後編(恋人たちをdeleteしたの)
その人はやっぱり、アガタクリコじゃなかった。
といって往来商事代表取締役社長阿片久里子でもなく、資産家令嬢で元銀行員の縣久里子ではもちろんないのだ。十年の歳月を経てもなお不変の精神力というべきか。それとも、まったき狂いようというべきか。
私は内心で舌を巻く。
現実には巻いていない舌の上に、ゆずジュレのかかったヨーグルトアイスをひと匙すくって載せる。爽やかな甘味が味蕾に沁み入った。たしかに〈往来さん〉の言葉通りだと、認めるにやぶさかではなかった。
『私たちには甘味が必要だわ、ね、アガタさん。そう思わないこと?』
かくして往来さんと私は、空港に隣接して聳え立つ高層ホテルの豪奢なカフェテリアに腰を落ち着け、それぞれ好みのパフェを前にしていた。私のそれはシンプルに柑橘系アラカルト、往来さんが選んだのはサクラピンクで各種ベリーが満載の季節限定品だ。どちらも彩り華やか、食べてしまうのが惜しいほど美しい。そしてもちろん、すこぶる高価だ。
あれから十年経ったいま、私はすっかりこの街の住人になっている。マサヒコと住むはずだった部屋にひとり住まい、市内のショッピングモールに職を得て、静かに暮らしていた。三十歳前後の独身女性としては、まずまずの水準で堅実な暮らしぶりだと思う。
この高層ホテルと豪奢なカフェテリアは、そんな私の日常と比べれば完全に圏外の場所だ。距離的には、生活圏からそう遠くない。空港を利用するときは、このホテルの前をバスで通った。けれども大きなガラスドアの中へ入ったことはない。正面ドアに近づいたことさえなかった。
私と違って往来さんの立ち居振る舞いに怖じる気配はなく、威風堂々たるものだった。こんなにも小柄でにこやかなフツーのオバサマでありながら、貴婦人のごとき存在感を放っている。
たとえば往来さんがチラと目を遣れば、すかさず黒服が駆けつけた。あらごめんなさいね。どうもありがとう。それでいて往来さんの物腰はあくまで低く柔らかく、高飛車なところは微塵もないのだった。
私は感嘆のため息をつき、甘夏柑の果実を口に含む。酸っぱい、けれど目が醒めるように美味しい。そして自分に言い聞かせる。このような人物、つまり貴婦人のごとき存在感を放つこの小柄なオバサマと、同席している私の取るべき態度はただひとつだけ、他の選択肢は皆無だと。
敵対的であったり、かつて抱いた猜疑心のままに恨み言を並べ立てたり、決してしてはいけない。そんなことをしてみたところで、なんのメリットもないのは明白だった。
たとえば私がいま、昔の怒りを挙げ連ね、往来さんを責めたり罵ったりしたとする。一体なにが起こるだろうか。
上客に忠実な黒服たちが飛んで来るだろう、きっと。彼らの静穏モードで素早い連携プレーによって、私はあっと言う間もなく摘まみ出されるのだ、たぶん。慇懃無礼ならまだしも、わかりやすく今後一切出入り禁止のレッテル貼りを食らうかもしれない、十中八九は。
それは絶対的に好ましくない、避けるべき事態だった。私はこの街の住人であり、ショッピングモールのスタッフの一員でもあった。社会人としての評判は地に落ちる。実際以上の悪い噂にまみれる。住まいと職を失う破目にもなりかねない。そんな、最悪の事態は願い下げだ。
とどのつまり、なにがあろうといまここでの私は、精一杯お行儀よく振る舞わなければならない、その一語に尽きた。
往来さんはサクラピンクのベリー満載パフェの天辺から、イチゴのスライスを一片摘まみ取り、ひらりと口に運んだ。ついうっかり見惚れてしまうほど、優雅な仕草だった。
今日は髪にもサクラピンクの差し色が入っている。けれど、ごく控えめな程よいバランスを保っているので、上品でさえあった。かつてのハイビスカス色の禍々しさを思えば、別人のようだ。
往来さんは至極まともでチャーミングで、生まれついてのセレブなマダムに見える、だれの目にも。そのことに気づいて、私はゾッとする。どう足掻いたところで、私に勝ち目はなさそうだ。
