葉に、俺は思わず口を閉ざした。押し黙った俺に、伊吹の深いエメラルドグリーンの瞳がチラリと向けられる。
「中学でも高校でも、何ならその前から、有斗がそうやって騒ぐから仕方なく女子と話す機会を作ったこと何回もあったよね? それでいていざそういう場に行った途端、有斗はろくに喋らなくなるじゃん。結局僕が場を取り持ってきたこと、これまで何回あった?」
「……そ、それはそれじゃん」
どれだよ、と伊吹の冷ややかなツッコミは聞こえないふりをして、俺はぷいとそっぽを向いた。
頻繁に謎の男に抱かれる夢を見る俺だけど、生まれてこの方、恋愛対象はもちろん女子だ。(だからこそ余計に、あの夢は勘弁してほしいのだ)
だけど近寄ってくる女子は基本的に俺の隣にいる伊吹目当てだし、伊吹の言う通り、そもそも俺は結構な人見知りでもある。この性質こそ、俺がこの歳になっても幼馴染の伊吹にべったりな原因の一つでもあった。伊吹以外に仲のいい友人なんてほとんどいないし、大学に入ってからも、彼女はおろか新しい友人すらできる気配は今のところゼロのままだ。
「ついつい世話焼いちゃう僕も悪いけどさ、有斗もいい加減ちょっとは僕離れしないといけないんじゃない?」
「べ、別に俺は……伊吹いなくても……」
「じゃあ、さっきの子たちとご飯でも行ってきたら? 僕抜きで」
「むっ、無理!」
俺の叫びに「ほら見ろ」とでも言わんばかりの顔をした伊吹に、ぐぬ、と押し黙る。でも、だって、そもそも俺が誘ったんじゃ女子は来てくれないだろうし……。
「て、ていうか、伊吹は興味ないのかよ。彼女とか、恋愛とか……」
「んー、絶対いらないとかじゃないけど、別にいなくても困ってないしなぁ。まぁ気の合う人がいて、諸々タイミングが合えば付き合ってもいいかな? ってくらい」
「ちくしょうこの高身長イケメンめ……!」
「どういたしまして」
澄ました顔で俺の妬みをかわした伊吹に、それ以上返す言葉が見つからなかった俺は、せめてもの思いで伊吹の脇腹を軽く小突いておいた。「いてっ」とたいして痛くもなさそうに呟いた伊吹が、ふと何かに気づいたのか遠くに視線を投げた。
「あ、ほら有斗。練習がてら、あそこにいる人に声かけてきたら?」
「え?」
「あの女の子だよ。結構有斗のタイプなんじゃない?」
「え!?」
続いた台詞に思わず大きな声を漏らしながら、俺は慌てて伊吹の視線を辿った。
視線の先、人通りの多いキャンパス内の道端には、ビラ配りをしている一人の少女がいた。
黒髪を後ろで二つにお団子結びしている彼女は、小柄なのも相まって幼い印象を受ける。それでも溌剌とした様子で通行人にビラを差し出す姿はしっかり者な雰囲気もあって、何より通行人に振りまく笑顔が、春の日差しにも負けないくらいに輝いていた。
「ど、どうしよう、伊吹」
俺は思わず立ち止まって、隣の伊吹の腕を引っ張った。
「どうしようって、何?」
「か、かわいい、あの人……すごく、とっても、めちゃくちゃ、タイプ……」
「何でカタコト? ていうか、どうもしないでしょ。ビラ配ってるしちょうどいいじゃん。話しかけてきなよ」
「は、話しかけるって、どうやって」
「普通に『一枚ください』って言えばいいんじゃない? 何の宣伝だか知らないけど、きっと向こうも喜ぶよ」
「むっ、無理!」
さも当然といった伊吹の言葉に、俺はさっきよりも大きな声でそう叫びながらブンブンと首を振った。いきなり初対面の人、しかも、すごくとってもめちゃくちゃ可愛い女の子に声をかけるなんて、そんなの無理だ。とてもじゃないが俺にはハードルが高すぎる。
「じゃあいいの? 大学広いし、もう会えないかもよ」
「うう……」
