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短編・ショートショート

絶対晴天都市

作者: 白河マナ


 と。

 ITエンジニアのタナカは回転式のダイニングチェアに座り、かれこれ一時間ほど趣味の時間を楽しんでいた。

 敵陣地でと金となった歩兵を見つめ、満足そうにうんうんと頷く。その頷きで椅子の支柱部分がきぃきぃと音を立てる。タナカは人差し指の先で首を掻きながら盤面の状況を頭の中で整理していた。

 タナカの職業はフリーのITエンジニア。本職はその中でも上位に位置するITプロジェクトマネージャーだ。担当した企業ではITによる業務改革や大規模なシステムのマイグレーションプロジェクトを担い、その大半で期待される以上の成果をあげてきた。脱線しかけていたいくつかの大企業をより良いレールに戻し、いくつかの中小企業を成長企業に仕立て上げた。今ではそれらの会社のITコンサルタント業務も引き受け、以前のようにがむしゃらに体を動かさなくても金が入ってくる。

 ぱち、ん。

 只今は、趣味の時間。タナカは趣味の将棋に興じていた。

 将棋の世界は電子化が進み、今ではプロ棋士でさえも立体的にデジタル化されたバーチャル空間の盤面上で駒を扱う。ぱちんと駒音はそれらしく響き、それらしく耳に入ってくるが、タナカはその電子音が嫌いだった。どれだけ忠実に再現しようと、木の駒を木の盤に置いたときに鋭く響く本物の駒音には遠く及ばない。

 そうはいっても日を増すごとに将棋人口は減少している。タナカの周りには将棋を指す人など誰もおらず、相手を探すとなるともはやインターネットの世界しかない。サイバースペースでなければ将棋を指すことは不可能だった。

 ぱち、ん。小気味いい音。

 日本にいた頃に骨董屋で買った木製の将棋盤を仮想画面の隣に置き、デジタル化された盤面の動きに合わせ、同じ配置になるように木の駒を置いていく。

 タナカは駒を通して指先から伝わってくる振動に愉悦を感じる。今日の相手は手ごわい。まだまだ楽しめそうだ。

 ネット将棋サービス『極極ごくきわみ』は、数あるサービスの中で最も利用者が多い。全盛期は約七百万でいまはその十分の一の七十万人ほどに落ち込んでしまった将棋の競技人口だが、このサービスは約五十万人が登録・利用している。将棋愛好家の最後の砦だ。 

 ネット将棋の面白さは、相手がAIではなく人間であるということと、互いのレーティングによって対戦が組まれるため、毎回手に汗を握るギリギリの戦いを体験することができるという点にある。相手が弱すぎたらつまらないし、強すぎれば興ざめしてやる気が失せる。勝っても負けても気持ちよく終われる絶妙なバランス調整、それがこのサービスの人気に繋がっている。

 『極極』は気に入らない将棋音を除けば、タナカにとって最高のサービスだった。興味のない者を家に招待して将棋を指してもつまらないし、丁寧にレクチャーしたところで長続きせずに飽きられてしまう。

 ぱちん。

 相手が駒を動かしそれとともに電子音がして、タナカは考えていた手をデジタルの盤上で差し、続いて手元の木盤面の駒を差す。

 ぱち、ん。

 自分側の駒の音声はオフにしているので、タナカが一手を差すときにのみ室内には本物の駒音が空気を切るように鳴り響いた。


 盤面は相手陣地にタナカの成銀が突入してからタナカ優位に進んでいる。対戦相手のヤマシロが休憩信号を送ってくる。タナカは承諾ボタンを押し、盤面を一通り眺めて頭の中に記憶してから立ち上がる。

 相手がひとつミスをすれば一気に投了に近づくが、レートは対戦相手の方が上なのでまだ勝負の行方はわからない。

 タナカは背伸びをする。そして天井の対話型のAIアシスタント機能を持つスピーカーに話しかけた。

「今日の表の温度を教えてくれ」

『マイナス九十一度です。なお室内は二十二度、湿度は四十六パーセントです』

 電子音声が即答する。

 タナカの住むマンションは、絶対晴天都市と呼ばれる『ハレルヤ』の中にある。『ハレルヤ』は標高十五キロメートルにある盾状の人工山で、世界議会による世界プロジェクトによって誕生した。ヒマラヤ山脈をミサイルで何年も爆撃し、あるていど平らにならしたところで百万台の重機を投入、周囲の山々から土壌をかき集めて、百年かけて作り上げられた。上空から見ると『ハレルヤ』は正確な正方形で、一辺の長さは百キロメートルある。横から見ると盾状火山のようになだらかに傾斜している。将棋盤と同じように八十一の区画に分かれ、各国の総投資額だけではなく、世界への貢献度も考慮して割り当てが行われた。

