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僕にできること  作者: 冬夜
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僕にできること2

第二章 叫び


須佐野建は成田空港に来ていた。北朝鮮行きが決まってからいろいろな手配についてはマネージャーの矢田や事務所スタッフ、テレビ局側でも協力してもらい、須佐野としてはあまり手間が掛からなかった。矢田が言うには、ビザの申請やらで、自分の分も含めていろいろと大変だったようだ。須佐野本人についても個別で個人認証をする必要があったようで、矢田に掛かってきた電話に少し替わって、旅行会社の人と身分確認や目的について話をしたこともあった。また、テレビ局クルーの動向についても当初は断念しなければならなくなりそうだったが、須佐野や矢田の友人として一緒に行ってもらうことにした。北朝鮮側からは日本のアイドルの北朝鮮訪問を好感してくれたようで許可が下りた。

出港ロビーのフロアで、ソファーに座っていた須佐野は何をするでもなく前を通り過ぎる人を眺めていた。さすがに空港で帽子をかぶり、サングラスをするのもどうかと思い帽子を深めにかぶっていたが、一人でソファーにのんびりしている人がまさか、STAYの須佐野だとは思いもしないようで、誰も須佐野に気付く様子もなかった。また、帽子を深めにかぶっていたので、怪しい人だと思い、目を合わせようとするのを避けているようでもあった。

時間は八時を少し回ったところだった。国際線ならどんな時間でも早いとか遅いとかはないのだろうが、日本との経度があまり変わらない地域に行くので、ちょうどいい時間帯の飛行機が取れたのだろうと思う。

須佐野は通り過ぎる人達を見ながらいろいろ考えを巡らせていた。ほとんどの人が大きな荷物を抱え、これからの行程を予想しうれしそうに笑顔で搭乗口カウンターを目指していた。中にはせわしげに急ぎ足で通り過ぎる人もいたが、みな楽しそうだった。時々、サラリーマン風の人が時間を気にしながら険しい表情で通り過ぎることもあったが、全ての人が一言で表すと意気揚々という様子は共通していた。

みなの忙しそうな様子と、建自身の心境とは少しかけ離れていた。飛行機に乗り遅れる訳にはいかなかったが、急いで何かをしたいという立場ではなく、行く先についての不安が広がる一方で意気揚々とは程遠かった。

「建さん、待たせてすいません」

荷物を脇に置きソファーに座っている建に近づき、矢田が周囲に聞こえないように小さい声で言った。

「局の人は、富岡君という子が今日来るそうです。大学を出たばかりで、ADをやっているそうなんですが、ディレクターさんが言うにはいろいろ器用で頑張ってくれるそうです。連絡先は聞いてあったので連絡したところ、もう少しで着くそうです」

建が心配していると思ったのか、矢田は丁寧に説明した。建としてはテレビ局からどんな人が来ようとも、何も期待していなかった。自身のやろうとしていることの邪魔にさえならなければいいと思っていた。

矢田は建に伝えるだけ伝えると、また立ち上がってどこかへ行った。建はそんな矢田の様子を横目で見て、建のためにいろいろと動いてくれる矢田に感謝の気持ちでいっぱいだった。そして、これからの不安と共に矢田やSTAYのメンバー、事務所やテレビ局などにも迷惑を掛けることになるであろうことで、その後の自分よりも、自分の行動によって受ける迷惑や被害、損害などができるだけ小さいものであることを願っていた。

少しすると、矢田に連れられて一人の青年が建の前に立った。矢田は建を待たせたことで急いでいたようだが、当初約束していた時間よりも早い時間で無事に合流することができた。

「今回建さんの北朝鮮への旅に同行させてもらいます、富岡竜といいます。今回はカメラマンとしての同行ですが、撮影は小型カメラでやらせてもらいます」

富岡はそこまで言うと、バッグから家庭でも使われている小型カメラをとりだした。

「故障したりしたら無駄になってしまいますので、もう一台持ってきています」

富岡の持つ小型カメラは、手のひらにすっぽりと収まる街中でよく見かけるカメラだ。ただ、最近のカメラは小型でも映像はとても綺麗で、建としては最初からそんなものだろうとは思っていた。また、もし肩に担ぐようなカメラだったら、北朝鮮などでは目立ちすぎて良くないだろうとも思っていた。

「こんな小さなカメラしか持ってこられないんで、がっかりしていませんか?」

手にカメラを持ち、困ったような表情で富岡が言った。

「いや、いいよ。大きなカメラじゃない方が都合がいいだろうしさ。それに、今回は僕の勝手な内容に付いてきてもらうだけなんだから」

建の言葉に富岡は安心した表情を見せ、大きく息を吐いた。建は冷静に富岡を見たが、真面目さがうかがわれ、話した感じでは機転も利きそうだった。建が立ち上がると、矢田も荷物を引き寄せ、その動きを見て富岡もすぐにカメラをしまい荷物を持った。用意ができると矢田を先頭にして、航空会社のカウンターを目指した。


建たちは北京行きの機内にいた。北朝鮮へのビザの申請には随分手間が掛かったようだったが、無事に許可が下りた。後は行き方だったが、空路か陸路かの選択ぐらいで、それ以外は指定された通りの行程で北朝鮮に入るしかないようだった。

約四時間の所要時間の間、建たちはあまり話をせずにのんびりと過ごした。富岡にも気にせずのんびりするように伝えてあったので、いくらかアルコールを飲んだ後に寝てしまった。その様子でも、建は富岡に対して好感をもてた。

今回の旅に出る前に、いろいろと北朝鮮の旅行について調べてあった。携帯電話など通信機器と、GPS機能の付いた電子機器などの持ち込みはできないこと。また、それは空港で預けることが分かっていた。その他でも、現地では常にガイドと同行し、勝手な行動をとることはできなく、平壌にある北朝鮮の指導者の銅像がある広場では、花を買い献花しなければならないことなどが分かっていた。

北京に着いた三人は荷物を預かるとそのまま平壌行きの飛行機の搭乗手続きのために次の搭乗口カウンターを目指した。ここからが、北朝鮮との関わりの始まりであった。成田から北京までは日本の航空会社の飛行機で来た。そして、北京から北朝鮮へ行くには北朝鮮国営の飛行機で行くしかない。他の国の航空会社が乗り入れている訳はないので、選択肢はない。そして、平壌に着いてしまえば、観光客以外は全ての人達が北朝鮮の人でしかない。今迄何度も韓国に行く機会はあったが、北朝鮮の人に会ったことはなかったし、関わりを持ったことがなかった。それが、平壌行きの飛行機に乗るところから始まる。

建は自分に何ができるのか、ずっと考えてきた。北朝鮮へ行こうと決めた後も、何ができるのかはっきりとしていなかった。それでも、ただ北朝鮮に行くだけで何とかなるだろうという軽い気持ちでいては駄目だという思いはあった。何ができるのだろうか、どうにできるのだろうかは分かってはいなかったけど、何かをしなければならないという強い想いがあり、使命感のようなものを感じていた。