「アガタさんたら。指輪をひとつもつけていないなんて、どうしちゃったの?いけないわね、こんなにきれいな指をしているのに、ちゃんと飾ってあげないなんて」
サクラピンクのパフェを優雅に食する合間に、往来さんはにっこりと微笑んで宣った。上流階級で育った人のものさしを、私に押し当てて小首を傾げる。いい年頃なのに最低限レベルの身だしなみとお洒落心さえ忘れている、迂闊で無骨な親類の娘を叱るような口調だった。
「指輪なんて。私は食品を扱う仕事をしているので、ふだんからつけないのがふつうです」
「あら。お仕事しているのね、どんな?」
「お料理するんです、お弁当やお惣菜をつくっています」
「まあ素敵。アガタクリコさんはお料理ができるのね。お上手なの?」
「ええまあ、上手なほうですよ。十人いるスタッフのチーフですから」
「まあ。すごいじゃないの、アガタさんたら、十人のチーフだなんて」
見れば往来さんの指には、左右合わせて六個もの指輪が散りばめられている。スプーンを持つ手が動くたび、色とりどりのジュエリーが煌めいた。けれど、左手薬指にはなにもつけていない。周りの指がにぎにぎしく飾られているだけに、左手薬指の空隙は目立った。
往来さんは私の視線に気づいた。左手薬指の虚しい空隙。するとそれを隠すのではなく、大きく開いて私の目の前にかざした。
「ねえアガタさん。私のこの指にダイヤの婚約指輪がはまっていたことがあったなんて、信じられる?それはもう昔々の大昔で、ほんの短い間のことなんだけど」
往来さんはさも可笑しそうに、くつくつと肩を震わせ忍び笑っている。他人事のようなその笑いっぷりと、発言内容の重さとのギャップは、いかにも大きい。私はいっそう慎重になった。でも、訊きたいことはあり過ぎるほどあるのだ。
「信じますよ、もちろん。花婿さんはきっと、すっごくステキな方だったんでしょうね」
「花婿にはならなかったの。その前に、逃げちゃったんですもの」
「は?」
「だからね、逃げムコだわ、とってもわかりやすく言うとね」
私は言葉に詰まった。それでも、往来さんは話したがっていると感じて、恐る恐る先を続けた。
「いなくなったんですか?婚約指輪をくれた、その方が」
「あのね。カレがくれたんじゃないの、私が買ったのよ、一時的に立て替えて。そのときはそういうつもりだったの。特注したダイヤの指輪のほかにもね、モルディブ行きのハネムーンでしょ、ホテルウェディングのお支払いでしょ、それやこれやのために用意したおカネがぜーんぶなくなったわ、きれいさっぱり、カレと一緒に。だから、花婿じゃなくて逃げムコ。あら、いいわね、この呼び方」
そして、往来さんはまたにっこりと微笑んだ。楽しそうで、しかもチャーミングだった。まるで地雷原に足を踏み入れるような気がしたものの、私は訊かずにいられなかった。
「警察に届けたりとか、しなかったんですか?」
「まさか。ケーサツだなんて。そんなこと、しませんのよ、私たちのおうちでは。そうそう、私のクルマもなくなったの。あの頃流行りだった、ちょっと大きめの白いセダン。私も気に入っていたんだけど、カレのほうがもっとずっと気に入ったみたいなのね、乗って行っちゃったわ」
キラキラしていた往来さんの瞳はいつの間にか輝きを失い、深い闇の黒に変わっていた。心の在り処を見失わせるような、ベタ塗りの暗黒だ。
「その方はいま、どこでどうしているんでしょうね?」
「さあね。そんなこと、知るわけないじゃない、私が。ずっと昔に逃げちゃったヒトのことなんか、ねえ?」
往来さんはじゅるじゅると音高く、グラスの底で融けて濁ったサクラピンク色の液体を啜り上げた。初めて、その仕草が下品に見えた。
そんなこと、知るわけない、だなんて。