 日本が割り当てられたのは、そのうちのふたマス。複数の国で一マスを分け合っている国もあることを考えると日本は財布としての役割以外も評価されたと言える。割り当てられた二つの区画は将棋盤でいうところの2六と2七。『ハレルヤ』は一ミリの狂いもなく正確に東西南北に合わせて建造されているので、日本の区画は東南東に位置する。

 なぜここが絶対晴天都市と呼ばれているのか、それは標高にある。標高十五キロメートル。この高さになると完全に雲の上なので太陽を遮るものは何もない。曇りも雨も、雷も存在しない。いかなることがあっても晴れ続ける都市。それが命名の由来だ。

『お待たせした。喉が渇いたものでビールを取りに』

 部屋の四隅にある大型のスピーカーから相手の音声だけが聞こえてくる。今日の対戦相手はヤマシロ。ハンドルネームか本名かは分からない。

「飲み過ぎないでくれよ。私はもっと君との対局を楽しみたいんだ」

『はは。キミは変わっているね。まだこの世に楽しいことなんてあるのかい』

 タナカは無精髭を撫でながら考えてみる。

「私の仕事は機械的だからコレ以外には無いな。私がいま楽しめるのは将棋だけだ。キミもそうだろう。そんなにレートが高いのだから」

『違う。僕は真剣なんだ。残念ながら楽しんではいない』

「そのビールは?」

『喉が渇けば、喉を潤すナニカが必要だ』

 自分は酔わない、と言いたいのだろうか。

 タナカは真意を測りかねたが、棋力に影響しないのであれば相手が泥酔していようと大麻を吸っていようと構わない。

「わかった。続けよう」

 どっしりと椅子に体重をかけて、二つの盤面に向かって回転させる。ぎぃぎぃと音を立てながら、ダイニングチェアはぎこちなく動き始め、ヤマシロの手番からで勝負は再開した。


 タナカが『ハレルヤ』に移住したのは今から二年前。ITコンサルタントの仕事が軌道に乗った頃だ。ITプロジェクトマネージャーとして数社で仕事をしていた時、ある一社でITコンサルタントも引き受けて欲しという要望があった。その後、他の企業からも同様の相談があり、タナカはより単価の高いITコンサルタント業を中心に据えていくようになった。先にITプロジェクトマネージャーとしての実績を買われている顧客が相手だったので既に強い信頼関係があり、もはやわざわざタナカが直接会社を訪問する必要性もなくなっていた。どこに住んでいようとリモートで対話は可能で、物理的な作業はプロジェクトのメンバーやコンサル先の各企業の担当者に任せることができる。そんな折、ある広告を目にした。絶対晴天都市『ハレルヤ』の居住者募集のコマーシャルだ。プロ棋士の対局の動画を眺めていた時に途中で挟み込まれたコマーシャル。人類未踏の地に居住する、それもいいと思った。


 居住権は年収などの条件を満たした者の中からの抽選だった。居住希望者の家族構成や税金の納付状況、犯罪歴などの身辺調査も行われた。タナカは見事それらの審査と抽選をパスして晴れてこの都市にやってきた。雨の降らない都市。聞こえはいいが外の気温はマイナス百度を超える日もある。すべての建物は必ず繋がっているので外に出る必要はない。もし建物の外に出たいのなら宇宙服のような専用スーツを着ないと呼吸ができずに死んでしまう。タナカは入居してから何度かそのスーツをレンタルして外出したが、暖かい高層マンションから出てくる物好きは少なく、建設現場で働く同じようなスーツを着た集団とすれ違うばかりだった。観光資源といったら各国の建設現場か、どうしようもなく完璧に澄み切った青空と照り狂う太陽を眺めることくらいだ。買い物はマンション内のショッピングモールやネット通販で事足りるし、病院も学校もある。コールガールだって呼ぶことができる。

 住めば都、とは言うけれど。不満がないわけではない。ここには四季もなく、季節の風を感じることもできない。春には桜を、夏には花菖蒲を、秋には金木犀、冬には寒椿を。食事もそうだ。ここではどんなものだって食べることができるけれど、季節の香りや空気が体の周囲に漂うからこそ、その味は花開く。『ハレルヤ』では味気なく感じてしまう。


