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バニラとメンソール

作者: 山羊山 羊

 俺達は4人兄弟だ。

 兄は2つ上で、東京で売れない小説家をしている。本業とは別に小銭稼ぎとして、エッセイを書いたりエロ小説(と言うと本人は官能小説と言えと怒る)を書いたりしているらしい。本業のほうも売れないなりに数は書いているのか、ここ最近では本屋で名前を見かけることもある。繊細で透明感のある話を書かせたら世界一だと思う。わざわざ東京に出たくせに、月1ペースでこっちに帰ってくるのはなんでなんだろうな。俺は兄のことが好きだからいいけど。

 弟は3つ下で、こっちでゲームのキャラクターデザイナーをしている。出社してもいいし在宅でもいいし、というゆるい職場らしく、それをいいことによく資料集めと称してはいろんなところに車を走らせている。なんでも描けるやつだけど和風とか中華風とか、アジアンテイストがばちっとはまっていると思う。そこそこ稼いでいるのか、資料集めに同行させられたときはいつも飯を奢ってくれる。付き合ってくれた礼だって。俺なんもしてないのに。いいやつだ。

 「俺達」というのと「4人兄弟」というのとで察したかもしれないが、もう1人は俺と双子だ。戸籍上は妹だが、妹と言うにも姉と言うにも違和感のある関係だ。たぶん向こうもそう思っているだろう。妹はバーで働きつつ、学生時代のツテでたまに衣装関係のバイトをしたりしている。妹の働いているバーはシーシャやCBDなんかも置いているアングラサブカル系で、そのわりにオーセンティックな雰囲気もあるというよく分からないところだ。ただ、薄暗い店内でぴしっときめた妹がシェイカーを振る姿は死ぬほどかっこよかった。男だったら抱いてほしかったくらいだ。

 俺はというと兄弟の中で一番の社不で、アラサーにもなってメンズコンカフェで働いたりなどしている。元々はホストをしていたが、営業が面倒なのと恋愛対象が男なのに枕をねだられるのが面倒なのと同伴やらアフターやら罰金やらが面倒なのと、まあとにかく諸々が面倒で3年くらいで辞めた。むしろそれで3年もっただけ褒めてほしい(と言うと弟は褒めてくれる、いいやつだ)。妹とルームシェアしているので金と生活に困ることはないが、人としての矜持を保つためだけに昼職としてゲーセンでもバイトしている。週5メンコンの週1ゲーセン。およそアラサーとは思えない。


 起きたら昼の13時過ぎだった。寝たのが朝の6時頃だったことを思えばこんなものだろう。今日は特に予定もないし、気分も上がらないし、妹からは店泊すると連絡があったし、優雅に二度寝をきめようと目蓋を下ろして布団にくるまった。たぐり寄せた抱き枕に顔を埋める。

 うとうとして眠りにつくまであと何秒、おやすみ世界。というタイミングでインターホンが鳴った。途端に意識は心地よい微睡みから引き上げられる。無視しようかと思ったタイミングでもう一度鳴らされた。セールスだったら文句言ってやろう。舌打ちをしてインターホンのモニターを確認すると、そこに映っているのは弟だった。

「お前、合鍵渡してんねんから勝手に入ってこいや」

「いやー姉ちゃんたまにドアガードしてて入られへんから」

「事前に連絡あったらしとかへんやろ」

「今日高速乗ってから兄ちゃんとこ行こ! って思ってん!」

「……そうか」

 インスタントのカフェオレを出してやると、それだけで嬉しそうに弟は笑った。ベージュの髪色も相まって弟は柴犬のようだ。ないはずの尻尾が見える気がする。丸い、くりくりとした二重の目なんかまさに犬って感じだ。俺には似てないよな、と思う。どちらかと言えば妹似だ。ダイニングチェアに腰かけて初めて、弟がそのくりっとした目でじっとこちらを見つめていることに気づいた。

「寝癖ついてる?」

「へ? ……いや、ついとるけど、ちゃうくて。兄ちゃんなんか俺の顔見てんなーて思って」

「はあ? まじか昨日ちゃんと乾かしたんやけどな……まあほら、お前俺には似てへんから。あいつに似てかわいい顔しとるよな」

 あいつ、とは双子の妹のことだ。兄はかっこいいとかきれいとかそういう系統の顔だが、妹と弟はかわいい系統の顔立ちをしている。俺はナマケモノとかウーパールーパーとかカエルとかトカゲとか、なんとも微妙な動物に例えられがちだ。

 俺が外見の話をすると、弟はいつも難しい顔をする。成人男性にかわいいはさすがに褒め言葉にはならないか。でも口をとがらせてカフェオレを飲むこいつは、いつまでたっても俺のかわいい弟なのだ。

「姉ちゃんはかっこいいし、兄ちゃんはかわいいって」

「普通逆やろ」

 たしかに妹は男らしくはある。男らしいというか男前というか、見た目は小型犬なのに中身はさながらゴリラだ。俺が実家を出ることになったとき「職場近くのマンション借りたいけど部屋余るからルームシェアしろ」と半ば強引に住まわされ、家賃の代わりに掃除を押しつけられた。何度か職場にも遊びに行っているが、いつも酔っぱらいやセクハラ親父を華麗にあしらい、ときには叩き出して店の治安を守っている。こうなったのも男兄弟に囲まれて育ったからだろうか。