私も柑橘色の融けかかったアイスクリームを、長いスプーンで丁寧に掬い取って口に含む。その作業に集中しているふうを装いながら、内心では往来さんの発言を疑っていた。大いに。ことごとく。あれもこれも。腑に落ちないことばかりが列を成した。
たとえばひとつ、例を挙げるなら。往来さんは遠くの街に〈逃げた〉私を探し当て、こうして追って来た。十年もの歳月が過ぎた後でもなお、当たり前のように、こともなげに、やって来たじゃないの。
それほどまでに執拗で諦めない往来さんが、自分に大恥をかかせた〈逃げムコ〉をあっさり見逃したなんて大法螺は、信じられないことMAXだ。特注品のダイヤの指輪と多額の現金と、さらにはクルマまで持ち逃げしたという嘘つき男を、告発もせずに諦めたなんて。まったく、往来さんらしくもない与太話の一語に尽きた。信じられるものか。
「だからね、私たちはちょっと、似てるんじゃなくて?」
「は?似てるって、どこがですか?」
「ほら、アガタさんもカレシさんが逃げちゃったでしょ、私みたいに」
憤怒が脳天を突き抜けて噴き出し、頭上の豪華なシャンデリアを揺らした。揺れたのは私の視界だったかも知れないが。絶叫してテーブルを乗り越え、往来さんにつかみかかりたい衝動を必死に堪えた。
「私のマサヒコは逃げたんじゃありません。よくご存知でしょ」
「あら。そうだったかしら?そうそう、逃げちゃったのはアガタさんだったわね。なかなか帰ってこないんだもの、つまんなくて私、またやっちゃったんだわ」
「は?なにを?まさか、また、あの大きなクルマで、だれかを?」
やらかした悪さをしぶしぶ打ち明ける子どものような口調で、往来さんは語った。予想した通り、〈またやっちゃった〉程度の悪戯では済まない犯罪の顛末だった。
私がいなくなってから三年目の冬のことだ。クリスマスと年末年始が近づき、街に出れば楽しそうなカップルと家族連れが目につく季節だった。往来さんの気分は孤独に塗りこめられ、ささくれ立った。
その気持ちは私にも、ほんの少しだけ共感できた。マサヒコを失った後、もしも調理の仕事に巡り合っていなければ、往来さんと同じところまで堕ちていたかもしれないと思う。
お客という他者に、美味しい食事を提供しようと工夫を重ねる日々の営みは私の正気を保ち、心身の健全さを育んでくれた。食べものに関心を持てるうちは、人は死なないものだと知った。夢中で生きた年月だった。いま、私には気に入った仕事があり、マサヒコとの思い出があった。なんと言っても、そこが大きな違いだ。
日課となった気晴らしのドライブ中、先行車の二人が〈やけにイチャイチャしている〉ように、往来さんには見えた。無性にムカついた。実際は車体に当てるまでもなく、例の大きくて黒い外国製のSUVを、スレスレに寄せて追い越しただけだった。凍結路のせいか、先行車は嘘のように呆気なくダム湖に落ちて行った。スッとして気分がいいと感じたのは、ほんの一瞬だけだった。
バックミラーの中で落ちてゆくそのクルマは、軽ワゴンのように見えた。そのときすでに、好ましくない予感があった。案の定、翌日のローカルニュースで、往来さんは知りたくないことを知る破目になった。
ダム湖に落ちたクルマはやはり軽ワゴンで、乗っていた高齢の夫婦は宅配業務中だった。国民年金だけでは不足の生活費を稼ごうと、働き続ける夫と同乗して手伝う妻。ある意味で仲むつまじく、イチャイチャしていたに等しいカップルだった。
往来さんはその二人を、謂われもなくダム湖に葬った。山道に街頭カメラなどなかった。目撃者どころか通行車両の一台もなかった。逃げたらいいじゃないの。耳の奥でささやく声が聴こえた。もっともだと思ったので、救助も通報もせずに走り去った。苦い悔恨と罪の意識は、後から押し寄せて来た。
「気の毒なことをしてしまったと、思われたんですか?」
あなたでも。人並みに。あとの二語は敢えてつけ加えずに呑み込んだ。
ところが往来さんの返答は、まったく意表をついて奮ったものだった。