 ぱち、ん。

 タナカの王手。ヤマシロの王将の正面に銀将を突きつける。ヤマシロの選択肢は三つある。王将で銀将を取って自陣を崩すか、他の駒で銀将を取って王将をその場に留まらせるか、王将を銀将の左右どちらかに進めて王手を回避するかだ。ただ、タナカの予測ではこの一局はタナカの勝ちで詰んでいる。もしかしたら思いもつかない妙手を繰り出してくるかもしれないが、それはそれで興味深い。

 対戦相手のヤマシロから長考信号が送られてくる。タナカは承諾し、相手に音声が聞こえないようにオフにして、

「長考に好手なし」

 と、ゆっくりと嚙みしめるように、呟いた。

 窓の外から景色を眺める。マンションの窓の厚みは水族館のガラスほどあって割れることはまずない。凍結しないようにガラス内部には熱が通っている。

 『ハレルヤ』の多くの区画がまだ工事中なので、都市の発展や完成はまだまだこれからのように思えた。世界が集まる都市。絶対晴天都市『ハレルヤ』は今日も快晴だ。大気中の水蒸気が薄っぺらい細氷となって浮遊し、太陽の光に様々な角度から反射してきらきらと輝いている。視界のすべてを覆うダイヤモンドダスト。この都市ならではの景色だ。日本には日本の良さがあるけれど、こちらにも日本では味わえないものがある。


『まいりました』

 長考していたヤマシロが言い、デジタル画面の中央に『投了』のメッセージが表示される。

「ありがとう。楽しかったよ」

『僕にとってはこれが最後の対局だ。ありがとう』

「どういうことだ?」

『言っただろう。僕は真剣なんだ、と。ちょっと妻と賭けをしていてね。僕が妻を放って将棋ばかり指しているものだから機嫌が悪くて。そんなに好きなら勝ち続けてプロになりなさいと。それができないなら三回負けた時点でやめるようにって、そういう約束だったんだ。今回がその三度目の敗北だ』

「そんなバカな話があるか。約束なんて無視すればいい」

『そうはいかない。これは僕が決めたんだよ。負けたらやめると』

「でも、」

『君はハレルヤって知っているかい。雨の降らない都市。彼女はそこに住みたがっているんだ。でも僕たちの世帯年収じゃ審査も受けられなくて。僕の将棋の時間を仕事にあてて、世帯年収を引き上げて条件をクリアして応募したいそうなんだ』

「そうか」

『僕だってそこまで雨を嫌う必要があるのかな、とは思う。雨を失えば、雨が降らなくなる。わかるかい?』

「雨を失っても雨以外の何かを得ることもある。ハレルヤの平均気温はマイナス九十度で気圧も地上の十分の一だ。そこでしか見ることができないものもある」

 タナカは自分に言い聞かせるようにそれを伝える。

『なるほど。そういう考えもあるね。少し興味が出てきたよ』

「それに、」

『それに?』

「いや、ハレルヤに来ることが目的なら、そこで奥さんの願いが叶う訳だろう。また将棋を始めればいい」

『どうかな。まだハレルヤ入居の応募条件すら満たしていないのだから、その先のことなんてまったく考えられない。悪いね、そろそろ回線を切るよ』

「ああ。またどこかで」

『もうここでは会えないけれどね』

 回線が切れる。

 まるで横たわるクジラのような静けさが室内に充満し、冷蔵庫に缶ビールを取りに向かったタナカの動きに引っ張られた空気がしとやかに絨毯に積もっていく。

 キッチンから戻ったタナカは回転式のダイニングチェアに深々と腰を落とす。くるりと座面を回転させてテーブルに向き合い、缶ビールを置く。ステイオンタブに指をかけて開けた瞬間、しゅぅぅぅと炭酸が漏れてくる。注ぎ口を口元に運び、大きく傾けると、ビールの中身が喉に向かって押し寄せてくる。のど越しを堪能し、缶ビールを再びテーブルに置く。


 チラシが一枚、テーブルに置いてある。

 タナカはもう一度それに目を通し、くしゃくしゃにしてダストボックスに投げ入れた。そしてまたビール缶に口をつける。

 チラシにはこう書かれていた。

 地下五千メートル、絶対夜間都市『トコヤミ』。入居者募集中。



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