平壌行きの飛行機に乗り込む時、北朝鮮のキャビンアテンダントが迎えてくれた。それが、この旅と人生での北朝鮮の人との関わりの初めであった。

「建さん、やっぱりちょっと緊張しますね」

日本の飛行機に乗り慣れた中で、機内の様子やいろいろな噂から北朝鮮の飛行機は危険であるということを聞いていたのだろう。心配そうに、少しふざけた感じで矢田が言った。その言葉には建は笑みで返した。

「富岡君、ちょっと心配だよね。ちゃんと今回の仕事のこと親に話してきた?」

矢田は建が答えてくれないから、緊張をほぐすためか別隣の富岡に話しかけた。

「はい。今迄同行取材はいくつもやってきたんですが、STAYの須佐野さんと一緒に北朝鮮に同行できるなんて思ってもいなかったので、今回の仕事が決まってうれしくて親に電話してしまいました」

うれしそうに富岡は矢田に言い、チラと矢田の向こうにいる建を見た。

「で、どうだった。心配していた?」

「いや、心配よりも。俺と一緒に喜んでくれました。北朝鮮に行くからといっても、何をするでもないですから特に心配していませんでした」

富岡が言うと、その言葉に建だけではなく、矢田もドキッとした。富岡が言い終わると、変な間があり、それを感じ取って富岡も不安そうな顔をした。

「えっ、向こうで何かやるつもりなんですか?」

他の客がいる中で、富岡が聞いてきたので矢田が手で遮りながら言った。

「なに、もちろん何もないよ。まあ、詳しくは向こうに着いたら話すから」

矢田の言葉に富岡はかえって心配した様子で話をやめた。

しばらくすると飛行機が離陸準備に入った。離陸するまでは今迄乗ってきた飛行機と違い、揺れやエンジン音が直に伝わってくるようで機内に緊張が充満し空気ごと固められたようだった。飛行機が地を離れるまでの十数秒間は振動音とエンジン音以外はなにも聞こえず、蝉の鳴き声が響く夏の森にいるかのような静寂感が漂った。

飛行機が地を離れ、無事に離陸するとみなに安堵感が広がり、突然に話し声などの人の気配に溢れた。途中機内食が出されて、興味本位で口にしただけで残しはしなかったが、美味しくなかった。これからの北朝鮮での食事に不安を感じさせるものでしかなかった。

北京から平壌までは一時間半程の所要時間があったが、北朝鮮の飛行機は空を飛んでいようと、今迄乗った飛行機と比べると良く揺れたように感じた。そして、着陸する時も離陸する時と同様機内に緊張感が走った。無事に着陸すると機内の一部で拍手が起こった。その拍手がこれから北朝鮮国内に入り北朝鮮体制への統制の厳しさのことを気にしている中、ここまではまだ北朝鮮に入国していないという安心感のようなものを感じた。

機内での時間を建はずっと考えごとをしていた。少し眠ってしまったようだったが、あまり長い時間ではなかったと思う。これから北朝鮮でやろうと思っていることについて、いろいろ考えを巡らせてみた。北朝鮮に入るとほぼ密着する形でガイドが付く。そのガイドがいたところで、北朝鮮の人々に何か訴えようとしても許されることはないだろうし、その後の行動範囲が狭まるだけだろう。どこかでガイドと離れなくてはならない。そして、できればテレビクルーを連れて一緒に離れたい。また、いくつかの観光スポットがあるが、ガイドと離れてからの長距離の移動はできないだろうから、できるだけ一般の人達が暮らす街中の近くを観光している時がいい。そして、その行動の前に富岡君を説得しなければならない。

うまくいくだろうか。ガイドをまくことはそれほど難しくないような気がする。いい場所が見つからなければ、すぐにガイドのところに戻ってもいい。できるだけ、多くの一般市民がいるところがいい。でも、そういったところには外国の人が立ち入ることがないことも知っている。そこまで辿り着くことができるか。富岡君を連れて。

また、その先のことを考えると、富岡君に撮影をしてもらいたい。自分のやっていること、やろうとしたこと、やったことを知ってもらいたい。運も大きく関係しているだろうが、うまくいってもらいたいと思った。


飛行機が平壌空港に着くと、ほどなくして乗員はおろされた。北朝鮮の人についてはいろいろな不信感もあるが、飛行機内では食事の美味しさはともかく、キャビンアテンダントは乗客をもてなそうと一生懸命にやっていることは伝わってきた。大きく国を見てしまうと分からないが、人一人一人を見ればどこの国も同じように、優しい心を持ち仲良く、楽しく暮らしていきたいと思っていることが分かる。

飛行機から降りると、空港のターミナルビルまで少しの距離を歩いた。北京で飛行機に乗る時は、曇っているのか大気汚染の影響なのか分からなく良い天気と言えなかったが、平壌に来てもあまり変わりはなかった。ただ、少しだけ空気が澄んでいるように感じたが、開発著しい中国と比較しての気のせいかもしれなかった。空港のターミナルビルは、日本とは全く違ったが、中国ともまた雰囲気が違う。空港に降り立つ人々を歓迎するというよりは、監視する印象を受ける。鉄筋コンクリートの建物は自然と冷たさを感じさせる。装飾などの違いだろうか、どこがどう違うのか分からないが、降り立つ人々を身構えさせてしまう。

空港内に入ってすぐに入国審査を済ませるために並ぶ。芸能人として入国する訳ではなく、一般の日本人として入国する。テレビ局クルーの富岡は下請けの会社なので、会社名からはメディア関係だと気付かれなかったようで、今回の旅行を申し込む時に建と矢田の友人ということにして申し込んでいた。入国審査においても、富岡が持ってきた二台のデジタルビデオカメラは矢田と富岡で一つずつの手荷物として通った。手荷物検査では、荷物をバッグから全て出さなければならなく、全ての人について行っているので時間が掛かるのは分かった。また、機内や時間を持て余した時に読む用で持っていた本については詳しく聞かれたりした。携帯電話やカメラ、ビデオカメラについてはGPS機能について特に聞かれたりしたが、持ち込めないと思っていた携帯電話も持ち込むことができて安心した。海外なので通話できないはずだが、自身のいつも持ち歩いている身の回りのものがないだけでも不安になってしまう。それがないだけでも良かった。

入国審査、手荷物検査を三人終えるまでには二時間以上掛かってしまった。それでも、入国できない可能性や、荷物を持ち込めない可能性なども考えていたので、それらになにも問題なく通過することができたので掛かった時間は苦にならなかった。三人が無事に終えて顔を見合わせた時は、みなが長いため息をついて、その後笑い合った。