「あら。ぜんぜん。気の毒なんて思わないわ、あの人たちのこと。そもそもあんなふうに長生きしたのが、イケてないもんね。年金が足りないなら、がんばって生きようとするのはやめにして、終わりにしたらいいのに。そんなの美しくないっていうか、みっともないでしょ。私はイヤよ、お年寄りとかシニアとか呼ばれながら、もっと生きていようとするなんて。
あれはね、言ってみれば私のミステイクだったの。軽ワゴンかもしれないって気づいたとき、すぐにやめればよかったのよ、落ちる前に。そうしなかったことが悔しくて、でもびっくりするくらい簡単に相手は落ちてしまって。なんてドジな成り行き。罠にハマったみたいだった。スマートに避けられなかった自分が赦せなくて、落ち込んじゃったのよ。
想い人に先立たれた者は後を追うように早世するって諺、聞いたことある?それってとってもステキだと思わない?なんて美しい逝き方かしら。だってそうでしょ?長く一緒にいれば、千年の恋も醒めるときがいつかは来るわ。醒めた後の残骸を見ないで済むなら、どちらかを早めにdeleteした方がよっぽどいいと思わないこと?失えば恋しさは募るものよね。千年の恋は振り出しに戻って、残された者とともに生き続けるのよ」
Delete?
キーボード上でよく見るその語の意味が、ひどく恣意的に応用されていることを、私の脳が受け入れるまで少しの間合いが必要だった。Delete?私のマサヒコも?そんなことはすっかり忘れたような澄まし顔で、ひときわ優雅にコーヒーカップを口に運ぶ往来さんを、私は強いまなざしで見据えた。できる限り強く。そして、静かに問いかけた。
「いままでに何回やったんですか?若くて見映えのいいカップルを選んで、どちらかをdeleteしたんですね?いったい何人くらい?」
「あら。何回もなんてやってないわ。そんな人聞きの悪い言い方しないでよ、アガタさんたら。だいたい知ってるでしょ。あ。去年のアレは知らないんだわね、そうでしょ?でも、それひとつだけだわ」
往来さんが事もなげに言ってのけた去年のアレ。
軽ワゴンの高齢夫婦をダム湖に転落させて以来、数年ぶりの衝動に駆られて引き起こした激突だった。どうしてだか。どうしようもなく。抑えきれないなにかのせいで、ぶつけたくなった。そのままに、そうした。
ところが相手のクルマも、そこそこ大きくて頑丈な輸入車だった。年式はごく新しかった。大破したのは、十年超も愛用した往来さんのクルマの方だった。往来さんも重傷を負った。相手のクルマの損傷は少なかったが、若い母親と幼い子どもが命を落とした。残された父親はいまもまだ入院中だ。
淡々と語りながら、往来さんは錠剤のシートをいくつか取り出した。指さし確認をして数え、プチプチと音立てて薬の粒を摘まみ出し、口に含んだ。
「なんの薬ですか?」尋ねた私に、
「えーと。これは抗生剤でこっちが消炎剤、それと痛み止めね」
言いながら鎮痛剤を四個も口に入れ、水で流し込んだ。
「どこか痛むんですか?」
余興マジックの種明かしでもするように、往来さんは肩にかけたケープをめくった。左肩から肘にかけて、ギプスで固定されていた。
「骨がね、バキバキ折れちゃったのよ」
なにが可笑しいのか、さも可笑しそうに往来さんはクスクス笑っている。言われてみれば、肘から手首までの皮膚に生気がなく、動きも不自然だった。少しも気づかなかった。平気そうに見せているが、これでは指輪をつけるのも痛いことだろう。
「旅行なさるには少し不向きなコンディションのようですね」
皮肉を込めて言ったのに、往来さんはさらりと受け流し、楽しくてしょうがないことを思い出してしまったというように、またクスクス笑う。
「ほんとはね、まだ病院にいなくちゃならないの。外泊ダメって言われたから、こっそり抜け出して来ちゃった」
「それじゃ、後でうんと叱られそうですね」