 そういえば、と思い出す。

「お前なんか用あるんちゃうん」

 俺達と弟の家はさほど遠くない。車だと20分もあればつく。だというのにわざわざ高速道路に乗ったということは、どこか遠くへ行く予定だったのだろう。物好きなこいつはうちに来るために、高速道路に乗ってものの5分で降りたようだが。

「あっそうそう。資料集めに神社行くから兄ちゃんも行こ!」

「……はあ」


 兄ちゃんあれ着てこないだ買うてたストライプのシャツあれがいいジャケットはグレーのやつブーツはマーチンにしてネックレスこれつけて香水はフェラガモにして、とうるさい弟の言うままに身支度を整え、仕事でもないのにむだに小綺麗になった俺は弟を家から追い出して車を取りに行かせた。その間にちゃちゃっとマグカップを洗って家を出る。

 家の前で弟が車を回してくるのを待っていると、晩秋の冷たい風がびゅうと吹いた。嗅ぎ慣れないオードパルファムがふわりと香る。普段はあまりつけないが、弟は俺にも妹にもグリーン系をつけてくれとよくせがむ。俺の好みはべったりと甘いバニラだが、弟が好きではないと言うのなら仕方がない。

 マフラーしてくればよかったかな。小さくため息をつくと、目の前に黒い大きな車が止まった。弟だ。

「相変わらずでかい車やな」

「兄弟みんなで乗れるようにな!」

「……おとんとおかんも乗せたったらええやん」

 シートベルトを締めながらそう言うと、あからさまに弟の機嫌が悪くなったのが分かった。気づかないふりをしてシートにもたれる。高い車なだけあって座り心地がいい。居心地は最悪だ。

 滑らかに走り出した車はすぐに高速道路へと入った。居心地の悪さをごまかすように煙草を吸おうとして、弟の嫌いなバニラの香りがするものしかないことに気づいて諦める。こんなことなら退勤後にメンソール買っておけばよかった。

「……俺さあ」

「んー」

「両親に、育ててくれたことに関しては感謝しとるけど産んでくれなんて頼んでへんし、って今でも思ってるし、ぶっちゃけ両親より兄貴と兄ちゃんと姉ちゃんのほうが大事やから孝行するならそっちやなって思ってるし」

「……んー」

 弟はこちらに視線を寄越しもせずにそう言った。いやまあ高速道路でよそ見とかしてほしくないからそこは別にいい。ちなみに兄貴とは一番上の兄のことだ。俺が兄貴と呼ぶからいつの間にか弟もそうなった。

 弟は産んでくれなんて頼んでない、と言った。そりゃお前は頼んでないだろう。頼んだのは俺と妹だ。そのことを弟は知らないけど。2人揃って弟か妹がほしいとわんわん喚いたのだ。自分の両親がくそだと知っていたらそんなこと頼まなかっただろうな、でもくそなのは俺に対してだけだからやっぱり頼んだかもしれない。両親の話になるとこんな親のもとにお前を産ませてごめんなという罪悪感と、でもお前は何もされてないじゃないかという嫉妬で気分が落ち込む。分かっているのになぜ話題に上げてしまうのかは自分でも分からない。

「別に兄ちゃんが悪いわけちゃうから謝ってほしいとかはないけど。でも俺たちが兄ちゃんのこと大事に思ってるんは分かっといてや」

「……んー」

 そんなことは昔から知っている。俺のことを大事に思っているから、兄は毎月こっちに帰ってくるのに実家には泊まらないし、妹はそんな必要もなかったのに実家を出て俺を連れ戻したし、弟は俺をこうしていろいろなところに連れて行ってくれる。そんなことは、知っているのだ。

「兄ちゃん今なに考えてんの」

「おんなじおとんとおかんから生まれたのにお前はええ子やなあってのと、煙草吸いたいからパーキング寄ってほしいなあってのとが半々」

「もーおとんおかんの話はええて! てか煙草吸いたいんやったら吸うたらええやん、俺別に気にしやんし」

「今ブラデビしかない」

「あっごめんすぐパーキング寄ってメンソ買うからそれは勘弁して」

 そんなに甘い香りが嫌なのか。弟の必死な様子がおもしろくて思わず吹き出してしまう。つられて弟も笑いだして、そこからはもういつもの調子だった。


 パーキングの喫煙所で手持ちの煙草を吸いながら、弟が煙草を買ってくるのをぼうっと待つ。煙草らしからぬ甘ったるいにおいに、隣に来た中年男性はあからさまに嫌そうな顔をして距離を取った。そっちから来といて嫌そうな顔をするってなんだよと思わないでもないが、俺としても汗臭いおっさんが距離を詰めてくるのはごめんなのでラッキーと思うことにする。

