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中編(千年の恋)

 名残り陽が夕暮れの色に染まりつつある帰り道、マサヒコが訊いた。

「で、ハイビスカス色のオバサンが持ってきたおやつって、なんだったのさ?」

「みたらし団子」

「お。いいな、みたらし団子。コンビニで売ってるみたいなやつ?」

「じゃなくて。デパ地下で売ってるような高級品。私なんかはグッと我慢して、買ったことないみたらし団子が、人数分あった」


「へえ。旨かっただろ?」

「うーん、微妙。仕事中でないときに、ゆっくり食べたかったな。バッサバッサとお札数えながらお団子食べるってね、なんか振りかかりそうだし、手が汚れそうだし、やっぱどうしようもなくミスマッチだよ」

「なんかって、なんだ?」

「お札のホコリ、みたいな」

「札からホコリなんて、出んの?」

「出る出る。折り皺から紙の繊維の屑みたいのが、モクモク出るよ」


「だけどハイビスカスのオバサンは、いますぐ食べてって勧めてくる?」

「そう」

「にこにこして、楽しそうにガッツリ見張ってる?」

「そんな感じ」

「桜餅や大福なんかよりはマシだろ。みたらし団子には串があるからさ」

「まあ、そうなんだけどね」


 約束したわけでもないのに今日もマサヒコは、私が乗る路線のバス停のベンチにひっそりと座っていた。昨日と同じく、ベンチにバスの待ち人はひとりもいなかった。一時間に一本、いつ来るかもわからない路線バスなので、私はほとんど当てにせず歩いて帰るのが習慣だった。せっせと速足で歩けば、家まで三十分くらいの道のりだ。


 マサヒコとおしゃべりしながら歩くと、ペースはゆっくりになった。でも、二十分くらいでマサヒコの家に着いてしまう。昨日マサヒコは、じゃあなと言って家に入りかけた。でもすぐに戻って来て、毬子の家が見えるところまで行くと言い、歩き始めた。立ち止まっていた私も、うんと言ってまた一緒に歩いた。胸の奥がポッと温まるような感じがして、うれしかった。


 マサヒコと一緒の帰り道では、勤務中にできないおしゃべりもできた。以前、トレーに山盛りの硬貨を床にばら撒いてしまったことは、家族にも話していなかったけど、マサヒコには言えた。私の胸に突き刺さって消えないドジやミスの重い痛みが、マサヒコに話しているうち、ふわふわと軽いものに姿を変え、風に吹き払われて消える気がした。


「この前ね、あたしの机の上に、110円置いてあったの」

「110円。なんだそれは?もしかして、ばら撒いたやつか?」

「ケーブルの下にあったからって、先輩の人が置いたのよ、あたしの机に。とっくに損金で処理してもらったのに。また支店長代理に頼んで、伝票起こしてもらわなくちゃなんなかった」

「ふうん。それが、しんどかったのか?」

「だってね、あと330円もあるんだよ、床のどっかに。あと何回、ドキドキしながら支店長代理に頼まなくちゃなんないのよ」

「ええと。下手したら、六回か?一個ずつ見つかったとして」

「やだやだ。440円出して終わりにしてくれたほうが、ずっとよかった」


「けどさ。もう一個も見つからない可能性だって、ゼロではないだろ?」

「あ、そっか。その可能性は、考えてなかった」

「だからさ、クヨクヨすんなよ。なんか、毬子らしくないもんな」

「あたしって、そんな能天気なヤツに見えてるの?」

「能天気な毬子のほうがいいと、オレが思うんだよ。けどまあ、社会人になったら能天気でいられないのは、しょうがないことかも知れないな」


 マサヒコがひとり言のようにつぶやくのを聴いて、自分たちがもう子どもでなくなったことを私は思い知る。そうだった、私たちは二十一歳になったのだ。だけどつい、中学生くらいの気分に戻ってしまっていた。