「はいはい。叱られるのはもうたくさん。兄からガミガミ小言を言われたし、ケーサツの人からもたっぷり説教されたわ。すごい罰金取られて免許停止になっちゃったし。クルマもオシャカになったから、まあしょうがないけど。というわけで、私にはもうなんにもないの。あの街にいる理由がなくなったわけね。
だからこの際思い切って、よそに移ろうと決めたの。アガタさんが住んでる街に行ってみたいって、前から思ってたし。だからね、会社の口座にあったおカネを全部下ろして持ってきたのよ。あった方が絶対いいでしょ、おカネって」
往来さんは右手だけで無造作にグッチのショルダーバッグを膝に載せ、ファスナーを開いて中を見せた。札束が詰め込まれてあった。
「十三個あるわ。なかなかでしょ」
一千三百万円。銀行員だった頃には珍しくもなかった金額だ。けれどこんなふうに銀行ではない場所で、カフェテリアのような開かれた場で目にしたのは、初めてのことだった。渇望にも似た震えを覚えた。
「ステキな眺めでしょ」
往来さんはグッチのショルダーバッグのファスナーをピタリと閉じた。
「ええ。ステキですね。ずっと持っていらしたの、重かったでしょう」
自分の口調が心なしやさしくなっていると気づいて、嫌悪を感じた。カネのチカラ。押し流されそうな自分。縣ファミリーの威光。これでは郷里の街にいた頃とまるで同じだった。
展望台に昇りたいと言い募る往来さんの顔色は、よく言うところの土気色だ。街を歩きまわるより、病院のベッドに横たわっているほうがふさわしい。相当に辛いことだろう。それでも往来さんは楽しそうだった。エスカレーターの前のステップに立つ私に、しきりと話しかけてくる。
とりとめなく続くおしゃべりの端々に、小さな真実の欠片が散りばめられていたと、後になって気づいた。私が覚えている往来さんのおしゃべりと言えば、深刻そうな大法螺とアホらしい小法螺が入り混じった世迷言の類で、どこからどこまでが本気なのか、線引きのむずかしいところが厄介だった。
だから大部分はスルーして聞き流した。以前はそうしたほうがよかった。でも、今回は違った。聞き流してはいけないと思った、直感的に。聞き取れたかぎり、覚えているかぎりを、記録しておく。
話のついでのように、往来商事はもう存在しないと打ち明けられた。娘に甘かった父親との死別が〈運の尽き〉の始まりだった。後を継いだ兄は、ごくつぶしの妹の行動に厳しい監視の目を向けた。端的に言って、カネを出し渋った。最小限の生活費しかくれなかった。兄は〈働かざる者食うべからず〉の実践者、つまりケチだった。
なんといっても往来さんに、〈自分の命運もついに尽きたか〉と覚悟させたのは、去年のアレの被害者だった。妻子を失くして重傷を負った若い父親は、めそめそと嘆いているだけの人ではなかった。職業は刑事事件を専門とする弁護士で、自ら戦う人だった。
入院中の身でありながら、彼は精力的に調査を始めていた。長年にわたり、自分はアガタクリコじゃないと言い張ってきた往来さんには、不穏なウワサが纏わりついていた。折しも、絶対的な庇護者であった父親は他界して不在だった。往来さんをガードしていたバリアは、だれかが触れるたびに易々と剝がれ落ち、もはやバリアの体を為さず、全壊寸前だった。
「これ重たくてしんどいわ。アガタさん、持ってくださる?」
言いながら往来さんはグッチのショルダーバッグを私に押しつけた。受け取って肩ベルトを斜め掛けにした。ずしりと重い。グッチのショルダーバッグを、というより一千三百万円を身に着けた私の姿を眺め、ホッとしたように微笑んだ往来さんは、そのままふわりと後ろに倒れた。後ろにはなにもない。長く深い空間の下方に、昇りエスカレーターのステップがあるだけだ。
往来さんは後頭部から最初のステップに着地した。首がぐにゃりと捻じ曲がった不自然な姿勢のまま、昇るエスカレーターの動きに逆らってごろごろと落ちて行った。人の身体というよりは、まるでボロ切れの束のようだった。