「兄ちゃんおまたせー!」

「おーおつかいご苦労」

 煙草を持った手をぶんぶんと振りながら駆け寄ってきた弟は、耳と尻尾がないのが不思議なくらいの忠犬ぶりだ。反対の手にはちゃんと軽食の入ったレジ袋を下げている。さっきまで吸っていたやつはもみ消して財布を取り出す。小銭全然ないな、札でいいか。

「ほい」

「えー多すぎ! ええよこんくらい」

「ええことないやろ」

「じゃあ俺も吸うからこれでチャラな」

 言うやいなや弟はシュリンクを剥いてさっさと1本くわえてしまった。カプセルを噛み潰して先端をこちらに向けてくる。火をつけろということらしい。苦笑してライターの火をかざす。

「悪いこと覚えてもうて」

「教えたん兄ちゃんやん」

「そやったかな」

 弟の手から煙草を1本取り出し、並んで吸う。メンソールに混ざる、かすかなベリーの香り。よく銘柄憶えていたなと思ってから、何ヶ月か前に一箱丸々パクられていたことを思い出した。あれは客からの差し入れで、もらった時点で封が開いていたが大丈夫だったのだろうか。

 メンコンに通いつめる客など、ごく一部を除いてろくでもない客ばかりだ。ホストとどちらがましかとよく訊かれるが、俺としてはタイプが違うだけでどちらもやばい。ただやはりメンコンのほうがホストよりも安いので、金がないのに男にチヤホヤされたい客の割合が多いような気はする。それに差し入れと称してGPSややばいなにかを混ぜたものをもらうことも。店にもよるだろうし、そういう客のおかげで稼げている側がどうこう言うものでもないとは思うが。

「お、電話や……」

「誰ー? あっ姉ちゃんやん」

「お前、勝手に人のスマホ覗くなや」

 別に見られて困る相手などいないが、そこは最低限のマナーだと思い注意する。俺が本気で怒っているわけではないことを分かっているのだろう、弟も軽く謝ってハンズフリーにしてくれとねだってきた。揃って煙草をもみ消して喫煙所をあとにし、弟の言う通りハンズフリーにして妹からの電話に出る。

「もしもし?」

『もしもしーやないよ、あんた出かけるんやったら連絡くらい入れえや』

「ごめんやん」

「姉ちゃんごめん俺が連れ出したー!」

『フェラガモの香水出しっぱなしやからそうやとは思ったけど』

「いやほんまごめんて。てか電話してきてどないしたん」

 ああそやった。電話口で何やらごそごそと音を立てながら、妹は思い出したように続ける。

『兄さんがこっち帰ってきてるから、晩一緒に食べへんかって。あとうち泊まるらしいわ』

「泊まるんはいいけど……一緒に、って」

『うちらだけに決まっとるやろあほか』

「あー……そう、そうやんな、うん」

 横目で弟を見ると頷いていた。時間的にも大丈夫らしい。

「俺ら今出かけてるけど遅くても18時にはそっち戻れるし。姉ちゃん仕事は? あれやったら迎えか送りするけど」

『エアコン壊れてあさってまで臨時休業。兄さん実家寄ってるらしいから、行けるんやったら20時集合て言うてたわ。いつもんとこがいい言うてたしあんたらで予約しといてー』

「分かった分かった。ほなな」

 見えるはずもないのに、ばいばーいと言いながら弟は手を振っていた。電話しながらお辞儀をするのは日本人くらいらしい、というどうでもいいことを思い出す。でも弟は外国に生まれたとしても同じようなことをするのではないだろうか。

 妹が電話口の向こうで何やら音を立てていたのは、おそらく兄が泊まるための準備をしていたのだろう。仕事の融通が利きやすく、また不規則な生活を送っている兄と生活リズムが合うのは弟よりも俺たち双子のほうで、兄がこちらに帰ってくるときは自然とうちに泊まるようになっていた。俺と妹はもちろん弟も兄のことが好きなので、自分のところにも泊まれとよく駄々をこねている。

「兄貴来るんやったらさっさと仕事終わらせよー」

「20時まで来やんやん」

「資料集めたら兄ちゃん家でやれるとこまで進めたい!」

「好きにしたらええけど」

 どうせ兄が泊まるための準備は妹が終えてしまっているだろう。やることがないなら弟の仕事を眺めているほうがずっと楽しい。なにも予定のないはずの1日が充実したものになっていくことを嬉しく思いながら、俺は弟と車に乗り込んだ。


「ついたでー!」

「ばちくそ遠いやんけなんやここ……」

「片道1時間は近所やろ」

「徒歩15分以上は遠出やあほ」

 高速道路で片道1時間を近所、などとふざけたことを言う弟を蹴飛ばし、ぐうっと大きく伸びをする。連れてこられたのは奈良のどこだか分からない田舎だ。田舎というよりも山奥と言ったほうが正しいかもしれない。駐車場の近くを川が流れている。

 弟が言うには、ここは滝行のできる神社らしい。どうりで滝の音が聞こえるわけだ。なんでまたそんなところに、と思ったが、今度和風の国のデザインを担当することになったと聞いて納得がいった。ゲームの内容に関わる詳細は教えられないためざっくりとしか聞かなかったがファンタジーRPGで、和風の国の神様と神官、町民のデザインもやるのだとか。そういったセンスのない俺には難しさは分からないが、それでも弟がすごいということは分かる。