 遠い街の大学に通っているマサヒコが、夏休みでもないこの時期に帰省していることを、私は深く考えようとしなかった。「就活」のひと言だけで済ませるマサヒコに、どこの会社を受けるのかいつまでいられるのか、訊いてもいないのだ。


 どことなく、違和感はあった。就活中だというけどマサヒコのスーツ姿を、私はまだ一度も見ていなかった。カッコいいだろ。そう言ってわざわざ見せに来そうな気がするのに、そうではなかったのだ。


 バス停のベンチに佇んでいるマサヒコは、中高生時代に着ていたようなジャージとТシャツ姿だった。まるで、あの頃に戻りたがっているみたいだと私は思い、思ったことを口に出せなくなる。


 マサヒコに尋ねたいことは、山のように積み上がっていた。知りたいことがたくさん溜まっている。それなのにこうして顔を合わせると、ひとつも浮かんで来ない。いますぐでなくてもいいような気がしたり、きっとマサヒコも私と同じくらい疲れているのだろうと思ったりして。


 だから今日も私は、くだらないおしゃべりばかりしていた。せっかく会えたのに、マサヒコとはまるで関係のない、私だけのモンダイ、グチ、ボヤキの数々。でも、笑ってもらえるような軽いネタは、もう尽きた。


「あたしのことを、アガタクリコって呼ぶお客さんがいてね」

 ついに口に出してみると、そのお客という存在の異様さはくっきりと際立った。マサヒコは一瞬絶句して足を止め、まじまじと私を見た。ふざけているのではないとわかって、キュッと眉をひそめた。


「アガタクリコ。なんだそれは?ヘンなオヤジから、迫られてるのか?」

「じゃなくて。みたらし団子を持ってきた、ハイビスカス色のオバサンのことだよ。あたしはちゃんと名札をつけてるのに、アガタさん。呼びたくて呼んでるみたいに、アガタさん。だからね、ちょっとキモイの」


 そして、あと330円も床のどこかの隅っこに隠れている、損金硬貨モンダイの大本でもあるのだった。就職して以来、私が抱えるモンダイとグチとボヤキのすべては、往来商事のその人に由来するのではなかったか。遅まきながらそんな気がしてきた。


「なんでアガタクリコなんだ?その名前に、心当たりはないのか?」

「全然。わけわかんないから、困ってるのよ」

「そのオバサン、相当にイカレてるんじゃないか?そもそも、ハイビスカス色の髪なんてさ、そんなのアリかよ、この街で。アーティストでもなんでもない、フツーのオバサンなんだろ?」


 マサヒコがそう言ったとき、私たちを追い越して走り去ったクルマの運転席に、ふたりして同じものを見た。まさしくハイビスカス色のおかっぱ頭、見覚えのある頭頂部の丸み。

「なんで?」     

 私は呆気にとられてポカンとした。


 たしかにこの国道は交通量が多かった。街の住民たちは、どこへ行くにもここを通った。一日に複数回通る人もいるだろう。だから単なる偶然だろうと思いつつ、監視されているような薄気味悪さを覚えてゾッとした。その上走り去ったクルマは、無闇矢鱈と大きくて黒いSUVタイプだった。ロゴは見えなかったが、ハンドルの位置と大きさからして外国製と思われた。


 往来商事のその人がどんなクルマに乗っているのか、私は知らなかった。そのとき初めて知った。無闇矢鱈と大きくて黒い外国製のSUV。またしてもひどくミスマッチな上に、剣呑だった。ただひたすら、恐ろしくて危険なものに見えた。


