タッチ
授業なんか、もう頭には入らない。
でも、誰かにタッチすればいいという考えが
少しだけ、緊張と恐怖を和らげた。
授業に集中できないのならば
これからの、作戦を立てたほうがいい。
(手っ取り早くタッチしたいけど、学校の人とか
知ってる人はダメだよね。)
今日も、ママの病院に行く
その途中で、まったく知らない人に
タッチすればいいと、考え付いた。
ちゃんと封筒は持っている。
全然、知らない人ならば罪の意識も薄れる。
(これで、バカみたいに逃げ惑う必要なんてないんだ。)
1つの事に集中すると、時間は早く経つものだ。
放課後のチャイムが鳴っている。
HRなんて、どうでも良かった
もどかしくて、落ち着きが無くなる。
「晴香?どうしたの?トイレ?」
愛子が、覗き込んでくる。
「今日、用事があるから、急いでんの。」
「ふーん・・・」
先生の、さよならという声を聞くか聞かないかで
カバンを掴み取って教室を出て行く。
階段を降り、昇降口から見た校門を見て愕然とする。
(そうだった!あいつらが居たんだ!)
すると、守衛さんが門を開け始める。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!!!)
裏門へと走る。
先生たち専用の門だが
そんな事は言っていられない。
裏門は、基本的には閉まっているのだが
パンツが見えるとか
カバンの中身が壊れるとか
そんな事どうでもいいくらい
カバンを向こう側に投げつけ
豪快に門を乗り越えた。
学校から、病院へは近い。
裏門から出たほうが
地理的にも近いので
ちょっとだけ、ラッキーだと思いながら
いつ、追いかけてくるか解らない
あの、鬼たちが来る前に走って病院へと向かった。
病院へは、大通りを進む。
小さな店や、民家がある、すこし賑わう通りに
自動販売機が3つほど並んだスペースがあった。
サラリーマン風の人の良いおじさんが
その前で、新聞を小脇に抱えて缶コーヒーを買っている。
(あの、おじさんでいいや。優しそうだし。)
ちょっと、クセのある髪を短めに切り
少し太めのフレームのメガネをかけた
ダークグレーのスーツにネクタイをしめたおじさん。
ぽっちゃりとした体型と、下がった目じりが
とても、柔らかい印象を与えていた。
後ろから、そろりと近寄り
カバンから出しておいた封筒を握り締め
震える左手でタッチしようとした
「タッ ―――――――――」
触ろうとした瞬間に
目の前にフラッシュをたかれたような閃光が走った。
真っ白い世界から音が聞こえてきて
じわじわと映像が見えてきた。
「富永君。君の営業成績だと不況のわが社では
このまま、雇っていくのは不可能なんだよ。」
「そんな…。子供が今度大学に行くんです。
今、職を失ったら、どうやって説明したら…。」
「でもね、君、大分前から言っていたはずだよ
営業成績の思わしくない者は、辞めてもらうって。」
「聞いてました。聞いてましたけど、努力しても努力しても
どんなに頑張ってもダメだったんです…。」
「どんなに努力したか知らないけどさぁ、結果が出てないんだから
仕方が無いことじゃないかな?」
「そんな…」
「まぁ、どんな事を言われても、もう決定してることだから
そんな事をしてる間に、次の仕事を探したほうがいいんじゃないの?」
「・・・・・・・・・・・」
現場に、自分がいるような光景だった。
おじさんの肩が少しだけ震えていた。
更に、白い世界になり
また、音と映像が流れ込んできた。
「こんな、ご時世に。君のような経歴で
その、年齢では再就職は出来ないよね。
採用するメリットが無いもの。」
「うちも、不況でね~。能力のある人じゃないと要らないんだ。」
「募集要項に、年齢不問って書いてあったって
限度があると思わないの?」
公園で、うなだれるおじさんが居る。
見ているのは、アルバイトの情報誌だ。
「アルバイトで、息子を大学になんか
行かせてやれるわけないよなぁ…。」
また、白い世界。
