4.引継ぎ
釣られたように、側に置かれたベッドからもう一つ泣き声が上がる。
我に返ったソフィアが慌てて、腕の中の赤子をエリンに渡し、ベッドの中の赤子を抱き上げてあやし始めた。
「ちょっと!これ、どうすんだよ!!」
急に子供を渡されたエリンは大声を上げる。すると怖い顔をしたソフィアに、大きな声出さないで!とたしなめられる。口ごもったエリンは、ソフィアの見よう見まねで赤子を軽くゆすってみた。ぐにゃぐにゃして怖い。何より、ずっしりと重い。ソフィアは、腕に抱いた赤子が落ち着いたところで乳を含ませている。エリンの腕の中の赤子も泣き止んだので、そのまま揺れ続けた。次第にうとうとして、腕の中で眠りにつく。
「あら、上手じゃない。あ、そうそう、お乳を飲んだ後はすぐに寝かさないで、げっぷをさせてね」
「はぁ!?先に言えよ!」
「ふ、ふえぇぇ…」
「あ」
ソフィアはあらあらと言う顔をするだけで、直ぐに腕の中の子供の世話に戻る。エリンは恨めしい顔で、彼女を睨みながらも、もう一度アクセルを寝かしつけるべく、奮闘した。
ソフィアは騒ぎがひと段落すると、動物の形を模した可愛らしい陶磁器を部屋の奥から出してきた。
「…何、それ」
「哺乳瓶よ。この吸い口で、温めたヤギの乳を与えるの。あと、もうそろそろ離乳食を始める時期ね…」
「……離乳食?」
なんせ今まで赤子の世話などかじったことすらない。ソフィアの話す言葉が全く理解できないエリンはただ、オウムのように耳に付いた言葉を繰り返す。
ソフィアは苦笑したものの、まぁ、習うより慣れろよね、と言ってそれ以上詳しい説明はもらえなかった。
そこから1週間、ソフィアに指示されるままに動きながら、彼女と共にひたすら子供の世話に明け暮れる日が続いた。
「うん。まぁ、これで大丈夫ね。じゃ、私帰るわ」
ある朝、そう言うと、ソフィアは自分の子供抱え、日も登り切らぬうちに颯爽と屋敷を去っていった。寝ぼけ眼のエリンは目を白黒させたものの、置いて行かれたものは仕方ない。ちらりと、アクセルに視線をやりため息を吐いた。もうあと数分もすれば、この赤子は目を覚まし、腹がすいたと泣き喚くのだろう。自分の支度もそこそこに、のろのろとエリンは廊下に出て、食堂に向かう。
廊下には柔らかく朝日が差し込むが、屋敷の中はシンと静まっていた。
『ほら、この屋敷、死神卿の屋敷でしょう?殺されたらたまらないって、奉公先としてはとっっっっても不人気なのよ。全く、人手が足らなくて不便ったらないのよね。でも、お嫁に来たのがあなたでよかったわ。嫁いできたのが、自分じゃ何一つできないお貴族様だったら、私の負担が逆に増えるところだった!』
からからと笑っていた、ソフィアの言葉を思い出す。
そう、この屋敷は極端に人手がないのだ。特に女手は壊滅的だ。エリンがこの屋敷に来てからというもの、接したのはほぼソフィアだけだった。側近が赤子の世話を任されるはずである。必要最低限の人数で、屋敷を切り盛りしているらしい。
とはいえ、少ないとはいえ、食事は毎食与えられ、アクセルの面倒を見る以外の仕事は任されない。しかも、風呂まで使わせてもらえる。夜泣きの対応でぐっすりとはいかないが、与えられたベッドもふかふかだ。総じて見ると、これまでに比べ、格段に待遇が良い場所ではあるのだ。なぜ自分が赤子の世話を、と疑問に思いながらもエリンが、逃げ出さないのはそのせいだった。
つらつら考えているうちに食堂に付いた。屋敷で一番最初に稼働するのが食堂だったから、活気ある様子で朝食が作られている。エリンは、アクセル用の乳と、自分の朝食を頼む。ぶっきらぼうなシェフが、カートにさっと必要なものを準備してくれて、エリンはぺこりと頭を下げて、それを押しながらまた自室に戻る。自室が見えてきたところで、廊下まで響き渡る大きな泣き声が聞こえた。エリンはため息をついて心持ちカートを押すスピードを速めた。
扉を足で蹴り開けながらカートを部屋の中に押し込む。
「はいはい、待たせたね」
声をかけながら、アクセルを抱き上げて、持ってきた哺乳瓶を口元にあてる。なかなか飲ませるのが難しい。口からだらだらとこぼれるし、流し込む速度が速すぎると咽る。飲まし終わると、げっぷをさせて、床に転がす。そうして、自分の分の食事をトレーごと膝にのせて食べ始める。いつも通り、やたら野菜が多い。そして全体の量が少ない。ソフィアも同じものを食べていたから嫌がらせではないと思うが…。兎になった気分だなと思いながら、エリンは朝食を食べ終える。
ゆっくりできたのはそこまでだった。
おしめ、ミルク、寝る、と欲求ごとにぐずる赤子に翻弄された。本当にどこからこんなに大きい声が!?と心配になるほど、大きな声で、顔を真っ赤にして泣くのだ。泣いている原因が分からないこともある。やっと寝た、と思ってもベッドに置くと起きることもあった。どんなにそっと置いてもダメなのだ。そうなるとひたすら、抱っこして歩き回るしかない。
しびれる腕をさすりながら、これまでは、ソフィアと手分けしていたから何とかなったのだなとエリンはため息を吐いた。