 そこから先の記憶は、吹っ飛んでしまっている。

 どうしても思い出せない。あのとき私はマサヒコに訊いたのだったか。それとも、訊きたいと思っただけだったのか、いつもそうだったように。

「帰る日が決まったら電話してよね、なるべく早めに」


 たったそれだけのことを言えたのか。どんなふうに別れたのか。

 おそらくマサヒコは明日もこんなふうに、私の帰りをバス停で待ち、一緒に歩くつもりでいたのだろう。ごく、当たり前のことのように。でも、そんなふうにはならなかった。


 次に浮かんでくる記憶の断片は、葬儀場の祭壇だ。白い菊の花で埋め尽くされた空間。ひしめく喪服の人々。充満する香の匂い。

「やだ。嘘でしょ、起きてよ」

 私はささやきかけずにいられなかった。でも、棺の中のマサヒコは本当に死んでいた。悪ふざけでもドッキリでも、なんでもなく。ささやきかけて頬に触れたらパッチリ目を開き、舌を出してニコッと笑いそうだったのに。

 私が初めて見た就活のスーツはよく似合っていた。カッコいいよ。そう言ってあげたのに、マサヒコはなにも答えてくれなかった。


 白い灰になったばかりのマサヒコのお骨は、熾火のように強烈な熱を放った。炙られて立ち眩みを起こした私は収骨室の隅でうずくまり、私よりも近しい親族や縁者たちが、マサヒコのお骨を足先から拾い集めてゆくのを見守っていた。そこかしこから、すすり泣く声が聴こえた。けれど私は、社交辞令も悲嘆の言葉も涙も、なにひとつ出ないままだった。


「毬子ちゃん」

 つと、腕を取られた。マサヒコの母、小さいときから小母さんと呼んでいる人だった。泣き腫らした目もとのせいで、人相が変わったように見えた。小母さんは私を立たせ、長い木の箸を持たせた。手振りで自分の箸と合わせて動かすように促した。私の箸は小母さんの箸と一緒に、マサヒコの頭のお骨を震えながら拾い上げ、陶器の中に収めた。


「マサヒコくんが住んでたお部屋を、見せてもらってもいいですか?」


 私の唐突な申し出に、小母さんは驚いた様子も見せずに即答した。

「そうね。あっちで借りてる部屋を片づけなくちゃならないんだわ。じゃあ、一緒に行く?でも毬子ちゃん、仕事休んで大丈夫なの?」

「平気です」


 出勤しても、どうせ碌な仕事はできやしないと思った。行かなければ、という気持ちにもなれなかった。どう言い表せば相応しいのか、わからない。ただ、あの場所へ戻るのが怖かった。戻りたくなかったのだ。


 小母さんの足手まといにならないように、しっかりしなくちゃ。その一心で、手持ちの小さなスーツケースに着替えを詰めた。マサヒコの小母さんと旅行するなんて想定外のことだから、どんな服を着たらいいか見当もつかない。詰めては出し、また詰めた。私はまともな服を持っていないのだと、つくづく思い知った。中高生時代のジャージを着ていたマサヒコと、似たり寄ったりだ。


 それでも旅行の準備をしていると、元気が出た。意識的にご飯も食べた。母は喜んだが、マサヒコの部屋を見に行くと聞いた途端、渋い顔をした。私の気を変えさせようと説得にかかった。始めは猫なで声だったのが次第に熱を帯び、仕舞いには脅したり賺したりの愁嘆場になった。


 どうしてわかってくれないのだろう。私の人生はこの先も長く続くのだと母は繰り返した。だからと言って。死んでしまったからと言って。マサヒコが初めからいなかったみたいに気持ちをリセットするなんて、私にはできないのだ。


 翌々日、私たちは出発した。本当は初七日を済ませてから行くつもりだったのに、小母さんは万障繰り合わせて予定を早めた。私のために。一日も早く私に日常の暮らしを取り戻させるために。未来へ繋がる日常の日々を。小母さんの言葉の端々に、使命感のようなものが感じられた。


 この旅行は、くぐり抜けるべきトンネルだった。私たちふたりともに。暗くて怖いけど無限に続くわけじゃない。出口はきっと、ちゃんとある。いまはこんなに辛いけど、やがてはそこへたどり着けるのだ。


