夏空に、一矢報いて…
夏休み明け最初の登校日は、中天に輝く太陽のせいでゆらゆらしていた。
「美波のソレは、自覚ない感じ?」
何も含みを持たない真っ直ぐな疑問になぜかどきりと心臓が跳ねた。振り返ると心配そうな顔をした親友がそこにいる。涼しげで随分と大人びた雰囲気を持つ彼女は、私に少し過保護なところがある。あまり感情を顔に出さないのに、ほんの少し下がった眉尻。申し訳なく思いつつ、気にかけてくれたことを嬉しく思う。
「一応、あるつもり。私、そんなに分かりやすいかな…?」
「私はアイツと美波が幼馴染なの知っているから。他は…どうだろう。大丈夫な気はするけれどね。」
視線の先は3つ歳上の幼馴染とその友人。それからおそらく、彼のことが気になっている女の子達。みんな隣の中学校の制服姿で、夏休み明け早々の今日は午前中登校だったのだろう。小学生の私達も午後の授業はまだ少し先になる。
私達に気が付いた彼は柔らかく微笑みながら軽く手を振って、それから通り過ぎて行った。「知ってる子?」と女の子の声が聞こえてくる。
振り返した手を静かにおろし、少し小さく深呼吸。大丈夫、いつも通りの私だったはずだ。それからきちんと親友に体を向ける。
「春花、あのね…。綺麗になりたいなって、この前思ったんだ。私。」
「そっか…。うん、やっぱり美波は可愛い。アイツには絶対勿体ないけど、美波がいいならそれがいいよね。」
嬉しさで笑って、否定の言葉は微笑みに溶かす。自信を持ちたいからこそ、自信がない。今は、きっとそういうときなのだ。
視線の先はいつだって、もう見えなくなった彼と歩む女の子にある。
「…楓くん、やっぱり人気だよね。私じゃあ駄目だよなって思ったんだけどね…。」
それでも諦めたくないなと思ってしまったことをこぼすと、いつでも応援しているからと優しく微笑んでくれる。感極まって思わず抱きついてしまったのに、背中をぽんぽんと叩いて抱きしめ返してくれる春花がすごくあたたかい。穏やかに重なる心の音と自覚したばかりの感情に早まる鼓動が、あの日の自分みたいでくすぐったかった。
あの日―。
何かの規則に従った線が各々の道を進んだ結果、体育館の床は何やら難しい模様をつくりあげる。どこも同じだ。通っている小学校の体育館も、今いる体育館も、みんな同じで難しい。
それらの線の中でも一際大きな模様の目立つ線を選んで、現在籠球部の試合が進行中だ。
まばらなようでいて、実は似通ったテンポで床から跳ねるボールの音だとか。選手達や応援席の人の一生懸命な声だとか。一進一退を繰り返す、正しく接戦と呼ぶに相応しい展開を繰り広げるコートを中心に声となった熱が空間そのものを支配している。
もうずっと。そう、ずっと。
それでも一瞬だった。ゴール下から通った一本のパスが空気の時を止める。大きな半円の一歩後ろ、止まった時の中で彼だけが動き出す。グッと低くなる姿勢、スッと上がった腕、波のように自然な流れを経てコートからふわりと浮かぶ。いつの間にか手を離れたボールが何もないはずの空中で定まった道を行く。綺麗な軌道を描き、リングに触れることなく吸い込まれたボールはスパンと軽やかな音をたてた。
再び時が動き出す。一際大きな熱がこの空間を支配する中、時を操った彼は相変わらず真剣な眼差しで次の行動にかかる。何かを叫んだ先生の声をきっかけに、今までコートの半分より後ろから守備についていた彼のチームがコート全体に広がった。各選手にそれぞれ1人ずつ、最初から最後までプレッシャーをかける戦法にでたようだ。
試合終了まで、残り1分と30秒。
時が止まったあの瞬間。あのゴールと一緒に響き渡った決して大きくなかったはずの、あの音。それが決定打だった。
意志を持っていろいろな方向に進んだ結果、よく分からなくなってしまった想い。俯瞰して、幾つか拾い上げてみたら、浮き上がってきたものはきちんと名のある感情だった。言葉にすればたったの一文字で表現できるくせに。たったの一文字だからこそ、この強烈で難しい想いをスパンと叩きつけてくる。
つい先程、思いのほかすとんと納得してしまったこの想いに戸惑いはある。なんだか嬉しくて、すごく不安で、叶いっこないのになんでかな、なんて思うけれど。厄介でも大切にしていい気持ちだと思えた。
私を恋に堕とした張本人は、真剣な表情でゴールを護っている。彼が相手チームのパスを弾く音を聞いて、攻守は逆転。やっぱり難攻不落だよなあと思うのだった。
分かっている。彼から見れば、私はただ年下の幼馴染だ。そう、分かっている。
それでも。
「一矢報いて、みたいかな…。」
綺麗になろう。可愛くなろう。身も心も、私が私として出来るところまで美しくなりたい。
願わくば、素敵な彼に振り向いてもらえますように。
「頑張ろうね、私。」
夏真っ盛りの今日。大切な約束をひとつ、心に結ぶ。
流れを掴んだ彼のチームが点差を開く怒涛の展開を繰り広げている。3年生は引退の掛かったこの試合、それは彼も例外ではない。残り時間僅かなこの状況で、対戦相手の逆転勝利は絶望的だ。それでも諦めずに果敢に挑む相手チームの眼差しと、状況に驕らず全力で守備に当たる彼のチーム。
視界の端のでは…普段の姿からは想像し難い、鋭く見据えるようなギラギラした目が光っていた。
空気を断ち切る機械音が響く。
彼らは無事、地区大会への切符を手にしたようだった。