空港のロビーに出て、三人は立ち止まった。北朝鮮に帰国した人を待ちわびる家族たちの様子も少し見えたが、ほとんどが観光客かビジネスで来た人を迎え入れるガイドのような人だった。ガイドの多くが個人名や団体名を書いた封筒を裏返したような紙を持ってアピールをしている。建たちもその人たちの紙を見て自分達の名前を探した。

「あっ、あれですかね?」

矢田が建を見て指をさしながら言った。建も黙って矢田の指さす方を見た。

「んっ、そうかも‥‥しれないな。聞いてみよう」

矢田の示した方のガイドに真っ直ぐ建は進んでいくとハングル語で話し始めた。

後ろに着いていった矢田と富岡も建が何を話しているのか分からなく、不安そうに見守った。

二人の様子にすぐに気付いた建は話をやめて笑って振り向いた。

「このガイドさんが、僕たちに付いてくれる人で間違いなさそうだね」

そう言うと建は再びハングル語で矢田と富岡のことをガイドに紹介した。建の様子で分かった矢田と富岡はガイドに向かって会釈する。

「カン・テギョンといいます。どうぞ、よろしくお願いします」

矢田と富岡に向かって、今迄は建とハングル語で話をしていたガイドが、流暢な日本語で矢田と富岡に挨拶した。

「こちらは、カンさん。外にもう一人、コさんという人が待っているみたいだよ」

建の紹介で改めて、矢田と富岡も日本語で挨拶をした。カンというガイドは、中肉中背でめがねを掛けて、憎みようがない、見た目だけで好感が持てる容貌をしていた。紹介が済むと歩き出すガイドについてそれぞれが荷物を持って付いて行った。

カンは空港を出て車道に止まっている車を目指して歩いた。カンの歩く先を見ると、グレーのワンボックスカーが止まっていて、カンが近づくと運転席のドアが開いた。運転席から降りてきた男はカンが近づくのを待ってハングル語で話をしていて、矢田や富岡には何を話しているのか分からなかった。

建が着くとハングル語が話せるのを聞いて、男は建にハングル語で話し始めた。建は先程と同じように簡単に挨拶をしているようだった。男と握手を交わすと建は振り向いて言った。

「さっき話していたコさんだ。コさんとカンさんで一緒に案内してくれるそうだ」

そう言うと、建は再びコに向かって矢田と富岡を紹介したが、建の紹介の後にカンとコは笑い出して、矢田はまた建がふざけて紹介しているのが分かり苦笑した。二人の紹介が済むと、みなの荷物をカンとコが受け取って車の荷物室に入れてくれた。

コはカンとは対照的に細身で背はカンよりは大きかったが、建たちよりは小さかった。笑うと気さくな感じだったが、目の動きが鋭く、どこかしら皆を監視するような雰囲気を感じた。

「この後はどうしますか?」

カンが車に乗り込もうとする三人に言った。カンの言葉にみなは顔を合わせた。

「普通はどうするんですか?」

建はみなに分かるように日本語でカンに聞いた。

「そうですね。到着した日はそのままホテルに行く人が多いですね。あとは、ホテルまでの道を遠回りして、車で平壌市内を回ったりすることもありますよ」

カンはスムーズに日本語で話した。建は矢田と富岡を見たが、二人は意見がなさそうだったのでカンに向いて言った。

「それなら、少し街の中を回ってみてくれますか。車から降りられなくても、市場のようなところを遠目でも見てみたいな。‥‥もちろん、平壌の町並みも見たいしね」

建は少しごまかすようにカンに言った。カンは運転席に乗り込もうとしているコを見た。コは軽く頷いて黙ったまま運転席に座った。

「いいですよ。じゃあ、少し回り道をしてホテルに向かいましょうね」

カンはそう言うと、後部座席のドアを閉めて、助手席へと乗り込んだ。

車が動き出すと、建だけではなく矢田と富岡も黙ったまま外の流れる景色を見ていた。

朝に成田空港を出発して、昼前には北京に着いたが、そこから平壌へと来て、入国審査で手間取ったので空港を出た頃には夕方近くになっていた。辺りはまだ明るかったが、徐々に物が色を失い始めるのが感じられた。

北朝鮮の街はどうにも想像ができなく、何を見ても新鮮に感じられた。車通りのない街が、とても穏やかに時が流れているように感じ、整った町並みが平和なようにも感じられた。そこにはどこか違和感があるのだが。それよりもまず建物についた暗くなる前からも分かるような眩しい看板、コンクリートの高いビル群、通り沿いにあるお店などが北朝鮮から想像しづらかったのかもしれない。

建はこれから北朝鮮で行おうと思っていることをすっかり意識からなくしていた。そして、ただ流れる外の景色をじっと見ていた。

車は急がず、ゆっくりと建たちを乗せて平壌の街をまわった。信号は少なく、街ゆく人達も少なかったが、街を見学する建たちとしては目を奪うものも意識をとられるものもなく、ただ真っ直ぐな気持ちで見ることが出来た。

ホテルへ着くまでの三十分程の間、ゆっくりと北朝鮮というものを感じることができたように思った。もちろんこれが全てではないということは分かっていた。ただ、素直に街だけをのんびりと見て、今迄北朝鮮というものに持っていた嫌悪感は全く感じなかった。街だけを見て今迄抱いていた北朝鮮というものの嫌悪感の正体が何なのか余計に分からなくなってしまっていた。北朝鮮という国に悪を感じるが、その悪の正体がその土地でもなく、その人でもない。でも、建の中には確実に北朝鮮という悪が存在している。北朝鮮に来るまではその悪の存在は、北朝鮮という国全てだった。それが、北朝鮮の中に入ってしまうと、その正体が分からなくなってしまっていた。それだけでも、今回の旅は有効だったと思えた。

ホテルへ着くと一旦ガイドも含めてそれぞれの部屋へと分かれた。ガイドの泊まる部屋については分からなかったが、建たち三人は希望通りそれぞれの個室を与えられた。少しだけ部屋で休息できる時間があって、その後ホテル内のレストランで夕食をとった。

北朝鮮の料理は勝手な想像だが、まずいと思っていた。経済や文化が破綻しているような国で、料理がうまいとは思えなかった。しかし、料理を食べて納得した。元は朝鮮という一つの国だったこの地で、韓国料理が好きな建にとって北朝鮮の料理がまずい訳なかった。ホテルが一流だったということもあったかもしれないが、韓国で食べた料理の美味しかったものと比べても遜色はなかった。今日は一日移動で大変だったが、初めての場所に来てこの料理で改めて朝鮮に来たことに気付かされた。

ガイドさんも含めて、みんなで軽くビールを飲んだ。これからのことを考えると不安になってしまうが、ガイドが話すこれからの観光先の説明なんかを聞くと気分が和んだ。二人のガイドもそれぞれの個性があったが、建たちを歓迎してくれているのが伝わってきた。

