7. 甘い香り
「…………ストップ」
「ん?もう少しじっとしていて。いまいいところなの」
「…………いやこれは……本当に、ちょっと待って」
現在アリスはノアの瞳を間近で覗き込んでいる。そしてノアの手首には拘束具が嵌められていた。
このことの発端は1時間前の出来事だった。
――1時間前――
自分に吸血鬼の血が混ざっているかどうか検証したい。まずは瞳の色を再度確認するため催眠をかけてほしい。と言ったアリスに、ノアはすんなりと承諾をした。
「じゃあ、まずそちらへ座ってもいいですか?」
隣に座ってもいいかと許可を取り、ノアは場所を移動する。
「ノアって色々丁寧だよね。紳士的というか。許可なんていらないのに」
「……ここが私の部屋でなければ許可は取らないんですけどね」
チラッと自分達の他に誰もいない室内に目を向け、少し居心地悪そうにアリスの隣に腰を下ろす。ノアの言い方にアリスは吹き出した。
「自分の部屋だからこそ許可なんていらないでしょ」
ケタケタ笑いなにやら楽しそうなアリスに、色々心配だなあとノアは少し遠い目になった。
「じゃあ私の目を見ててくださいね。いまからかけます」
「うん。お願い」
アリスがノアの瞳をじっと見つめていると、そのグレーの澄んだ瞳が段々と緑色を帯び始めた。
「あ、ノア!緑になってきたよ」
「催眠をはじめてますからね。アリスの瞳からは全く予兆反応がないですが」
予兆反応とは、催眠をかけられた者の瞳が催眠に対して反応を示す現象である。それが確認できると下準備は完了なのだが、アリスの瞳からは一切の応答が得られなかった。
「へー、虹彩の部分だけじわじわ下から変化していくのね。色の濃さが変わって波打ってるみたい」
「それは吸血鬼が見ているものと全く同じ特徴です」
「瞳孔は黒のままなんだ」
「ええ、色は黒から変わりません」
「なるほどなるほど」
アリスが好奇心旺盛にノアの観察をしていると、突然ピクッと眉をあげたノアはピタっと動きを止めた。
「…………」
「ん?どうしたの」
間近で顔を覗き込んでいるアリスは、至近距離でノアを見つめている。
「……アリス、何かつけていますか?いま」
「つけてるって何を?」
「……香料の類いです」
「香水とか?」
はい、と返事をしたノアの声は心なしか動揺しているようだった。
「香水なんてつけてないけど、何か匂う?」
明らかに様子がおかしいノアに、アリスは不審そうに聞いた。
「いえ、ならいいんです」
「待って、どこいくの」
ソファーから腰をあげようとする気配を察知してすかさずアリスはノアの手首を捕まえた。
「……もう充分じゃないですか?アリスに見えてる瞳の状況が吸血鬼に見えてるものと同じことも確認できましたし」
「それはそうなんだけど」
アリスはノアが急速に距離を取りはじめたことに疑問を覚えつつも、もうひとつ確認したい事があったため話を続ける。
「さっき香水つけてるか聞いたけど、何か匂いがするの?」
「…………」
「ノア」
「……甘い、匂いが」
何故か気まずそうにしたノアにアリスは追撃する。
「甘い匂い?わたしから甘い匂いがする?」
「……まあ」
「その匂いってどういう匂い?血の匂いなの?」
「……どうでしょうか」
煮え切らない態度の上、ふいと顔を逸らされる。逃がすまいというようにアリスの手がノアの顔を覆う。クルっと無理やりアリスの方へ向き直された。
「ねえ、確認したいの。お願い、協力してくれない?」
「………………はい」
手のひらで顔を包まれ逃げ場がないノアは、やっとアリスと目を合わる。そこには困り果てたような表情が浮かんでいた。
「血から香っているのか確認してくれる?もし血だったらわたしに吸血鬼の血が混ざってる可能性は消えるでしょ?」
そう言うと、アリスは自分の襟元の留まっていた2番目と3番目のボタンを外し首もとを露にする。はい、と髪をまとめあげて首を傾けると、晒された首筋から甘く濃い匂いが立ち昇った。ノアの喉仏が無意識に上下し、視線がアリスの首筋から鎖骨に下がる。一瞬の事だったが、熱を帯びた深い青色が瞳全体に広がったのをアリスは見逃さなかった。
ノアはゆっくりと瞬きをすると、アリスの瞳に目線を合わせた。何もかも飲み込んでしまうような青色が瞳の中をでゆらめいている。逃げられない、そう本能が告げていて頭の中では警告音が鳴っていた。獲物を狙うような、そして熱っぽい激情を瞳の中に見た気がして、アリスは背筋を震わせる。
「……ノア?」
ノアはその声で我に返ったのかパッとアリスから視線を逸らす。
「いまのって」
「……なんでもないですよ」
「なんでもなくないでしょ?……もしかして吸血衝動が出てるの?」
アリスが投げ掛けた質問にノアは何も言わず、目元を軽く手で覆う。吸血衝動とは吸血鬼が血を吸いたい衝動に駆られる現象だ。とても強い本能的な欲望でコントロールが難しいとされている。発現の発端は様々だが、誘発する一因として人間の血の香りがある。多くの吸血鬼は血の香りを好み、それが本能的に吸血衝動を呼び起こすのである。しかしノアのように長年生きている吸血鬼は経験から衝動の逃しかたを習得しているため、飢餓状態でもなければ自我を失うような事態にはならない。
しかしここまで気持ちが昂る香りに出会ったのはノアの人生の中で初めてのことだった。
「ノア手をどけて」
「……だめです。見るものじゃない」
「お願い。これも大事な研究なの。吸血衝動に関するデータを直接取れることなんて滅多にないから……だから、お願い」