「あなた。いってらっしゃい。今日も頑張ってね。」
「ああ。行って来るよ。」
行くあてなど無いのに
スーツを着て、カバンを持って出かけるおじさん。
何も知らない奥さんが、それを送り出す。
今日も、おじさんは遠くの公園で
アルバイト情報誌を広げ
時間をつぶす。
「あいつは、私と違って頭がいいんだ…いい大学に行けば
きっと、いい会社に就職できる。
あいつだけには、いい人生を送らせたいんだ…。」
おじさんの、独り言は増えていった。
「来週は、給料日か…給料が入らないのを見て
美佐は、仕事が無くなった事に気がつくんだろな…」
おじさんは、ベンチに仰向けになった。
胸のポケットから小さな紙を出す。
それを目の前にかかげ
小さく笑った。
「これしか無いか…」
自嘲気味の笑みは
真剣な眼差しになった。
カバンから、紙をペンを出し
殴るように書き始めた。
「家族へ」
もう、それ以上は
見ていられなかった。
顔を背けて、目を閉じた。
「どうしたの?具合でも悪いの?」
おじさんが、顔を覗いていた。
「大丈夫です。」と言いたかったけど
目から、涙が出てくるだけだった。
「大丈夫?大丈夫?」
と、おじさんは、おろおろしながら
ハンカチを渡してくれた。
そして、買ったばかりの缶コーヒーを差し出して
「これ、今買ったのだから、飲んで元気出しなさいね。」
と、優しく笑った。
(どうして、こんなに良いおじさんなのに…)
涙は、とめどなく溢れてきた。
死んじゃったら、終わりなんだよ。
家族にだって会えないんだよ。
死んでも、何にもならないんだよ。
どの、言葉も出てこなかった。
変わりに
「小さいときに。パパが死んじゃって…
ママも…ガンで…死んじゃうかも…しれない…って」
誰にも言えなかった
胸の苦しさみたいなものが
涙と一緒にあふれ出てきた。
「おじいちゃん、おばあちゃんは居ないの?」
「居ない…一人に…なる…かも…しれなくて…」
見知らない、おじさんに
何を言ってるのだろうかと思いながらも
それを、止める術は無かった。
おじさんは、封筒を握り締めた手を
優しく、ポンポンと叩きながら
「大丈夫。大丈夫。」と繰り返し言ってくれた。
胸の内を全部おじさんにぶちまけた。
本当は、パパが居なくて寂しかったこと
ママが働いていて、甘えられなかったこと
でも、そのママが死んでしまいそうなこと。
一人になる恐怖。
おじさんは、「うん。うん。」と頷きながら
私の話を聞いてくれた。
普段は強がっている私だからこそ
見知らぬ、この可哀想なおじさんに
すべてを話せたのかもしれない。
タッチする気なんて
とっくの昔に消えていた。
気がつくと、遠くの道から、あの鬼たちが追ってきていた。
公園に移動して話してたとはいえ
時間は、ずいぶん経っていた。
「おじさん。私、そろそろ病院に行かなきゃ。」
「お母さんの所?」
「うん。ありがとう。おじさんが話し聞いてくれて
なんか、すっきりした。ママにも笑顔で会えそう。」
「そっか…」
おじさんは、少しはにかんだ笑顔だった。
「じゃぁ、行くね?おじさん。おじさんにも大変なことあったら
私、話聞くからね。」
「息子より年下の子に、相談なんか出来ないよ。」
おじさんは、困った顔で笑った。
「そこは、うんって言わなきゃ。社交辞令でしょ?」
「うん。」
おじさんは、今度は笑ってくれた。
手を振りながら走って公園を去るとき。
おじさんが、ゴミ箱に
何かを棄てているのが見えた。
あれが、おじさんの書いていた遺書ならいいと
心から願った。
(タッチするときに見えたのは、なんだったんだろう…)
鬼たちは、後を追ってくる
やはり、捕まったらどうなるか解らない恐怖。
このまま、逃げ切れる自信も無い。
誰かに、タッチしなければと言う意思は変わらなかった。
(あの、おじさんにタッチしたら可哀想だから
タッチさせないために見えたのかも…下手におじさんに
タッチしなくて良かった…)
安堵と、恐怖と、不安とが
グチャグチャのまま病院へと急いだ。