食事が終わるとみんなでロビーに移動した。これからの観光先についてだったが、当初の日本での旅行会社に提出した計画書に従う必要もなく、思いの外自由に観光先を選べるようだった。ただ、とりあえず三泊四日の予定のうちの、二日目は当初の予定どおり、大きく変更することなく回ってもらうことにした。

ガイドと別れてからは、一旦部屋へと戻りシャワーを浴びることにした。すぐには眠れそうもなかったので、矢田とホテルの上の階にあるバーに行くことにしていた。富岡にも声を掛けたが、仕事で付き添っていることと、お酒にあまり強くないということでやめておくとのことだった。

「建さん、北朝鮮に来た感じがしませんね?」

建と同じ印象を持ったのか、矢田が言った。

「そう、俺もそう感じたよ。今回の旅行にかかった費用のことを考えなければ、韓国旅行の初日とあまり変わりがないな」

北朝鮮への旅行費用については、建の希望であっただけに、その後の経費については分からなかったが前金として三人分を建が払った。内容としては、韓国よりはホテルなど豪華なランクに入るのだろうが、それ以外は大差ないはずだった。それでも費用としては一人頭十倍近くの金がかかり、その費用がどこに行ってしまうのか疑問に感じていた。

「お金はすいません。建さんに出していただいて。勘弁して下さいよ。ほんと自分だけ観光気分で来てしまって」

矢田はとぼけるように建に言うとまた話し続けた。

「でも、ほんとに料理も酒もなかなか美味しいですね」

「まあ、ここのビールは北朝鮮製ではないけどね」

バーにはあまり人はいなく、少し離れたところにヨーロッパから来たような人達がいた。白人だったが、少し聞こえてくる言葉は、英語ではないようだった。

「建さん、本当にやるつもりですか?」

楽しく飲んでいる中、酔ってきた矢田が建に聞いた。建は矢田の言葉に、辺りを見回した。

「そうだな。まあ、もちろんそのつもりだけど。ただ、北朝鮮は客室にも盗聴器があるかもしれないなんて言われているからな。すごいな」

多くは語らず、矢田の言葉を遮るように建は言った。矢田は酔っていても察しが良く、建の言葉でそれ以上建の計画について話すことはなかった。二人は二十三時くらいまでバーで飲んで、部屋へと戻った。

翌朝は七時半にモーニングコールが鳴った。昨日は飲んだもののいつもよりも早く就寝したので、朝の気分は問題なかった。起きてトイレに行き顔を洗うと、寝起きのだるい感じもほとんど取れた。

着替えを済ませ、八時には昨日夕食をとったレストランでみんなと待ち合わせた。ビュッフェスタイルの朝食で、とても美味しいとは言えないまでも、特に文句もなく、パン食でもご飯食でも一通りのものが揃っていた。

その日の朝食後一旦自室に戻る時に建はエレベーターの扉の前で矢田と富岡にそれぞれ一枚の紙をそっと手渡した。矢田と富岡は内心驚きながら、二人は目を合わせ、その手紙を受け取るとすぐにポケットにしまい込んだ矢田を見習って富岡もすぐにしまった。三人は手紙のことにはふれずに、次の集合時間の確認や荷物の打ち合わせをして部屋へと分かれた。

部屋へと入った矢田は建から渡された紙片を見た。それは、ノートの一ページをきれいに切り取ったものだった。富岡に渡されたものも同様のものだったと思われた。


矢田君へ

話をしてしまうと盗聴されている心配があったので、北朝鮮滞在中は手紙で行おうと思う。この紙は今日の観光中のどこかのゴミ箱にでも丸めるなりして捨ててくれればいい。

俺の北朝鮮の目的だが、今日一日についてはじっくりと北朝鮮を見てみたいと思う。実行は明日か最終日になるだろうが、最終日の忙しさの中で行う自信はなく、今日に行った場所の中からふさわしいと思われるところを、何となく明日も行きたいような感じで行くことにしてやりたいと思う。だから、今日は安心して観光していればいい。また、明日については俺が目配せした時に、うまくガイドの注意をひいてもらえればと思う。その方法は会話の中でも大丈夫だろう。

富岡君のビデオカメラだが、ガイドには一台のカメラがあるように見せたい。その場所ごとで、別々のカメラで撮影などをしてもらい、北朝鮮に持ち込んだものであることが分かるようにしておいて欲しい。

迷惑を掛ける。よろしく頼む


短い文章だったが、ノートにボールペンで書いたのだろう落ち着いた字でしっかりと書かれていた。内心驚きながらも、実行が今日でないことで安心した。

朝食を済ませ部屋へと別れた富岡は、須佐野から矢田と同様に手紙を受け取ったことでびっくりしていた。どうして須佐野がこのようなことをしてきたのかは富岡には分からなかったが、ちょっと予期していたことでもあった。とりあえず部屋に入るとその紙片を見た。


富岡君へ

突然の手紙で驚いたことだろう。君には何も知らせずに今回の北朝鮮に同行してもらうことになり、まずは謝らせて欲しい。

自身のことよりも、君の身を大切にしたいと思うので、今回のことはぜひ協力してもらいたい。

今回手紙という手段をとったのは、ガイドに聞かれても困るし、ホテルの室内は盗聴されている心配があったので。

明日の観光の場所で、どうにか抜け出して北朝鮮の市民に自身の思いを伝えたいと思う。それがどんなに危険なことであるのかは分かっているけど、今回はそれが目的で来た。君にはその記録をしてもらいたいと思う。

君が機転を利かせて持ってきたビデオカメラ二台は本当に助かる。どちらか一台を持って帰ることが出来ればいいし、俺の行動もそのカメラにぜひ収めて欲しい。

カメラの扱い方だが、ガイドには一台のカメラの存在しか分からないように、矢田と二人で、観光場所ごとに二台を交互に撮影してもらえればと思う。

この紙は今日のどこかの観光地で丸めてでも捨ててくれ。

君の協力に感謝する。君が無事に帰国できるように、精一杯のことをしたいと思う。よろしく頼む。


一枚の紙にびっしりと整った字で書かれた文字を読んで、富岡は驚いた。何かあるのではないかと思いながら、今回の旅行を楽しんでいた。北朝鮮が思っていたようなところではなかったので、安心していた矢先に建からの手紙でどうしていいか分からなくなってしまった。ただ、今は出発する準備をするためになにも考えず背負いのリュックに荷物を詰め込み、建の手紙をポケットに押し込んだ。