 もちろん母と違って小母さんは、深く悲しんでいた。私たちはお互いの中に、自分と同じ質量の悲しみを見ていた。小母さんが私の無分別なわがままや身勝手を赦してくれたのは、ひとえに、悲しみの大きさゆえだったと思う。でもそのことに気づいたのは、だいぶ後になってからだ。


 男子学生がひとりで住むアパートの部屋。想像していたほど不潔でも乱雑でもなく、意外なことに狭くもなかった。小さいけれど部屋はふたつあった。そして、そのふたつめの部屋はさっぱりとして、不思議なくらいものが置かれていないのだ。


 その床には真新しいセンターラグが敷かれてあった。洗濯機で洗えることが売りで手ごろな、パッチワーク風ステッチのついた布製のラグだ。柔らかなその色合いが雄弁に、多くのことを私に語りかけてきた。


 明るいベージュ色の濃淡に、アイボリーホワイトとレモンイエローの幾何学模様が美しく踊っている。私の好きな配色だった。衣類やバッグやスニーカーを選ぶとき、この色合いのものがあれば迷わず手にした。メロンパンみたいな色だと、マサヒコはよく私をからかったものだ。毬子の好きな、焼きたてメロンパン。


 折しもそのとき私は、アイボリーホワイトのチュニックシャツを着ていた。ラグの上に座った私のシャツのアイボリーは配色の一部に溶け込み、もとからあったもののようにしっくりと馴染んだ。


「まあ、毬子ちゃん」

 小母さんがつぶやいて息を呑んだ。それからひと頻り、むせび泣いた。私も小母さんの手を取り、初めて心底から泣いた。

 そこはマサヒコが、私のために用意した部屋に違いないと思った。


 小母さんと私はありったけの寝具を分け合い、ラグにくるまって長い一夜を過ごした。かつてこんなに疲れたことはなかったと思うくらい疲れていたのに、眠れる気がまったくしない夜だった。


「毬子ちゃんには言わないでおこうかと思ったんだけど」

 薄闇の中で小母さんは天井を見つめたまま、訥々と語り始めた。

「やっぱり話しておかなくちゃならない気がするの、聞いてくれる?」


 もちろん、ぜひとも聞きたかった。

 そして私は、マサヒコの命を奪った事故の詳細を初めて知った。マサヒコの過失の割合は大きかったと、小母さんは悔しさを絞り出すように言った。スピードを出し過ぎていたので、赤信号に変わったタイミングで止まり切れず交差点に進入し、右方向から来た大型車と衝突したのだ。


 友人から譲り受けたばかりだったというマサヒコの小型セダンは、相手の車よりずっと年式が古くて性能が劣った。さらに言えばマサヒコの運転技術も、相手のドライバーよりはるかに未熟でお粗末だった。


 ふと思いついて、相手も怪我をしたのかと尋ねた。小母さんの声は一瞬詰まった後、鋭く尖って吐き捨てられた。


「するもんですか。ちょっと痛そうにしてたけど、あんなの絶対フリだけに決まってるわ。だって、あれだけ頑丈そうでバカでかい外車に乗ってた人が、怪我なんかするわけないわよ」


 暗い天井の隅から、重苦しい予感の黒雲がモクモクと湧き出て視界を覆った。息が止まりそうだった。言葉は途切れ途切れに、やっと出た。

「もしかしたら。その人、銀行のお客さんかも、知れないです」


「そりゃそうでしょう、お金持ちだもの。市内の一等地に土地やらビルやらたくさん持ってる家に生まれて、親から貰った財産を管理する会社をやってるんだって。往来商事とか、いってたわ」