「ここ、滝行ができるんやけどさ」

「なに、やってくんの?」

「いやさすがにこの季節はやらんよ! ちゃうねん、なんか調べたら1歳なったら健康を祈願してここの滝から汲んだ水をかけるって儀式? 風習? があるらしいねん。そのへんうまいこと落とし込めへんかなあって思うてんけど」

「それでこんな赤ちゃんおるんか」

 よたよたと歩く子やまだ歩けないようで親に抱かれる子、機嫌よくあーだのうーだの声を上げている子に何が不満なのか大きな声で泣いている子など、さながら保育園のような光景が広がっている。行き先を聞いてから期待はしていなかったが、これは間違いなく敷地内全面禁煙だろう。ヤニカスではあるが多少の常識は持ち合わせている。

 キャラデザの資料集めといっても、こういった場で弟がするのは基本的にスケッチだ。風景を描いたり建物を描いたり、俺からすればそんなものが役立つのか? と疑問になるものばかりをわざわざアナログで描いていく。写真には表れない、自分が感じた空気感などが大事なのだと以前語っていた。そういえば兄も似たようなことを言っていたな。クリエイティブな仕事に就く人間は感性が似るのだろうか。

 弟がスケッチをしているあいだ、俺はいつも邪魔をしないよう近くを適当に散歩している。普段ほとんど運動をしないヘビースモーカーにはこれくらいがちょうどいいのだ。山奥だからか、滝が近いからか、はたまた神社の敷地内だからか、空気がきれいだと感じた。立ち止まって深呼吸をすると少し気分がよくなる。清涼な空気とはこういうことを言うのだろう。妹も連れてきたかった。

「お?」

「あぅ」

 とん、と小さななにかが足元にぶつかってきた。視線を落とすとそこには1人で歩いてきたのか、男の子らしい赤ちゃんが俺の足に抱きついている。俺を見上げてにっかりと笑う小さな口からは、4本しかない歯が覗いている。日本語になっていない赤ちゃん言葉をあぶあぶ言いながら謎の上下運動をする赤ちゃんは、俺は赤の他人だというのにお構いなしのようだった。

 周囲を見渡しても誰がこの子の親なのかは分からない。このままにして迷子になったり誘拐されたりしたら怖いので、不審者扱いされるのを覚悟でそっと抱き上げる。高い高いをされるとでも思ったのか、煙草臭いだろうにきゃあきゃあ笑ってご機嫌だ。俺が悪い人間じゃなくてよかったな。

「あの、すみません」

 商業施設ならサービスカウンターにでも行けばいいのだろうが、あいにくここは神社だ。そんなものがあるはずもないので、とりあえず社務所の巫女さんに声をかけた。迷子であることと見つけた場所を伝えて赤ちゃんを預けようとすると、先ほどまでご機嫌だったのにぐずってジャケットをぎゅうっと握り締められた。

「うぅ、あー!」

「あら、まあ……」

「いや嘘やろお前、俺おとんちゃうし煙草臭いし勘弁してえや」

「だ! だー!」

「うるっさ……分かったって、抱っこしたるから静かにせえや」

 赤ちゃんの尋常じゃないぐずりっぷりに、さすがの巫女さんもたじろいでいる。別に俺はこのまま抱っこしていてもいいのだ、不審者扱いされたくないだけで。親が来たときにただ見つけただけの人物だと証言してくれるよう頼み込み、諦めて社務所の前で抱っこを続けることにした。声をかけた巫女さんは他の巫女さんに親を探すよう伝えてくれた。ありがたい。

「うおっちょ、やめーやこれディオールやぞ! お前手ぇ涎でべったべたやんけ! 触んな、ぎゃー!」

「きゃあ! あは!」

「あは、とちゃうわ!」

 機嫌を直した赤ちゃんはあろうことか涎まみれの手でネックレスを触ろうとする。もう別れた相手からとはいえ、プレゼントでもらったものなのだ。さすがに涎まみれになるのはいただけない。というか単純に首元がべたべたになるのが嫌だ。

 必死に赤ちゃんを自身から遠ざけていると、思ったより早く見つかった父親が泣きそうな顔をして慌てて謝りに来た。本音としては謝罪よりも先に赤ちゃんを回収してほしい。間一髪でネックレスは死守できたのでよしとする。

「本当に申し訳ありません、ベビーカーから脱走するなんて初めてで……ベルトをしていたので大丈夫だと思っていたのですが……」

「いや俺は平気なんで。それよか息子さんになんもなくてよかったです」

「お兄さんが見つけてくれたおかげです、本当にありがとうございます」

「あぶぶぅ」

「それありがとう言うてんのか?」

 んま! と謎言語を嬉しそうに話してくる赤ちゃんに苦笑する。赤ちゃんと再会したときは不安からか顔色の悪かった父親も、やっと安堵したらしくいくらか落ち着いた様子だ。

「お父さん、お一人なんですか」

 ふと、いつまでも来ない母親のことが気になって訊ねてしまった。

「ああ、はは……実は独身でして。この子、うちの姉の忘れ形見なんですよ」

「それは……すみません、あの……」

「いや普通母親もおると思いますよね! 養子縁組するときもめちゃくちゃ珍しいケースやて言われたんで、気にしやんとってください。それに、忘れ形見迷子にさすなんて思わんでしょ」