ロビーに集合し、ガイドは昨日の車を入口につけて待っていてくれた。手紙のことには誰もふれなかった。普通に会話しながら車に乗り込む。

その日は北朝鮮側からの軍事境界線の板門店を目指した。早めに出発したが、高速道路でも随分時間が掛かる。本来は明日のためにも平壌市内をたくさん見学した方がいいことは分かっていた。本来の目的からはずれているのかもしれない。しかし、何度も韓国側から北朝鮮を見てきた中で、北朝鮮側から見た韓国は見ておかなければならないと思った。

軍事境界線に近づくと警備が厳しくなるが、北朝鮮の地方都市の様子も見ることが出来た。高速道路から見えた北朝鮮の田園風景も、その景色だけを見るとのんびりとした平和な土地のように感じた。日本にいると飢餓で苦しんでいると聞くが、それもどこか信じがたかった。建は今回自分がとろうとしている行動に自信が持てなくなりそうだった。

十一時頃には北朝鮮の板門店に着いて軍事境界線に立った。建は韓国側からは何度か来て、北朝鮮をのぞいたことがあった。その時は北朝鮮という閉鎖された国を見る物珍しさしかなかった。その距離は一キロにも満たない程の歩いて数分の距離でしかなさそうだったが、それぞれの国で暮らす人々にとっては、越えることのできないとてもとても遠い距離に感じた。韓国から見る北朝鮮は、豊かな人が貧しい人を見るような悲しいものだったが、北朝鮮から見る韓国もまた別の悲しさを感じた。

施設をあまりゆっくりせずに次へとガイドを急かす。観光を急ぐ自分達をガイドは不思議なように感じたかもしれないが、近くの開城のホテルで昼食をとることになっていて、お昼の時間としてはちょうどだったので問題はなかったように思う。開城は朝鮮の古都であり宮廷料理をいただいた。好みや、合う合わないなどがあるかもしれないが、単品料理がたくさん出た。ほとんどが美味しくてビールも一緒に飲んで、なんだか北朝鮮旅行を満喫している気になってきた。

ガイドは食事後にタバコを吸っていて、もっとゆっくりとしていたそうだったが、建たちが先を急いだ。ガイドはいやいやというよりも、困った感じで出発してくれた。今回は二人のガイドだったので運転を代わったりできたので、それでも引き受けてくれたのだろう。平壌に戻る車内では、ビールを飲んだからか建だけではなく矢田や富岡も眠ってしまった。

夕方前には再び平壌に戻ってくることができた。なかなか、ここまでの急ぎの行程で移動することはあまりないらしく、戻る道すがらガイドは愚痴をこぼしていた。

平壌市内に入った頃には建はまた目を覚ましていた。これから向かうのは、日本でも有名な金日成広場だった。昨日に平壌市内を車で巡った時は少し遅かったのか、今日に平壌市内を走ると建物から人が出てくる様子や歩道を走る人やバスに乗る人などが多く見られた。車はそれほど多くはなく道路はすいていた。また、道行く人々の表情も予想に反して、暗く沈んだものではなく、家路に向かう明るい表情ばかりだった。その明るい表情が建の気持ちを暗くした。

建たちは金日成広場の駐車場に着くと、広場にある記念碑に供えるための花を買うようにガイドに言われた。その指示に従って矢田が三人分の花を買いに行く。待っている間、建は辺りを見回した。広場の周りはひらけていて、大きな公園のようになっている。この場所ではないと、建はふと考え、これから観光する場所に期待した。記念碑に花を供えなければならないことは、出発前から分かっていたことなので、形式どおりに済ませ、また次へと急いだ。

次の目的地は、北朝鮮の凱旋門だった。日が傾き始め、眩しさが和らいでいく。今日に観光できる時間が限られてきた。車外を見る建の表情が険しくなっていて、話しかけられる雰囲気ではないことを矢田も感じていた。矢田は建の様子に気付かないふりをして、楽しそうに外を眺めているように見せた。

建の期待に添うかのように、車は市街地へと入った。高い建物が続く町並みに、北朝鮮に来ているのを忘れてしまいそうになる。その道の中心部に凱旋門があった。観光客向けの駐車場に車を止めて外に出て、建は辺りを見回した。道行く人が見え、その中には観光客もたくさん見えた。人がいて、建物もあったが建の期待とは違った。ビル街であり、そこにたくさん人が住んでいる様子はなかった。訴えかけられる人はいないように思った。いくらか残念に思いながら、建は凱旋門を見上げた。

その後の予定はホテルに戻ることになっていた。その上で、どうにかもう一カ所でも寄ってもらいながら、北朝鮮での行動に移せるところを探したかった。明日に突然では準備ができなさ過ぎる。ガイドをまいて行ったとしても、すぐに見つけられてしまうのではないかと思われた。不安を抱えながら、凱旋門の観光を終えて車に乗り込んだ。

「この後はどうなりますか?」

ハングル語で建が運転手に聞いた。

「食堂で夕食を食べ、ホテルへ帰ります」

ていねいにガイドが答える。

「そういえば、明日行く予定になっていた朝鮮革命博物館ってありますよね。どの辺にあるんですか?」

必死に考えているうちに、以前にどこかで見たか聞いたかしたことを思いだした。朝鮮革命博物館からいくらか離れたところに、政府非公認の市場があるとのことだった。このタイミングで思い出したことに悔やんだが、建はちょっと聞いてみた。

「それでしたら、さっき行った広場の記念碑の奥にあった建物がそうですよ。観光客は事前予約が必要ですので、今日には行けませんでしたが、明日は予約してありますので行くことになっていますよ」

建の質問に相変わらずていねいにガイドが答えた。

「ああ、そうなんですか」

建は、納得した様子で話を切った。建は内心ガイドの言葉に喜んだ。しかし、建の感情はガイドに気付かれないように平静を装った。抜け出す場所をどこにするか迷っていた中で、一度下見をしておきたいと思っていたところ、今日に一度訪れた場所であることが分かった。まだまだ不安はあったが実行に移すことができそうでうれしく感じた。

建たち一行は、車で平壌市内のレストランへ移動し、そこで夕食をとることになった。その日の夕食は焼き肉だった。焼き肉といえば韓国という気がしていただけに、改めて韓国と北朝鮮がもともとは一つの国だったのだなと思い起こさせる。ただ、日本や韓国で食べる焼き肉といえば牛や豚だが、ここではアヒルがメインだった。牛もいくらかあって、アヒルだけを食べた訳ではなかったが、それも何か北朝鮮ぽいものを感じさせた。みなでビールを飲んで気持ちよくたくさん食べた。ガイドも最初の頃よりはいくらか慣れたようで、またハングル語を話せる人がいることがうれしいのか韓国のことをいろいろと聞いてきた。日本のアイドルや韓国のアイドルのことなどを話すと喜んでくれた。

明日の行程予定については食事をしながら済ませた。建としては、自身のやろうしていることがだいたい決まったので安心してしまったせいか、いつもよりも酒が進んでしまった。昨日よりも多めに飲んでしまったので、ホテルへ戻ると各部屋へと分かれた。建は部屋へと入るとすぐにシャワーを浴びてベッドに横になって眠ってしまった。