往来で立ち止まったまま、俺たちは少し離れたところにいる彼女を見つめた。もちろん彼女は俺たちに気づくことなく、引き続き一生懸命にビラ配りを続けていた。
差し出されたビラを受け取る通行人はまちまちで、彼女が腕に抱えるビラの残部を見ても、ビラ配りは決して順調と言うわけではなさそうだ。それでも明るい笑顔を崩さずにビラを差し出し続ける彼女は、真面目で一生懸命な良い人なんだということが伺えた。
遠くの彼女を見つめたまま固まっている俺に、伊吹がもう一度苦笑混じりに口を開く。
「どうするの? やめとく?」
「い、伊吹……」
俺は隣の伊吹の腕にきゅっとしがみつきながら、半べそで伊吹の顔を見上げた。
「一緒について来てぇ……」
「えー?」
俺の情けない顔に伊吹がそんな声を漏らした、ちょうどその時。
「きゃっ……!」
そんな声と共に、バササッと何かが落ちる音がした。
驚いて音のした方に目を向けると、彼女が地面に尻餅をついて、その周りには彼女が手にしていたビラが散らばっていた。どうやら俺たちが目を離した一瞬の隙に、通行人の誰かが彼女にぶつかってしまったらしい。
──あ。
「あーあ、大変……って、ちょ、有斗っ?」
気づいた時には、俺はもう駆け出していた。
伊吹の驚いたような声を背後に聞きながら、まっすぐ彼女の元へ向かっていく。
彼女が配っていたビラは薄いピンクを基調としていて、アスファルトに散らばるそれは、数週間前に散ってしまった桜の花びらを彷彿とさせた。それらを踏まないように自然と跳ねるような足取りで、彼女の元へ駆けて行く。
トン、トン、とスニーカーのつま先で音を立てながら彼女の元へ辿り着いた俺は、そのまま地面にしゃがみ込んでいる彼女に手を差し出した。
「あのっ」
「っ?」
「大丈夫ですか?」
俺の声に顔を上げた彼女の大きな黒い瞳が、驚いたようにパチンとひとつ瞬いた。
まっすぐ差し伸べられた俺の手を見て、それからその瞳が細められ、まるで花が綻ぶようにふわりと微笑む。
「わぁ、ありがとう」
そう言って、差し出された俺の手をそっと握って立ち上がった彼女。
その手のひらの柔らかさを感じた途端、俺は急に我に返って、ピシリと固まった。
「ふふ、やだなぁ。恥ずかしいところ見られちゃった」
俺の動揺に気づいていないのか、彼女が恥ずかしそうに笑いながら俺の手を離した。そのままその手のひらが彼女のふんわりとした水色のスカートのお尻辺りをパンパンとはたき、俺の宙に差し出されたままの手がびくりと大袈裟に跳ねる。
「二野、悪い! よそ見して思いっきりぶつかった! 怪我ないか?」
「いいよいいよ、私が避けそびれちゃっただけだもん」
そう声をかけながら、近くでビラを拾い集めていた男子生徒──どうやら彼女を転ばせてしまった本人が、申し訳なさそうな顔で彼女にビラの束を手渡した。
さして気にした様子のない彼女に、男子もほっとしたように笑い返す。
「マジごめんな。あーっと、悪い、俺もうすぐ講義あるから……」
「うん、大丈夫だよ。あ、お詫びに今度お店に来てね!」
「はは、オッケー! 絶対行くわ。じゃあまた!」
申し訳なさを滲ませつつ微笑んだ彼が、急ぎ足で去っていく。
その彼とすれ違うようにこちらに近寄って来たのは、遠くまで飛んでしまったビラを回収してきたらしい伊吹だった。
「大丈夫ですか? はいこれ、目についた分は拾ってきたんですが……」
「わっ、十分だよー! 二人ともありがとうね」
伊吹からビラを受け取り、彼女がもう一度満面の笑みでお礼を述べた。
その光り輝く笑顔に、ずっと固まったままだった俺の顔に、ぐわっと熱が集まった。
……か、可愛い……!