 言葉のアヤではなく、私は本当に目の前が暗くなった。

「その人、特待ランクの、お客さんです」

「あら。やっぱりね。社長の名前、阿片久里子でしょ?」

「ああ。そんなような、名前だったと思います」


「ほんとは縣っていう字のアガタなのよ。若い頃には銀行に勤めていたこともあったんだって。普通の家の娘のように働きたいとか、おとぎ話みたいなこと言ってね。まあまあ感じのいい娘さんだったみたいよ。


 だけどその頃に、なにか辛いことがあったらしいって聞いたわ、詳しく知ってる人はいないんだけど。それから後はすっかり人が変わって銀行も辞めて、郊外のお屋敷に閉じこもったきり、結婚どころか人付き合いもしないで、だんだんおかしくなっていったんだって」


「おかしくなったって、どんなふうに?」


「保険会社の人から聞いた話だけどね。あっちの銀行で下ろしたお金をこっちの銀行へ持って行ったり、いくつもの銀行を巡り歩いては、多額のお金を出し入れするだけ、それをさも大事な業務みたいにやってるんだって。毬子ちゃんの銀行でも、そんなふうだったの?」


「ああ。そんな感じでした」


「それじゃ、アガタさんと呼ばれても返事しないってホントなのかしら?社長か往来商事と呼ばれるまで、自分のことじゃないみたいに知らん顔してるんだって?」

「ああ。そうです。自分のことじゃないと思ってるみたいで」

「あらま。いやあね。そういうのって…」


 小母さんは黙り込んだ。薄気味悪さのあまり、寒気がしたようだった。だから私がその人物からアガタクリコと呼ばれているなんて、とてもじゃないけど言い出せなくなった。そんな勇気はふり絞っても出ない。


 私も震えていた。お腹の底から沸き出す震えが止まらなかった。私と一緒にいたからだ、と思った。なんの根拠も脈絡もなく、直感的に確信した。あの人が、私と一緒にいるマサヒコを見たからなのだ。


 あのハイビスカス色のウイッグの下の脳内で、イカレたなにかがショートした。スイッチが入った。誤作動が起こった。どれがピッタリはまるのかわからないけど、とにかくそれは起こった。そしてマサヒコが標的にされた。私ではなく、ほんの少しの間、国道沿いを一緒に歩いていただけのマサヒコが。


 他人を襲う目的で交通事故を起こすなんて、どんなトリックを使えばできるのか見当もつかない。私は車の運転をしないから、皆目わからない。ただなんとなく、これは作為ではない気がするのだった。


 あの人はただ、闇雲にぶつけただけではないのか。たまたま大きくて頑丈な輸入車に乗っていたので、自分は無事だった。マサヒコだけを死なせたのは、たまたまの結果だ。いわば、お金持ちの特権、富の勝利だ。


「小母さん。あたし、うちに帰りたくないです」


 私たちはそれぞれに、ほの暗い天井を見つめていた。小母さんの答えは、だいぶ間をおいてから聞こえた。

「あっちに、阿片久里子がいるからなの?」

 もちろんそれもある。けれどなにより、この部屋から離れたくない気持ちが勝っていた。


「ここにいたいんです。この部屋を、私が借りて住みたいの」


 眠ってしまったのかと思ったくらい長い間、小母さんの返事は聞こえなかった。私はじっと待った。

「それがほんとにいいことなのか、わたしにはわからないわ。そうしたい気持ちはわかるつもりだけど、ご両親に怒られそうな気がするし。でもきっと、ダメって言われても居座るつもりなんじゃない?」


「ええ。たぶん、そうすると思います」


 薄闇の中で、小母さんの深く長いため息が聴こえた。

「実を言うとわたしも、ここを片づける気持ちになれないの。だってこの部屋にいたら、マサヒコがいまにも帰って来そうな気がするんだもの。マサヒコが使っていたものを捨てて、ここを空っぽにして、知らない人に明け渡すなんて、できないわ」