目が覚めるとまだ二十三時だった。ホテルへ戻ってきたのが二十時前だったから三時間ほど眠ってしまった。少しの間テレビをつけてぼんやりしていたが、目を覚まそうと思い湯船に湯を入れて風呂に入った。せまいユニットバスの風呂だったからゆっくりとはできなかったが、少しぬるめの湯にしてのんびりと考えごとをしながらはいった。

明日の自分のやることは決まった。後はうまくいくかどうかである。矢田や富岡にも迷惑をかけることになる。日本でのことを考えるとそれだけではないのだろう。また、日本に戻れないことも考えられた。それは、自身はアイドルだからどうにかなるかもしれないという思いがあったが、矢田や富岡は自身以上に帰れなくなる可能性を考えなければならなかった。そして、ガイドの二人に迷惑が及ぶのも心配だった。

不安が募るばかりだったが、明日のことをいろいろと考えながらゆっくりと風呂に入ってから出た。酔いはいくらか覚めたようだった。テレビのスイッチを入れ、昨日同様に机の上にノートを広げた。明日の行動に向けて、また矢田と富岡に向けて書き始めた。この方法で指示を出すやり方が本当にいいのかは分からなかったが、他に思いつかなかった。漏れのないように書いていき、テレビからの音は建が何をしているのか分からないようにさせるためでしかなかったので、流れている番組は気にしなかった。

書き終わってから、一度酔いを覚ましてしまっていたので、ビールでも買おうと思いフロントに降りた。エレベーターで下りてくるときに外のようすが気になり、エレベーターを出てフロントへ行き「少し外を散歩してもいいか」とだめだと思いながら聞いてみるとあっさり了承してくれた。部屋番号を聞かれて人物の特定はされたが、こんなに簡単に外に出してくれるとは思ってもいなかった。

フロントを通り過ぎて、外に通じる自動ドアへ向かった。自動ドアが開くと、日本より北に来ているのをすっかりと忘れていたことを冷たい冷気に包まれて気づいた。薄着で出てきてしまったため、寒くはあったが、それほど長居をするつもりもなかったのでそのまま玄関を離れた。ホテルから少し離れ光が弱くなっただけで、もう日本とは違う空が広がっているのが分かった。より星を見ようともう少しホテルから離れ、光の当たらないところを目指した。

空には一面の星空が広がっていた。日本の田舎と比べれば平壌の空の方が星が見えないかもしれなかったが、それでも東京の空とは比べものにならないほどたくさんの星を見ることができた。建たちは明日どうなるかは分からない。自分勝手な気持ちであることは分かっていたけど、矢田や富岡にもこの星空を見せてあげたかった。

日本にいるときは、北朝鮮について悪のイメージしかなかった。しかし、二日間北朝鮮を見て回ってその悪のイメージがどこから来るのか分からなくなってしまった。そしてそれは、今見上げている星空を見ると余計に分からなくなる。美しい星空はどこで見ても変わるものではないのかもしれない。しかし、自身の礎となっている日本では美しい星空は田舎に行かないと見ることはできない。美しい星空のある北朝鮮がだめで、美しい星空を見ることのできない日本が正しいと、どのように言ったらいいのだろうか。

外で、じっと星を見上げていると監視役なのだろうか時々人が通り過ぎる。街をランニングしているかのような服装だが、明らかに周囲に気を配りながら行動しているのが分かった。建はしばらくの間星を見上げていたが、寒くなってきて部屋へと戻った。


韓国に入って、三日目の朝を迎えた。建は昨日あれからすぐには眠れないと思い、ロビーの自動販売機でビールを購入してから戻り飲んでから眠った。それほど飲んだつもりはなかったが、朝は軽い頭痛がした。昨日と同じように身だしなみを整え朝食に向かう。レストランでは矢田と富岡もいて、少し前に来たらしく一緒に朝食をとった。ガイドの二人も少し遅れて来ると、手慣れたようすで朝食をとってきて食べ始めた。朝なのでテンションは高くなかったが、今日の行く先の説明などを聞きながら過ごした。そして、建はガイドに集合時間の確認をすると矢田と富岡と一緒に席を立った。

三人でエレベーターに乗ると矢田と富岡は緊張したようすだった。建は笑みを浮かべて二人にそっと折りたたまれた紙を渡した。そのまま黙ってエレベーターに乗っていて、何も言わずに部屋へと別れた。

建が準備を済ませ部屋を出るとちょうど矢田と一緒になった。

「あっ、矢田君ちょうどだね。いろいろごめんね。大丈夫そう?」

建が少し不安なようすで矢田に聞いた。ただ矢田は「建さん」と言って不安そうな声を出しただけだ。建は「ごめんな」と言って矢田の背中を押してエレベーターへと向かった。下に降りるとガイドの二人は皆を待っていた。いったん建は矢田にロビーのソファーに座るように促し、皆で富岡を待った。富岡は建たちから五分ほど遅れてロビーにやってきた。ずいぶん急いでやってきたらしく待たせたことに謝るよりも、準備がしっかりとできているのか心配そうなようすで近づいてきた。

富岡は「すいません」と言いながら、建たちに合流した。建は「いいよ、いいよ」と言いながら富岡の肩を抱き迎え入れて、矢田に声を掛け外へと向かった。

今日の最初の観光は北朝鮮の地下鉄だった。一旦車に乗り込むも最寄りの地下鉄の駅で降ろされた。北朝鮮の人もたくさんの人が利用しているようで、駅の近くではいつもより多くの人を見かけた。エスカレーターで降りていくと、降りていく人と上がってくる人がずらっと並んでいる様子が見られた。改札の階に出て切符はガイドが用意してくれた。

北朝鮮で地下鉄なんていうと、どこか不安な感じがしていた。しかし、そのようすは北朝鮮の独特な雰囲気というのもあるが、日本のそれと大きな違いはなかった。電車も日本ほどの長い列車ではなかったが、普通の立派な列車がホームに入ってきた。北朝鮮では地下鉄を利用するだけでも観光になる。ただ、通路のあちこちに北朝鮮の文化や歴史、そして二人の指導者を称えるような展示がたくさんあった。それを見せるためのコース設定でもあるのだろうと思われた。

地下鉄まで連れ添ったのはガイドのカンだったが、カンの指示で降りた駅を上がると初日の夕方に市内を回ったときに来た凱旋門だった。一度見たので感動こそなかったが、狭い地下から出て見上げる凱旋門は迫力を倍増させた。しばらく凱旋門を見上げていると一台のワンボックスカーが近づいてきた。建たちの近くに来ると助手席側の窓が開き、カンに向かって手を挙げた。建たちも車には気づいていたが、あわてずに近くの町並みを見回していた。