俺の顔の赤さに気づいていないらしい彼女が「あ、そうだ」と明るく言いながら、手の中の紙束から薄ピンクのビラを二枚俺たちに差し出した。
「もし良かったらどうぞ。助けてもらったお返しが宣伝でごめんだけど」
そう言って笑う彼女の、少しだけ肩をすくめる仕草があまりにもチャーミングで、俺は何かを堪えるようにグッと顔をしかめてみせた。伊吹が「ありがとうございます」とそつなく述べて、差し出されたビラを二人分受け取る。
さりげなくそれを俺に手渡してきた伊吹に心の中で感謝しつつ、ワンテンポ遅れてビラを受け取った俺は、伊吹と揃ってその紙面に目を落とした。
ビラはどこかのお店の宣伝だったようで、店名や地図、営業時間、それから取り扱っている商品の説明などが可愛らしいデザインで並べられていた。
「……『accept』」
ビラの一番上、店名と思われるその単語を思わず声に出して呟くと、彼女が「うんっ」と語尾に音符がつきそうな声色で頷いた。(うっ、可愛い……)
「クッキー専門店なの。営業は毎週火曜日だけだし、始めてまだ半年くらいの小さなお店だけど……もしよかったら買いに来て。今日のお礼に、二人にはサービスするから」
「始めて……って、ご自身で経営されてるんですか?」
伊吹が少しだけ驚いたように顔を上げて、小柄な彼女を見つめた。伊吹の言わんとしていることを察したのか、彼女が慣れたように笑みを浮かべる。
「あはは、二人が思うほど凄いことはしてないけど、一応私が一人で経営してるよ。学生企業? になるのかな。と言っても知り合いのカフェの店舗を定休日に間借りしてるだけだし、今のところは飲食スペースもないから、本当にただクッキーが買えるお店って感じだけど。あ、でもクッキーの味は保証するよ!」
ふふん、と得意げに胸を張ってみせた彼女に、俺もこの時ばかりは下心も抜きにして、ただただ純粋な憧れを込めて彼女を見つめた。
すごい。やりたいことも目標もなく、ただ何となく大学に進学しただけの俺と違って、同じ学生のうちから自分のお店を持つなんて、すごすぎる。そんな風に明確にやりたいことを持っていること自体も、そしてそれを本当に実現していることも、誰にでも出来ることではないはずだ。
「……あ、そういえばまだ名前言ってなかったね。私、二野すみれって言います。文学部の二年生。二人は一年生かな?」
「あ、はい。僕たちも文学部一年の、蔦伊吹です。それと……」
伊吹がさり気なく俺の背中をつついて、惚けていた俺はハッとしながら慌てて背筋を伸ばした。
「に、西宮有斗、ですっ」
「そっか。じゃあ伊吹くんと有斗くん、改めてよろしくね」
そう言って彼女──すみれさんが、春の花のような可憐さでにっこりと微笑んだ。
絶対お店来てね〜! と言いながら手を振る彼女に別れを告げて、俺たちは改めて学食に向かって歩き出した。
「はー、何というか思ったよりもパワフルな人だったね。学生のうちからお店やるなんてすごいなぁ」
「……」
「……有斗、聞いてる?」
「うん……すごい……」
夢心地のまま呟きながら、未だ両手で握っている薄ピンクのビラにもう一度目を落とす。花びらのようなその紙は、まるで俺に春の訪れを告げているかのようだ。
彼女の小鳥のさえずりのような可愛らしい声で紡がれた『有斗くん』という音の響きが、いつまでも俺の心の中でこだましている。
有斗くん、ゆうとくん、ゆーとくん……
すみれさんの声はいつまでも脳内で鳴り響き、その後食べた学食の日替わり定食のカツ丼は、ほとんど味がしなかった。