「いやいろいろとつっこみにくいわ」

 妹がよく迷子になる子供だったから(さすがに1歳やそこらのことは知らないし覚えてもいないが)俺は特になんとも思わないが、無責任だなんだと騒ぐ人間は騒ぐのだろうな。想像の遥か彼方をいく生き物、それが子供だと今回の件で痛感した。ベビーカーから脱走するな、初対面の煙草臭い男に懐くな。言って聞くならこの世から育児ノイローゼはなくなるだろう。

 少し雑談したのち、父親が礼だと言って渡そうとしてきた金は丁重に断って別れた。じゃーな、と赤ちゃんに手を振ると、ちぎりパンみたいな手を涎まみれにして振り返してくれた。


 一通り散歩して疲れたので、自販機であたたかいお茶を買ってから川沿いのちょうどよさげな岩に腰を下ろした。ブーツと靴下を脱いでつま先を川に浸す。疲れた足に冷たい川の水は、心地よいがやはり寒さも覚える。はたから見たらなんともちぐはぐな光景だろう。

 川の向こう岸はごつごつした岩肌の山だ。ところどころに苔が生えているが、特に物珍しいものなどない。ぼーっと眺めるにはこのくらいがいい。兄や弟であればこの景色からもなにかを得るのだろうか。俺が感じ取れたのは寒々しさだけだった。

 先ほどまで抱いていた赤ちゃんのぬくもりと柔らかさが忘れられない。あの子は望まれて生まれてきた子だ。愛されている子だ。俺もきっと、初めは望まれて生まれてきたはずだし、初めは愛されていたはずなのだ。だって兄と妹と弟は、今でも両親から愛されているのだから。

 俺が両親の子供ではなくなったのはいつからなのだろう。俺が同性愛者だと自覚したときからだろうか、男と体を重ねたときからだろうか、両親に打ち明けたときからだろうか。それとも実は、生まれたときから違ったのだろうか。なんとなく最初からなにもかもが違ったような気がする。答えなど分からないのだけど。

 爪先で川を蹴る。冷たい水が跳ねた。

 自分と愛する人との血を分けた子を抱くということは俺には叶わない。科学技術の進歩によっては可能になるのかもしれないが、倫理的に認められない可能性もあるし、そもそもアラサーの俺が健康であるうちにその技術が確立されるとは思えない。だから、もし俺に愛する人との子が生まれる世界があったなら、その子にそれ以上は何も望まないのだ。綺麗事かもしれないが、生まれてきただけで無条件で愛し、庇護し、慈しみたいのだ。

 抱くことのできない子のことを考えるといつも頭の奥が冷たくなる。世界から取り残されたように周囲が静まり返り、自分の血液が流れるごうごうという音でいっぱいになる。そういうときはいつも目を閉じた。目蓋の裏に会えない我が子を描いて、それを涙で洗い流すのだ。この涙が羊水であれば、この子に会えたのだろうか。

 爪先が冷たい。風がびゅうと吹いた。慣れないグリーンのオードパルファムが香る。足音に振り返ると、弟が立っていた。


 助手席で弟の描いたスケッチをぺらぺら捲って眺める。酔うからやめろとよく言われるが、文字ならともかく絵を見て酔ったことは今までないのでやめるつもりはない。弟が仕事で描く絵はかっこいいのに、こうしてラフに描いた絵は透き通って見えるしあたたかな気持ちになる。優しい絵だ。兄の小説と似たものを感じる。2人で絵本を作ればいいのに、と何度か思った。

 スケッチの中に、地面に座り込んでこちらを向く赤ちゃんがあった。ふっくらとした頬の輪郭が見るからにやわらかそうだ。骨骨しさの感じられない、まるでぬいぐるみのようなシルエット。かわいいなあ。鉛筆で描かれた頬をそっとなぞった。

「煙草吸うで」

「メンソにしてやー」

「分かっとるわ」

 スケッチブックを閉じて煙草に火をつけた。冷たい煙が肺を満たす。神社に滞在していた3時間ほど吸わずにいたのだから実質禁煙に成功したようなものだ。俺の職場は勤務中も喫煙できるので、寝ているとき以外でこんなに吸わないことはめったにない。3時間で禁煙成功なら、睡眠時間はもっと長いのだから毎日禁煙成功していることになるな。だから寝起きの煙草はおいしいのだろうか。1人でそこまで考えて、なんだかおかしくなって笑った。口の端から煙が漏れた。