長いエスカレーターは昇り続けている。私も為す術なく昇ってゆく。後続する人々は皆、巧みに避けてくれた。さっきまで往来さんだったボロ切れの束は、昇り口の床に叩きつけられ、ぴくりとも動かなかった。巻き込まれて落ちた人はいない。往来さんだけ、あの人だけだった。
安堵のため息が漏れた。展望台のあるフロアに立ちつくした私は、突然グッチのショルダーバッグの重さを意識する。一千三百万円の重さ。これだけのおカネがあったら、一体なにができるだろう。働いて自活しては来たけれど、実を言えばいつもおカネは不足していた。大きな借金はしないで済んでいるが、その秘訣は質素な生活、ただそれに尽きた。
グッチのショルダーバッグが微かに揺れた。エスカレーターから、転落事故の喧騒から、遠ざかろうと促された気がした。素知らぬ顔で。いつもの歩調でさり気なく。だれもあなたを知らない。あなたとあの人との間に関りがあるなんて、知るわけない人々の街なのだから。
ほんとうに?そうだろうか。
グッチのショルダーバッグは黙り込む。醒めて冴えてきた私の耳は、その沈黙に企みの気配を聴きつけた。なにかヘンだ。一千三百万円の誘惑を論破しようと試みる。これほどの大金を、あの人は一体どこから持ち出して来たのだろう。往来商事はもうない。あの人はもう社長じゃない。自由になる口座もない。カネを握っているのは、厳しくてケチな兄なのだ。
盗んで来たに違いなかった。頼んでも融通してくれない兄に見切りをつけ、その会社のカネを横領して来たのだ。怪我人の身で重い現金をわざわざ私のもとへ運び、見せつけた。欲しくなるように。グッチのショルダーバッグを私の肩にかけたら、自分はステップを踏み外し、落ちて行った。ひどく満ち足りた表情で。私がグッチのショルダーバッグを持って立ち去るに違いないと、確信したように。
これくらいのおカネはもらって当然、と私は考えるかも知れない。マサヒコの死によって人生を狂わされた慰謝料としては、少なすぎるくらいだ。償いたい、とあの人は考えたのだろうか。
そんなバカな。
そんなしおらしく、殊勝な思考回路を持っているはずがない、あの女は。刑事弁護士の妻子を死なせてしまったために、もう後がないと観念したのだろう。ただ、疲れてしまっただけかも知れない。いずれにせよあの人は私のことを思い出し、巻き込んで道連れにしようと決めたのだ。
犯罪者という、同じ穴のムジナに私を貶めることが目的だ。そうすれば、自分が死んだ後も私は決して自由になれない。逃亡中のアガタクリコからカネを奪った、もっと卑劣なもうひとりのアガタクリコとして、蔑まれ続ける。
どこから来たにしてもこのカネの履歴のどこかには、私の名前が浮かび上がる仕掛けが為されているだろう。もしかしたら現住所と身分も。グッチのショルダーバッグの中に詰め込まれた一千三百万円は、そのときが来ればアラームを発し、十和田毬子に盗られたと泣き叫ぶのだ。
これは、あの人が仕組んだ罠だ。
眼下のフロアに人が集まり始めていた。警備員らしき人物もいる。私は大きく手を振って合図を送り、下りのエスカレーターに乗った。携帯を取り出し、119番通報をした。オペレーターの指示に従い、十和田毬子と名乗った。落ちたのは自分の古い知人で、縣久里子という人だと告げた。年齢や職業や現住所は知らない、出身地だけが同じの縣久里子さんです。
言いながら、自分をアガタクリコと呼ぶ人はもういないのだとしみじみ思った。清々しいのに、ほんの少し寂しいような気がした。でも、ほんの少しだけ。だって私はもう、アガタクリコじゃないのだから。
終
皆様へ
読んでくださってありがとうございます。この作品で自分史上最多のPVをいただきました。いたく感動しております。お陰様で、進むべき方向が見えて来た気がしています。これからもよろしくお願いします。