「次はこの前聞かれた、歴史博物館に向かいますよ」

コの運転する車に乗り込んでから、助手席に座るカンが、建に言った。カンの言葉で矢田と富岡が動揺したのが建には分かった。

「ああ、その後また金日成広場にも寄れますか?」

建は動ぜずにカンに聞く。

「もう一度ですか?構わないですよ。道路を挟んで隣ですので、広場は予約とかは必要ないですから」

建の質問に優しくカンは答えた。コは変わらず運転を続けていた。この三日間、ガイドの二人はとてもよく接してくれた。建としても、この二人に迷惑を掛けることになってしまうのが残念だった。矢田や富岡の緊張のようすも伝わってくる。建のしようとしていることが本当に何かの役に立つのか全く分からないどころか、何も変わらないだろうなという予想の方が強かった。歴史博物館に向かう車の中、建は本当におこなうべきかどうか考え込む。ただ、凱旋門から次の場所までが近く、車で数分走ると車はもう減速を始めて駐車場に向かっているのが分かった。

流されるまま皆は車を降りて、コの後について朝鮮中央歴史博物館へと向かった。今まで、北朝鮮に来ていろいろな施設を見てきたけれど、この建物もしっかりとした石造りの趣のある立派な建物だった。

この歴史博物館ではいわゆる抗日という内容を予想していたが、そうではなく、本当の歴史の中の北朝鮮の成り立ちを紹介したもので、かえって興味を持って見られた。

博物館を出ると広場に向かって歩き出した。前回は駐車場から広場に行ったが、今回は道をまたいで広場に行くことになった。

「カンさん、車は駐車場を移動できますか?」

「そうですね。それほど変わらないですが、広場の方の駐車場に移動しましょうか?」

カンの言葉に建はお願いすると広場に向かって歩き出した。

「また花を買う必要があるのかな?」

「そうですね。前回にも買ってもらっていますが、特に例外はありませんので、全員で一つでもいいですから買ってください」

コの言葉に建は頷いた。

「では、今回は富岡君先に一緒に買いに行こうか?」

建がそう言って矢田に目配せをする。

「あれっ、矢田、どうした?」

建の言葉に、皆が矢田を見た。矢田は調子が悪そうな表情をする。

「ちょっと、トイレ行っていいですか?コさん、博物館にトイレありましたか?」

「ええ、ありますよ」

矢田の言葉にコは優しく、でも急いで答えてくれた。

「じゃあ、コさん矢田を頼みます。俺たち先に花を買って待っていますよ」

建がコに言うと、旅の中で建たちの人柄に安心をしたのか、コは全く心配するようすもなく、笑顔で引き受け矢田を連れて行った。建と富岡はゆっくりとその場を離れて広場に向かった。

建と富岡は矢田とコが見えなくなると歩くのを早めた。

「ちょっと急ごう。一旦皆から離れてしまえば、すぐには見つからないとは思うんだけど。俺の行きたいところは少し遠いんだ。ひとまず、この辺の見晴らしのいいところをすぐに抜けて、町中に入りたい」

富岡は特に返事をせずに建の目指す方向に一緒になって急いだ。広場には別の観光客とガイドもいたが、建たちのことを気にとめる人はいなかった。建たちは献花台には近づかないようにして広場を過ぎて次の通りを目指す。足早に進む建たちは気にする人がいれば不自然に見えたろうが、昼の時間の人通りの少なさと車通りの少ない環境に救われた。通りに出た後、道路沿いを進み広場から離れる。コとカンが合流したら、矢田を連れて探し始めるか、当局に連絡が入るだろう。建たちに残された時間は多くはなく、できるだけ早く小さな道に入りたかった。矢田がどれだけ時間を稼いでくれるかにかかっていた。

運がよかったのか、建たちは通りを歩いてからたぶん誰とも遭遇せずに、広場近くのいくつかの大きな建物から離れることができた。再び大きな通りにぶつかると、闇市場があると思われる方向へ急いだ。そこではさすがに通りすぎる車があったが、大きな通りなので車速が早いことと、建たちは自然を装うために会話しながら歩いたので怪しまれなかったと思う。

「富岡君、本当に悪いな。こんなことにつき合わせることになってしまって」

建の言葉に、富岡は無言で硬い表情ながら笑みを浮かべて応える。

「手紙に書いてあったように、カメラ二台をもってこられた?」

富岡は無言で頷く。

「何ができるか分からないし、富岡君からしても何がしたいのか分からないかもしれない。それでも、北朝鮮の人たちに自身の思いを訴えたいんだ。それが、何回できるか分からない。同じことでも、できるだけ何度も場所を変えておこないたいんだ。それで、一度目の場所と、それ以外の場所でカメラを替えてほしいんだ。最終的に逃げ切れるなんて思っていないから、捕まるまでやるかになるだろうと思う。そのとき撮影していたカメラは没収されることになるだろうけど、どうにか映像をもって帰りたいんだ。::無事に帰れるかも分からないんだろうけどね」

建の言葉を硬い表情で富岡は聞いていた。足早に歩く富岡は不安さよりもジャーナリストのようなたくましさを建は感じた。

「ここまでくればとりあえずは実行に移せると思うんだ。もう少し先を行ったら建物の間の道を入ろう」

建の言葉に力強く緊張した面持ちで富岡は頷く。歩くスピードも速くなり、捕まる心配からか走りたくなってしまうが、走ると怪しまれると思い必死でこらえた。富岡も建と離れないように必死で歩くスピードを上げる。目指す路地はすぐ見えるのに、なかなか近づかない。一生懸命急いでいるのにとても長い時間かかっているように感じた。

二人は路地に駆け込むように入り、通りからの影に入ると一息ついた。

「ここからは、もう普通に歩こう。この先は誰に見られようと気にしなくって大丈夫だろう。すぐにどこか場所を決めてやっていこうとは思うけど、この先はもし通報されたってとことん逃げることはできないだろうからね」

歩き疲れたのか、緊張によるものなのか息を切らせながら建は富岡に言った。富岡も手を膝に置いて上半身を支えるように聞く。呼吸が落ち着くまでそこにいたが、二人に残された時間は多くはなく、二人は顔を合わせると建の「行こうか」という言葉で再び歩き始めた。

路地を奥の方に進むとバラック小屋のようなものが道の両側に並ぶ。その中を幾度か折れて進むと人の声のようなものが聞こえてきた。音のする方へ更に奥へ進み細い通りに出ると数人の人が目に入った。そのまま建たちは人がいる方へと進むと、その手前からバラックのようになっている建物は屋根だけになり、その中でテーブルの上に野菜や果物のようなものが並べられていた。通りから見えていた人も、それが目的できているようだった。建たちはあわてずに、左右のテーブルに並べられている品物を見ながら通り過ぎる。闇市場なのだろう、中に人はいるが特に声掛けなどはなく、ただ通り過ぎる建たちを不思議そうに見た。建は怪しまれないようにハングル後で富岡に話しかける。