「えっ兄ちゃんどないしたん、なんか外あった?」

「いやちゃうて、俺毎日禁煙成功してんなーて思ったんやけど、毎日禁煙成功てなんやねんって思って」

「それ禁煙できてへんやん!」

「せやんな、意味分からんわ」

「いや兄ちゃんやで」

「まあ世の中には禁酒する言うた次の瞬間ショットかます女もおるしなあ」

「それ姉ちゃんやん」

 改めて考えると酷い兄弟だ。この俺にしてこの妹ありだな、さすが双子。なお俺も妹も、禁煙禁酒が成功したためしはない。

「そういやなんかアイデア浮かんだん」

 2本目の煙草に火をつけながら弟に問う。横目で見た弟は嬉しそうに笑っている。

「もーばっちり! 多少リテイクあるやろうけどほぼ一発でいける自信あるわ、ありがとうな」

「……俺なんもしてへんやん」

「いやいや、兄ちゃんが付きおうてくれたからやで。俺1人やとどうしても見るとこが偏るんよなあ」

 そうか、と呟いた言葉は煙と混ざって消えた。お世辞だったとしても、俺が役に立てたならそれで十分嬉しかった。なにも予定がない1日は、なにもできずに終わるのが常だ。だから本当であれば、今日も酸素を吸って二酸化炭素を吐いて、ときどき煙草を吸って、あとは風呂入って寝るだけのはずだった。そんな無意味な1日が、弟の役に立った1日に変わったのだ。結構いい日じゃないか。しかもこのあと兄弟揃って飯に行ける。最高だ。

「兄ちゃん機嫌よくなってる!」

「別に機嫌悪くなかったし。つかそれよりパーキング寄って。煙草吸いたい」

「今吸うてるやん」

「いい加減甘いの吸いたいんやはよパーキング向かえや」

「サー、イエッサー!」


 家に帰ると、妹のアトリエにしている部屋は来客用にすっかり片づけられていた。アトリエとは言っても折りたたみ式の長机と椅子と、あとはトルソーがあるくらいのこざっぱりとした部屋だ。細々としたものをクローゼットに押し込んでしまえば、頑張れば兄弟4人が雑魚寝することもできる。さすがにしないけど。

「おかえり。こっちあと布団乾燥機かけるだけやから、リビングでゆっくりしといたら?」

「まじか、全部任してごめん。カフェオレ入れるけどいる?」

「あー……そやね、お願い」

 頷いてリビングに戻る。マグカップは3つ用意して、インスタントのカフェオレを入れて湯が沸くのを待つ。弟は車を戻しに一度帰った。こっちに戻ってくる頃にはかなりぬるくなっているだろうが、うちは兄弟揃って猫舌なので大丈夫だと思う。

 今は3つしか並んでいないこのマグカップは、兄弟の分として実家を出るついでに揃えたものだ。名前になぞらえた色のマグカップを4つ揃えるのはなかなか骨が折れた。それでも妹が頑なに譲らなくて、なにをそんなにこだわるんだと文句を言いながら4人で探し回った。俺と妹はあっても兄がなかったり弟がなかったり。最終的に兄が東京のセレクトショップをはしごして見つけてくれて、引っ越し祝いとしてうちに届けられた。

「あー疲れた。二日酔いでやることちゃうでほんま」

「ごめんやん」

「ちゃうちゃう、あんたやなくて私の仕事と兄さんよ。平日の深夜に飲みベ高い客ばっかなんも意味分からんし、兄さんも帰ってくるならもうちょいはよに連絡くれたらええのに」

「連絡ちゃんとすんのお前だけやん」

「それがおかしいんやろ。あんたもあの子も、ほんま……てか予約したやんな?」

「もーそれはさすがにしてるってー」

 妹にマグカップを差し出し、もう片方の手でダイニングテーブルの端に避けていた灰皿を引き寄せる。溜まっていた吸い殻はいつの間にか捨てられていた。アトリエを片づけるついでに捨ててくれたのだろうか。胸の内で感謝する。

 煙草に火をつけると、妹もほしそうな顔をしていたので1本差し出す。咥えた先を差し出されるよりも先にライターをつけて待っていてやると、妹は満足げに笑ってみせた。伊達に双子じゃないぞ。しばらく弟は戻ってこないので、今吸っているのは甘い香りのする煙草だ。

 妹は煙草がよく似合う。顔立ちこそきれいというよりはかわいいと表現するほうが相応しい部類だが、細身で長身なためどことなくアングラな雰囲気がある。折れてしまいそうな細く白い指と黒い煙草のコントラストが様になっていた。

「そういや」

 甘い煙を吐き出した妹が口を開く。視線だけで続きを促した。

「あんた、あんま親の話したげなや。あの子、気にして私にラインしてきたんやから」

「あー……ごめんやん」

「私がとやかく言うことちゃうからええけど。でもあの子が甘いもん無理になったんあんたの件があってからなんやから」

「……えっ初耳なんやけど?!」

 驚きのあまり煙草の灰を落としかけた。慌てて灰皿に先を落とす。

 俺は20歳そこそこの頃、同性愛者であることを親にカミングアウトした。母親には泣かれ父親には殴られ、近所中に響き渡るのではないかというほどに怒鳴り合う大喧嘩の後にお前はうちの子じゃないから出ていけと追い出された。そのまま当時付き合っていた男の家に転がり込んだのだがその話は割愛する。妹の言う俺の件とはこのことだと思うが、これが原因で甘いものが無理になったとはどういうことなのだろう。