 それから小母さんは話してくれた。マサヒコはこちらで就職することを希望していたから、この部屋に住み続けるつもりだったのだと。実家に戻って就職するよう望んでいたのは父親で、当人の本意ではなかった。悩んでいたし迷いと不安が大いにあったので、私には話せないでいたのだろうと、小母さんは慰めるように続けた。


「でもきっと、毬子ちゃんとここで暮らしたいと思っていたんだわ。なんてことかしら。早く打ち明けてくれたらわたしもがんばって、お父さんを説得できたかもしれないのに。そうしたら帰省しなかっただろうし、あんな事故には遭わないで済んだかもしれないのに」


 あんな事故に。私は口の中でつぶやいた。遭わないで済むにはどうすればよかったのだろう。もはや取り返しのつかない答えを探して、堂々巡りを繰り返すうち、浅い眠りに落ちた。


 空港行きのタクシーに乗り込む際、小母さんはつと振り向いて私にささやきかけた。

「死なないでね、絶対、生きていてよ」

「大丈夫です」


 少しばかり大げさではないかと鼻白みつつ、生真面目に返した。小母さんは小刻みに頷き、あらゆる思いの丈を断ち切るように、すばやく乗り込み、タクシーは走り去った。それが、マサヒコの小母さんと直に交わした最後の会話になった。


 ひとりぼっちになってみると、小母さんの言葉は大げさでもなんでもなかったことが身に沁みてわかった。言い知れぬほど不安な気持ちが、どっと押し寄せて来た。寂しくて、堪らなくなった。ここはマサヒコが住んでいた部屋だということさえ、疑わしく思えた。そんなことは嘘っぱちで、だれかに騙されてしまったような気がした。部屋は急によそよそしく見知らぬ場所になって、私を拒絶した。


 なにかが必要だった。伝聞や憶測ではない、自分はこの部屋にいていいのだと、確信するためのなにか。それなしではここにいられない、と気づいた。いまさらだけど。私は、いつだってこうだ。たぶん、マサヒコもそうだった。グッドタイミングをつかみ損ねる子どもたち。そのままで大人になろうとする私。


 疲れすぎて、濡れたウールコートを着ているように重い身体を引きずり、デスクの前に座った。マサヒコの携帯は事故で壊れてしまった。デスク面を覆ったプリント類を除けると、小型のノートパソコンが現れた。

 私はふだんデスクトップを使っていた。二枚貝のように固く閉じて眠っている、小さくて華奢なノート型を起こすにはどうしたらいいのか。勝手が違いすぎて思いつかず、しばし、動けなくなった。


 やがて脳内に血流が戻り、当たり前のことをするように命じた。私はパソコンを開き、スイッチを押した。パスワードは、いきなり私の名前と誕生日を試した。当たり。意を強くして、マサヒコのプライベートな領域に入り込み、探しものを始めた。


 それは、メールボックスの中にあった。下書きメールの保存箱に、書きかけの文章が三通り。拝啓毬子様お元気ですか、で始まる最大限に堅苦しいバージョンが一行目に冒頭だけ。前略毬子様オレは来週そっちへ帰るけど、と幾分くだけた文章は二行目の半分くらいまで。三行目に、ひとりごとのようなつぶやきが綴られてあった。


『マリコちゃんオレのところへこいよ、来年こっちで就職したら…』


 その一文を私は食い入るように見つめ、何度も何度も読み返した。

 よかった。安堵が広がるのを感じた。マサヒコが私を呼んでいた。ひとりよがりの思い込みじゃなくて、本当に呼んでくれていた。


 安堵した途端に、意識がぼやけて来た。積もり積もっていた疲労が押し寄せ、呑み込まれそうだった。気力をふり絞って丁寧にパソコンをシャットダウンした。そのまま床に崩れ落ち、アイボリーホワイトのラグにくるまって眠った。


 これで生きていける、マサヒコと一緒に。

 そう思った後はほぼ一昼夜、ひたすら眠り続けたのだった。







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