少し進むと細い十字路にぶつかり、そこだけ少し広くなっていた。建たちが来た方向と、十字路の左側の方にまだ闇市場が続いているようだった。建は市場が続く左の方ではなく右に折れた。

「ここにしようか。あまり目立たないようにバッグか何かで隠しながら撮影してくれないかな。準備ができたら始めるから」

建は他の人に聞こえないように、そっと富岡に指示する。富岡は相変わらず声に出さずに頷き、急いでバックからビデオカメラを取り出し、バッグをその上に持ったままにして操作をする。富岡が準備を始めたのを見て、そこから離れて、市場の続く二つの方向が見える位置に立った。バラックで店を出す人と客として来ている人で二十人近くはいるように感じる。建は富岡を見るとバッグの影からビデオカメラを向けている。建と目が合うと富岡は軽く頷いた。

「みなさん。聞いてください。僕は日本から来た、俳優の須佐野建と言います」

建は大きく息を吸うと、市場にいる人に聞こえるように大きな声で、皆に向けてハングル語で話し始めた。建の声に気づいた多くの人が、建を見た。

「日本人の僕の言うことなんて聞けないかもしれませんが、今日は北朝鮮のみなさんにお願いがあってやってきました。

::北朝鮮の皆さん、ぜひ立ち上がってください。あなた方は、いつまで我慢を続けるつもりですか。自分さえ害がなければいいのですか」

建の言葉で、市場にいる人たちがざわついてきた。

「もう一度言います。北朝鮮のみなさん立ち上がって下さい。あなたがたが立ち上がることを世界中の人々が待ち望んでいます。

あなた方の敵は誰なんですか?韓国ですか?それとも日本ですか?アメリカですか?

あなた方は立ち上がらなければならない。あなた方は何に頼って生活しているのですか?あなた方の生活を保障しているのは誰なんですか?」

建が話していくと、ヤジが飛ぶこともなく、近づいてくる人もいない。今度は市場全体が波紋一つない水面のように静まりかえってしまった。人々は奥に入ってしまった。

「私は日本人です。日本ではあなた方の国がいつ攻撃をしてくるか分からず、準備や対策をしています。それは、あなた方と元々は一つの国だった韓国でも同じことでしょう。

あなた方は生活するのにも、食べるのにも不満を感じているはずです。わたしたちは戦争の準備なんかしたくない。できることなら困っているあなた方を助けたい。戦争の準備にお金を使うよりも、あなた方の食料にお金を使った方がいい。殺し合いなんかしたくないんだ。

それはあなた方も同じ気持ちでしょう。

ただ、あなた方の国は戦うことを望んでいる。

戦争をすることであなた方の国は豊かになると思えますか?今もこうして、国家に隠れながら商売をしているあなた方は、戦うことを望んでいますか?

あなた方は何を守っているのですか。国を動かしている人たちが悪いのでしょうか?北朝鮮が起こす行動に、あなた方に責任はないのでしょうか?

このまま黙って、国の動きを見過ごしてしまうつもりですか。もし、わたしたちの国とあなたたちの国が戦争になったら、たぶん戦わなければならないのは、わたしとあなたです。今はどうにもできないからと我慢しているのかもしれませんが、それは必ずあなた方を苦しめることになる。

立ち上がってください。もう遅いかもしれない。でも、まだ間に合うかもしれない。

このまま何もしなければ、あなた方の国や韓国、日本だけではなく、世界中に破滅的な影響を与えることになるかもしれない。

あなた方の敵は誰でしょうか?

あなた方は立ち上がらなければならない」


建が話し終わった頃には、市場の商品を片づけようとしている人もいた。建の話を真剣に聞いている人は誰一人いないように感じた。ただ、建の行動の巻き添えを食わないように心配しているだけのように感じた。

建は富岡に近づき肩を軽く叩くと、市場の奥へと歩き出した。富岡も建に続く。

「富岡君ありがとう。ビデオカメラを別のに替えられるようにしてください」

市場の中を歩いていくと、建たちが通り過ぎるのに気づいて人々はみんな目をそらした。奥へ入っていくと、市場が途絶え、また人がいなくなった。バラックが続き、北朝鮮の裏の部分が見える。それでも、先ほどの場所から少し離れたところにまた市場のようなところがあり、幾人もの人が見えた。

そこに着くと、建は先ほどと同じように市場の端の場所を決め訴えかけを始めた。

そこでも、北朝鮮の人たちの反応は先ほどと同じだった。建たちは無反応の人たちの横を抜け次の場所を探した。あまり時間はないように感じた。

ぐるぐると大きい通りに出ないように、人がいそうな場所を探した。もといた場所からずいぶん離れたような感じがした頃、また少しの人が見えた。そのとき遠くで笛の音のようなものが聞こえた。その音で建は顔を上げて遠くを見る。

「あんまり人いないけど、急ごうか。ちょっと先でいいかな」

建はそういうと人のいる方に向かって歩き出し、少し行くと立ち止まった。準備ができたことを富岡が建に合図を送ると、建は再び訴えかけを始めた。聞いている人はあまりいないように感じる中、建は必死になって訴えかけを続ける。ただ、ここでは最後までできなかった。

「皆さん、立ち上がってください」

建の話が一段落ついたとき、建の視界には通りの奥から走ってこちらに向かってくる人と、それを誘導している人が見えた。建は、一息吸うと再び話し始めた。

「あなた方を苦しめているのは誰なんですか?あなた方は、我慢していればいいと思っているようですが、それでは何も変わりません。韓国や日本だけではない。世界中の人が、あなた方が立ち上がるのを待っている」

走って向かって来ている人が、建が何をしているのか分かったようで、近づきながら笛を鳴らした。市場にいた人たちは慌てて道をあける。富岡も動揺したようで、カメラを下ろして建を見た。しかし、話を続ける建を見て再びカメラを向けた。

「この後私は拘束されるでしょう。無事に帰れるか分からない。でも、いても立ってもいられなかったんだ。今回のことで、立ち上がれなくてもいい。でも、誰かに伝えてほしい。僕が言っていたことを::」

笛の音が近づき、ほとんど最後の方は笛の音に邪魔されて周りの人には聞くことはできなかったかもしれない。建は、話している途中で取り押さえられてしまった。

「このままでは、誰も幸せになんかなれない。あなたがたの守るべきものは何ですか?あなた方が立ち上がるしかない。

::立ち上がってください」

笛の音が響き続け取り押さえられながらも、なおも建は叫び続けた。後から来た人が更に建を押さえつけ、一緒にいた富岡も捕まえられた。富岡はおとなしくしていたが、強く引っ張られて、一緒に連れて行かれた。





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