「あんたが家出てってから、母さんのお菓子作る頻度めちゃくちゃ高なったんよ。なんか手作りのお菓子が与える影響がどうとか言うてたわ。たぶんまだあの子高校生やったから……父さんにいろいろ言われてたのもあるやろうけど」

 妹はそう言うとため息混じりに甘い煙草の煙を吐いた。俺の脳裏に思い出されるのは、まだ幼い頃よく食べた母の手作りのお菓子たちだ。タルト、クッキー、アイスにケーキ。学校から帰ると家にはいつも甘い香りが漂っていた。俺は母の作るクッキーが大好きで、幸せだった頃の思い出はバニラの香りとセットだったように思う。

 だから、まさかそれらが弟が苦痛に感じるものへと変わっていたなんて想像もしていなかった。ただ単に好きじゃないだけだと、そう思っていたのに。

「……まあなんでもええけど。とりあえず八つ当たりすんのはやめたりや。分かってると思うけど、あの子あんたがいっちゃん好きなんやから」

 俺は妹の言葉になんと答えたのだろう。喉を締めつけるような感覚が呼吸を浅くした。指先が冷える。吸えない煙草の火はいつの間にかフィルターにまで届いて、焦げたバニラのにおいが煙と一緒にゆらゆらと漂っていた。


 戻ってきた弟はついでに家に帰りでもしたのか、神社で言っていた通りタブレットで仕事を始めた。どこからそんなアイデアが出てくるのか、ただの線は意味を持ち形を作っていく。よく描けるよなあ、と思いながらメンソールの煙草をふかした。

 なんとなく、今なら謝れそうな気がした。

「……ごめんな」

「えっ、はっ? 何が? 別にええけど」

「あー……」

 フィルターを噛む。弟は俺の言葉を気にした様子もなくデザインを進めていく。愛されている子供たちと澄んだ神社の空気は繊細なイラストになって、独特な色合いをもって弟の世界観を表している。見ているこちらもあたたかな気持ちになる、優しいイラストだ。

「いや……なんか、俺のせいで迷惑かけたよなって」

「迷惑ちゃうよ」

 画面から目を離さず、けれど被せ気味に弟はそう言った。まっすぐな言葉は絡まった俺の心をいとも容易くほどいていく。冷えた指先で煙草を消した。

「姉ちゃんからなんか聞いたんやろうけど、迷惑やと思ってたら兄ちゃん連れ回したりせんし、遊びに来たりもせんから。俺、兄ちゃん……兄貴と姉ちゃんもやけど、みんな大好きやねんで」

 伝わってへんかった? と言って弟は笑った。つられて俺も笑う。知っているつもりでも、どこか疑っていたのかもしれない。実家を出てから10年近くものあいだ、俺のせいでという思いが拭えないでいたが、きっと最初から杞憂だったのだ。

 ベージュの髪をかき混ぜるように頭を撫でてやる。思えば、小さい頃はよくこうやって撫でてやっていた。だって俺と妹が望んだ子だったのだ、かわいくて愛しくて仕方がなかった。いつの間にか大きくなって生意気にも俺の背丈を超えていたが、それでもやはり俺にとってこいつは、いつまでたってもかわいい俺の弟だ。

 ぐしゃぐしゃになるまで撫でてやると弟は声を上げて笑い始めた。なんだか犬のようで面白くなって、セットしていた面影もなくなるくらいかき混ぜてやる。

「もーやめてや!」

「いやーお前やっぱ柴犬やわ」

「うわめっちゃぐしゃぐしゃやん! このあと飯行くんやろやめろってもー!」

「ぼっさぼさやなあ。ブラデビ吸っていい?」

「めちゃくちゃやこいつ! 兄ちゃんの家やねんし好きなん吸うたらええやん!」

「ええんや」

 姉ちゃん髪セットして、と大声で妹を呼びながら弟はダイニングを出ていった。もしかしたら甘いにおいが嫌だったからかもしれないが、それでも弟の車以外で吸うなと言われたことはなかったような気がする。ライターを覆う手は、もうあたたかくなっていた。


「かんぱーい!」

 カチン、小気味いい音を立てて4つのジョッキがぶつかる。4人でいつも飲むこの居酒屋は俺たちの家から歩いて5分足らずのところにある。落ち着いた雰囲気で居心地がよく、店内で煙草が吸えておいしいのに安い。キンキンに冷えたジョッキで出される生ビールが1杯380円、頼むから潰れてくれるな。

「兄さんこっち帰ってきたん久しぶりちゃう? 最後に会うたときまだ半袖やった気ぃする」

「せやなあ、連載の仕事あったから締切とかでなかなか時間取れんかったわ」

「えっ兄貴連載してたん?! 本なってる?!」

「まだやけど本出るよ」

 3人の会話を聞きながら、突き出しのポテトサラダをビールで流し込む。ここのポテトサラダはりんごが入っている。最高だ。

「お前は最近どうやねん」

「どう、って……相変わらずやけど」

「そうか。いつまで続ける気なん?」

 思わず眉をひそめてしまう。兄はたまに親のようなことを言ってくる。いつまで今の仕事を続けるつもりなのか、将来のことは考えているのか。いつまでなんて決めていないし、将来のことなんて考えたくもない。今までろくな仕事に就いてなかったのだ、これからもろくな職になんて就けないだろう。苛立ちを隠すように煙草の箱に手を伸ばした。酒の場ではメンソールに限る、と言ったのは誰だったか。

「別に怒っとるわけちゃうって。……最近、独立いうか、事務所作らんかいう話出とるんよ。ほんでマネージャーみたいなん雇う話なって、知らんやつ雇うくらいなら知っとるやつのがええし、お前なんやかんやいうて器用やからそういうんできるやん。昔営業もしとったやろ。今の仕事にこだわりないんやったら雇われてくれんかなって」

「マネージャーって……」

「秘書でもええで」

「いやそういうことちゃうねん」

 フィルターのカプセルを噛み潰して煙草を深く吸い込む。思いがけない話に、心臓が妙な鼓動を打っていた。というかいつの間に事務所を作るかどうかというところまで売れていたのか。何も聞いてないぞ。

 それなりに賑やかなはずの店内だというのに、何も耳に入ってこない。3人は黙って俺の言葉の続きを待っている。酔いとは違う熱が顔に集まるのが分かった。高揚感だ──柄にもなく、わくわくしている。

「そんな……だって、俺、そんなんやったことない」

「できるやろ、知らんけど」

「営業も一瞬で辞めたし、ちゃんとやったことあるんホストとメンコンだけやねんけど」

「いけるいける、知らんけど」

「知らんけどばっかやん」

「知らんもんは知らん。せやけどお前やったらできるやろな思って声かけてんねん、あとはお前がやりたいかどうかやで。やりたないんやったら無理強いはしやんけど」

 にやりと器用に片方の口の端だけをつり上げて兄は笑ってみせた。俺が今の仕事に嫌気がさしているのも、兄の話に魅力を感じているのも、きっと何もかもお見通しなのだ。それが癪で、けれどどこか嬉しくもある。表情が緩みそうになっているのを悟られないように煙を吐いた。

「そうやって口尖らせてるとあんたらほんま似てるよなあ」

「は? ……はあ?!」

 妹の言葉に思わず大きな声が出た。当の本人はといえば、いつの間に注文していたのか塩辛を口に放り込んで2杯目のビールに口をつけている。けろっとした顔で妹は弟を顎でしゃくった。

「拗ねたり照れたりしたとき。顔一緒やでほんま」

「んなことないやろ、俺とこいつそんな似てへんやん」

「えっ俺兄ちゃんと似てへんの?!」

「似とるやろ、顔だちは俺と近い言われるけど表情の作り方おんなじやで」

「いや俺兄貴とも似てへんやろ……」

「そうか? お前ちっこい頃俺とそっくりやったで、細胞分裂で生まれたとか言われとったやん」

「そんなん知らんし覚えてへんし」

「まあそれはどうでもええんやけど、仕事や。どうする?」

「どう、って言われても……」

 2本目の煙草に火をつける。メンソールが頭を冷やしてくれないかと思ったが、そんなこともなくただニコチンが脳を燻すだけだった。落とす灰もないのに灰皿を煙草でつつく。断る理由が見つからなかった。

「できるか、分からんけど……」

「オッケーほな雇うわ。これで事務所の話ちゃんと進めれるわ、ありがとうな」

「……おう」

 右手に煙草、左手にビール。妹と弟の視線のせいで面映い。こっち見てんなよくそが。口汚く罵りたい気持ちになったが、黙ってジョッキを煽って空にした。内側に残った泡が人の顔のように見える。シュミミなんとか現象だったか、昔兄から聞いた気がするが思い出せなかった。どうでもいいといえばどうでもいいのだが、どうでもいいことでも考えていないと頬が緩みそうで耐えられなかった。

「あとおかんがたまには顔出せってさ」

「はあ? よう言うわ、うちの子ちゃうから出てけ言うたんそっちやんけ」

「10年もたてば気持ちも変わるんやろ、知らんけど」

「兄貴、もしかせんでも酔うてんな?」

「酔うてへん、知らんけど」

「酔うとるやんけこいつだっる」

 いつもであれば気持ちが落ち込むはずの両親の話も、今はなんでもないことのように笑って話せる。俺も酔っているのだろうか。何をそんなに意固地になっていたのか、今となっては分からないがもしかしたら両親も同じだったのかもしれない。俺がたかが仕事の誘いに素直に頷けないくらいなのだ、実の息子の恋愛対象が同性だなんてはいそうですかと受け入れるなんてもっと難しいことだっただろう。そう考えれば些末なことのように思えた。

 居酒屋の喧騒が心地いい。兄弟の会話も溶け込んでいる。目蓋を閉じて両親の顔を思い出してみた。なんとなく会いたくなって、明日にでも実家に帰ってみようかなどと、柄にもなく思った。

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